アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

自殺サイト

2005-08-11 19:42:08 | 思い
このところ「自殺サイト殺人」のニュースを聞くものだから、
いったい「自殺サイト」とはいかなるものなのかと、ネットで探してみた。
自殺しようとする人が公開性の高いネットに何らかの情報を発信してるのか。また、そんな人たちがネット上での繋がりを持っているのだろうか。だとすればどうして死ぬ前にそんなことをするのか・・・始めのうちはどうもピンと来なかった。
そしてキーワードで検索してみると・・・あるわ、あるわ。まことにたくさんのサイトが自殺をテーマにし、自殺志願者をターゲットにしてお店を広げている。
なるほどこれはある意味逆説的に言えば、世の中はしごく平和ということなのかもしれないし、止むに止まれず人目を憚って死ぬという感覚の人よりか、自殺という意識や行動がまるで「当たり前」のこととして今日の社会に広く根を張っていることの表れなのかもしれない。調べてみるまて、これ程までに「自殺」が多数の人の注目を集めているとは思わなかった。

それらのサイトの中には自殺志願者を対象にし彼らとの情報伝達や交流を目的にしたものもあれば、逆に彼らの持つ自殺願望をコミュニケーションによって払拭しようとする「良心的」なサイトもある。
多分たくさんの人がこれまでに何度かは「死にたい」と思ったことはあるだろう。それは決してそれ自体歪んだ精神や病んだ心の動きではない。情動の激しい人間であれば誰であれ起こり得る、ある意味当然の行為だろうと思う。「衝動的自殺」とは言うけれど、私は衝動では人は死ねないと思う。抑え抑えして来たけれど既に心に深く根を張った動かし難いものが何かの拍子に堰を切った水のごとく溢れ出す。そんな状況が第三者的には「衝動的」と映るのかもしれない。
「死にたい」というその気持ちが極めて長い間コンスタントに続いたり暮らしの中で更に深く深化したりするならば、確かにそれは起こり得る。それは一個の生命を死に至らしめる、とても危険なものだと思う。
試しにその「良心的サイト」のうちの何件かの掲示板を開いてみた。

小学6年生の女の子が、死にたいということ、そしてその背景にある家庭環境のことなどを10行くらいに書き連ねていた。
するとそれを受けて、まるで群がる蟻のようにたくさんの「大人」たちが意見を述べる。概してその意見には二通りあるように見受けられた。ひとつはただ一行くらいにもの述べるやり方。いわゆるチャット形式か。「若いんだからさあ~。まだまだこれからだよ~。」
もうひとつは10行かそれ以上の長さに亙って自殺を思い留まらせようと真面目に説得する言葉。
つらつらとそれらを読むにつけて、これではこの自殺したいという女の子はそれを思い留まるばかりか、もしその意思が強固なものならば、かえってますますこの世に幻滅してしまうかもしれないと思った。
それはやはり小学6年にして自殺未遂をした私の経験から感じたことでもある。
子どもが死にたいと思う。それは恐らくは多くの良識ある人たちが思い描くとおりの尋常なことではない。当人の健全な心理状態が歪められるそれなりの深く歴然とした理由があってのこと。それをこのような簡易な説得によって覆せる可能性はほとんど無いと思う。ましてやチャット的なやりとりなど、本人は決して望んではいないだろう。

では、自分ならばこれにどう対応するだろうか。

・・・・・・
やはりこれ以上の対処は難しい。もし同じ状態に直面したならば、やはり同じように「説諭」的な話をするしかないのかと思う。残念だけれど。
つまりこれが、ネットという媒体の限界なのかもしれない。
もしかしたら、加害者の呼びかけにのこのこ出向いていった女性も中学生も、だからあえてネットで出会った見知らぬ他人に身を任せたのかもしれない。彼らは自分ひとりでは死ねなかったのである。つまり決定的に死を決意したわけではなかった。「誰かに自分が言い表せない何かを(自分に)伝えて欲しかった」。彼らはもしかしたら、死のうとしていたのでははないのかもしれない。

言葉は便利ではあるけれどさまざまな面で限界の多い道具でもある。実際面と向かって話された言葉でさえも、相手の意思を正確に反映しているかというと必ずしもそうとは言えない。ましてや匿名性の高いネット上、掲示板上の言葉のやり取りだから、騙そうと思えばどのようにでも騙せる。実際BLOGで自分自身について多少なりとも美化し意図的に誤解を招くような表現をしている人はたくさんいるに違いない。
自分ひとりでは自殺し切れない彼らはだから、ネット上の言葉では飽き足らず、現実の「その人」に会いに行ったのではないだろうか。

