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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

松坂大輔家と国際人

2014-12-16 18:09:37 | 一般

今朝ラジオを聞いていたら、九州大学大学院施光恒准教授(政治学者)が松坂大輔選手のことを話題に(動画の15分辺り)していた。来季から松坂投手は米国のメジャから日本野球界に復帰してソフトバンクでプレイすることになった。ただし、妻と3人の子どもは現在居住しているボストンに留まるという。

つまり、松坂投手は日本の福岡に「単身赴任」するということだ。これは妻の倫世夫人(元日本テレビアナウンサー)の強い意向が働いているようだ。施准教授の話だと「子どもを国際舞台で活躍できるグルーバル人材に育てたい。そのためアメリカのボストンでそういった人材になるための教育をさせたい。」ということらしい。

施准教授は「松坂投手が可哀想な気がする、子どもは感覚的に外国人ぽくなっていて家族の親密感が失われてしまうのではないか」と松坂投手には同情的だ。

施准教授はこうした英語圏で子どもを教育させる動きはますます増えてくると予想するがあまりこの傾向は望ましいことではないと否定的だ。

日本以上に輸出依存でグローバル化が進んでいる韓国では、こうしたバラバラな家族が増えて、数年前から社会問題になっているという。すなわち単身韓国に残る父親は「キロギアッパ」(雁みたいなお父さん)と呼ばれ子どもが英語圏に留学するだけでなく一緒に母親も一緒に付いていくという家族だ。

施准教授は日本でも家族がバラバラになっていくと同時に、教育熱心で裕福な家庭ほど子どもを英語圏に育てる傾向になってこれまで以上に格差社会が広がることを懸念している。そうした側面は確かにあるが、自分にはそもそもこんな「国際人」が本当に日本で求められているのかと疑問に思う。

敢えていえば、無国籍の根無し草のような存在ではないか。実際はアメリカに子どもが住み続ければ、彼らはアメリカ人の思考や生活様式を身につけてアメリカ人になり切っていくということでしかない。英国、オーストラリアでも同国人になるだけだ。

しかし、彼らに本当の「母国」はあるのだろうか。祖先から引き継がれた自国の誇り、すなわちアイデンティティである。そんな大袈裟にいわなくても日本なら故国の美しい風景、そこから生まれたおとぎ話や唱歌、あるいは子どものアニメ、どらえもんやサザエさんの話、そんな幼児に頃に親しんだ日常的だが、日本人の原風景を持たなければ、もはや「国際人」というのはあまりにも荒涼とした存在でしかない。

現地のアメリカ人は、東洋人の顔だが、心は既にアメリカ人になっている人間には表向きは取っ付きやすくフレンドリーには接してくれると思う。しかし、より親密になっていけば、その「無国籍」ぶりにはしらけてくるのではないか。故国に誇りを持ち、自国の文化に深い共感を持っている人間こそ、尊敬の対象になりうると思う。最終的には自国の文化に誇りを持てる人間こそ、他国の文化も尊敬できる。そうして初めて国際間の本当の理解が生まれるのではないか。

だから、こんな「国際人」を育てることは人間としても誇りを放棄することに繋がるとさえ思う。英語が話せて会話がスムーズにいってもそれはあくまでも単なる機械的な繋がりでしかない。英語が上手に話せることは必要なことではるが、それと結局手段でしかない。松坂一家がこんな「国際人」の子どもを目指しているとは思いたくない。夫人なりの別の意図があると信じたいが。


高倉健という生き方

2014-11-24 13:36:58 | 一般

久しぶりに高倉健の映画を昨夜テレビの追悼番組で見た。最後の主演作「あなたへ」、映画の最初から最後までまさに高倉健の映画といってよかった。語り口、沈黙の表情から何気ない仕草まで高倉健そのものであり、どのカットも絵になる。それこそどの顔もブロマイドになる。まさに究極の映画スターであることを実感した。そんな俳優は自分の知る限りでは他にオードリー・ヘプバーンぐらいだ。

他の共演者は高倉健という太陽の光を受けて輝く惑星のように見えた。ビートたけし、佐藤浩市、綾瀬はるか…それぞれの演技は冴えていたが、高倉健がいればこその輝きである。おそらく、高倉健以外の俳優が主演であったら、彼らはこれほどの演技ができたのだろうかと思う。

