アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

白いコンニャク畑

2006-06-13 19:42:06 | 思い出
キャンプ地に向かうバスの中で子どもの声が響いた。
「あ、見て見て!雪が降ってるみたい。
ねえ、リーダー。どうしてここだけ白いの?」
今バスはなだらかな畑の続く赤城山麓を走っている。
窓を見た私は本当に雪が降り積もったような光景に一瞬驚いた。季節は春から初夏へと変わっている。もちろん遅霜など降りようはずがない。
「ああ、あれはコンニャク畑だよ。今ちょうど、農薬を撒いたばかりなんだね。」
種芋を植え付けてから収穫まで3年かかるコンニャク芋。ここ群馬県はその日本一の産地でもある。見晴るかす一斉に小傘を広げ、コロボックルが隠れていそうなコンニャク畑が白く輝いている。

3年で収穫するということは、つまり同じ畑で他の作物を育てるよりも、一度に3倍の収益が見込めるということなのだろうか。そしてだから尚のこと、その長い期間に万が一作物を駄目にしたんじゃどうしようもない。3年間の収入が一度にふいになってしまうのだから。
だからコンニャク芋を作るには、こうして年に何度も農薬をかける。
それは子どもたちが雪と見紛う程に、見事なかけっ振りである。

「へえ~、これがコンニャクなの・・・」
子どもたちは窓に顔を寄せて感心したように畑に見入っていた。
この道はもう何度も通っている。けれどコンニャク畑は見慣れていても、農薬散布後の圃場にこうして目を留めたのは初めてだったかもしれない。
しかし、こんなに薬をかけないとならないのだろうか?

思えばこれが、私の初めての農業との出会いであり、今の生活へと続く原体験とも言えるものだった。

          ☆        ★        ☆

そう、それがきっかけだった。
町に生まれ育って鍬も握ったことのない私は、それからいろいろな野菜を育て始めた。野山や空き地や実家の庭に、さまざまな種を蒔いた。海外赴任先でもやはり、ベランダで春菊と大根を育てた。
農薬や化成肥料はまったく使わないでも野菜たちは元気に育ってくれる。でも確かに育ちやすい品種と育ちにくい品種があるようだ。病気や虫に弱いものと強いものがあることも見つけた。

でもどうして病気になるのだろう。なぜ植物体が死んでしまうほど、虫に食べられてしまうのだろう。みんな元々は、野や山にあったものたちなのに・・・
野菜に触れることによって、私は少しずつ変わっていったのだと思う。そうして育てたものたちを食べることによって、私の体は少しずつ目覚めていったのだと思う。

やがて脱サラして農業の世界に身を投じた時に、私はあの忘れられない「コンニャク芋」の光景をそこここで見ることになった。
白いか白くないか、目立つかどうかの違いはあるにせよ、作物の生産現場では毎年夥しい農薬が消費されている。収益を求めるために無数のいのちたちが虐殺されている。
私の体はそれら農薬に対して反応するようになった。現場で働く者たちは年に何度も農薬にまみれる時がある。そんな時どんなに防ごうとしても、手が痺れ目もかすれ、体全体がだるくなってしまう。

元々どうしても有機農業がしたかったわけではない。でもそのような場所に身を置いて初めて、私は「農業」が自分には耐えられないことがわかった。広大な牧場や農場の夢はひとつひとつ潰えていった。緑の農地は何度も何度も白い粉を被り、それが何であるか何を意味しているか、私は充分に知ってしまった。

そして今では収穫した野菜の中にも、時々白い粉の残渣を感じる時がある。
いのちの無い野菜
いのちの薄い野菜たち
そんなにいのちを殺し痛めつけて私は生きたいわけではない。私のしたいことは他に何か、あるはずだ。

          ☆        ★        ☆

里芋が私の人生で育てた最初の農作物だった。

赤城山麓で真白いコンニャク畑を見た翌週、私はキャンプ場の一角に里芋を植えた。
松の根が縦横無尽に張っていて難儀した。スコップで掘り起こした土は礫々として、とても畑には見えなかった。思いつきで植えたものだから、その頃は畑のなんたるかもまったくわかってなかった。

あの後あの里芋は、収穫できたのだったか・・・
残念ながら憶えていない。
でも私の心の中にはいつでもあの白いコンニャク畑があって、子どもたちにこれなあに?と訊かれた時の自分がいて、そして痩せ土をほっくり返して植えた幾つかの里芋の種が、未だ育ち続けている。





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