アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

百人斬り

2009-04-16 08:43:35 | 思い
 1937(昭和12)年、東京日日新聞(現在は朝日新聞に統合)の紙面に次の記事が載った。しかしこの当時、これが後にどんな悲劇を招くかを知る者はただの一人もいなかった。


「百人斬り競争」は、当時大阪毎日新聞と東京日日新聞において掲載された記事だった。南京侵攻途上の白兵戦において、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競い、その手柄を語り合うという内容である。一人は向井敏明少尉(歩兵砲小隊長)、もう一人は野田毅少尉(歩兵第9連隊第3大隊副官)。
 しかしこの記事はまったくの創作だった。これについては決定的な証拠が幾つか出ているが、少しだけ例を挙げれば、まず砲兵隊の小隊長である向井少尉と、歩兵大隊副官である野田少尉は、両名とも最前線で白兵戦に参加する兵科ではないということ。また、両名は12月1日から9日まで別行程を進軍しており、更に向井少尉に至っては12月2日の戦闘で右膝及び右腕貫通の銃創を負い、15日の原隊復帰まで野戦病院に収容されていたことが判明している。つまり物理的にそんなことは不可能なのだ。
 事実この「百人斬り報道」をした朝日新聞社は、1969年に発行した『昭和史全記録』の中で以下のように「百人斬り」を否定している。
この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった。向井少尉はこのとき手足に重傷を負っていた。東日記者に会ったのは南京の手前で、冗談に「花嫁を世話してくれ」と言うと「天晴れ勇士として報道されれば花嫁候補はいくらでも集まる」とこの記事になったという。(以下略)

 この記事を書いた当事者である浅海記者は、後日2つの証言をしている。
①同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはない。
②両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではない。

 また、常州で2人を撮影した佐藤カメラマンも次のとおり証言している。
①両少尉はこれから(つまり常州から)百人斬り競走を始めると話していた。
②翌年の昭和13年上海で「百人斬り」の記事を見たが「嘘っぱちを上手く書いたな」と思った。

 この両者の証言からもわかるとおり、事の発端が両少尉なのか記者なのかはともかくとして、この記事の内容はつまりはまったくの創作だったのだ。
 後日両少尉も、「二人一緒のとき、記者にそそのかされ、冗談、笑い話として、そんな話をした」が、「それぞれの立場から考えても、前線で日本刀を振り回すような行動がとれるはずがない」と述べている。しかしその一方、戦時中は野田・向井両名とも積極的に事件を否定するような発言はせず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語ったこともあったという証言もある。今にして思えば、冗談混じりで自分の武勇談を創作し世間の注目を浴びようという、軽薄な行動だったのかもしれない。それが後に過重な債務となって二人の身にのしかかってきたのだ。
 しかしそれはそれとして、「百人斬り」が実行不可能な所業であることに疑いはない。当時日本人将校が携行した日本刀は多分に指揮刀としての性質のものであり、戦国時代のものとは異なり人を一人斬っただけでも刃がガタガタになってしまうという。この刀によって人間を100人斬ることは不可能である。また上記記事に掲載された写真についても、実は常州中山門前で撮影された記念写真であり、場所が特定できる背景の中山門はトリミングによって巧妙に消されていることが判明している。
 
 当時戦争報道は、現在の「高校野球」や「ワールド杯サッカー」など比較にならぬほどのニュースバリューがあった。同時に「戦争博覧会」や「愛国作文募集」「愛国歌謡コンテスト」など様々なイベントが各新聞社主催で行われていた時勢である。今では信じられないことだが、現地の記者たちは、読者の興味を引くために虚実入り混じった美談英雄談捜しを血眼になって繰り広げていたのである。そのような背景の下で、第一次上海事変での「肉弾三勇士」などの国民的英雄も生まれている(しかしこれも事実の歪曲による創作だった)。このような誤報は、国民の戦意高揚に果たす役割が大きいとして軍は不問に付し、新聞が訂正記事を出すこともなかった。
 
 復員後、家族とともに平穏な日々を送っていた向井・野田両少尉は、1947年6月に突如、東京日日新聞の記事を基に南京軍事法廷において戦犯として起訴される。両名は即日に「捕虜・住民虐殺の罪」による死刑判決を受け、そして二人は1948(昭和23)年1月28日、南京雨花台刑場で銃殺されたのだった。
 二人はこの世を去るにあたって、次のような言葉を残している。

「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八洲に帰ります。わが死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」
(向井少尉遺書より抜粋)

「俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断りいたします。死を賜りましたことについては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て、残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願いいたします。宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨み晴らさんが為、一方的裁判をしたりなされない様祈願いたします。我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願いたします。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」
(野田少尉遺書より抜粋)

 しかし今なお中国各地の虐殺記念館には二人の写真が等身大に引き伸ばされ、日本軍虐殺行為の象徴として展示されている。

 両少尉の遺族は2003年、「百人斬り」を掲載した当時の新聞報道と後にこの問題を扱った書籍を巡って、事実誤認報道によってその当事者と遺族が被害を受けたとして、朝日・毎日両新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者に対して、謝罪広告の掲載や出版の差し止め、損害賠償などを求めた訴訟を起こしている(いわゆる「『百人斬り』報道訴訟」)。これは「百人斬り」の事実の有無そのものではなく、むしろ報道側の事実誤認報道による名誉毀損の存否を問うものである。
 たが、一審東京地裁においては「両少尉が『百人斬り競争』を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である」と指摘し、また60年余り前の記事を毎日新聞が訂正しなかったことについても「先行する違法行為がなく、また民法724条の除斥期間が経過している」として遺族側の訴えを全面的に棄却。
 また続く二審・東京高裁では、「百人斬り」を報じた当時の記事について「全くの虚偽であると認めることはできない」と認定して一審・東京地裁判決を支持。また上告審において最高裁は、やはり遺族側の上告を棄却して、遺族側の敗訴が確定している。
 向井・野田両少尉にも若干の若気の至りがあったとはいえ、事実の捏造と報道が時の政治権力に利用された結果、無実の生命を絶つという悲惨な結果を産んでしまったひとつの例である。しかし今の報道機関も、相変わらず偏った記事、捏造された事実を報道し続けてはいないだろうか。それが社会に、国家に、個々人の生命にどのような影響を及ぼすかを、あまりに過小視してはいないだろうか。



*参考にした主な資料:
「1937南京の真実」飛鳥新社
「マスゴミが隠し続ける新作映画」
「渡部昇一的ココロだー!!: 信念の政治家 平沼赳夫」
「メディア・改めて問う、「百人斬り」は真実か」


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