孤高、ストイック、真面目、不器用、寡黙、高倉健には堅いイメージが強いが、反面人には気を使い暖かい人物といわれている。まさに日本男児の理想ともいえる。三田佳子が彼を富士山のような存在と語っていたが確かにこれに尽きるだろう。

高倉健について書こうとしたが、どうもこんな凡庸な内容になってしまったのでこれくらいにしておく。ただ男の理想の生き方として高倉健は自分自身の脳裏からは死ぬまで離れることはないだろう。厳しいが内に秘めた優しとともに。


姑には秋茄子カレーを

2014-10-24 18:22:00 | 一般

本日の読売新聞ニュース、少しシリアスな話だが、不謹慎ながらちょっと笑った。

「作ったカレー捨てられ義母を鍋で殴った疑い」

警視庁小金井署は23日、国分寺市北町の主婦の女(33)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。

発表によると、女は同日午前8時20分頃、自宅で、夕食用に作っていたカレーを義母(73)に捨てられたことに腹を立て、「死んでしまえ」と叫びながら義母の首を両手で絞めたり、カレーを作った鍋で複数回頭を殴ったりした疑い。義母が119番し、駆け付けた同署員が女を取り押さえた。義母は頭に全治10日間の軽傷。

すごく分りやすいニュースでその光景が容易に思い浮かぶ。昔から延々と繰り広げれている姑嫁戦争の一端である。嫁の作ったカレーがまずくて姑が捨てた、これに怒った嫁が姑に殴り掛かった。姑は頭を殴られたり首を絞められたりしたが10日間の軽症だった。嫁は「死んでしまえ」と言いながら、どうもさほど本気ではなかった気もする。だから、わざわざ捨てる姑の方に少し意地悪な感じがして多少は嫁に同情したくもなる。

嫁が33歳、姑が73歳となんと40歳の年の差がある。スマホでママ友とラインで交信する嫁と近所のおばあさんたちと立ち話をする姑との底知れぬ世代ギャップを感じる。二人の冷めて乾き切った人間関係を想像してしまうがこれは酷だろうか。ともかく、たかがカレーされど大事なカレーを巡る悲喜劇というべきだろうが、端から見ると失礼ながら苦笑を禁じ得ない。

ことわざに「秋茄子は嫁に食わすな」というのがある。普通は「憎らしい嫁にはおいしい秋茄子を食べさせるのはもったいない」という意味だ。しかし、他に「秋茄子は体を冷やすから、大事な嫁に食べさせるな」とか「茄子は種が少ないので子種ができなくなるから食べさせるな」といった全く対照的な意味になる。

自分には最初の意味の方が姑嫁戦争のリアリティーが感じられてこちらを採りたい。嫁をいたわるというのは少しわざとらしく取ってつけたような感じがする。これも自分の無責任な解釈だが。

今度は嫁がカレーを作るときはおいしい秋茄子をたっぷり具に使ってはどうか。「私は遠慮してカレーだけ食べます。お義母さんはご存分に!」なんてね。「できた嫁」だと思い直す?そんことないか!デザートには年寄りが好きな甘いおまんじゅうがよい。でも葬式まんじゅうは禁物だ。


日本が取れて中国・韓国がノーベル賞を取れない理由

2014-10-20 11:01:05 | 一般

ノーベル賞の科学部門では今年は3人の日本人が物理学賞を受賞したが、何かと日本人を貶めることの好きな隣国の中国と韓国は相変わらず賞には無縁だ。この違いはどこにあるのか。数学者の藤原正彦氏が週刊新潮今週号でその理由を解き明かしている。(以下記事引用)

 

<中国籍、韓国籍を持つ自然科学分野でノーベル賞受賞者はいない。ばぜ日本ばかりがノーベル賞を取るのか。>

ノーベル賞の受賞者が輩出する国には2つの条件があります。

第一に、幼少期から成長していく過程で、身近に美しいものがなければなりません。豊かな自然や優れた芸術、文学に触れて美的感受性を養うことが必要です。数学や物理学などサイエンスにとって、美的感受性は知能指数や偏差値よりも大事なのです。

