阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

 九十九里浜から茨城県・藤代町の家々へ魚の行商に来ていた小父さん         茶話 3

2023年09月13日 | エッセイ

 あらっ、この人あの魚屋の小父さんじゃないかしらと夕刊を見ていておもわず大声を出した。

えっどうしたのとテレビを見ていた二人の娘が、相方の両脇から頭を突っ込んで一緒に記事を読んだ。

 

 「九十九里浜の海水浴場で水泳監視人が死亡」と出ていた。

 

<これより遊泳禁止>の旗を無視して遠くへ泳ぎ出した高校生二人が、共に溺れかけ地元のボランティアの監視人が泳ぎだして二人を助けたが、

二人目を岸に連れ戻したあと心不全で亡くなったという記事だった。


 昭和55年の秋、南柏の会社のアパートを出て取手市の隣りの藤代町に家を買って引越した。

JR取手駅からバスで10数分の戸建住宅ばかり700戸ほどの住宅地だった。

  *(2003年の選抜に茨城県代表で出た県立藤代高校へは光風台というその宅地の入り口から10分ほどのところにある)

引越挨拶で近所をまわったとき、数軒の奥さんがその場で色々教えてくれた中に土曜日に魚屋さんが小型トラックで来て、新鮮な魚を買えるわよ、

そのトラックは前からお宅の家が建ったところの前に停まるからって教えてくださった。

 家は住宅地の入り口にあるバス停まで歩けば10数分かかるという奥まった場所で、日常の買物はまわって来るスーパーの小型バスに乗るか

自転車で行くしかなかったが、自転車ではスーパーまで結構距離があり難儀だった。

土曜日になると「魚屋だよ、魚屋だよ」と大きな声がして家の前にトラックが止まり近所の奥さん方が集まった。

取手駅のイトーヨーカドーまで行けばサカナは買えたが、この小父さんの毎週の行商のおかげで新鮮なイワシやサンマ、カツオなどが

手に入りうちもご近所も皆助かっていた。この小父さんに7年ほどお世話になった。

相方が小父さんといろいろ雑談する中で、小父さんは50歳代中頃で九十九里浜で漁師をしながら民宿を始め

民宿シーズン以外はこうして行商をするようになったと言うことがわかった。


 夕方のNHKのローカルニュースでも放送され小父さんの顔写真が映された時、相方と子供達は声がなかった。

特に3歳で引越して、小父さんが来ると毎回、相方について出ていた次女は、彼とは7年間近く毎週会っていた。

次女は生まれて初めて身近に知っている人が死ぬという経験をして、今でもあの時の事は忘れられない、

特に人の命を助けて自分が死ぬ事をする人がいるんだと忘れられないと言った。


 毎月の家のローンと夫の呑み代・麻雀などの遊び代で手いっぱいで子供のおやつ代にまわる金はなく、

おやつは母親手作りのジャムやオカラと人参のケーキ、きなこ飴などしかなかった子供には小父さんが無造作に

ビニールを破ってハイといつも手渡してくれるヤクルトは本当においしくて毎週土曜日が楽しみだったと言う。

 

 それからもう魚屋さんは来なくなり、その事に慣れ出して2ヶ月くらいしたら「魚屋だよ、魚屋だよ」と女の人の声が聞こえた。

外に出てみたら、あの見慣れた車の側に初めてみる女の人とその息子らしい若い人がいた。

予想どおり、あの小父さんの奥さんと長男で「これから引続きまわってきますので、ウチのお父さん同様よろしくお願いします」と挨拶された。

あの日の事を聞いてお悔やみを言った。

  その秋に神戸に引越したので、そのあとどうされたか分からないけど、7年も毎週顔を合わせていたあんなに気風のいい人が、

ああいう亡くなり方をするなんてと、いまでも忘れられない。海から遠く離れた土地で牛久沼の鰻やフナや鯉なんかはいつでも手に入る所だったけど、

あの小父さんのお陰で海の新鮮な魚も食べる事が出来てあの7年間は本当に魚には不自由しなくて済んで、ありがたい人だったと相方は言った。

 いつものように飲んで麻雀をして終電で深夜1時過ぎに帰ったら相方が、今日大変なことがあったのと小父さんが亡くなった話をした日のことは私も覚えている。

2003.8.04記

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

09月12日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年09月13日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災が起こった後の [ 2011年08月13日(土)のブログ ] から    「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年09月13日 | 東日本大震災ブログ
みんなのエネルギー・環境会議 第三部 政策決定
 

