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粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

中韓太郎とパトリガール

2015-02-08 13:56:42 | プロ市民煽動家

中東の日本人人質事件に対する国会のテロ非難決議に永田町の問題児、山本太郎参議院議員が一人棄権して物議を醸した。しかし、イスラム国を攻撃するアメリカを中心とした有志連合に日本が加担していることが理由のようだが、単に安倍政権が嫌いだから反対するというのに過ぎない。非難決議を見ると、社民党や共産党も賛成する穏当な内容なのに、なぜ反対するのかさっぱりわからない。

要するに山本太郎の思想信条は端的にいって反日なのである。安倍政権による積極的平和主義や憲法改正、戦後リジームの脱却といった本来の日本を取り戻す政治姿勢に憎悪を感じている。しかも、中核派の支援を受けていることもあり、彼の言動は極めて過激である。

その一方では近隣の中韓による反日攻勢には無批判というよりまるで歩調を合わせているかのようだ。沖縄の辺野古移設には中国の脅威など全く無頓着だ。山本議員はひたすら日米の離間を工作しているとしかみえない。これでは「中韓太郎」といわれても仕方がない。昔、新聞少年という題名の歌謡曲があった。歌に出てくる新聞少年のあだ名は「朝刊太郎」だ。歌っているのは山田太郎という歌手だったが。

山本太郎議員が反日男子の権化としたら、こちらは愛国女子といえるかもしれない。ネットでとても刺激的な動画を見た。YOKOと称する年の頃30代半ばの女性が今回の人質事件について熱く語っていた。柴咲コウとベッキーを足して割ったような?美人だが、なかなか舌鋒鋭く啖呵を切り毒舌を交えながらもしっかりと論理を進めている。またテーマに関しても知識が豊富でよく勉強している印象があり感心する。

今回の事件でも左翼メディアの安倍批判を一蹴して逆に「人質拘束はサヨクが招いた」と意表を突く主張だが、なかなか真相をついている。

*欧米諸国を敵にまわしてしまうと軍事力でイスラム国は圧倒的にまける。反撃できないとわかっているから日本を利用しているのが過激派の今の状況だ。

*欧米が恐れおののいた戦前と現在の日本の違いは何か。それは軍事力だと思う。今もそんな軍事力があれば過激派は日本に手を出していなかった。日本はかつては自衛意識の強い国だった。安倍政権が日本を仕組みを整えようとしているのにその邪魔をしているのが反日サヨクの人々だ。彼らがいまだのGHQに政策を押し付けようとしている。

*憲法改正するなとか国防軍にするなとかふざけた話だ。こうして日本が狙われているのが、日本が反撃できないとみられているからだ。なめられているからだ。何が9条だ。ならば9条かかげてイスラム国でこれで話をしてこいという話だ。

*日本人殺害の背景をつくったのはサヨクだ。安倍首相がまともな国の仕組みをつくろうとしているの邪魔しているのがサヨクだ。自分の主張が矛盾の固まりであるということに気づいてい欲しい。サヨクに人たちは、日本対テロリストの戦いを日本政府対日本国民の戦いにすりかえている。

憲法9条を真っ向から否定してまともな軍事力で日本は対抗すべきと極めて大胆な主張をしている。9条を守ろうとする人々には超右翼かつ民族主義的で危険にみえるに違いない。しかし、拉致問題が解決できない背景がこうした戦後の体制が原因していることは間違いない。それこそ、日本人の本音というべきことを彼女はズバリ突いている。

日本の保守にはこれからこうした若い世代の声がもっと反映されるべきだと思う。特に彼女のような愛国女子が増えれば日本の世論は新たな展開へと進んでいくに違いない。まあ愛国女子ではちょっと硬く野暮ったい感じがするから英語でパトリオティックガール、略してパトリガールとでも呼ぼうか。もしかしたら、新しい女性の動向に敏感な週刊誌アエラ辺りが彼女の取材にくるかもしれない。

