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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

僕の叔父さん 網野善彦    中沢新一

2013-04-01 12:09:48 | Book


読了後、一番はじめにぼんやりと感じとったことなのですが、一人の学者が育ってゆくこと、あるいは育てられてゆくためには、
わずかな人数でいいのだが他者の大きな愛がいる。
また一筋の思想が頑なでもなく偏りもなく育ってゆくためには、人間の根源から涌き出るような深い愛の力がいるのだということでした。
網野善彦の言葉を借りれば「彼はたいへんしゃれた、うまいいい方のできる人で、なかなか本質的な表現で私がぼんやり考えていることをいってくれます。」
というような中沢新一の美しい文体とともに、そのような深い感銘を受けました。

まず、哲学者であり宗教学者の中沢新一を育てた親族を記してみよう。すべて山梨県出身者でることにも注目して下さい。
父親の中沢厚は在野の民族学者、コミュニストである。叔父の中沢護人も「鉄の歴史家」と言われた在野の研究者です。
そして中沢新一が五歳の時に、父中沢厚の妹の真知子叔母の婚約者として登場するのが、この本のタイトルとなっている歴史学者「網野善彦」です。
この四人の真摯で豊かな対話の積み重ねが、さらに思考のおおきな流れをつくっていったようです。

この網野善彦は若き日の中沢新一にこのように語っています。
『貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だと言われてきたけれども、
そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、
生き残ることができたともいえるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ。』
この一冊に貫かれているものはこの網野の言葉に集約されているようです。

中沢厚の著書に『つぶて・一九八一年・法政大学出版局刊』がある。「飛礫(つぶて)あるいは(ひれき)」の歴史の再発見がテーマとなった著書である。
この論考の発端となった厚の意外な視点についての、新一の記述部分は心が躍り出すほどに面白かった! 
一九六八年一月、佐世保港にアメリカの原子空母「エンタープライズ」が給油のため入港する。
それを阻止しようとした「反代々木系」の学生たちはヘルメット、角棒、旗竿を持って機動隊に激突、
そして彼等のとった行動は「投石」であった。機動隊はおおいにたじろいだ。

このテレビ報道を食い入るように観ていた父親が最初に語ったことは、
父親の少年期の、笛吹川の対岸の万力村や正徳寺村の子供たちと、こちら側の加納岩村の子供たちとの「投石合戦」だったのだ。
「投石」という人類の根源的な衝動の働きかけを厚はそこに感じとったのである。原初の人間から引き継がれている行為は、
消えることなく現代の人間たちに内在されていたということだろうか?中沢厚のこの研究はそこから出発したらしい。

この中沢厚の「つぶて」は網野善彦の著書『蒙古襲来』に引き継がれる。
この著書の章のタイトルは「飛礫、博奕(ばくえき)、道祖神」から始まった。
難しいことはわからないが、わたしが感覚的に理解できたことは「アジール」的な精神世界の存在が、歴史の根底にはいつもしっかりとあって、
その上で人間の侵略戦争、反権力闘争は続いてきたのだろうということでした。

これ以後、網野善彦と中沢新一の仕事は弛むことなく続くのですが、以上書いたことは、
この一冊から極私的にわたしの心の琴線に触れた部分だけです、と責任放棄しておきます。

  (2004年・集英社新書)

きみがくれたぼくの星空  ロレンツォ・リカルツィ

2013-01-20 15:36:41 | Book



翻訳:泉典子

ロレンツォ・リカルツィ(Lorenzo Licalzi)は、1956年北イタリアのジェノヴァに生まれる。
心理学者。老人ホーム設立&運営の経験あり。
著書には「ぼくは違う」「ぼくにはわからない」「グルの特権」がある。

初めに記しておきます。
主人公「トンマーゾ・ペレツ」という名前は、カミユの「異邦人」に由来する。
「異邦人」の主人公「ムルソー」の母親が老人ホームで亡くなる。
その母親の恋人といわれた老人の名前が「トマ・ペレーズ」です。


この物語の舞台は老人ホームである。
もと物理学者のトンマーゾ・ペレツと、信仰心の深い老夫人エレナとの恋物語です。
トンマーゾ・ペレツは左半身マヒのため、移動には車椅子が必要な身であった。
初めての外出(デート)は、トンマーゾ・ペレツのかつての職場である天文台での星々の鑑賞であった。
(ここがタイトルに繋がる。)
この出来事によって、頑固者のトンマーゾ・ペレツの気質は溶け出したが、その翌日にはエレナは他界する。

