阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

『生きる事』、『釈迦の気付き』、『坐禅』、『歌う事』、『ハーモニー』   山 内 庸 行さん  (大阪狭山市・混声合唱団機関紙寄稿文から)

2023年09月02日 | ゲストルーム

学生時代から、もう60年ほどのつきあいになる友人に「山 内 庸 行」さんがいます。彼は大阪富田林市に住んでいます。

 山内さんは3年前に大阪狭山市の混声合唱団(さやこん)clickに入りました。

以下の文章は混声合唱団の7月の機関誌に山内さんが投稿した寄稿文です。彼の許可を得て本ブログに転載しました。

 

※※※※※※

  定演に思うこと

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『2023年 定演を迎えるに辺り思うこと』                Bass 山 内 庸 行

 

 私は今回2回目の定演を迎えさせて頂きます。先生方の熱意と、団員の皆さんとの実力の格差にある時は励まされ、ある時は怯(ひる)むような日々を送っています。

 同時に、声を出すことの快(こころよ)さ、そして何より良い曲を歌わせて頂ける喜びを感じています。

 

 実は私の父は銀行員でしたが約60年間に渡り、北原白秋の流れをくむ短歌作りと、毎朝の般若心経の写経を日課にしていました。 

2009年、白寿直前に亡くなった時、なんと、四国88ヶ寺の納経用の写経(本堂と太子堂用) 計176枚を私名義で書き遺して逝ったのです。

 

 他方、戦中生まれのガキ大将だった私は、中学生の頃人生問題に出くわし、大学時代には、坐禅のクラブに入り禅寺から学校に通いました。

それ以来『比較する能力がないと社会では生きれないが、比較の中には自分はいない、つまりは社会生活や文明構築には、不可欠な言葉や概念は、

比較でしか成り立たないと言う大きな落とし穴があることに、人類で最初に気付かれた釈迦の気付きの私なりの追体験』に努めてきましたので、

各宗各派に分かれた既成の仏教やご利益宗教は大嫌いで、あの世とか神様とか仏様とか空海さんとか四国遍路とかの比較を抜けきらないコトにも、

全く関心がありませんでした。

 

 しかし、父の想いを無視する事も出来ず「写経」を配達する事も親孝行だと割り切り、父の初盆前の2010年5月に歩き切る自信もないままに、

68歳の年に大阪から青森までの距離にあたる約1200Kmの四国遍路の道を歩き始めました。そして、何とか42日間で歩き切ることが出来ました。

 一度に四国88ヶ寺全てを回る遍路を『通し遍路』と言いますが、今迄4回の『通し遍路』を、毎回はぼ、40数日で回ることが出来ました。

88歳の米寿での6回目の『通し遍路』で打止めにしたいと思っています。

 四国遍路の由来を調べていて『四国遍路は空海さんが開いたと、一般には信じられているが、本当は仏教伝来以前から紀伊半島の山岳修験者が、

四国に行って拓いた修行場が元になっている』らしいと知り、それなら、四国遍路の元祖を歩きたいと思い立ち、72歳の時に吉野から熊野迄、

約100Km続く険しい大峰山系を時には鎖に頼り行く縦走の道『大峰奥駆修験道』に、何度となく挑戦しました。その折に平安時代に『蟻の熊野詣』と言われるほど、

熊野本宮詣でが盛んであった事や、その道の1つに 大峰奥駆 に次いで、厳しい、千メートルを越える4つの峠を越えて熊野本宮へ至る『小辺路』があることを知り、

予てより歩きたいと思っていましたが、この7月初めに、4泊5日で歩く事が出来ました。

 

