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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

ボロディン「だったん人の踊り」

2015-01-25 16:52:39 | 音楽

最近、テレビでJR東海の「ふたたびの奈良」というキャンペーンCMがよく流れている。奈良の神社が映し出されその背後の山には「神」が鎮座する。奈良という土地の荘厳で神秘的なイメージが強調されている。

そのCMで流れているのが「だったん人の踊り」である。これは、19世紀のロシアの作曲家ボロディンが作曲したオペラ「イーゴリ公」のなかで登場する部族民のお祭りの曲である。中世ロシアで権勢を誇った「だったん人」の王国で捕虜になった南スラブ領主イーゴリ公の物語だが、この踊りの部分は特に有名で、オーケストラで単独に演奏されることも多い。

でも奈良の観光案内でこの曲が挿入されるのかよくわからない。「だったん人の踊り」はその王を讃える華麗極まる曲だが、それは王の神々しさも秘めている。それが神の鎮座まします奈良の山々にも通じるということなのか。

それとともかく、この踊りは迫力満点でオペラ特有の大スペクタルだ。単独のコンサートでは合唱が加わったとしても、この劇の躍動感は望めないのでやはり実物の劇には及ばない。

始めは肌も露にした美しい女たちが、激しく時にしなやかに劇場狭しと踊りまくる。途中飛び跳ねては生の息吹を体中で表す。その後屈強な男たちが怒濤のリズムに乗って華麗に力強さを誇示する。最後は男女がいじまわり、エロチシズムも加味されて狂喜乱舞の世界が演出される。こんな踊りをみると、現在の下手なミュージカルなど安っぽくみえる。

それにしても、こうした踊りは遊牧民の特有の迫力があって、農耕民特に日本人にとってはまるで異次元の世界の感じがする。現在中東が騒然としているが、元はといえばこうした遊牧民の領主が支配していた。時に権勢を誇った部族はこんな王国を築いて、お祭り時期には華麗な舞を繰り広げていたのだろう。

その伝統は現在でも脈々と生きている。紛争が続くイラクにしてもアフガニスタンにしても今も地域の部族の存在は健在で国の動向に少なからぬ影響力を保持しているといわれている。そう考えると、先進諸国が自分たちの政治理念の民主主義をこうした遊牧民社会に根付かせるのは難しい感じもする。西洋の押しつけと感じた時にはその反動も強いのではないか。


モーツアルト「アレルヤ」

2014-12-24 21:27:37 | 音楽

これは自分の趣味の話だ。しかもクラシックの宗教曲だから普通は「アウト」かもしれない。ここはクリスマスイブの夜だからこんな曲も悪くはないだろう。ただ、聴いてみると宗教曲とは思えないほど、快活で楽しい。歌詞も「アレルヤ」を繰り返すばかりでわかりやすい。

アレルヤはラテン語で「賛美」の意味、ここでは「神をほめ讃えよ」といっってよい。モーツアルトのこの「アレルヤ」という曲は、3楽章で構成されている宗教曲(K.165)の最終章でありこの楽章だけが単独で演奏されるほど特に有名である。

なんとモーツアルトが17歳(1773年)の時に作曲されたもので、イタリアの知人でカストラート歌手のためにつくられた。カストラートとは去勢された男性歌手を意味する。女性のソプラノにも匹敵する高音の領域を唱う。乱暴にいえばいまでいうニューハーフともいえようか。

しかし、今日この歌を歌うのは多くのソプラノ女性歌手であり、オーケストラを従えて華やかなことこの上ない。名だたる有名歌手がこの曲を録音していてモーツアルトの代表曲の一つになっている。

イタリアの歌手を想定しているのだが、ここには宗教曲に見られるような抹香臭さがまるでない。イタリアの空のようにどこまでも青い。しかも17歳のモーツアルトを象徴するような青春の瑞々しさに溢れている。家で聖夜として静かにクリスマスを迎えるのもいい。反面こんな賑やかで楽しいイブもあってもいいのではないか。「アレルヤ」がまるで鼻歌のように唱われるのも。

 