深い悲しみをくぐり抜けて、エレナの深い思いやりと愛を知った彼は、
あれほど拒否していた理学療法に積極的に向き合い、半身マヒの不自由な肉体に新しい風を送りこむ。
さらに学者としての自分も呼びかえす。

そして、2人の友人と共に、ホームを出て、3人の共同生活の計画もたてる。
しかし、その計画が実行に移されないままに、彼は他界する。


「80歳になったら結婚しましょう」と女性詩人に語りかける、今は亡き詩人の作品を思い出す。
それを読んだ時のわたくしはいささか若かった。
が、しかし、人間は生涯の最後と思われるひとときに
人生のなかで最も自由に夢を叶えられるかもしれない時間が、そこに託されているかもしれないのだと、
それ以来思い続けてきました。
この本を読んで、その思いこみは間違っていなかったと思っている。


けれどもここまで書けば、タイトル通りに美しい恋物語である。
再度言おう。この物語の舞台は老人ホームである。
脇役は様々な事情を抱えている老人ばかりであり、
さらに、多忙と仕事の困難さのために、老人の尊厳を忘れた介護人たちである。
誰でも知っているはずの世界……老人を1個の面倒な物体として扱うホームである。
トンマーゾ・ペレツが「クソッタレ!」と罵った世界である。
かつて我が父母を決して預けたくないと思っていた世界である。

そこに奇跡のようにうまれた物語であることを知っておこう。
この物語を書き残すことに力を尽した人物は理学療法士のステファノだった。
(これも物語……?)

《追記》
この本を読むきっかけは「ZOUX311号」でした。


 (2006年初版・河出書房新社刊)

スピンク合財帖  町田康

2013-01-05 14:46:10 | Book
  

これは2011年の「スピンク日記」の続編と言える。
合財帖の「合財」は「一切合財あるいは一切合切」の「合財」と考えるのが妥当と思われる。
「合財袋」あるいは「信玄袋」の手帖版と考えることも楽しいかもしれない。

スピンクは5歳、遅れて「主人ポチ」&「奥様の美徴さん」夫妻の元に来た「キューティー」はスピンクの弟です。
ここまでは「スピンク日記」と同じメンバーですが、故あって「シード」という元セラピードッグが家族になりました。
スピンク、キューティーはスタンダード・プードルで、シードはトイ・プードルで小型犬でした。

可哀想な状況にいる犬を受け入れてきた美徴さんの第3回目の犬の救出でした。
どう可哀想なのか?シードは「セラピー犬」であるということは「レンタル犬」でもありました。
1時間800円でレンタルされる犬ならば、大方は大きくて立派な犬を選びます。
その選択からいつも漏れていたのが「シード」だったわけでした。

この合財帖は、シードを加えた5人の家族で始まります。
「主人・ポチ」はこれを実際に執筆しているであろう作家「町田康」と推測されます。
それをスピンク口調に書いていますので、あたかもスピンクがポチポチとキーボードを打っている感覚に襲われ、
読者は笑いかつ微笑んだりすることになる。
以前も書きましたように、現代版「吾輩は猫である」と同時に犬版でもあります。

3頭の犬は主人に従順な立派な犬ではないし、
主人ポチも立派(?)な大人の男ではない。
この組み合わせのなかで、主人に忠実な犬は育たないし、
もともと主人は「ポチ」なのですから。
だから興味ある匂いに誘われたら、主人のリードを引っ張り過ぎて主人は転倒するし、
犬の訓練の常識とは程遠い関係になります。

そのことを深く考えさせられました。
人間の生活上の都合から、犬はお利口訓練を受けさせられている。
……と言うことに深く気付きました。

スピンクの人間批判は鋭い。ということは「主人ポチ」が鋭い切り口だったのかな?
ともかく楽しい1冊でしたとさ♪


    (2012年・講談社刊)

父・こんなこと  幸田文

2012-12-22 13:45:47 | Book


『今ここに父を送る野道は細く、人には愛がある。
私は湧きかえる感情を畳んで頸を立てて歩き、喪服はさやさやと鳴った。
つゆ草が一トむら。名にちなむ花よ。』
……「父」より