私がそもそも『歩く事』にここまで惹かれるようになったのは、亡き父に無理矢理背中を押され、最初の四国遍路に行った時『お寺参りには、

大して意味があるようには思えないが、お寺とお寺の間を歩く事に意味がある』と感じさせてくれたのは、3つの体験があったからだと思います。

先ずこの話からさせてください。と言うのも今回の定演で歌う歌が、それらの体験に深く繋がっていると感じられてならないからです。

 1つ目は7キロの荷物を背負い毎日30Km近く歩くのですから、歩き始めて直ぐに身体中、痛くない所はとこにもないという状態になります。

宿につく頃には「もう、明日はアカン」とまで追い込まれます。でも、風呂に入り、ご飯を食べて一晩寝たら、自分は何もしていないのに

翌日には気力と体力が回復しているではありませんか。『自分はいのちだった』と時間させられる日々でした。

 

 2つ目は、40日以上歩く事以外に何の目的もなく一人で只、歩き続けていると、さすがに鈍感な私もハッキリ気付かされることがありました。

それは、鳥の声は、聞こうとせずとも、耳に、木々の緑は見ようとせずとも、眼に、勝手に入って来ていると言う事実です。

また、呼吸は寝ていても勝手になされていますが起きている時も、山道では山道の、平地では平地の息が勝手になされていると言う事実です。

 例えば遍路の場に、もし妻が居てくれたとしても、私のナマのこの(この挿入)実感は、たとえ妻であっても、共有出来ないのです。

それは、私だけのモノなのです。しかも実感である限り、常にマッサラなこの一瞬だけのモノなのです。 

『自分は、自分の意思とは無関係に働いている自分を超えたいのちに生かされている。

なのにいのちの実感の世界では、他との比較・代替不能な、自分だけの世界を生きている』と言う『生きる事の不思議さ』を気付かされたような気がしています。

そして、言葉や概念で表現された他人との比較の中の自分は、言わば社会を生きる為の方便に過ぎず、比較・代替不可能なこのナマの実感の世界の自分こそが

本当の自分ではないのか!と思わざるを得ない日々を続けていたのです。

私は定年後、知的障がい者施設『金剛コロニー』の入所者の親が亡き後の支えとなる『法人成年後見人』の受け皿としてのNPO法人『かんなびの丘』の設立支援が縁で、

10年以上理事や理事長として関わってきましたので、果たして社会的に役に立つ事や知的能力だけが『人間の価値』なのだろうか?と考えさせられたのでした。

 

考えてみますと、人生100年時代とは誰もが寝たきりになったり、認知症になったり、中途障がい者になったりする事もあり得る時代と言えます。

そんな時、親やきょうだいや自分には、生きる価値はないとでも言うのでしょうか? 

同時にAI時代が本格的にやって来ます。データを集めて・比較して・処理すると言う意味での知的能力では、もう、機械に訂正)には敵わない時代なのです。

そんな時でも、知的能力だけが、人としての価値だと言うのでしょうか?

今こそ、社会に役に立つかどうかや、知的優秀さなどの、他人との比較ではなく、『取り替えのできないいのちに生かされ、言葉や概念の前に在る、

自他超えた自分だけのナマの実感そのもの』と言う誰もが授かっている『いのちの不思議』を、その人の天賦の人権の根拠としてみる人間観・生命観への転換が必要なのではないでしょうか。

 

今回の定演で第二部男声合唱で歌う『昴』は、谷村新司自身が『(「昴」は古来、物質の豊かさのシンボルであり)この歌は物質文明に別れを告げようという意味を込めて作曲した』と、

自著で延べています。物質的繁栄は、主に知的能力、つまり言葉や概念の力と考えると、私は谷村新司も『さらば昴』の歌詞で『言葉や概念で創られた世間的価値と言う、

比較の世界の中の自分』とは決別し『言葉や概念の前に在る比較・代替不可能な自分だけのナマの実感の世界』( つまり、『世間的価値観でないという意味では「荒野」』)に向かって

