7月2日で福島民友によって、今も東京都内で続けられいる官邸前反原発デモを取り上げられた内容が波紋を呼んでいる。記事タイトルが「反原発デモに違和感『福島差別』助長した側面」とある通り、デモを批判的に書いている。(「濱佑旅館・家主の日記帳」という方のブログに当時の記事が書き起されていて、その感想が述べられている。)
一時期は主催者発表で20万人を超えた動員数を誇っていたが、現在は2千人程度だ。最盛期ほどではないが、デモで掲げるラルプラカードには、現在でも「食べて応援なんて絶対だめ」といったような明らかに福島に対する風評被害を助長させるものがある。
これについて、デモ代表者の一人であるミサオ・レッドウルフが「原発事故に県境はないが、自分も事故の当事者という意識が希薄な人がいる」と答え、「デモをやめれば、反原発の思いが消えたと解釈される。続けるのが重要」とも考えている。
しかし、福島ではこうした反原発運動を「冷ややかに見る向きが多い」として、福島県民二人のコメントを載せている。まず田村市の農業坪井和博氏(66)。
「声を上げるのは大事だが、どうしたら原発をなくせるか、政治や世論をどう動かすか考えるべき。自己満足に終わってるんじゃないか」
続いて福島大特任研究員の開沼博氏(30)。
「福島のためと言いながら、一方で『あんなところ住めない』とか『障害児が生まれまくっている』とか平然と言う人が、(運動の)内部にいることが、嫌悪感すら呼び起こしている面がある」「反原発の活動、言動が福島差別を助長してきた面はある。社会運動として非常にまずいことをした」
この開沼氏のコメントでこの記事は文字通り締めくくられている通り、記事全体が反原発デモ批判で貫かれており、日頃こうしたデモを否定する、というより反原発運動そのものに不信感をもっている自分自身にとっては、よくぞ自分の思いを代弁したくれたと溜飲を下げた気持ちになる。
しかし、当然ながらこの記事で批判の槍玉に上がった相手方はこれを看過できない。早速デモの主催者「首都圏反原発連合」の代表が新聞社に電話で抗議をしたが、話し合いは物別れに終わった。結局抗議文を提出しネットでも公開していて新聞社の返答待ちだ。
抗議文は二つの観点から構成されている。つまり1公正性と情報の精密さの欠如(偏向報道である)2取材の信頼性の欠如、ということだ。1は記事の内容が不正確で根拠も十分でなく、また一方的に偏った立場(すなわちこの団体に批判的)で書かれているということだ。
その具体的な詳細は、結局のところ団体側の独自の見解であって決して記事を論破するものではない。例えば抗議文では、記事は県外の参加者があたかも「福島差別」としているように書いているが、「避難」「健康被害」といった声は福島県民からも出ているといった具合だ。しかし仮にそうだとしても、本当に多数の県民を代表しているのか、特殊な市民団体の声ではないかと自分自身反論したくなるが、これは水掛け論になるだろう。開沼氏への反論もこれに類したものだ。
次に2の取材の信頼性の欠如についてだ。まず、ミサオ・レッドウルフのコメントが「本人の本意に反するかたちで言葉だけ切り取り使われている。」としている。
・記事中に「福島に対する発言について『当事者性の薄い人がいる』と認める」とあるが、この言葉は「福島に対する発言について」発したものではなく、運動全般的に「当事者性の濃さの差は大勢の運動参加者の中ではある」と言ったものである。
・記事では「福島差別の発言を容認する」背景に「デモの継続の必要性」があるとしており、これは都合良く発言をつぎはぎしているものであり事実に反する。
こうした見解からして、確かにこの団体の主張に一理ある。記事から推測するとミサオ・レッドウルフは「福島差別の発言を容認」してまでデモを継続させたいとは考えていないように思われる。団体側の「本意に反するかたちで言葉が切り取られた」という言い分もわかないではない。
ただ記者が「一口に反原発と言っても、健康への影響や原発への考えはさまざまで、それを表面化させれば運動は行き詰る」と書いているのがポイントだ。おそらく、これに類したことをレッドウルフが語ったことも事実ではないか。彼女が福島差別と意識はしていなくても外から見ると明らかに差別と思われても仕方がない主張が見られ、それを黙認していることはあり得る。これはこちらの勝手な推測であり、なかなか微妙でその判断は難しいが。
次は両論併記を記者が事前に申し出たことを問題にしている。
小泉記者から「運動に冷ややかな意見の人とデモ側との意見を、お互いに分かりあえるよう両論併記にしたい」と、メールと電話で説明をされた上で取材を受けたにも関わらず、記事では公正な両論併記になっていない。
取材した小泉記者は本当にこんなメールを事前に出していたのだろうか。「お互い分かりあえるように」というのは本心なのか。実際両論併記であっても、そのコメントの順番によって印象は異なる。普通は後に登場する方に記者の意向が反映されることが多い。今回の記事でもデモに批判的な側のコメントが結論のように配置されている。ただし、レッドウルフのコメントも「一応」入っているので両論併記といえなくもない。ただ「お互い分りあえるように」というのは無理がある。こんなフレーズが入っているとしたら、記者もちょっと苦しい気もする。
しかし、記者といえども人間だ。記事には自分なりの主張や意図があって悪くはない。そもそも中立そのものではまるで八方美人でしかなく全然面白くない。その意味では朝日新聞が自分にとっていつも気に食わない記事ばかり書いているのは致し方ないのかもしれない。記事内容に首を傾げたり怒ったりするのは、ある面こちらの関心をそそっているからだ。中立だけでは無味乾燥でしかなく見向きもしない。ブログを書いていたら、予想外のジレンマに陥りそうだからこれくらいにしておこう。