「父」と「こんなこと」は幸田文の父上である露伴にまつわる二篇の随筆です。
「こんなこと」は文の思春期から結婚、そして出産、離婚に至るまでの、
父(実母はすでにいない。)を中心とした、文とその弟との思い出話です。
「父」は娘の玉子を連れて離婚した文が、露伴のもとに帰った後のことであり、
露伴の看病から最期の看取り及び葬送についての思い出を書いたものです。

女性の生き方が多様化している現代において、それぞれの女性の生き方について
「間違っている」とも「正しい」とも言えない自分がいつもいます。
自らの生き方も含めて、女性の生き方の源流を辿ってみたくてこの本を開いたのかもしれません。

しかし「父」のなかで、介護に心を張りつめ身体を限界まで疲労困憊させている幸田文の姿は、現代でも同じことだと思えます。
どの時代でも介護の当事者よりも外野が煩いことも同じで、当事者の腹立たしさも同じでした。
介護の本質はこの理不尽さゆえに見失われることが多いのです。
女性の生き方の形態は変われども、こうした点では時代を超えても変わらないもののようでした。

けれども、露伴の葬送の時にすべてが昇華されます。文の七歳の春、母の葬送の折の父の言葉「しゃんとして歩けよ。」が彼女の記憶に蘇る。
そして最後はこのように結ばれています。
『親は遂に捐てず、子もまた捐てられなかったが死は相捐てた。四十四年の思い出は美醜愛憎、ともに燦として恩愛である。
これから生きる何年かのわが朝夕、寂しくとも父上よ、海山ともしくない。』
と言い切ったのでした。

さて「こんなこと」に話題を移します。
すでに母不在の家族になって、娘の幸田文のすべての教育は父の露伴が務めることになります。
これについて書いている文はさぞ楽しかったであろうと思えます。読む方も非常に楽しいものでした。
女性が一番幸福な時間とは娘時代なのでしょうか?
認知症になった私の亡母がほとんどの記憶を失くした後に残った記憶は娘時代だったことをふと思い出しました。
  
(ここから少し脱線。)
その母から私へ、そして娘へと伝わった摩訶不思議な形容詞があって、赤ちゃんの髪の毛を「ぽやぽや」と言っていました。
しかし娘が高校時代に友人から「聞いたことがない。」と言われてショックを受けていました。
これは方言なのか?我が一族だけの共通認識だったのか?と初めて疑いを持ちました。
しかし、大いなる味方があらわれました。「こんなこと」のなかに「ぽやぽや」を発見!

『老いて残りすくない祖父の白髪にも、幼くぽやぽやと柔らかい孫の髪にも春日はひかっていた。』

祖父とは露伴、孫は青木玉さんです。
(路線回復。)

 露伴の文への教育は家事家計全般、着物のこと、様々な人間関係など。
どこか無理難題であったり、妙に箍がはずれていたり、皮肉まじりであったりしますが、文の意地っ張りと見事に調和していました。
この調和のなかに深い愛情が立ち昇ってきます。こうして人間はいずれ親のいない(自分が親になる)人生の到来を受け止めて生きてゆけるのでしょう。

さて、ここで私は「女性の生き方」について何を学んだのだろうか?
まず「女性」という枠をはずしてみることでした。
露伴の文への深い(乱暴とも言える。)愛は、文が強く生きてゆく心を育てました。
露伴は文を才色兼備のおとなしい女性ではなく、逞しい農婦のように育てたのです。
女性の生き方ではなく、人間の生き方と愛し方を。
大き過ぎる父の存在と、その愛に向き合った幸田文の健かな背筋を感じました。


《追記》
この記事は清水哲男さん発行の《Weekly ZouX 309号(12月16日付)》に掲載されたものです。


(平成23年・第76刷・新潮文庫)

台所のおと 幸田文

2012-10-28 22:33:05 | Book

《10月27日・十三夜、後の月です。》

これは10編の短編集である。
「台所のおと」「濃紺」「草履」「雪もち」「食欲」「祝辞」「呼ばれる」「おきみやげ」「ひとり暮し」「あとでの話」。
昭和37年6月~昭和38年4月までの間に、「新潮」「群像」「文藝」「婦人之友」「週刊朝日」「うえの」に掲載されたもので、
これらをまとめた単行本は1992年、講談社より刊行される。
わたくしが読んだのは「講談社文庫」です。