人間観・生命観の転換を図ろうと言おうとしたのではないかと思われてなりません。

又、第三部『いのちの木を植える』として、谷川俊太郎の作詞4曲を歌いますが、『でも、木は、いつも木と言う言葉以上のものだ』の歌詞に見られるように、

この四曲は、まるで谷川俊太郎が、谷村新司の『昴』に呼応するかの様に『人間が信じて疑う事のない、言葉や概念、

つまり、知性が織り成している社会生活や文化生活が、いかに底の浅いものか「比較・代替不可能な自分だけのいのちを、比較・相対の世界に貶(おとしめ)る、

言葉や概念の落とし穴に気付いて欲しい!」と警鐘を鳴らしている』様に聞こえてなりません。 

梨の木も羊も、一匹の蝿も、自然界の全ては自分だけの真実とも言える実感の世界、自然と一体となって生きています。

それは人間だけなのです。言葉や概念と言った比較の中に自分の価値や生きる真実を見出そうとして、見出せなく焦っているのは・・・。

『ただ私たちだけが、本当でなかった(『梨の木』)真実に気付き、その意味を考えて欲しい』 これこそが

谷川俊太郎のメッセージではないでしょうか?

そして、第一部で歌う歌は、中原中也の2つの詩に混声合唱団の男声指導者の安田先生が作曲したものですが、その1つ『汚れつちまつた悲しみ』は、

自分だけのナマの実感と自分が選んだ言葉とのギャップに戸惑い・苦しみ・それを自分の『汚れ』として感じた中也の詩人としての(挿入)感性の鋭さが、

生み出した歌ではないかと私は受け取っています。中也は結構生活が乱れ、人付き合いもかなり邪険だったようです。

それは、日常の言葉や概念に満足して底の浅さに気付こうとせず、自分の感性が展開しているイキイキとしたナマの世界ではなく、

映像に過ぎない言葉や概念の世界を、本当の世界と思い込んで、何の違和感も感じない、人々への嫌悪感と軽蔑の思いのなせる技ではと、想像しています。

 

遍路歩きで3つの体験があったと書きましたが、その3つ目の体験とは「遍路とは道に迷う事なり」と言いたいくらい道に迷った時の体験です。

本当に困った時に、偶然出会った見知らぬ人から助けを受けると、感謝とも喜びともつかぬ、得も言われぬ熱い思いが、込み上げてくるのを、何度となく体験しました。

 この体験で『「有難う」は言葉なんかに在るのではなく、言葉の前に在るこの実感こそが、本当の「有難う」だったのだ』と思い知らされました。

 「言葉や概念の有難うの世界」では、間違いなく、自分は自分、他人は他人ですが「自分のナマの実感の有難うの世界」では、確かに自分だけの世界なのですが、

その自分だけのナマの実感は、自分だけでは決して生まれ得ないと言う当たり前の事実にも気付かされるのです。

つまり、自分が 『何気なく、いつも自分の外に在ると信じて疑わないコトやモノこそが、自分の人生の実感の中身を作ってくれている』と言う不思議な、

しかし、当たり前の事実が見えてくるのです。 イヤ、むしろ『全てを自分の外に在るとして認識させてしまう言葉や概念の落とし穴』を見過ごして来た

自分の迂闊さに気付かされるのかも知れません。

 

ここまで書くと、第九の『フロイデ』の後の初めての合唱“D”の部分を思い出します。『世の習わしが隔てた』を『言葉や概念が創り出す自他を分ける比較の思いが隔てた』と捉え

『自分の外側の世界こそが自分の世界を創り出してくれている「いのちの実感」の世界に抱かれる時、そんな比較の思いは消え、自他の隔ても自ずと消え、

人々は全て自分の人生の中身、つまり友となる』と読めない事もありません。

 いや、ここを作曲していた時「シラーの詩のフロイデと言う言葉や概念」を通り越して言葉や概念以前の「フロイデの実感』がベートーベンの心の底から溢れ出してと

私には思われてならないのです。

 