日本は緑の山々、繊細な四季の移り変わりがあります。それ自体が世界的にも大変珍しい。加えて素晴らしい文学、絵画、彫刻も多数存在し、美に触れる機会に恵まれています。

第二に、精神性を尊ぶ風土も不可欠です。要するに金儲けや実用性だけを追求せず、役に立たないと思われても精神性の高いものには敬意を払う土壌が肝要といえます。「万葉集」にしても、日本では1400年も前から一般庶民が腹のたしにもならない歌を詠んでいる、そこに価値を見出すことが何より大切なのです。

多くの科学分野では、100年後に芽が出るか、100年後に実用化するか分らないlことも研究しています。それを単なる無駄と考えてしまったら人類の進歩がないですよね。

中学や韓国にも有能な人材はたくさんいますが、残念ながら彼らの多くは金融関係や弁護士、医者といった「金になる」仕事に就いたり、海外へと流出していく。利益だけを優先すると「無駄」な科学に人材が向わなくなるわけです。

<また、日本人受賞者には「国産」が多い。>

日本は「外国留学しなくてもノーベル賞が取れる」という珍しい国です。こんな国は世界でも米英独仏露び6カ国ぐらいではないでしょうか。

2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんは、初めての海外旅行がストックホルムでの授賞式でした。少なくとも理工系では、小学校から博士号取得まで日本で研鑽を積んでもノーベル賞をと取れてします。実際、19人の自然科学での受賞者のほとんどはそういう人です。日本にはそれほど優れた教員、研究施設、資料中専門書が揃っているのです。

日本が世界一の「翻訳大国」であるという事実もそれを支えています。明治時代以来、日本人は文学から科学まで、海外の最先端の専門書を次々と翻訳してきました。そこで重要なびが「カタカナ」ノ存在。文献を翻訳する際、日本人は漢字に変えるべき言葉と、カタカナに置き換えるべき言葉を分別して、易々と訳書をつくってしまう。大学院などで、どの分野でも最先端のテーマを日本語で講義できるのです。そうした礎の上にノーベル賞はあります。

<だが、日本が今後もノーベル賞を受賞し続けられるかは未知数だ。藤原教授も懸念を示す。>

そもそも、日本の高等教育予算のGNP比はOECD加盟国の中でダントツに低い。その上、日本の科学研究の8割以上を担ってきた国立大学は、国立大学法人に移行しyrから毎年、予算を削減されています。大学の教員ポストと研究費が削減され、地方大学などは息も絶え絶えです。血の滲むような努力の末に博士号を取得した優秀な学生の就職口もなくなります。これが続けば、科学を志す少年少女がいなくなってしまいます。

日本が今後ものノーベル賞を取りたいと考えるなら、費用対効果などという下衆な発想は捨てるべきです。

途方もない無駄遣いを許す風土が金の卵を生み、それこそが、「国家の品格」でもある。誰も有望と思われない研究に惜しげもなく資金を出す姿勢が大切です。山中伸弥教授の「iPS細胞」のような世紀の大発見が、そこから生まれます。(引用終了)

 

豊かな自然に育まれた美的感性とすぐに実利的な成果を求めない鷹揚な精神的風土が日本人の科学を探求する動機を高めたといえるのだ。科学の法則とか原理や数学の公式というものは破綻があってはならず、確かにその姿は美しくなければならないというのは真実であろう。また弱肉強食のぎすぎすした競争社会では余裕のある精神世界は生まれない。

古来から日本人は自然と神話に根ざしたの悠久の宇宙観によって伝統的な美を育んできた。そして江戸時代に泰平社会が長く続き、日本伝統文化は爛熟期を迎えた。美の感性でいえば、たとえば、季語の入った俳諧はすでに句会という形で庶民レベルで広がり、浮世絵の描かれた包み紙が日常的に使われたのは驚きだ。さらに関孝和の高等数学はすでに世界的レベルであったし、当時の蘭学の発達が明治以降の科学の進展を用意したといえる。

そして明治になってから欧米文化を貪欲に吸収したが、学術の分野で自前の育成に努めてきた。藤原氏が指摘するように日本語による翻訳処理は抜群でまるで自家籠中といってよく、学術の発展に大いに寄与したことはまちがいない。