いろいろな事を考え、行き詰まると、何故か少し前の時代に行ってみたくなるものだ。
そこで選んだ本が「幸田文」さんでした。
彼女が幸田露伴の娘であることは周知のことであるが、露伴なしには「幸田文」を語ることはできないだろう。
そして露伴の語り部としても「幸田文」以外の存在はありえないだろうとさえ思える。

さて、ここでの代表作は「台所のおと」以外には考えられない。
「解説」を書かれている「高橋英夫」が、すでに書いてしまったので、ちょっとくやしいが、
ここに描かれているのは、20歳の年齢差がある夫婦の物語である。
この夫婦の在り様が、離婚して露伴のもとに戻ってきた「幸田文」に対して、露伴が(父親でありながら)
日常のさまざまな躾をなさった風景と重なるものだった。

20歳の年齢差がある夫婦とは、小料理屋「なか川」の主人「佐吉」と妻「あき」である。
お互いに初婚ではない。終戦の荒野でたまたま知り合い、夫婦になって15年、今は佐吉は病床にある。
襖1枚を隔てた向こうで、「あき」がたてる「台所のおと」から佐吉は妻の行動を聞きとっているのだ。
その「あき」を料理人に育てたのは夫である。

妻の「台所のおと」で目覚める夫はいくらでもいるかもしれない。しかし台所経験のない夫が大半であろう。
いや、この時代ではあり得ないシチュエーションか?
そのような自問自答をしながら、「台所のおと」でゆるくやさしく繋がる中年夫婦の
静かな心の交流が見事に描きだされていることに、わたくしは背筋が伸びる心地でした。
病床の夫が、かつて妻に伝授した料理全般(のおとも含めて)を
妻は静かに再現してみせる。

(1955年第1刷・2012年第27刷発行・講談社文庫)

詩人 金子光晴自伝

2012-09-25 13:07:43 | Book
金子光晴『詩人 金子光晴自伝』から



金子 光晴(1895年(明治28年)12月25日~1975年(昭和50年)6月30日)が自伝を書いたのは1957年、
62歳で初版を出したことになります。1971年(初版から14年後)にAJBC版第1刷が出版された時、金子光春は76歳となる。
当然、書き直しの部分はある。その後の金子光春の人生は80歳まで続く。

妻は詩人の森三千代、息子は翻訳家の森乾。

1人の伝記を自ら書くということに対して、ある方は読者が望むような人物像を書くことができるという、
わずかに悪意ある批判をしている。
しかし、他者が彼の評伝を書いたとしたらどうだろう?
評伝を書くからには、その人物を愛していなければ書かないだろう。
あるいは「死者」となってから書く時に、実像を美化するという愚かな行為は慎むだろう。

……というわけで、わたくしは素直にこの本を読むことにしました。
わたくしは金子光晴の生き方と詩が好きだからです。

「子供の徴兵検査の日に」

「招集」

「寂しさの歌」

以上の3編の詩は、「戦争」をテーマにしたものであり、
息子の徴兵拒否に父親として、愛おしいほどに頑張った印のような詩である。
「日本は負ける」ということを認識できる人間が、あの時代にどれほどいたか?
さらに、勝敗に関わらず戦争がもたらす「負」の重さをどれほどの人間が知っていたのだろうか?
金子光晴は、ここで家族の結束を強くする。
そして、厳寒の季節の山中湖畔の粗末な別荘を借りて、親子3人の生活をしながら、
彼は、発表のあてのない詩を書き続けた。
敗戦の日まで……。

東西諸国への旅は、金子光晴の世界への視点が「国粋」を客観視させた要因ではないだろうか?


「愛情69」

このような詩も金子光晴の世界だと思う。
家族という枠に入りきれなかった夫婦(光晴&三千代)の愛の詩であろう。


最後にこの1文を引用する。
『そんなに業を背負って生まれてきた僕らは、解答の手がかりをつかみかけたままで、問題を後嗣ぎにのこして、
はやばやと死に迎えられる。待ってくれ。その酒はまだのみかけなのだ。』


(1957年初版発行・1971年AJBC版第1刷・発行所=平凡社・発売元=全日本ブッククラブ)

なみだふるはな 石牟礼道子&藤原新也

2012-07-26 16:56:24 | Book



暑さで思考力低下している頭に、静かに語りかけてくるような本でした。
対談「なみだふるはな」は水俣病と原発の根底に流れているものが同じことだと、とてもよくわかる。
大きな声で言っているわけでないが、真実が見えてくる。心の底から納得できる。