私は、第九にしても、混声合唱にしても『歌う(声を出す)』事は、『歩く』と言う行為と、何か共通点があるように感じます。そして、そこに歌う事の魅力を感じています。

練習中、上田先生は時折『どんな音程でも、先ずは、自分の声を出して!』と仰います。この言葉を聞く度に、

最初の遍路の後に、地域の先輩に 『遍路して、結局どうやったんや?』 と聞かれ、思わず、『どんなにしんどくても、今の一歩を踏み出す以外はない事を、

遍路は教えてくれたように思います』と答えたのを思い出します。

 

今の一声も一歩も、歳と共に当然の事ながら、短く、弱いものになります。しかし歳をとっても常に自分の今の一声・一歩が問われ続けているのではないでしょうか。

そして、その一声・一歩以外には、自分の歌も人生もなく、踏み出した時の自分だけにしか分からない、ナマに実感にこそ、自分が生きる意味の全てがあるのではないでしょうか!

 混声合唱の醍醐味は、ハーモニーにあると言われ、私もそこに惹かれます。それは何故でしょうか。

ハーモニーは、自他の比較を超えた自分もいない、自分に出逢えるからこそ、美しさと喜びを感じさせてくれるとは言えないでしょうか。

合唱のハーモニーは 『ナマの実感の世界は、自分だけの世界なのに、そこは自分すらもない、自他分離不可能な世界でもある』と言う『いのちの不思議さの実証であり

、追体験なのではないでしょうか。

 

坐禅は 『無念無想』 と言われますが、一度でも坐禅をされたら分かると思いますが、坐禅の時の方が言葉や概念や思いは余計浮かんで来ます。

植物人間にならない限り、思いは止められません。 何故ならば、思いとは胃が胃液を分泌するのが胃の仕事である様に、思いを浮かべるのが、脳の仕事だからです。

しかし、坐禅を続けていると『思いは湧き起こり続け、外の景色の音も入ってきますが、気付いていながら気にならない』 状態がやって来ます。

更に、自分と自分の思い自分と外の景色や音と、全ては自分と対立的に在るものではなく、全てが自分の中身であると感じられる状態が現れます。

何故ならば全ては自分の五感と意識が展開している世界に過ぎないからです。

しかし、坐禅中に意識が昇ってくることは絶対に在りません。何故なら、『眠る』のと同様に『考え事』を追っていては坐禅にならないからです。

父も70歳頃2回、歩き遍路していました。『60年続けていた短歌が人生の宝と思っていたが、歩き遍路こそが宝であり、歩く坐禅(歩禅)だった!』と書き遺していました。

私にとって歩き遍路は、坐禅の時に生じていた状態を意識に昇らせてくれたと、今では父に感謝しています。

 

 定演のアンコール曲の『ひとつしかない輝き』は、中原、谷村、谷川の思いを凝縮した様な曲で、今回の定演のフィナーレを飾るのに最適な曲だと私は思っています。

しかし『ひとつ』を、一つ二つの ひとつ と言う、比較と捉えてしまうとこの3人の真意とかけ離れたものになるのではないでしょうか。

 

 『日々是好日』と言う言葉があります。『一期一会』と同義語と私は受け取っていますが『自他の違い・比較は見えながら、比較・代替不可能な自分すらも無い自分を生きる。

繰り返しの日々を、マッサラに生きる』の意味ではないかと受け取っています。そして、17年ほど保護司をさせて頂いておりました時、自省の思いをこめて

『比較が分からない人間は愚かだが、比較でしか見れない人間は、もっと愚かだ!。何故ならば、比較の中には自分も他人も人生も存在しないのだから!』と、

保護観察対象者に、話してきました。何故ならば彼らの多くが、比較の中で、自分を見失い、犯罪に手を染めてしまっている様に思えたからです。

そして、釈迦が生老病死の四苦に悩まれ、出家された時も、比較の中で生きる意味を求められたからではないか・・・と想像しています。

『いのちの実感の世界での比較を超えたひとつ』として、初めて『ひとつしかない輝き』は、今回の定演に最適な曲と思われてなりません。皆さまは、どう思われますか。

 