追記:サンデーモーニングのスポーツコーナーで登場する唐橋ユミの妹、唐橋宙子(ひろこ)がニコ動でこの「アレルヤ」(ピアノ伴奏)を唱っている。やはり姉妹、よく似ている。

 

山口百恵「さよならの向こう側」

2014-12-03 23:11:53 | 音楽

最近ラジオを聴いていたら、徳永英明が新しいアルバム「ヴォーカリスト6」でこの曲「さよならの向こう側」を唱っていた。徳永のカバーもなかなか味わいがあるが、山口百恵の原曲が自分には自然に入ってくる。山口百恵にとっての事実上最後の曲で、彼女が引退公演でこの曲を唱い終えて、静かにマイクを舞台前方に置いて会場を去っていく姿は印象的であった。

21歳で芸能界を引退して、再びこの世界に戻ることはなかった。この「さよならの向こう側は応援してくれたファンばかりではなく、彼女にとっての華麗な世界を支えてくれた芸能界全体への決別の歌であった。それも最大限の感謝を込めて…。

ここで歌手山口百恵は、寿命を終えたのだ。普通の歌手のように、懐メロ歌手として衰えた容姿や歌唱力をさらけ出すことはなく。山口百恵と時代を共にした人間は、彼女は引退した21歳の乙女のイメージが残っている。

歌手が生涯ヒット歌手として時代を謳歌できることはまずない。あのサザンやユーミンも今やかつての勢いがない。唯一の例外は中島みゆきだろうか。山口百恵はそんな歌手の宿命を意識していたのか、芸能界に全く未練を見せず、一介の平凡な主婦として別の人格として生きている。しかし、歌手山口百恵の残景は消えるどころかより鮮やかさを増していく。

かつて小泉今日子がラジオ番組で「結婚で芸能界を引退するなんでダサイ」と語っていたが、果たしてどうか。多くが昔の遺産に頼ったまであったり、俳優に転向したりする。酷い?のはバラエティ番組で意外なキャラで売り出したりする。結局、歌手としての華やかさはしおれていき、余分な装飾で被われていく。

その点山口百恵は、芸能界でも装飾が捨象され、純粋に歌手としての人格だけが残る。そして、彼女は今流行の「レジェンド」となっていき、永遠の息吹を得ることになる。

これは先日他界した高倉健に通ずるところがある。私生活を一切排除して、純粋に俳優としての人格だけになる。高倉健の人生の終わりも、まるでマイクを置くように静かで自然なものだった。ただ、孤高といわれた俳優生活ではあったが、ファンや周りの多くの人々に愛されたし、彼自身彼らへの感謝を忘れなかった。

♪後姿 見ないでください

Thank you for  your  kindness

Thank you  for  your  tenderness

Thank you  for  your  smile

Thank you  for  your  love

さよならのかわりに



元気の出る交響曲

2014-11-22 18:53:11 | 音楽

今週から午前中清掃のアルバイトをしている。本業の広告業がイマイチぱっとしない状況なので致し方ない。朝4時間だけの仕事だが、起きるのは6時なのでこれまでルーズな生活を続けてきた自分にとって難儀この上ない。しかし、途中電車をはさんで30分は歩くので、ここは健康促進ためにと割り切ったいくしかない。

ただ、先週までとは生活スタイルが大幅に変わったのでなかなかリズムに乗れない。これまで日常的に書いてきたブログも滞りがちだ。今後若干ブログのペースが緩くなるかもしれない。(あるいは従来と変わらないかもしれない?)