 15:50~17:00 全体討論 第三部【体制・政策決定】(70分)
コーディネーター:田中信一郎(環境エネルギー政策研究所)
   話題提供者:今井一(ジャーナリスト)
          澤昭裕(国際環境経済研究所
          保坂展人(世田谷区長)
          宮台真司(首都大学東京)


   「みんなのエネルギー・環境会議」 http://www.meec.jp は、原発推進/反原発・脱原発、自然エネルギーの今後等について、

「こうあるべき」という特定のスタンスを打ち出すためのものではありません。

それぞれの観点についての賛成・反対を含め、さまざまな立場や考え方の人々がオープンに日本の産業や暮らしを支えるエネルギーの今後について、

考え、語り、議論し、対話する場を作っていくことをめざします。 ■ 第1回「みんなのエネルギー・環境会議」2011/7/31... 「みんなのエネルギー・環境会議」 http://www.meec.jp は、

原発推進/反原発・脱原発、自然エネルギーの今後等について、「こうあるべき」という特定のスタンスを打ち出すためのものではありません。

それぞれの観点についての賛成・反対を含め、さまざまな立場や考え方の人々がオープンに日本の産業や暮らしを支えるエネルギーの今後について、

考え、語り、議論し、対話する場を作っていくことをめざします。 ■ 第1回「みんなのエネルギー・環境会議」2011/7/31    

日時 2011/7/31(日) 11:30~19:00  会場 諏訪東京理科大学 621教室(長野県茅野市豊平5000-1)

 定員 350名 主催 みんなのエネルギー・環境会議  発起人(50音順)  飯田哲也(環境エネルギー政策研究所)/枝廣淳子(幸せ経済社会研究所)

/岡田武史(日本サッカー協会)/橘川武郎(一橋大学)/小林武史(APバンク)/澤昭裕(国際環境経済研究所)/澤田哲生(東京工業大学原子炉実験所)

/吉岡達也(ピースボート)/吉岡斉 九州大学)


 プログラム       10:30     開場       11:30~12:15 オープニング  

              基調講演:小林正弥(千葉大学法経学部教授)      12:15~13:45 全体討論 第一部【原子力】(90分)

                コーディネーター:植田和弘(京都大学)                

 話題提供者:  飯田哲也(環境エネルギー政策研究所)     海渡雄一(弁護士)              

  澤田哲生(東京工業大学原子炉研究所)   ミランダ・シュラーズ(ベルリン自由大学)       13:45~14:30 昼食・休憩

 14:30~15:40 全体討論 第二部【再生可能エネルギー】(70分)コーディネーター:橘川武郎(一橋大学)   話題提供者:阿部守一(長野県知事)  

       工藤拓毅(日本エネルギー経済研究所)         山岸尚之(WWF)        17:10~18:20 全体討論 第四部【ライフスタイル】(70分)

                コーディネーター:枝廣淳子(幸せ経済社会研究所)                 

話題提供者:  平島安人(自然エネルギー信州ネット) 他       18:20~19:00 総括と今後へ向けて
   

 
 
これまで静かだった福島県の人たちが東電本社へデモ

東電本社前で3千人デモ=迅速な賠償求める―福島の農林水産業者
写真は共同通信
時事通信 8月12日(金)16時14分配信 

 東京電力福島第1原発事故で被害を受けた福島県内の農林水産業関係者約3000人が12日、都内の東京電力本社前や銀座などをデモ行進した。

参加者は、昼下がりの猛暑の中で「東電と国は全ての損害を速やかに賠償せよ」「福島県民を故郷に返せ」などと気勢を上げた。

 参加したのは、福島県農業協同組合中央会(JA福島中央会)など農林水産業21団体の会員ら。デモの後に東電本社を訪れ、西沢俊夫社長に直接、早期の賠償を要求した。西沢社長は「迅速に支払えるように、しっかり対応したい」と約束した。