 『生きる事』、『釈迦の気付き』、『坐禅』、『歌う事』、『ハーモニー』・・・みんな、底では「繋がっているんだなぁ~」と、

脳が分泌しただけの、つれづれの思いを、又又、長々と雑文を書き連ねてしまいました。

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09月01日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年09月02日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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東日本大震災が起こった後の [ 2011年08月01日(月)のブログ ] から     「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年09月02日 | 東日本大震災ブログ
2011年08月01日(月)

ほぼ日の糸井さんが児玉龍彦教授のことを取り上げた
東京大学先端科学研究センター教授の児玉龍彦さんが、
 衆議院厚生労働委員会で、
 「放射線の健康への影響」という題で、
 「参考人説明」をしたときの記録動画が、
 どうして多くの人のこころによく届くのか。
 これからのさまざまな問題を考えるときに、
 とても重要なヒントがあると思います。
 
 1)ほんとうにこころのこもった発言に感じた。
  怒りも口惜しさも誠実さも、
  こころから自然に出ているものだということが、
  よく伝わってくる。
 
 2)伝えたいことが、具体的な提案になっている。
  敵を想定して、それへの攻撃するのではなく、
  「どうすればいいのか」を実現するための話である。
  敵か味方かを問題にするのでなく、
  「どうすればいいのか」が共有できて、
  その実現に向うことのほうが重要なのだ。
 
 3)現場を知っている感覚が伝わってきた。
  結論の出にくい問題についても語っているのだけれど、
  「いまそこにいる人の心を感じ取ってきた」
  という臨場感と自信があった。
 
 3つとも、とても大事なことだと思います。
 特に多くの人に届くためには、
 2)の「どうすればいいか」があるかないかが重要です。

 危険や不安について、どれだけ言っても、
 何が「悪」かについてどれほど説明しても、
 未来への夢をどんなに語っても、この児玉さんのように
 「計るしくみを確実につくる」
 「民間業者を入れて除染作業を進めるべきだ」
 「この法律を変える必要がある」というふうな、
 具体的な「どうする」がないと、残念ながら、
 「もっと怒りましょう」キャンペーンになっちゃいます。
 感情を揺さぶることが目的でなかったことが、
 見ている人や、会場の人たちの感情を揺さぶったのです。
 見て、知って、ほんとうによかったと思っています。

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
豪雨のこと大丈夫だろうか、花火中継の準備は進んでます。
 
人がさまよっているときに国会は何をやっているんですか!
筆洗 東京新聞コラム
2011年8月1日

 「七万人が自宅を離れてさまよっている時に国会はいったい何をやっているのですか」。

火を吐くような気迫に衆院委員会室は静まり返った。先週、厚生労働委員会に参考人として呼ばれた東京大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授の発言だ

▼教授の試算は衝撃的だった。福島第一原発の事故で漏出した放射性物質は広島原爆の約二十個分。一年後の残存量は原爆の場合、千分の一に減るが、原発から出た放射性物質は十分の一程度にしかならないという

▼福島県南相馬市で自らが手掛けている除染活動を通じ、内部被ばくから子どもを守ろうとする責任感が伝わる発言だった。国会の怠慢を厳しく批判する先には、動きがあまりにも鈍い国への憤りがある

▼細野豪志原発事故担当相は日本記者クラブでの記者会見で「除染作業こそ国家的プロジェクト。福島の皆さんに希望を持っていただける」と語っている。今後、除染作業が兆単位の公共事業になるのは間違いない

▼児玉教授は、民間の技術を結集し直ちに国の責任で除染研究センターを設置するよう求めた。避難住民を無視した利権まみれの公共事業にしてはならない

▼「人が生み出した物を人が除染できないわけがない。福島におけるセシウム除染は、次の世代への日本の科学者の責任である」。教授は医学雑誌にそう記した。学者の良心に希望を感じる。