 
 
追記:YOKOが昨年末のサザン桑田圭佑のパフォーマンスについて一刀両断酷評している。「桑田圭佑が酷い理由12連発」でこのアーティストや曲のことを深く仔細に分析していて話も小気味よい。そして近現代史論に深化させているのもすごい。 
 
 
 

共産党アイドルの見識

2015-01-26 20:05:54 | プロ市民煽動家

「『ゴンゴドウダン』などと、壊れたテープレコーダーの様に繰り返し、国の内外で命を軽んじ続ける安倍政権」「安倍政権の存続こそ、言語道断。本当に悲しく、やりきれない夜。眠れない」

もはや、このつぶやきはネットではみることはできない。結局、本人が「不適切」として、自分のツイッターで削除したからだ。池内沙織共産党衆議院議員のことだ。

イスラム国による日本人人質事件で殺害が明らかになったことを受けて、安倍首相が「言語道断」とイスラム国を非難した。これを池内議員は、安倍首相の発言を「言語道断」とツイッターで逆に非難した。

彼女は、人質を殺害したイスラム国に対して一言も批判めいたことは発していない。今回の事件で誰が日本人を脅迫して犯行に及んだのか小学生でもわかることだ。さすがにこのツイートは炎上して、ボスの志位委員長にたしなめられたようだ。問題のツイートを削除して全面謝罪だ。

昨年の衆議院選挙で比例区で当選したできたてほやほやの議員だ。一昨年参議院東京地方区で初当選した吉良佳子参議院議員と同じ32歳である。共に共産党のアイドルの二枚看板として特に左翼メディアなどでもてはやされているようだ。

しかし、所詮は国政を担っているという自覚が乏しい素人議員であることが暴露されてしまう。吉良議員も昨年「オスプレイでペースメーカーの不調を訴える人がいる」という科学的根拠に極めて疑わしいツイートを発して物議を醸した。早くも共産党アイドル路線は破綻?

いくら、最近の野党が非力とはいっても、こんな素人議員が多すぎるのではないか。その筆頭はいうまでもなく、山本太郎参議院議員である。しかし、まだ素人だけならばかわいいかもしれない。日本の実情を理解できず、反日=正義のような単純な論理で自己主張する偏狭ぶりがやりきれない。それを一部メディアが甘やかすことも問題だ。

吉良議員は最近党の役員と結婚して、少しおとなしくなったようだ。池内議員も結婚すればいいのに、なんて書いたら昨年の都議みたいなセクハラになりそうだが。もっとも結婚してもスピード離婚して隠し子も発覚する議員に至ってはもはや言葉もない。

 


本当のリベラリズム

2015-01-18 19:31:16 | プロ市民煽動家

評論家の青山繁晴氏がラジオの番組で、最近のサザン桑田圭佑のパフォーマンスを例に挙げて、日本のリベラリズムを厳しく批判していた。

リベラリズムを信奉する方が芸能界から評論家の世界で日本ではいっぱいいる。しかし、本当のリベラリスムというのは自由が奪われようとするならば自ら銃を取って戦うことをいっている。

バスチィーユ監獄襲撃事件のときから自由と人権を擁護する動きが始まってやがてこれが後世フランス革命と呼ばれ、それをいざとなれば銃で守る。。…リベラリズムを安直に捉えてなんちゃってリベラリズムで人を批判したいのならフランスに行ってよく勉強すべきだ。

だから、口だけで自由や人権を唱えても守り得ない。これを抑圧するものがいるならば、それこそ体を張って時に銃を持って抵抗しなければ守れないということだ。これは国内の全体主義勢力ばかりでなく、外の侵略に対しても同様だ。

これについては、テレビにコメンテーターでもよく登場するある風刺漫画家の発言を思い出す。

戦争したい人間はてめえで勝手に行ってください。そのかわり自分は絶対行きたくない。降参してでも、中国領で生き続けることを良しとしてでも、戦いたくない人間はほっといてくれという感じだ。