石牟礼さんの会話というよりも「語り」と言いたいような言葉は
すべて覚えておきたい気持になります。活字には表れていないようですが、それを感じます。
大声ではない、そしてこの世のすべてをやさしく抱きしめている。
そして、この世の「悪」をなだめようとなさっています。
聴こえるかい?この世を「悪」と「欲」で思いのままにしようとした者たちよ。


「水俣病」と「原発」の共通項。
まず緑豊かな「田舎」がある。特に産業はない。
しかし美しい自然と、そこに生きる人々の自然のなかで生きる知恵が美しく伝承されてきた。
しかし、「田舎」より「市」を望む人々もいる。経済的豊かさのために。
水俣の「チッソ」そして「原子炉」。

1950年代を発端とするミナマタ。
そして2011年のフクシマ。
このふたつの東西の土地は60年の時を経ていま、共振している。(藤原新也)



亡父の故郷は福島。死期を感じ取った父の最後の願いは「あの海がみたい。」ということだった。
無理を承知で車で行った。父は海辺で車から降りる力もなく、車窓で涙を流していた福島の海。

その海が荒れて(ここまでは自然の力。)、そして汚染された。
いや、日本中のみならず、おそらく潮流、大気によって果てしなく汚染は拡大する。
そしてそれは何代もの世代に影響を残す。

にもかかわらず、政府は「水俣病認定」の期限を決めようとしている。

東京まで行ってみたが、
日本ちゅう国はみつからんじゃった。
(中略)
どこゆけばよかろか (石牟礼道子さんによる水俣の方の言葉)


この2つの大きな問題に向き合う自分の立ち位置がわからなかった。
この「なみだふるはな」の対談から、どう考えていけばよいのか教えていただいた。
わたくしにとって、大切な1冊になるだろう。

いろいろと書きたいことはあるが、とても書ききれないように思う。
せめて、この本を大事にしておきたい。

私は少女期に渡良瀬川のある市で育った者。

 (2012年3月20日初版・河出書房新社刊)

子供はぜーんぶわかってる  吉本隆明

2012-06-30 21:57:22 | Book


小学校のベテラン教師(と、言ってもいいと思う。)お2人と、吉本隆明氏の対談です。
子供の高学歴、一流社会人を目指す母親たちへの警告であり、
小学生を育て、教育する場合の教師の責任と母親の責任を秤にかければ母親の責任の方が重い
ということを、まず母親は自覚しよう。

子供の人間としての基本的支柱は6歳までにきまると吉本さんはおっしゃる。
犯罪の低年齢化、時代病、あるいはイロイロな心の病。
それはおそらく教師の責任ではないだろう。
教師は児童の規範ではない。つまり本のタイトル通りに子供はすでに知っているのだ。

にもかかわらず、教師は教師たろうとするし、母親はいつまでも母親という主張に終わりがない。
子供は「ぜーんぶわかってる」んだから、
歴史とか科学とか算数とか、国語の基本を教えればいいわけで、
教師は児童の支配者でもなく、さらに母親は子離れをするべき。
子供の潜在的な力を信じるべき。

あああ。わたくしは子育てはとうに終わっているのだが、
それについてのさまざまな論考は果てしなく続く。本も出版される。そしてどれも見落としがある。
(当然、わたくしも我が子育ての経験から考えるしかないのだが…。)

こうした問題がクローズアップされた背景になにがあったのか?
それはおそらく、女性の社会進出によるものだと思える。
男が働いて、女性が家事&育児に専念するという図式の崩壊と同時に、
大家族制度の重圧からの解放が、マイナス面にも表出したからか?
しかし時代は戻ることはできない。

戦後からすでに約70年の歳月は流れた。
新しいとか古いとかという時代ではなく、底に流れる人間の普遍性を見つめていたいと思う。

 (2005年・批評社刊)

星の王子さま アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ

2012-06-13 17:07:03 | Book


翻訳:池澤夏樹

内藤濯の訳で読んだのは子供が小さい頃だった。
その後、池澤夏樹訳が出ているのが気になってまた読んでみました。
タイトルの「星の王子さま」という訳はお2人とも変わらない。
「Le Petit Prince」だから「小さな王子さま」と訳すところなのに?
その池澤夏樹の解説がおもしろい。

日本語においては、基本的な名前の呼び方は「清水の次郎長」というように、
出所あきらかな呼び名の歴史が長い。「桐壷の更衣」まで例に出されている。
それに倣いて「星の王子さま」となったとか。
つまり「とっても小さな星の王子さま」ということになるのかな?
さらに我流解説しておきますが、「とっても小さな」は「星」のことです。

