アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

桑の実・コーヒー牛乳

2005-06-18 07:58:30 | 思い
鍋に牛乳を沸かしてコーヒーを入れる。甘いものが欲しい時にはそれにココアを加えて飲んだりもする。
冬の間炬燵でいただく温かいコーヒー牛乳には、ふるさとを懐かしむような居心地よさが感じられて嬉しい。
そう、今日のような雨模様の肌寒い日にも、それは喉の奥から心を温めてくれる。

さて、一杯二杯と甘いコーヒーを重ねるうちに、ふと甘くないものを飲んでみたくなった。
だから3杯目はココア無しで飲む。うん、これはこれで美味しい。砂糖入りでは味わえないそのものの「味」というものが確かにある。
ふと、今生きている人生というのもそんなものかもしれないな、と思った。

人はみな生まれて年老い、死ぬけれど、その間にも魂は(多分大して変わりなく)存在し続ける。それは古今東西の魂に関わる幾多の共通した例を挙げるまでもない。魂が肉体と別個に存在し得ることに異論を挟む人は、例えそれが現代科学では解明されていないことだとしてもあまりいないのではないだろうか。
肉体を失った魂はやがていつかまた再び別の肉体を持つに至る。どのようにしてそうなるかはわからないけれど、現に私たちの魂は今現在この「肉体」を有しているのは事実だし、おそらくこの「肉体の乗り換え」は果てしなく繰り返されていくことなのだろう。現在の生が一代きりで終わると考えることにこそ、少し無理があるように思える。

そして甘いコーヒーが続いた後には甘くないコーヒーをというように、
多分私たちは自分の人生を選んでいるのではないだろうか。
いつまでも甘い人生ばかり選ぶことは現実にはほとんど無いかもしれない。なぜならば、
どちらもそれぞれに捨てがたい「味」があるから。

我が家の庭には桑の木が幾本かある。誰が植えたわけでもないのだけれど、おそらくは山に自生していた桑や栽培されたものから種が運ばれて勝手に生えたものだろう。
昨日見たら少しずつ実が熟しかけてきた。
赤い実の中にポツポツと黒く熟した果実が混じってきている。今年も桑の実を食べれる季節になった。これは今のところ我が家で食べれる唯一の果物である。
しかし今年の実は随分と小さい。
これは多分春以来雨が少ないせいだろう。いつものほとんど半分の大きさしかない。
これは食べる私の側からはなんだか残念なような気がするけれど、
桑の側からすれば、長い年月の間には当然このような時も数年に一度かの割合で確実に来ているのだろう。
しかしなんら案ずることはない。そんな時代の移り変わりの中で桑の木はちゃんと子孫を残し続けている。だから今、ここにある。

苦いコーヒー、旱魃の年の小さな桑の実、
どちらも生を重ねる魂が、時々選んでみる状態なのかもしれない。




【写真の蝶は名前は知らないのだけれどうちの周りでよく見ます。ちょうどスイバの実に留まっているところでした。】


この記事を書き上げてからたまたま開いたMagic Dragon『夢を見た』が何だか関連のあるテーマを取り上げているのでトラックバックします。面白いものですね。




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8 コメント

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やるな。 (ぱこ)
2005-06-18 23:16:51
あいかわらずご健筆だなあ。(笑

今帰ったぜ、兄弟!
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おぉっ!お帰りですか! (あぐりこ)
2005-06-19 10:49:21
長い旅でしたね。でもぱこさんの創作活動のタームではほんの僅かの時間かもしれません。

書く時間に比べると「書くまでに至る」時間の方が遥かに長い。私もぱこさんも今までの生きた積み重ねの上で書いてますからね。「書かない時間」というものは、実は書くために必要なのかもしれません。



お互い長くやっていきましょうよ。

私のBLOGは日記だから幾らでも書けちゃうのですが、こちらの方は「書く時間」が足りないんですよ。
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今日偶然に・・・ (ひろ(っ)ぽん)
2005-06-20 02:01:51
うちのヒトの会社の裏に桑の実がたわわに実っているのを見つけました。

ちょうど、離れて暮らし週1回だけ会える娘(中2)が一緒にいて、紫色に熟しているその実を摘んで食べさせてあげたんです。

私が小学生の時、指先を紫に染めながら学校帰りに食べていたその実を、娘に教えてやることが出来ました。娘は生まれて初めて食べるその実の、野性的でどこかほんのり優しい甘酸っぱさに感動しておりました。

今日でよかった。ちょうど今日でよかった。そう思いました。

娘はきっといつまでも憶えているだろう、そしていつか自分の子供にも食べさせてあげる時が来るだろう、そう思って胸が熱くなりました。



たったそれだけのことでした。でもここで再び胸が熱くなりました。
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桑の実心の甘い酸い (あぐりこ)
2005-06-20 20:31:46
私は地方都市の町中の生まれなので、

桑の実の味も含めて今の暮らしのベースとなっているほとんどのことは近年身に付けたものです。

今日も裏庭に出て鶏に水をやるついでに実を頬張りました。

これからこの味が、私の体となり心となる。

これから先、この味、この場所を「ふるさと」にする生命がやがて生まれるかもしれない。

ふるさとは「創る」ものでもありますね。それを享受するのは我が子孫になるかもしれないですが。

桑の木、見てるとあの実にたくさんの生命が寄りすがり関わり助けられて生きているのですね。
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こんばんは (allie)
2005-06-21 20:11:31
agricoさんレスが遅れてごめんなさい。

TBしてくださった上に記事中にご紹介くださってありがとう!

同じ事を考えたということ意識化で通じている陽で嬉しかったです。



なぜか猛烈に描きたくなって絵ばかり描いていました。

絵だけに限らないでしょうが描くという事はある種の霊感のようなものが降りてきてくれて初めて筆が動きます。

描かない時間は描くために必要って本当そうだなあと思います。

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allieさん・・・ (あぐりこ)
2005-06-21 21:19:57
描いてるのですね。いいですね。それだけで羨ましい気がします。

歩んでる。確かにそれでいい。それだけでいいんですよね。他に何が必要なのか・・・

生きているってのは、それが一番の価値でありそれ以外に価値はない。素晴らしい絵を完成させたり歴史に残る大作を成したりするのは、生きるというそれに比べれば露ほどの値も無いかもしれませんね。

そんなことを思いながら、今日も私もBLOGを書いてますよ。
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おはようございます (allie)
2005-06-22 11:34:02
自分で納得できる絵って一枚もありません。

きっとそんなものはこれからもありえない。

だから描くのだと思っています。

そして絵に惹かれるのは絵から見えるその人の生き様のようなものです。

凄いなあと思える絵を描いた人ってやはり凄い人生を送ってたりねぇ。



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今の世の中・・・ (agrico)
2005-06-22 18:56:38
評論家が多いですが、芸術の分野でもそうですね。頭で見ている。知識で絵を見ている。それではその「絵」に込められた思いは伝わりません。上手な絵がいい絵じゃないですよね。可愛い絵は、必ずしもその人の内面の可愛さを表わしているわけではない。

私も絵を通してその「人」を自分なりに感じるのが楽しいと思います。

決して人に誇れる力量や眼力を有しているわけじゃないけれど、私にはこれしかありません。



絵に自分を表わせる分に応じて、実生活でも自分を表わしているのじゃないでしょうか。芸術家が私生活でまま「我が儘」と受け留められかねない振る舞いをしがちなのも、ある意味で関連するところがあるかもしれません。

私は人から「凄い!」と言われなくてもいいから、暖かいもので通じ合う心の世界を創りたいなあと思います。
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