アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

クルミの芽

2006-05-08 18:07:42 | 暮らし
あの枝を切るから・・・

クルミの枝が一本、屋根にかかっていた。あれは切らなきゃならない。でないと今度の冬には、雪の重みでどっちみち折られてしまう。

今年はたくさん、クルミを食べれるな。

クルミと言ったって、「実」じゃない。「芽」なんだよ。そう、桜の咲くちょうど今頃タラノメのように羽根を広げる、若葉の芽。(クルミの若芽はバドミントンの羽根を逆さに立てたように見える。)

見上げたら枝の先々にたくさんの芽が鈴なりについていた。ああ、いいな。ちょうど食べごろだな。さっそく鋸と脚立を持ち出してギーコ、ギーコと切った。ついでに若干剪定もして、間もなく僕は、両掌に溢れるほどの「緑色の春」を手にすることができたよ。今年は大収穫だった。

          ★        ☆        ★

クルミの芽が食べれるってことを教えてくれたのは、あのおばあさんだった。
遠野へ抜ける県道を通るといつも道路端の畑で働いてる。大概はいつも背中と肩しか見えない、あのおばあさんさ。
随分苦労した人なそうだよ。なんでも若い頃連れ添った旦那さんが病気で働けなくなって、3人の子どもを女手ひとつで育てたという。畑に続く母屋だって安普請のいかにも掘っ立て小屋って感じだけど、でも彼女にとっては宝物のような家だった。床にも壁にもどこにでも彼女の手の匂いが沁みついている。中は意外ときれいだったろう?それはそれは大事に使ってきたんだ。

さて子どもたちもみんな片付いて彼女は家にひとり残り、ああこれでやっと一息つけると思った頃に、しかし彼女に訪れたのは一片の悲しい報せ。彼女にとって「安息の老後」は空に描いた幻のようなものだった。

町に出た長男の子どもが先天性の・・・なんとか言う病気でさ。
治らないんだって。生まれ落ちるとからずっと入院したきりさ。その子をただ機械に接続して「死なせない」、そのためだけに毎年何百万円ものお金がかかったんだって。
それからほどなく、おばあさんの家は売りに出された。でも田舎なことなんで、もちろん高額で売れたわけでもない。買い手が現れただけでも幸いだったと思う。
引渡しの朝、僕は屈みこんで台所の床を拭く彼女を目にしたよ。前の晩はひとりで家に泊り込んだそうだ。気丈な彼女は僕が玄関に入るとすくっと立って、要領が悪いもんで掃除が間に合わなくてな・・・とてらてら光る顔で呟いた。

彼女はその日に、今まで築いてきた一切合財のものを失くしてしまった。家も畑も家財道具も。(家具のほとんどは、新しく移り住んだ息子のアパートに入りきれなかったんだそうだ。)でも幸いなことに買い主が親切な人だったから、未だにおばあさんはあの畑だけ使わせてもらってる。ちょっとした広さだからね。新しい地主も最初から全部使い切れなかったんだろう。それから彼女の「遠距離通勤」が始まった。町中のアパートから20キロ、毎朝バスに乗ってここに来る。

そうして彼女は雨の日でも風の日でも、相変わらず大好きな畑仕事に勤しむ。
そうだね、それが彼女の手に残ったすべてなんだろう。実際彼女は今までの人生で「働く」ことしかして来なかった。その一番大切なものが、最期まで残ったんだね。
彼女が見せてくれたあの「粟」の房を憶えてる?見事な出来だったよね。僕も雑穀作ってますよ、と言ったら、じゃあ私が去年収穫したこの粟を見てよと、自慢げに持ち出してくれたんだっけ。
とても大粒の「粟」だった。でも僕はあの時言わなかったんだけど、あれは本当は「粟」じゃない。多分おばあさん、どこかで勘違いしてしまったんだろう。あれは「タカキビ」さ。最初に誰かに籾を譲られた時に、「粟」だって言われたのかもしれない。でもなぜかその時僕はそれを言えなくて、へえ、すごい立派な粟ですねって、嘘をついてしまった。

この田舎では、あの年代で字を読めない人も結構いるんだよ。だからそんな人は本を読んだり何かを調べたりすることができない。
でも彼女の作るものは、どれも立派だったね。農家としての腕は確かに一流だった。

          ★        ☆        ★

クルミの芽が食べれるってことを僕に教えてくれたのは、彼女だった。
苦労したんだと思う。多分食べれるものはなんでも食べて、生きてきたんだと思う。だから僕もそれからクルミの芽を食べてみたよ。とても美味しかった。僕たち、何を食べてもおいしいと思うんだ。

あれから毎年、こうしてクルミを食べる。タラノメみたいだけど、中はしっかりとクルミの味がする。
いつもこれを食べると、決まってあのおばあさんのことを思い出すんだ。




【写真はクルミの若芽】



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4 コメント

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こんにちは (とおぬっぷ)
2006-05-11 18:52:33
あの山の中で見るのはクルミの新芽だったのですね。やけにタラの芽残ってて、誰も気付かないのが不思議に思ってました。そして今朝、偶然にも実家からタラの芽送ったからと連絡ありました。小友という山村で採ったみたいです。楽しみ(^-^)話は変わりますがそのお婆さん、可哀相ですね。うまくいえませんが母の人生とダブりました。若い頃から苦労ばかりで楽しみといえば、今年のじゃが芋はよくできたとか、食べきれないくらいトマトやキュウリがなってると日焼けした顔で誇らしげに話す事くらい。家庭菜園程度なんですよ。庭には花は食べられないからと多種の野菜を育てて。まったく母だけにはかなわない。もうじき、母の日だね。あぐりこさんも元気な事、お母さんに伝えて祝ってあげてくださいね
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畑にいると・・・ (agrico)
2006-05-12 10:13:24
寂しくないのですよ。言葉を使わないだけで、話し相手に事欠かないのです。

多分ここに出てくるおばあさんも、とぬっぷさんのお母さんも、そんな感じだったかもしれませんよ。

「物」に囲まれていても孤独に陥ることはありますが、山や畑を暮らしの場としている人は、どんな寂しさも受け止められるような気がします。



クルミの木も幼いうちは地面からひょろっと一本立ってるだけなので、若芽の状態では確かにタラノメと似てますね。近づいてみれば棘があるかないかや、葉っぱでわかりますけどね。



わが家では今年タラノメを室内で栽培してみたのですよ。

お陰で今毎日プライパンひとつ分ずつのタラノメを食べてます。

コンフリーもワラビも採れるようになったし、もう野菜には困らなくなりました。

これから田植えの準備に取り掛かるのですよ。
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Unknown (マル)
2006-05-13 18:13:32
メール アドレス 変更しましたので 見てください。お願いしますm(_ _)m
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了解しました。 (agrico)
2006-05-13 20:55:08
メール・アドレスというのは、インターネットが普及した現代においてひとつの「住所」みたいなものですね。

それからすると、現代人は「引越し」が頻繁になったということなんでしょうか。いや、そうせざるを得ない状況と言うか・・・



なかなかひとところに落ち着きにくくなったのかもしれませんね。
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