今朝ラジオを聞いていたら、九州大学大学院の施光恒准教授(政治学者)が松坂大輔選手のことを話題に(動画の15分辺り)していた。来季から松坂投手は米国のメジャから日本野球界に復帰してソフトバンクでプレイすることになった。ただし、妻と3人の子どもは現在居住しているボストンに留まるという。
つまり、松坂投手は日本の福岡に「単身赴任」するということだ。これは妻の倫世夫人(元日本テレビアナウンサー)の強い意向が働いているようだ。施准教授の話だと「子どもを国際舞台で活躍できるグルーバル人材に育てたい。そのためアメリカのボストンでそういった人材になるための教育をさせたい。」ということらしい。
施准教授は「松坂投手が可哀想な気がする、子どもは感覚的に外国人ぽくなっていて家族の親密感が失われてしまうのではないか」と松坂投手には同情的だ。
施准教授はこうした英語圏で子どもを教育させる動きはますます増えてくると予想するがあまりこの傾向は望ましいことではないと否定的だ。
日本以上に輸出依存でグローバル化が進んでいる韓国では、こうしたバラバラな家族が増えて、数年前から社会問題になっているという。すなわち単身韓国に残る父親は「キロギアッパ」(雁みたいなお父さん)と呼ばれ子どもが英語圏に留学するだけでなく一緒に母親も一緒に付いていくという家族だ。
施准教授は日本でも家族がバラバラになっていくと同時に、教育熱心で裕福な家庭ほど子どもを英語圏に育てる傾向になってこれまで以上に格差社会が広がることを懸念している。そうした側面は確かにあるが、自分にはそもそもこんな「国際人」が本当に日本で求められているのかと疑問に思う。
敢えていえば、無国籍の根無し草のような存在ではないか。実際はアメリカに子どもが住み続ければ、彼らはアメリカ人の思考や生活様式を身につけてアメリカ人になり切っていくということでしかない。英国、オーストラリアでも同国人になるだけだ。
しかし、彼らに本当の「母国」はあるのだろうか。祖先から引き継がれた自国の誇り、すなわちアイデンティティである。そんな大袈裟にいわなくても日本なら故国の美しい風景、そこから生まれたおとぎ話や唱歌、あるいは子どものアニメ、どらえもんやサザエさんの話、そんな幼児に頃に親しんだ日常的だが、日本人の原風景を持たなければ、もはや「国際人」というのはあまりにも荒涼とした存在でしかない。
現地のアメリカ人は、東洋人の顔だが、心は既にアメリカ人になっている人間には表向きは取っ付きやすくフレンドリーには接してくれると思う。しかし、より親密になっていけば、その「無国籍」ぶりにはしらけてくるのではないか。故国に誇りを持ち、自国の文化に深い共感を持っている人間こそ、尊敬の対象になりうると思う。最終的には自国の文化に誇りを持てる人間こそ、他国の文化も尊敬できる。そうして初めて国際間の本当の理解が生まれるのではないか。
だから、こんな「国際人」を育てることは人間としても誇りを放棄することに繋がるとさえ思う。英語が話せて会話がスムーズにいってもそれはあくまでも単なる機械的な繋がりでしかない。英語が上手に話せることは必要なことではるが、それと結局手段でしかない。松坂一家がこんな「国際人」の子どもを目指しているとは思いたくない。夫人なりの別の意図があると信じたいが。