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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

熊牧場の悲劇

2012-04-22 11:10:49 | 事件・事故・時事

秋田県の熊牧場で熊に女性従業員2人が襲われ死亡した事件。報道によると、牧場の管理に問題があったようだ。ただこの事件に接して、最初驚いたのは被害にあった女性2人の年齢だ。舘花タケさん75歳、舘花タチさん69歳。名前から見ると、姉妹のような感じもするが、報道からは確認できない。タケさんの方は、20年以上牧場で働いていたようだ。普通の大都市ならば、この年齢になるととっくに退職して年金生活で老後を送っているはずだ。しかし退職もせず20年も現役で働いている現実がある。どうしても地方の過疎化とそれに伴う地域住民の高齢化を感じざるを得ない。熊に襲われたら、若い男性でも防御は覚束ないのに、こんな老齢の女性ではひとかたまりもない。管理も問題だろうが、こうした危険極まりない牧場にか弱いおばあさんを雇用する現状に目を向けるべきではないか。おそらく想像するに高給で雇われている職場環境にはみえない。

この牧場の経営者も68歳である。4年前から引き継いだというが、その経緯はわからない。管理責任が問われているが、はたしてこの経営者はそれほどに責められるべきものなのだろうか。

東北の奥深い過疎地で起きた悲惨な事件、死亡した女性たちは普通なら、可愛い孫相手に相好崩す毎日のはずだ。それを凶暴な熊の犠牲になった哀れさには言葉がない。



バブル退治中心人物の死

2012-04-19 13:39:22 | 事件・事故・時事

元日銀総裁、三重野康氏といえば、不動産関連の仕事に携わっていた者には、特別な存在であり、その訃報は感慨深いものがある。1989年の日銀総裁就任時はまさにバブルの真最中であった。世にいうバブル経済は1987年から1991のおよそ五年間であったが、就任当時は不動産業者や証券業者を中心に、バブルにまさに酔いしれいていたといってよい。

自分は不動産業者(それも中小、零細業者)相手の広告営業をしていたが、多くの顧客の事務所には当時必ずといってよいほど銀行員が訪問していた。そして土地の購入資金に、銀行の方から融資を無条件といってよいくらいに勧めていた。不動産業の社長はむしろ有難迷惑の様子だった。しかしまもなくバブルが弾け、あっという間に融資が焦げ付き、業者は倒産の憂き目にあった。自分の広告会社も多少はあおりを食ったが、下請けの建築業者などは千万円単位の被害がザラであった。しかし社長は突然の失踪で行方不明になり泣き寝入りのことが少なくない。奥さんだと思っていた事務の女性は、社長の2号さんだったことも後で分かったりした。

これら不動産業者の「怨嗟」の対象であったのが、まさに三重野日銀総裁だった。三重野氏は「バブル退治の鬼平」といわれ、金融引き締めを徹底した人物だ。これまでの「お金借り放題」から一変して、資金調達ができなくなった不動産業者は、あっという間に浮かれ気分が萎んでしまった。「あの三重野が」という業者の歯ぎしりが至る所で聞こえた。

それ以降、日本経済を大きく牽引してきた不動産・建設業界は今日まで20年以上に渡って構造不況から抜け出せない。自分もバブルの当時、日本経済はこのまま成長し続けるものと信じていた。GNP2位の日本はいずれアメリカを抜いて世界一豊かな国になるとも。しかしそれは幻想に終り、中国にも抜かれてしまった。

バブルに浮かれた不動産業者は、多くが倒産の憂き目に遭い中には失踪したまま未だ行方の分からない人も少なくない。自殺に追い込まれた人もいる。そんな彼らは、この「バブル退治の鬼平」の死に接してどんな感慨をもつことだろう。

追記:民主党の幹部が、今原発を再稼働しないとある意味「集団自殺」になるといっていた。長年の経済不況に追い打ちをかけて、葬送の道を進んでいくのだろうか。「身の丈にふさわしい日本」などと訳知りの諦観など却って有害だろう。


不可解な「感動挙式」事件

2012-04-12 12:39:59 | 事件・事故・時事

本日の産経ウェブサイトによれば、白血病で余命1年と宣告されながら挙式した米国の花嫁が、虚言で祝儀金を詐欺したとして逮捕起訴されたという。しかしその祝儀金がたったの数千ドル(50万円前後)だ。もしかして数「万」ドルの読み違いかと思ったが、間違いなく数千ドルである。

しかも夫が1年経っても妻が全然病状が悪くならないのを不審に思って、地元紙に「事件」を告発したのも、考えてみれば大袈裟な気もする。妻から「実はあれはあなたと結婚するためにに嘘をついた」とはいわなかったのか。妻は起訴事実を否認しているようだが、でも夫は妻の「可愛い嘘」と見逃してもいいような気がする。夫も好きで結婚したのだから、妻と「長く寄り添える」のは悪くないと思うが。

結婚式に参加した人たちは、「騙された」と文句を言う人がいるかもしれない。そういう人には応分の「謝罪金」を出せばいい。しかし中には「可愛い嘘」に免じて「大目」に見てあげる人もいるはずだ。