顔の見えないネットの付き合いというのは、今更私が言うまでも無く極めて限定的だ。例えるならば一時期流行した「文通」に近い。しかしそれよりもこの場合遥かにマイナスに働くのは、計らずもこのネットというものの一番の長所「公開性」というところにあるだろう。ここでひとたび弱みを開示した人間に対しては、場合によってはたくさんの人がハイエナ的に群がって来ることもあるのである。
実は私も一時期このネットというコミュニケーション・ツールの使い方に疑問を持った時がある。BLOGも含めて表面上仲良くワイワイと騒ぐ友達を捕まえるにはとても便利な道具ではあるけれど、そのような雰囲気を自分のサイトに作ってしまうと、いざ深刻な悩みや相談を抱えた人が寄り付きにくくなるようだ。
だから私はネット上での「大衆志向」の道を除外した。それは元々私の志向性に沿うものでもなかった。
ともに騒げる仲間百人を得るよりも、私は全身全霊を挙げて付き合うひとりの人と出会いたかった。けれど大概そんな人とは刹那激しい火花を散らした後別れて二度と会えないものではある。しかしそれでもいい。振り返れば私の人生にはそのような人と出会い、関わることがあまりに多かった。

それが今までの私自身の生き甲斐にも通じている。

私のこのBLOG、マンガがあったり物語だったり日記だったりでとりとめも無いものだけれど、
できれば、同じ方向性で悩む人と真摯に関わる場であればと思う。自分の丈に見合った出会いにはなる。それでも私の生きた軌跡を伝え、他の人の生きた積み重ねを受け継ぎ、この出会いが将来に生きる人にとって何かしら大きな布石となるようなそんな出会いの場となるように、このBLOGを今日も書き続けたいと思う。

「自殺サイト」。そんなものの存在価値も確かに今の時代にはあるのかもしれない。ならば私のサイトだって、その意思に見合って充分に存在価値を帯びるかもしれないし、今時点立ち上がっているさまざまなサイトもそれなりに、それぞれの役割を担っているとも言えるだろう。





【写真は「どうして猫は自殺をしないのか・・・」と考えるロッキー。
いや、それより、「どうして人間は自殺するのか」を考えた方がいいかも知れないな・・・】




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2 コメント

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子どもの頃の自虐行為は、 (tombo)
2005-08-12 06:32:37
突き詰めてみれば 「私をみて」 でした。解ってくれないという以上に、伝える方法を知らなかった。

自分を見失って、自己嫌悪に陥ってしまっているときに、「頑張って」 と励まされるのも辛いものです。見失ってしまった自分の価値を同じ境遇の人に見出して癒そうとしても、そこから抜け出すことはできない同道巡り。

ネット上の見えない相手と交流することで、その同道巡りから抜け出して、伝えるということを学んでいけるといいのですが…。

それにしても日本語というのは、なんとまあ口に出して感情を伝えることが難しい言語だろうと思います。そういう意味では、私が本心を語っているのはブログ上のみであり、私自身もまだまだ学ばなくてはならないことが山ほどあるということです。
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確かに子どもは・・・ (agrico)
2005-08-12 09:36:47
あらゆる関わりの中から貪欲にものごとを学ぼうとする。人生の中でそういう時期なんでしょう。だから行き詰った時に手元にパソコンがあれば何でもいいから現状を打開してくれそうな人を探そうとする。

問題は、相手の言うことを素直に受け容れる、その子どもらしさにあるんでしょうね。相手が誰であれ構わない。

そんな子どもの特質に水を差すようなこと(「相手を疑え!」とか)は言いたくないし、不必要に出会いや経験の可能性を狭めたくもない。でも一旦ネット上に自分を開示すれば、それは都会の只中に放り出された田舎の子どものような状況になりますね。そこをひとりで安全に泳ぎ渡ることができるだろうか。とても心配です。

こんな時にこそ人を信じ、社会を信じていたいけれど、それとは別に、やるべきことをやって考えられる対策を行うことは必要なのでしょう。

今よく言われているネットの使い方。ネットで何ができて何ができないのかも含めて、それを明らかにしていくのは他ならぬ私たちなんでしょうね。



子どもも大人も含めて、死ぬほどの悩みから抜け出す突破口になってくれるのは大概の場合、本でも情報でも内容のある話でもないでしょう。

それは「人との深い関わり」だと思います。

だからその人の周りの人が関わるしかない。ネットで得られた情報は知識や道具としてそれなりに役立つものでしかありません。

それが今のところ、誤解されてる向きがあるんでしょう。まるでネットですべてのことがかなうような・・・出会いも意思疎通も自分が欲しいものは何でも手に入る・・・

換言すれば、周りの人間関係が支えてくれるのであれば、どのようにネットを使おうと一時どんなに悩もうと大丈夫なんでしょう。子どもたちにはそんな環境を作ってやりたいですね。



日本語は日本人の繊細な感性、思い、考え方を反映して、こんなに複雑なのかもしれませんね。

単純で率直な国民ほど、用いる言語は単刀直入かもしれない。

例えるならば高性能な、しかしマニュアルのカメラといったところでしょうか・・・
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