それこそ、こういう人間の考えは青山氏からみれば「なんちゃってリベラリズム」というのだろう。おそらく、こういう人々は口ではそうはいっても、日本では自分たちの自由が抑圧される事態にはならないとタカをくくっているのではないか。それほどに日本の安全は空気にようにいつも存在して失うことなどありえない、と。

日本はフランスのように銃で自由や人権を勝ち取ったという経験が希薄である。特に戦後の民主主義は占領政策のなかで始まり、米国の核の傘の下で維持された側面がある。これまで体を張って自由を守らなけらばならない事態にはならなかった。その結果、他人を決して悪く考えないで信じ合えば世界が平和で自由でいられる、と観念的にしか考えない人々がいる。

しかし、日本の周りをよく見ると実際、人権が抑圧され、その圧政で苦しんでいる国がある。北朝鮮そして中国などだ。日本のリベラリストの多くはなぜか、こうした国々に対してなんら批判めいたメッセージを発せず沈黙している。ノーベル文学賞を受賞した著名作家が、日本やアメリカの核政策を非難しても中国や北朝鮮の核を批判したことのを聞いたことがない。リベラリズムの底がしれるというものだ。

そして、日本の芸能界のリベラリストも…。坂本龍一、そして桑田圭佑よ、一度でいいから人権抑圧国を風刺するパフォーマンスを音楽の場で示して欲しいが、無理な相談か。

 

桑田圭佑と戦後教育

2015-01-09 19:56:34 | プロ市民煽動家

なんとも安っぽい政治風刺のパフォーマンスなのだろう。サザンオールスターズの桑田圭佑が昨年大晦日紅白歌合戦でのライブ公演で見せたチョビ髭、安倍総理を独裁者ヒットラーに見立てたようだが、三流芸人がするようななんとも安直な演出だ。歌われた曲「ピースとハイライト」は「平和と極右」を暗示しているという。

歌詞の中に出てくる「このすばらしい地球(ふるさと)に生まれ」もこれまた手垢のついた「地球市民」を歌い上げている。人類皆兄弟、愛こそが地球を救うということか。音楽の世界で熱唱する分にはいいが、現実の首相を揶揄して独裁者呼ばわりする辺りはどうにも様にならない。反権力を気取っていて自分では格好いいつもりかもしれないが、ただ皮相的で中身がなく道化師のように思えてくる。

桑田圭佑は音楽的な才能では日本の現在のポップアーチストのなかでも屈指の人物といえるが、こうした安っぽいパフォーマンスをみると人格的には大いに疑問を感じてしまう。桑田はライブの別の場面では、昨年天皇陛下から授与された紫綬褒章の勲章を尻のポケットから出してこれを競売にかけるような仕草もしたという。これなど明らかに天皇への侮辱であり,ひいては日本国民に対する侮辱でもある。

こうしたパフォーマンスをみるにつけ、戦後リベラル教育の弊害を感じないわけにはいかない。愛国をまるで右翼の主張であるかのごとく忌み嫌い、実態に乏しい地球市民を褒めそやす。日本の勲章さえも体制側の臣民教育の一環と見なし、揶揄の対象にする。それこそ、戦後の日教組が行ってきた反日、反権力教育の反映ではないか。

もしかして、桑田圭佑の今回のパフォーマンスにそんな深い意図はなかったかもしれない。ただ日本音楽界に蔓延っている戦後リベラリズの雰囲気の中で何の疑いもなく飛び出したともいえる。だとしたら、これこそ日教組教育の「成果」である。反面、激動する戦後世界でぬるま湯に使うだけで現実を直視できない戦後日本人の犠牲者ともいえるのではないか。


倉本聰の開き直り平和論

2014-12-30 19:47:15 | プロ市民煽動家

脚本家の倉本聰がみのもんたのラジオ番組日本の日本の国防について語っていた。みのもんたといえば、息子の不祥事で放送媒体からはすでに引退していたものと思っていたが、どっこい、こんなマイナーなラジオ番組で再起を計っていたようだ。