 また、福島原発の周辺13市町村で構成する被災市町村議会連絡協議会も12日、事故の早期収束や賠償を西沢社長に要望した。

☆福島のお母さんたちの東電へのデモの時は、ガードマンの隊長が出てきて対応したが、このデモには東電の社長が出てきている。

現在、警視庁は東電本社の警備に日々膨大な数の機動隊員を当てている。今回のデモ参加者の性格からすると警視庁は、しぶる東電に対して社長が対応するよう要請したのだろう。

一歩デモ対応を間違えると、収拾がつかなくなると、警視庁は現在、張りつめた空気にある。
 
もしかすると東電の経営者以上の別の意味の危機感を持っているはずだ。一つ何かヘタを打ったら想定外のことになると。

そういう意味で東電と警視庁は今後、これまで以上に一体で本社警備に当っていくしかない。☆

福島第1原発:「生活返せ」と都心デモ 農民ら2500人
毎日新聞 2011年8月12日 18時52分(最終更新 8月12日 20時01分)

賠償を求めるシュプレヒコールをしながら、東京電力本店(上)前をデモ行進する、原発事故による放射性物質の放出で大きな被害を受けている福島県の農林漁業者ら=
 
2011年8月12日、共同 東京電力福島第1原発事故による放射性物質の放出で大きな被害を受けている福島県の農民や漁師ら約2500人(主催者発表)が12日、
 
東京都内の東電本店前や銀座で「東電は賠償金を速やかに払え」「福島の農民は負けねえぞ」とシュプレヒコールしながらデモ行進した。

 JAグループ福島や福島県漁業協同組合連合会などが主催した。JAによると原発事故後、最大規模の抗議行動。参加者は「福島に未来を」
 
「生活を返せ」などと書かれた横断幕やプラカードを掲げて、猛暑の中、流れる汗を拭いながら行進した。

 デモに先立ち、日比谷野外音楽堂で開いた集会でJA福島中央会の庄条徳一会長は「大震災から5カ月が過ぎたのに、
 
事態は深刻さを増している」と危機感を強調。土壌の除染や、収穫期を迎えるコメの検査、出荷停止となっている肉牛の全頭検査を国が責任を持って行うよう訴えた。

 福島県白河市から参加した農業の男性は「賠償金は一部しか払われておらず、今後の生活は不透明だ。国や東電は我々の困窮を分かっていない」と憤っていた。
 
 
 
奥村和一さんが亡くなったことを知りました。
 
奥村和一さんが亡くなったことを知りました。

奥村さんの肩書きは、というと
「元日本兵」ということになるのでしょうか。
第二次世界大戦後、上官の命令で中国に残留し、
中国の内戦を戦った日本兵です。

故郷に帰りたかった、でも命令だから残った。
しかし日本政府は「志願による残留」とみなし、
彼らの戦後補償を拒み続けました。

奥村さんは裁判に負けても負けても、
挫けず戦い続けました。

私は彼を追ったドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』(池谷薫監督)で
初めて、この日本軍山西省残留問題を知りました。
そして、奥村さん本人を取材する機会に恵まれ、
1度だけですが、直接お話を伺ったことがあります。

奥村さんの切なくも鋭い眼を、
私はまっすぐ見つめてインタビューできるだろうかと
かなり緊張していたのですが、
お会いしてみると 予想以上に照れ屋で、
とてもあたたかい笑顔を向けてくださいました。

そのときの奥村さんの言葉です。

 「過去のない現在はないんですよね。
  過去のことを曖昧にしたままね、

  現在とそこから描かれる未来というのは
  はっきりしないんですよね。

  現在を正しくするためには、
  やっぱり過去を糾さないといけないと思っています。」

この言葉は
奥村さんが経験した“戦争”について語られたものですが、
今、改めて書き記すと
いろんな状況に対しても言えることだな、と実感します。

ウソの歴史を残してはいけない、と
国に裏切られ、裁判に負けても、
真相究明を絶対に諦めなかった奥村和一さん。

享年86歳。
本当に、お疲れさまでした。


引用元はこちら
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする