お月さまのことは、今だ正確には理解していない。
今日の午後3時から5時くらいの間に撮影したものですが、「夕月」と言えばよいのか?
あるいは「昼の月」と言えばいいのか?
こんな光景を見るたびに思い出す詩があります。
昼の月 辻征夫
恋人よ、ぼくの不実な腕に神ならぬ頭をのせて眠りなさい。
――オーデン「子守り歌」(中桐雅夫訳)
恋人よ ぼくのからだの下で
暫く眠り 疲れを癒しなさい
きみの姿勢は だれが見ても
お行儀がいいとはいえないが
気にしないで眠りなさい
ひろげられたきみのゆたかな
腿と腿のあいだにも
ぼくのからだがあるのだもの
だれも見てはいないから
このままの姿勢で眠りなさい
愛って ほんとうはどんなものか
知らないけれど
恋情ならばけんとうがつく
きみと離れているとき
ぼくのなかにあいている
おおきな闇 そこを吹き抜けて
希望を凍らせ 憎しみのように強く
渇望をかきたてる風のことさ
だからぼくはきみと会えば
言葉もなくきみを掴み ぼくの空虚を
きみで塞ごうとするんだ
じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
きみは息を整えて眠ろうとしている
ぼくはきみに重みをかけないように
静かにかさなり
からだで子守歌をうたってあげよう
こうしていると きみが一段一段
眠りの深みに降りて行くのが
そこだけが別の小動物のような
きみのあたたかい襞の反応でわかるのだ
おやすみ いとしいひと
きみが微かな寝息をたてはじめると
ぼくはきみから離れて
細くあけた窓から外を見ている
そしてさびしさでいっぱいになって
かんがえている
ひとりぼっちでいるときの
ぼくの空虚は
あの青い空の
月のようだ
――詩集『ヴェルレーヌの余白に』1990年・思潮社刊 より――
辻征夫の詩を読んでいるとき、「ああ、男性が生きることは大変なことね。こわいこともたくさんあったのね。そしてこんなにも寂しい生きものだったのね。」と思うことがしばしばある。そして少しだけやさしい気持になれる。たとえば「夕日――おはなし篇」「春の問題」「電車と霙と雑木林」などなど……。
あの小さな乗客が/ここに来るまで/およそ四十年かかるというのは/気のとおくなるはなしです/いくつかの都市と/学校と/いくつかのこころの地獄を/なんとか通過して来るのですが
(電車と霙と雑木林・詩集「河口眺望・1993年・書肆山田刊」より最終連を抜粋)
時代背景の解説もいらない。陳腐な恋愛論など語りたくもない。
何故、男女が恋情ゆえに深い寂しさを抱くことになるのか?この答はどこにもない。むしろこのどうにもならない「寂しさ」が「恋情」を加速させているのだから処方箋などあろうはずがない。当然のことながら、この詩を読んでも癒しを授かることはないのです。あるものは「感性のやさしい共有」だけ。
じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
きみは息を整えて眠ろうとしている
激しく切ない恋情の束の間の安らぎの時間だ。本当に束の間の……。
あの世にいらっしゃる辻征夫さん、「昼の月」の見える日に化けて出てきてくださいませ。歓迎いたしとうございます。辻さんの俳句にも月がありましたね。遠い昔から、月と人間との切ない対話は尽きぬものでございます。
満月や大人になってもついてくる
今日の午後3時から5時くらいの間に撮影したものですが、「夕月」と言えばよいのか?
あるいは「昼の月」と言えばいいのか?
こんな光景を見るたびに思い出す詩があります。
昼の月 辻征夫
恋人よ、ぼくの不実な腕に神ならぬ頭をのせて眠りなさい。
――オーデン「子守り歌」(中桐雅夫訳)
恋人よ ぼくのからだの下で
暫く眠り 疲れを癒しなさい
きみの姿勢は だれが見ても
お行儀がいいとはいえないが
気にしないで眠りなさい
ひろげられたきみのゆたかな
腿と腿のあいだにも
ぼくのからだがあるのだもの
だれも見てはいないから
このままの姿勢で眠りなさい
愛って ほんとうはどんなものか
知らないけれど
恋情ならばけんとうがつく
きみと離れているとき
ぼくのなかにあいている
おおきな闇 そこを吹き抜けて
希望を凍らせ 憎しみのように強く
渇望をかきたてる風のことさ
だからぼくはきみと会えば
言葉もなくきみを掴み ぼくの空虚を
きみで塞ごうとするんだ
じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
きみは息を整えて眠ろうとしている
ぼくはきみに重みをかけないように
静かにかさなり
からだで子守歌をうたってあげよう
こうしていると きみが一段一段
眠りの深みに降りて行くのが
そこだけが別の小動物のような
きみのあたたかい襞の反応でわかるのだ
おやすみ いとしいひと
きみが微かな寝息をたてはじめると
ぼくはきみから離れて
細くあけた窓から外を見ている
そしてさびしさでいっぱいになって
かんがえている
ひとりぼっちでいるときの
ぼくの空虚は
あの青い空の
月のようだ
――詩集『ヴェルレーヌの余白に』1990年・思潮社刊 より――
辻征夫の詩を読んでいるとき、「ああ、男性が生きることは大変なことね。こわいこともたくさんあったのね。そしてこんなにも寂しい生きものだったのね。」と思うことがしばしばある。そして少しだけやさしい気持になれる。たとえば「夕日――おはなし篇」「春の問題」「電車と霙と雑木林」などなど……。
あの小さな乗客が/ここに来るまで/およそ四十年かかるというのは/気のとおくなるはなしです/いくつかの都市と/学校と/いくつかのこころの地獄を/なんとか通過して来るのですが
(電車と霙と雑木林・詩集「河口眺望・1993年・書肆山田刊」より最終連を抜粋)
時代背景の解説もいらない。陳腐な恋愛論など語りたくもない。
何故、男女が恋情ゆえに深い寂しさを抱くことになるのか?この答はどこにもない。むしろこのどうにもならない「寂しさ」が「恋情」を加速させているのだから処方箋などあろうはずがない。当然のことながら、この詩を読んでも癒しを授かることはないのです。あるものは「感性のやさしい共有」だけ。
じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
きみは息を整えて眠ろうとしている
激しく切ない恋情の束の間の安らぎの時間だ。本当に束の間の……。
あの世にいらっしゃる辻征夫さん、「昼の月」の見える日に化けて出てきてくださいませ。歓迎いたしとうございます。辻さんの俳句にも月がありましたね。遠い昔から、月と人間との切ない対話は尽きぬものでございます。
満月や大人になってもついてくる