それにしても、放送局の著名キャスターというのはどうしてこんなに(自分にとって)「左巻き」の人間が多いのか。古館伊知郎、関口宏、田原総一郎、鳥越俊太郎、大谷昭宏、そしてこのみのもんただ。彼らの主張は自分からみれば、大同小異、ワンパターンで類型的、どんぐりの背比べ?だ。

特定秘密保護法や集団的自衛権行使、そして憲法改正、あるいは沖縄辺野古の基地移設さらには原発再稼働に反対と、まさに反対づくしだ。しかし、それに対する代案など持ち合わせていない。安倍内閣の右傾化に懸念を示してリベラルを強調するが、そのリベラルの実態に現実性がない。みのもんたも最後は「このまま日本は突っ走っていいいのか」という情緒論になる。

そんなみのもんたが見かけ倒しのリベラル論で倉本聰に同調を促そうとするが、倉本はみのの思惑に反して真逆とも言える持論を展開していた。戦前の修身を評価し、戦後の日教組教育を批判していた。あるいは特定秘密保護法に理解を示したりしていた。「このためをもって秘密をつくるのなら、そういう秘密はあってもいいのではないか」「知らないという権利があっていい気がする」

さらに現代の若者の軟弱さに厳しい見方をしている。学生に他国が攻めてきたらどうすると問いに皆が「逃げる奴」というのに「ハイ」と手を挙げる。「家族とか友人が捕まってやられたらどうする」と尋ねたら「頼む」と答える。「頼むといっても許してもらえるか」と問いつめれば「許してもらう」「なんだかわからないけれどとにかく許してもらう、ごめんなさい、」と。これが日本の若者だ。

「戦う」と答えたのは最高がキプロスで80%台、中国や韓国で70%台、アメリカで60%、日本は断ケツで15%。こんな若者を相手に強引に軍隊をつくったって世界際弱の軍隊ができるだけだ。今日本の若者は戦う意志がない。国を愛していない。郷土愛はあっても人間がつくった組織体には愛着がない。これは大問題だ。まさに教育だ。

そして「今の日本は卑怯だ。資金だけ協力して実際傷かないのは、男の美学からいって」ともいう。ここで倉元流の「男の美学」が語られるものと自分は期待を寄せた。しかし、ここから話はどんでん返し、予想外の展開となる。

卑怯なことによって70年間戦争がなかった。卑怯は認めてしまえ。その点で軽蔑されてしまえ。軽蔑されても平和があった方がいいし、「なんだ日本は」と思われていいるのだから、そこはそう思わせてしまえ。軽蔑されるべき国、だけど国民は皆どこかで尊敬される国という新しい国のつくり方をしていかなければないない。

…卑怯だといわれれば、おっしゃる通りで威張れない。でも(日本は)それでやってきた。憲法に書かれてしまった。アメリカさんがつくってくれた。だから今更変えられないと突っぱねるしかない。

こんな極端な非戦論を聞いていてこちらの頭が混乱してくる。本当に倉本は本心から屈辱的ともいえる平和論を信じているのだろうか。もしかして逆説とか皮肉をこめて敢て自虐的な主張を指定のかとも思った。どうも、自分には映画監督とか脚本家とかいったクリエイティブな仕事に携わっている人々の心証が理解できないことがある。作品そのもののは高尚だが、政治とか国家というものに対する認識とに恐ろしくギャップを感じる場合がある。

はたして、こうした屈辱的な平和主義を唱える国民は倉本が思うほどに「尊敬」されるだろうか。とても思えない。軽蔑される国民はいつまでたっても軽蔑されるままでしかない。戦後のアメリカ統治に責任転嫁するのもどうにも理解しがたい。まあ、倉本の見解を好意的に解釈すれば、脚本家一流の開き直り、ブラックジョークとも思いたいが。