アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

愛の伝達

2009-07-22 06:30:50 | 暮らし
愛してるよ。大好きだよ・・・

 そう、彼らはいつもそう言っていた。玄関のポストの上から、ダンボールの中から、胡坐をかいた私の膝の上で、時に優しい視線で、さり気ない素振りで、感情をこめた声で、彼らはいつもそう言っていたのだ。愛しているよ。大好きだよと。
 でも私は彼らの言葉に気づかなかった。犬や猫の意思表示の仕方は、人間のそれとは大いに異なる。人のように独特の文化様式を持たないだけに、彼らの表わし方の方がより本質的であり率直とも言える。しかし固有の様式に囚われてしまった人間には、それはえてしてそのままの形で受け取ってはもらえない。彼らの愛情は時に煩わしいものに、時に意味不明の行為やヒマそうな所作に映ったりもする。また多くの場合、彼ら個々の表現の形は、その日まで連綿と繰り返されてきた飼い主による対応によって歪曲されている部分が大きい。それは人間の子どもが次第に天真爛漫な性を失っていくのと幾分似ているのだが、つまり場合によっては彼らも愛情を率直な形で表現できているとは限らない。
 それゆえ私も気づかなかったのだ。彼らが日々、私に対して大きな愛を示してくれていることを。私は彼らにとって決して甘いだけの人間ではなかった。躾には厳しく、禁じていることをした場合には容赦しなかった。殊に犬に対してはそうだ。猫や鳥などは始めから人間とは別物という意識がある反面、長い間ヒトの伴侶と目されてきたイヌ属に対しては、人間の側に「これくらいわかって当たり前」「わかるはず」という浅薄な先入観が働いてしまう。
 辛抱強い訓練の結果、わが家のスヌーピーは誰もが羨む理想的な犬となった。よく人の声音や表情を解し、リードなしで散歩でき、車道を歩く時は傍らから離れず、軽トラの荷台に乗せてどこへでも連れて歩け、またどこに行っても私の目の届くところから離れない。ただしそれらを教えるために、どれだけ彼をきつく叱り、過酷な罰を与えてきたことか。もちろんそれはひとえに躾のためであり、理由なく行ったことではない。私は彼らを愛するがゆえに、彼らのためによかれと思ってしてきたのだ。しかし今、今になって振り返るに、それらの幾つもの部分が、彼らに対する私の認識不足のゆえに、理不尽なもの、彼らにとって理解できない不当なものだったことがわかる。それゆえその分だけ、私は彼らの心を痛め歪ませてしまっていたのだった。
 飼っている犬や猫が思いどおりに動かない場合、それは人間の側の愚かさに起因する面が大きい。人はえてして自分固有の感覚で「これはわかるはず」「こうすれば憶えるはず」と思い込んでしまう傾向がある。しかし多くの場合彼らの感覚と世界は人間側の想像とは大きくかけ離れている。往々にして、叱りすぎて萎縮させてしまったり、わけのわからない罰を与えて混乱させてしまったり、または意味もなく甘やかして駄目にしてしまったりする。
 彼らの世界をありのままに認識した上でコミュニケーションをするということは、実はとても難しい。同じことが、人が自分の子どもを持った時にも起こる。多くの人は大人である自分本位のやり方で赤ん坊に対し、彼らの表現する多くを理解することなく、ただ意味不明なこと、とるに足らないこと、余計なこととして弾いてしまい、彼らが実は必要としている大切なことを与えてやっていない。そのような場合、子は親を愛するがゆえに、心に深い傷を負ってしまうのだ。その結果として彼にはさまざまな心理的・情緒的・肉体的歪みや疾患がもたらされることになる。このようにそれを行う者の不明によって静かに虐待は進行するのだが、それを行う本人はまったくそれに気づいていない。
 そう、まさにそれは虐待と言えるものだったのだ。私が猫たち、犬や鶏たちに行ってきた行為のある部分は、今にして思えばそうと認めざるをえない。彼らを愛するがゆえに、家族であるがゆえに、一番近しいものと思うがゆえに行ったことではあるが、しかしそれは私自身の蒙昧がもたらした悲しい虐待だった。
 それにもかかわらず、彼らはみな、一人ひとりそれぞれの表現で、いつも私を「愛している」「大好きだよ」と言ってくれていた。こんなにも愚かな私を、私というどうしようもない暴君を、日々変わることなく慕ってくれていたのだ。しかしそれに気づいたのは、私自身が数知れない過ちを犯してしまった後であり、既に彼らのうちの多くの者に二度と会うことかなわず、今手元にいてくれる者たちにも、あるいは一生取り返しのつかないかもしれない傷を残してしまった後だった。
 わが家の家族だった13匹の猫たちのうち、今残ってくれているのは4匹にすぎない。なによりも大切に思い誰よりも深く愛した存在も、もはや手の届かない遠くに行ってしまった。私は彼に彼ら自身に、生きている間充分な愛を報いることができなかったのだ。
 しかし彼らは紛れもなく多くの、大きな気づきを私に残してくれていた。あの日の視線、あの瞬間が時折脳裏に蘇ることがある。彼らは消え去ったのではなく、私の記憶の中のあるひとつのイメージに、その姿を変えたのだ。彼らは現時点で存在してはいないけれども、私というものの内部を構成する大事な一要素となっている。
 彼らによってもたらされた大切な気づきは、今いる、また私に残されたこれからの人生の時間において出会うであろうものたちのために確実に活かされるだろう。悲しくもあるが限りない希望に満ちている、これが愛の伝達なのだ。一人の者が発した愛は、例えその場の相手にそのままには伝わらなかったとしても、そのまま失くなってしまうものではない。それは発した時の意図とは異なる道を辿って、やがてこの自然界の中で、いつの日かなにがしかの形で具現化される。一度表出した本質は常に世に留まり続けるのだ。
 だから私も常に表わしていこう。彼らの残してくれた愛を、大いなる愛を私が確かに受け取ったという証しとして。伝達の環はそうやって、私という存在を組み込んで世界を巡る。今も受けている、それから今まで受け続けてきたこの愛を、私もまた彼と彼らに、この先の歩みで出会う数知れないものたちへと、そのままの形で伝えていこう。

愛してるよ。大好きだよ・・・

 今日も布団の上で丸くなってる猫たちが、クワの木の下に佇む犬が小さな檻から覗くウサギたちが、みんなが私に告げてくれている。おまえはいつもこの世界中から愛されているのだと。



【写真はロッキー。一見怖そうな顔をしているが彼は最期まで私を愛し続けてくれた】


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