朝食の後に田の草取りをしていたら、おお!と驚いた。
目の前の稲葉で、まさにヤゴからトンボが生まれ出ようとしている。
すわ!トンボの羽化!これはカメラにおさめないと。
おいちょっと待ってろよ今カメラをとってくるから・・・とトンボに言い残して畦畔を上がる。折りよく軽トラにデジタルカメラが積んであった。
こんな場面には滅多に会うものじゃない。実際稲作5年目にして初めてだ。
按配よくカメラにおさめてふと、思いついた。
アキアカネの羽化は、通常真夜中に行われる。だから早朝に田を見回る時にも、彼らはもうトンボの形をして草にしがみついているだけだ。こんな羽化の瞬間には、真夜中に出歩きでもしない限りは出会うことなどない。
でもこの時間(朝の10時頃だったろうか)彼がこの状態でいるということは、もしかしてなにか障害があったということなのだろうか。
そういえば本体は既に色濃くトンボの様をしている。つまり彼は、何らかの事情で脱皮しきれないでこの時間に至ってしまったという可能性が高い。
そっと草から持ち上げて中途半端な殻を注意深くとってやった。
彼の体は尾と羽、それに後ろ足の一部がヤゴの殻の中におさまったままだった。でも幸いその殻はすんなりととれた。
トンボは生きている。手に乗せるとか弱い足を震えさせて少しずつ這い上がろうとしている。
どうか、このまま無事羽化しますように。
ヤゴの中にいた尻尾は無残に折れ曲がり羽根は縮れ、両の後ろ足も麻痺したように湾曲している。
5分・・・10分・・・
羽は幾らか展開した風だけど姿形に大きな変わりはない。
20分・・
私は彼をそっと摘まんで葉に載せた。
おい、羽がひらくといいな。
空を飛べるといいな。
お前も生まれてきたのだから・・・
田の草取りを終わっても、彼の羽は開かない。
夕方もう一度、家から車を走らせた。田の畦畔沿いに相変わらずの彼の姿はあった。
羽はもう、開かない。
触れれば微かに身じろいだような気がする。命はあってもそれは明日に繋げないいのち。私は一瞬、このままひと思いに彼を殺してしまおうかと思った。それが彼に対する最大限の愛ならば、そうするのにやぶさかではない。
でも、何かが私を留めて彼をそのままに置かせた。
ごめんな、お前。私はつい浅はかな人間の考えでお前の生に干渉しようとした。
お前にはお前の生の証がある。
それは何か他の生を育むことかもしれないし、またこの私の、土粒のひとかけらにも満たない不確かな記憶に留まることもそうなのかもしれない。
今までの私だったら、目の前で苦しむ命を見たならば思い切って殺してしまっただろう。それが自分なりの愛だと信じていた。
でも彼は殺せない。同じように稲を食む虫、鶏を狙って夜な夜な忍び寄る動物たちを、もう殺せない。私の中で彼らを殺す必要性を、もう持てなくなってしまった。
祈りはここにあらわれる。
明日彼はそこにいるだろうか。彼はいつまでそこにいるだろうか。
天命を全うしようとする彼と私の違いはどこにあるのか。
7畝ばかりのこの田からは毎朝何匹ものトンボが巣立つ。おそらくひとシーズンで何百匹にもなるだろう。その中にもさまざまの生がある。
それを受け容れる。無慈悲なような現実を受け容れる。変わって止まない現実を受け止める。これが本当の愛なのだと、今頃になって私は気づいた。
飛べないトンボ、それはもしかして、夢や理想に押し潰された私自身に似てやいないか。
どちらも生きている。ただ愛の加減の違いが、そこにある。
目の前の稲葉で、まさにヤゴからトンボが生まれ出ようとしている。
すわ!トンボの羽化!これはカメラにおさめないと。
おいちょっと待ってろよ今カメラをとってくるから・・・とトンボに言い残して畦畔を上がる。折りよく軽トラにデジタルカメラが積んであった。
こんな場面には滅多に会うものじゃない。実際稲作5年目にして初めてだ。
按配よくカメラにおさめてふと、思いついた。
アキアカネの羽化は、通常真夜中に行われる。だから早朝に田を見回る時にも、彼らはもうトンボの形をして草にしがみついているだけだ。こんな羽化の瞬間には、真夜中に出歩きでもしない限りは出会うことなどない。