それはともかくこの一週間慣れない仕事をした関係で終わったらどっと疲れが出てきた。おまけに、またまテレビを見ていたら、地元サッカーチームで贔屓の浦和レッズが今シーズンのリーグ優勝がかかっていた試合で完敗して、一層疲労が増してしまった。冴えない週末になりそうな嫌な予感がする。音楽でも元気になる曲をないものか。

モーツアルト作曲、交響曲35番K.386「ハフナー」。この曲は最後の4楽章まで、明るく快活でリズミカルだ。そして両端の1楽章と4楽章(動画19分50杪辺り)は、圧倒的な力強い曲調で高揚感に溢れている。行進曲風の乗りのよいリズムで思わず小躍りしたくなる。

モーツアルトの交響曲は41番まであるが、出生地のザルツブルグからウィーンに移って独立した音楽活動を始めて最初に作曲されたのがこの35番だ。この35番以降が彼にとっての主要な交響曲といってよい。モーツアルトの交響曲はほとんど長調で明るい曲が多いが、この35番はその最たるもので独立した音楽家として人気を博している幸せな時代の雰囲気を反映している。

ただ、この曲は元気過ぎるというわけでもない。中間楽章は優雅でゆっくりした部分もあり、交響曲としても深みが伴っており、充実した作品になっている。だから、全体では25分前後の演奏時間になってしまうが、週末なら少し気持ちに余裕を持って聞き流すのも楽しい。といってもモーツアルト以降の作曲家の交響曲はその倍の長さであり、1時間に及ぶものも少なくない。こんな長時間の交響曲では聴く前にある程度の気構えが必要だ。しかし、その点モーツアルトの場合は気軽な気分でイージーリスニングを聴くような心持ちですうっと入っていけるのが魅力だ。ただ交響曲としての芸術性はやはり天才作曲家の名に恥じない作品であり、繰り返し聴くほどその味わいは濃く深くなっていく。


埴生の宿

2014-10-21 20:56:22 | 音楽

先週NHKの朝ドラ「マッサン」を見ていたら、バックに「埴生の宿」が流れてきた。原語の英語で女性のソプラノ歌手が唱っていたが、とても清らかで美しく聴き惚れてしまった。このドラマからすると原曲はスコットランド民謡かとも思ったが、調べてみるとイングランド民謡であった。

「埴生の宿」は、自分自身には学校で唱われる有名な唱歌の一つという印象しかなかったが、改めて聴いてみると曲の魅力を思い知った。英語ではHome!  Sweet Homeで素敵な我が家という意味になるが、日本語では「埴生の宿」といかにも古い文語調になる。これも訳詞され出版されたのが1889年というから仕方がないのかもしれない。

そのため歌詞は原詩をある程度反映しているが、最初は堅苦しく感じて取っ付きにくいかもしれない。しかし、幾度となく聴き返すと、とても簡潔で分りやすい。それというのも情景が鮮やかに描かれているからだ。

1 埴生(はにふ/はにゅう)の宿も我が宿玉の装ひ羨(うらや)まじ
  長閑也(のどかなり)や春の空花はあるじ鳥は友
  おゝ我が宿よたのしともたのもしや
2 書(ふみ)読む窓も我が窓瑠璃(るり)の床も羨まじ
  清らなりや秋の夜半(よは/よわ)月はあるじむしは友
  おゝ我が窓よたのしともたのもしや

例えば1番の最初に「埴生の宿」(土にむしろを敷くようなみすぼらしい家)というタイトルの言葉がでてくる。こんな家でも「玉の装い」(宝石をちりばめたような立派な家)を羨ましく思うこともなく楽しいと唱う。春には家の周りに花が自分の主人のように咲き誇り、鳥が友のように楽しくさえずってくれるから。「埴生の宿、春の空、花、鳥」と春を彩るものが次々描かれ、その様子が「長閑也」という感嘆の言葉になる。

2番はそっくり1番の対句になっていてそのコンストラストが見事だ。すなわち、「書を読む窓、秋の夜半、月、虫」から「清ろなり」となる。そして1番2番とも最後は「たのしともたのもしや」(楽しく心なごむことよ)と我が家への讃歌となる。

ウィキペディアによれば、戦前から国民生活になじんでいたため、戦時中も埴生の宿のレコードは「敵性レコード」として破棄されることもなく、今日でも日本の歌百選の一つになっているという。ネットでこの曲の動画を探すとすぐに日本語「埴生の宿」の独唱とイギリスのグロスター大聖堂での合唱気に入ったものが見つかった。いずれも清らかで美しい、しかもそこはかとなく優しく暖かい。