それに引き換え周辺諸国の状況はどうであろうか。

確かに現在日本以上の経済発展を遂げているが、その実態はお寒い限りだ。中国ではそれこそ金権天国といってよい。習近平が虎も蠅も叩くと宣言しているように行政のトップから末端の小役人にいたるまで汚職体質がはびこり、民間レベルでも社会的地位を悪用した不正が横行している。一方韓国ではセウォル号事故に代表されるように経済利益優先で人命軽視ともいえる事故が相次いでいる。共に目先の利益が優先され、長期的に見据えた視点に欠いているように思える。

またその独創性にも疑問符が付く。今や世界の電機メーカーとなった韓国のサムソンは液晶カラーテレビそして最近のスマホでも世界を制覇したが、新興国との価格競争の波に晒され早くもその輝きを失いつつある。技術の独創性に欠け、日本や欧米の二番煎じの印象は拭えない。とても発光ダイオードのような創造的商品を生む素地にはほど遠い気がする。中国に至ってはコピーの横行が常態化しておりその精神的風土は貧弱に見える。

しかし、最後に藤原氏が警告しているように、今後も日本が国家的に十分学術分野を下支えし保護育成できるかどうかが問題だ。現実的な緊縮財政の犠牲になっては元も子もない。たとえば過去民主党政権が行なったような事業仕分けで安易な対象にされては自殺行為ともいえる。いつまでも「途方もない無駄遣い」を許す風土を育んで欲しいと願わずにはいられない。


一発屋芸人という存在

2014-10-03 21:39:01 | 一般

先日9月27日のブログでプロ野球選手の一発屋について書いたが、やはり芸能界は一発屋ではその宝庫といえるだろう。特にここ11年ほどはそんな芸人たちが華々しく登場した時代である。彼らは必ず世間の話題を席巻する一発ギャグを放ち、もれなく「流行語大賞」に選出される栄誉をうける。

ただ、彼らはほほ例外なくその1年かせいぜい翌年ぐらいでその輝きを失い、忽然とし芸能界の華やかな舞台から消えていく。2012年から2003年まで遡ると、途中2度空白の年があったが、懐かしい流行語のギャグと芸人が次々とでてくる。

2012年ワイルドだろ(スギちゃん)

2011年ラブ注入(楽しんご)

2010年ととのいました((Wコロン)

2009年(該当者なし)

2008年グ~!(エド・はるみ)

2007年そんなの関係ねぇ(小島よしお)

2006年(該当者なし)

2005年フォーー!(レイザー・ザーラモンHG)

2004年残念!(波田陽区)

2003年なんでだろう~(テツandトモ)

文字通り「残念」ながら、これらの芸人が現在芸能界で話題になることは皆無といってよい。スギちゃんなんて登場したのが2年前だが、今やもうとっくの過去の人のように思われてくる。ワイルドどころかもうマイルドになってしまった?

そんな中、最近ある元一発屋芸人が芸事以外のことで話題になっている。エド・はるみ 誹謗中傷行為に法的措置へ」とある。

 お笑い芸人のエド・はるみが、2009年以降にインターネット上で波及している一連の誹謗(ひぼう)中傷行為に対して、今後は法的手続きをとることが2日、明らかになった。…

エド・はるみ…2008年の流行ギャグ「ぐ~」は衝撃的であった。一見OL風のこぎれいなおねえさんがオーバーアクションでこの言葉を放つ。最初の見た印象とハチャメチャさとのギャップがおもしろい。歴代の一発屋芸人では質的に群を抜いていたように思う。しかし、それが衝撃的であったから、逆に更なる芸の展開が難しい。

プライベートでは程なく結婚をしたことは風の噂で聞いた。しかし、その後彼女の動静はあまり伝わらず、それこそ「寿退社」のように考えていた。そして、今回の提訴、彼女はどんな誹謗中傷をネットで受けていたのだろうか。あの華麗な芸と真逆な話だ。

よく、そんなスキャンダルもネタに変えて芸を伸ばせといわれるが、現実は厳しい。ともかく、早く彼女にはこの問題をクリアーして、かつての華やかな芸を取り戻して欲しいと思う。

ただ、昨年あたりからそんな芸人の一発ギャグが話題になることはほとんどない。テレビのバラエティ番組も不振も大きく影響しているのだろうか。といって、外の演芸場が盛況という話も聞かない。いまや下積み芸人はおろか一発屋芸人も受難の時代というべきなのか。ある意味今は新時代のお笑い芸が生まれでるカオスの時期なのかもしれない。