節電でも景気は大震災前より回復

節電でも衰えない日本経済

一部引用・・

気温が32度を上回る蒸し暑い日が何日も続いた7月が終わりに近づき、実験の暫定結果を確認するときがきた。答えは「機能できる」だ。

東京電力が7月中一度も停電に踏み切る必要がなかったのみならず、ほとんどの日においてニューヨーク市に供給できるほどの電力が余った。

 多くが懸念していた電力不足による経済への影響も特になかった。日本の株式相場は震災前の水準近くにまで上昇し、経済は再び成長し始め、

省エネグッズの需要拡大でむしろ活気づく企業さえ出ている。

全文はこちら

日本企業、業績回復に向け前進-海外M&Aは急拡大  こちら
 



取材記事の劣化と手抜き  大手新聞は撒かれたエサに飛びつくだけ。

慰霊式は報道向けにセットされていた?
「セレモニー記事」が覆い隠すニュースの本質

一部引用・・

世界史に残る悲劇に目を向けず、「イベント」を報道

フォトオプ記事は、記者が能動的に探してきたネタではない。行政や警察などが用意した現実を受け取り、報道する。そもそも作業が受動的なのだ。

 ここでは、報道のアジェンダを取材先が決めている。本来、「社会が何を議論すべきかという議題」(=アジェンダ)を決めることこそが、報道の責務なのだ。

その「アジェンダを決める報道の責務」(アジェンダセッテイング)を報道が放棄しているのがお分かりだろうか。

セレモニー記事は報道に「受け身」で「能動的にネタを探さない」ことを習慣付けてしまう。

「取材先にネタをもらう」のだから、取材先に心理的に借りができる。考えてみれば、これはものすごく危険な罠だ。

  誘惑は強い。手配が簡単だ。短時間の取材、少ない取材人員で紙面が埋まる。つまり低コストだ。しかも写真が絵になる。記者やデスクが飛びつきやすい。

「今日はトップ記事がない」「今日は写真ものがない」と憂鬱なデスクは、まるで砂漠で冷たい湧き水を見つけたかのように吸い寄せられる。

「効率がいい」「能率的だ」という点で、セレモニー取材には誘惑がある。もちろん、セレモニーをセットする側は、そういう報道側の力学は承知でやっている。

「こうした方がお互いにとっていいでしょう」と善意でセットしてくることだって多々ある。この「誰も悪いことをしているつもりがない」のが怖いのだ。

 しかし、報道が原義の「報道」であるためには、能率や効率が最優先にされてはいけないことがある。

手間暇がかかっても、独自のネタを発掘し、それを深く掘り下げる作業が必要な重大ニュースはある。

世界最悪の原子力発電所事故で住民が故郷を追われることが、その重大ニュースでなくて、何だろう。

全文はこちら
 


やってみなければ始まらない
 

一部引用・・

「ぐちゃぐちゃ言ってないで、リスクをとって何かにチャレンジしなさい」。これがハーバード・ビジネススクールの哲学だ。

 その哲学とは一言で言ってしまえば、「ぐちゃぐちゃ言ってないで、リスクをとって、何かにチャレンジしなさい」という、夢と希望と勇気と情熱に満ちたもの。

 エリートなんだから現在の「システム」を利用してその仕組みの中で上手に無難に出世していきなさい、ということとは真逆の「何かを変えなければ意味がない。

だからこの学校で、いろいろなことを教えよう。そして、それを身につけて羽ばたくときがきたら、リスクを取って新しいことをやりなさい。

既存の仕組みをぶっ壊しなさい。世界に影響を与えなさい」

 そんなまっすぐで勇敢な哲学が、この学校を支配し、全員がそれを真剣に信じている。それがこの学校の最大の強みなのでは、と感じていた。

「大企業の出世階段を上ろうなんて安易なことは考えるな」と教わった。

「毎朝鏡を見て、げんなりする日が続いたら、ドキドキ、ワクワクしていない自分を見る日が続いたら考え直して、心がときめくことをやれ」とも教わった。

「リスクをとってチャレンジしない人生を送ることこそ、年をとってから後悔するという、人生最大のリスクを背負っているんだ」とも教わった。

全文はこちら

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