ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

物語の役割  小川洋子

2016-02-07 21:25:08 | Book



 この本は小川洋子がご自分の「物語」の生まれてゆく過程についての講演を一冊に纏めたものです。
 小川洋子の感性は、他者を驚かせたり、哀しみや苦しみを読み手に押し付けてくることがない。いつもそっと開かれた窓のように謙虚です。問えば静かに答えてくださるでしょう。そしてなによりも彼女の心が病んでいないこと。あたりまえのようですが、これは決してあたりまえではないのです。そして少女期からの出合った本、先達者の言葉などを丁寧にあたため、それをご自分の慰めや同意という安易な受け止め方をせずに、心の小箱にしまって大切にしていることでした。

 物語は作家の魔術のように生まれてくるものではない。特権的な知識を並べることでもない。生きている人間の足跡、風景、風、ひかり、思い出、そして死者からの贈り物、言葉にならないものを丁寧に掬い取り、それにふさわしい言葉や名前を与えて、さらに消えてしまいそうな道筋をなんとか描いてゆく。物語の誕生とはそんな心の作業なのでしょう。

 子供は大きくなるためには、なにかおおきな「守り」が必要です。老人が生きていくためにも同じこと。そして人間が生きてゆくためには「愛されている」こと。それは平和な時代でも、凄惨な時代においても同じこと。それが物語の水源ではないでしょうか?そしてこうして書いてしまえば、おそらくとても普通で平凡に思えること。それが実は物語なのではないでしょうか?

 小川洋子が子供時代に出会い、心に残った本は「ファーブル昆虫記」、フィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」、思春期に出合った本は「アンネの日記」だった。彼女の著書「博士の愛した数式」はイスラエル版として海を渡ることになりましたが、レバノン侵攻のために停戦を待っている間に、小川洋子は改めて自分の物語が人間の現実と無関係ではないことを思うのでした。エージェントのメールには「同じ本で育った人たちは共通の思いを分かち合う。」という一文があったそうです。

リルケの詩を思い出しました。


     願いとは
    日毎の「時間」が
    永久なものと
    小声でかわす対話。  (リルケ)


 (2007年・ちくまプリマー新書053)