でもこの時間(朝の10時頃だったろうか)彼がこの状態でいるということは、もしかしてなにか障害があったということなのだろうか。
そういえば本体は既に色濃くトンボの様をしている。つまり彼は、何らかの事情で脱皮しきれないでこの時間に至ってしまったという可能性が高い。
そっと草から持ち上げて中途半端な殻を注意深くとってやった。
彼の体は尾と羽、それに後ろ足の一部がヤゴの殻の中におさまったままだった。でも幸いその殻はすんなりととれた。
トンボは生きている。手に乗せるとか弱い足を震えさせて少しずつ這い上がろうとしている。
どうか、このまま無事羽化しますように。
ヤゴの中にいた尻尾は無残に折れ曲がり羽根は縮れ、両の後ろ足も麻痺したように湾曲している。
5分・・・10分・・・
羽は幾らか展開した風だけど姿形に大きな変わりはない。
20分・・
私は彼をそっと摘まんで葉に載せた。
おい、羽がひらくといいな。
空を飛べるといいな。
お前も生まれてきたのだから・・・
田の草取りを終わっても、彼の羽は開かない。
夕方もう一度、家から車を走らせた。田の畦畔沿いに相変わらずの彼の姿はあった。
羽はもう、開かない。
触れれば微かに身じろいだような気がする。命はあってもそれは明日に繋げないいのち。私は一瞬、このままひと思いに彼を殺してしまおうかと思った。それが彼に対する最大限の愛ならば、そうするのにやぶさかではない。
でも、何かが私を留めて彼をそのままに置かせた。
ごめんな、お前。私はつい浅はかな人間の考えでお前の生に干渉しようとした。
お前にはお前の生の証がある。
それは何か他の生を育むことかもしれないし、またこの私の、土粒のひとかけらにも満たない不確かな記憶に留まることもそうなのかもしれない。
今までの私だったら、目の前で苦しむ命を見たならば思い切って殺してしまっただろう。それが自分なりの愛だと信じていた。
でも彼は殺せない。同じように稲を食む虫、鶏を狙って夜な夜な忍び寄る動物たちを、もう殺せない。私の中で彼らを殺す必要性を、もう持てなくなってしまった。
祈りはここにあらわれる。
明日彼はそこにいるだろうか。彼はいつまでそこにいるだろうか。
天命を全うしようとする彼と私の違いはどこにあるのか。
7畝ばかりのこの田からは毎朝何匹ものトンボが巣立つ。おそらくひとシーズンで何百匹にもなるだろう。その中にもさまざまの生がある。
それを受け容れる。無慈悲なような現実を受け容れる。変わって止まない現実を受け止める。これが本当の愛なのだと、今頃になって私は気づいた。
飛べないトンボ、それはもしかして、夢や理想に押し潰された私自身に似てやいないか。
どちらも生きている。ただ愛の加減の違いが、そこにある。
辺りには心なしか蜘蛛がたくさんいるような・・・
天寿を全うしたのでしょう。先入観や観念から構成された人間のちっぽけな感傷などを遥かに飛び越えて、自然のメカニズムは回転します。
自分を直視すれば、誰でもこのトンボのように歪曲しいじけ捩れた姿を発見するでしょう。でもそれでいいのです。醜い自分を受け容れた時に初めて、私たちは愛することを知るのだと思います。
この姿は、実は美しいのですよ。いのちが燃焼する真紅の炎が、輝きをもって、立ち昇っているのです。
だから私たちは生きているのですね。
菅原さんにコメント頂くとは嬉しいです。一年以上前になりますが、毎日連載していた頃の菅原さんのブログを時々読ませていただいてました。いろいろな意味でたくさん学ばせていただきました。
草を刈り払ってる最中にふと目に留まる羽の切れた蝶、何かの拍子に指先で潰してしまうカタツムリやバッタ、日常たくさんの虫たちを不可抗力的に殺してしまうのですね、私たちは。
生き物は生きることによって生物界を形作り、また死ぬことによってこの世界を支えている。ただ私たちは通常死というものに無関心か、あえて無視して暮らしてしまっている。そしてそれと同じ分だけ生が色褪せているのかもしれません。
目の前にあるものを見逃したくないな、最近そんなふうに思います。