それが「詐欺罪」や「窃盗罪」として成立してニュースになってしまうのが、いかにもアメリカ的といえる。それにひきかえ、日本の大物女性演歌歌手の騒動は非常に根が深いといえる。それこそ「数万ドル」はおろか、数千万円、数億円の損害賠償になりかねない。殺伐とした人間関係に「可愛い嘘」は見当たらない。思いで酒が「恨歌」にならないでほしいものだ。


出所祝い日の犯行

2012-03-27 09:53:27 | 事件・事故・時事

ネットを見ていたら、地方のあるニュースが目に入った。

『出所祝いで口論、母を殴り父を刺す』

福岡県警朝倉署は26日、同県朝倉市一木、無職早野真吾容疑者(28)を殺人未遂容疑で逮捕した。

 発表によると、早野容疑者は25日午後11時頃、自宅の居間で父親(58)の背中や腹を包丁(刃渡り15センチ)で刺した疑い。父親は重傷を負ったが、命に別条はないという。

 早野容疑者は昨年9月に刑務所を仮出所、3月23日に満期を迎え、25日は両親と居酒屋で出所祝いをしていた。しかし、母親から「この前科者が」などと言われ口論となり、母親を殴った。自宅に帰った後、父親とも口論となり、刺したという。早野容疑者は酒を飲んでおり「覚えていない」と供述しているという。(2012年3月26日  読売新聞)

これを読んで感じたのは、「救いようがない」事件だということだった。よりによって、酒の勢いとはいっても、出所祝いに母親を殴り、父親も刺すとは。しかしこのおふくろさんにしても、息子を「前科者」呼ばわりするとは、「火に油」そのものだ。母を殴るほど憤懣やるかたなく帰宅した息子を、これまた父親は咎めたのだろう。その咎め方も凶器沙汰に及ぶくらいだから、尋常ではなかったと思われる。自分はニュースでこの家族を知るだけで、なんら詳しいことはわからないが、「殺伐した家庭」という印象しか残らない。気性の荒さは父、母、息子と皆同類だ。普通親父が気が荒いと、おふくろさんはなだめ役に回るのだがそれもない。

ところで事件のあった福岡県といえば、「無法松の一生」の映画の本場だ。舞台は北九州小倉で、事件があった朝倉市は内陸になるが、「気性の荒さ」は県民性といえるのかも知れない。まあ一概に単純にくくるのは問題だろうが。

この物語は後に古賀政男作曲の演歌となり、村田英男が歌って大ヒットした。曲の一番はよく知られている。

小倉生まれで 玄海育ち

口も荒いが 気も荒い

無法一代 涙を捨てて

度胸千両で 生きる身の

男一代 無法松

しかし「気の荒さ」は今回の息子と同じでも、無法松の「一生」は真逆であった。突然に失った友人の遺族である未亡人とその息子に献身的に尽くす。どこまでも人情に厚い人物である。

一方「酒で覚えていない」と出所直後、凶行沙汰におよぶ息子とその両親。「玄海育ち」の明暗を分ける一線はどこにあるのだろうか。無法松が草葉の陰で泣いていることだろう。


ごちそうさま

2012-02-24 08:20:36 | 事件・事故・時事

時々外食することもあるが、そこで一つだけこだわっていることがある。必ず食後店の人に意識して「ごちそうさま」を声に出して言うことだ。当たり前だというかもしれないが、たとえばチェーンの牛丼店、ラーメン店などで、むしろそれを口に出す人が少ないくらいだ。

店の従業員が帰る客に対して、「ありがとうございました」と元気よく声をあげているのに、なんとなくちぐはぐな感じがする。思うに、「ごちそうさま」と声に出すことは、お客の最低限のエチケットだと考える。お店の方はアルバイトにしても、お客においしいと喜んでもらうことを何より望んでいるはずだ。お客がそれに応えることで心の対話が成立する。社会生活の基本ともいえる。

人間は一人で生きていけない。社会との結びつきのなかで生きている。それも支え合っている。「ごちそうさま」という言葉の中に、実はそんな社会への感謝が込められているはずだ。おいしい食事をつくってくれたお店への感謝、食材を効率よく調達する流通業者への感謝、そしてもちろんそれを生産する人への感謝、さらにはこれらを提供する自然への感謝へと奥は深い。「ごちそうさま」はそんな社会の感謝への「魔法の言葉」といえる。昨年CMで流行ったフレーズだが、「ごちそうさま」こそ、それに一番ふさわしいのではないか。

最近首都圏で人知れず餓死をしたまま、時間がたって発覚するニュースが続いた。共同住宅で壁を隔てて生活しているのに、全く交流がなく孤立する現在社会の暗い一面だ。長引く不況が深刻化して、困窮する人が増えその度合いも酷くなってきている。その究極が餓死だ。

ただ餓死までいってしまう人は、何故その窮状を人に訴えることが出来なかったのだろうかと、ニュースで見るにつけ悔やまれる。餓死まで進む彼らはいつの間にか「ごちそうさま」の言葉を失ってしまったのではないか。社会との接触をいつの間にか拒否をしてしまっている。それも自ら進んで。いくら現代社会がぎすぎすしているとはいえ、決して冷たい社会ではないと思うのだが。「ごちそうさま」の言葉を改めて噛みしめたい。