この本を読みながら、しきりにわたくしの頭をよぎる詩がありました。


   未確認飛行物体  入沢康夫

 
   薬罐だって
   空を飛ばないとはかぎらない。

   水のいっぱい入った薬罐が
   夜ごと、こっそり台所をぬけ出し、
   町の上を、
   心もち身をかしげて、一生けんめいに飛んで行く。

   天の河の下、渡りの雁の列の下、
   人工衛星の弧の下を、
   息せき切って、飛んで、飛んで、
   (でももちろん、そんなに早かないんだ)
   そのあげく、
   砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花、
   大好きなその白い花に、
   水をみんなやって戻って来る

   『春の散歩・1982年・青土社刊』 より



サンテグジュペリはパイロットだった。
彼が3歳の時、ライト兄弟の動力飛行機は成功した。
ここから彼の飛行機への憧れが始まる。
彼は第一次大戦の時代に子供でよかった。飛行機の発明は戦争に加担したから。
戦後、大人になったサンテグジュペリは郵便飛行士になる。
しかし、またまた第二次大戦…フランスはドイツに占領されてサンテグジュペリはアメリカに亡命。
この苦しみのなかから、「星の王子さま」は生まれた。
砂漠に不時着したパイロットも、星々を彷徨い砂漠で出会った王子さまも彼自身ではないのか?

1944年7月31日、たった1人で偵察機に乗って、そのまま帰らぬ人となった。
44歳の若さであった。


(2005年8月・第1刷 2011年6月・第20刷 集英社文庫)

言葉の誕生を科学する 岡ノ谷一夫×小川洋子

2012-03-30 01:31:32 | Book


岡ノ谷 一夫(1959年~ )は、動物行動学者、東京大学教授。
栃木県足利市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、米国メリーランド大学大学院で博士号取得。東京大学助教授。
2004年理化学研究所脳科学総合研究センター生物言語研究チーム・チームリーダー。
2008年ERATO情動情報プロジェクト総括を兼任、2010年東京大学総合文化研究科教授兼任。

著書
「小鳥の歌からヒトの言葉へ」 岩波書店 2003年 (岩波科学ライブラリー)
「ハダカデバネズミ 女王・兵隊・ふとん係」 吉田重人共著 岩波書店 2008年 (岩波科学ライブラリー)
「さえずり言語起源論 ― 新版小鳥の歌からヒトの言葉へ」 岩波書店、2010年

参考資料サイト
言葉は動物の“歌”から生まれた 生物学・認知科学者 岡ノ谷一夫

小川洋子は、ご存じの小説家。「博士の愛した数式」は数学者「藤原正彦」との出会いから生まれたようですが、
この対談から、また新しい小説が生まれるのかな?

さて、前置きが長すぎました。しかしこの本の感想を書くのは困難なことですよ。
心に残ったところをメモすることにしようかな。


言葉は「求愛の歌」から出発した、というのが岡ノ谷教授の基本的な考え方らしい。
鳥のさえずり、クジラの泣き声、ハダカデバネズミの歌などの言語以前の「音」から、
人間だけが「言葉」を獲得した過程について、動物行動学者と言葉の仕事をする作家との対談となる。
小川洋子の素直な好奇心が大変好ましく感じられ、対談のリズムを奏でるようでした。
しかし、過去の岡ノ谷教授の著書を読んでいないと、読者にとってはまとまりもなく、
脈絡もない雑談になったのは残念です。

しかし、岡ノ谷教授の唱える理論は、今だどこまで信じていいのかわかりません。
たとえば、ある程度のデータが揃えば、シュミレーションでもってきれいなデータが完成するという怖さ。
これでいいのかな?それから男性的論理のある種の単純さなど。その1つの例を以下に。



赤ちゃんの泣き方の分類が「おしっこ?」「眠い?」「ミルク?」となっているけれど、
赤ちゃんの泣く理由の大きな要素は、2人の子供を育てた経験から言えば、
「一人にしないで。」「だっこしてちょうだい。」に代表される。
「おしっこ」や「うんち」は生まれた時から「おむつ」をしているのですから、
母親が定期的に様子を見て、「おむつ」を取り換えてあげられるし、
「ミルク」だって時間を決めているし、眠くなれば眠るものですし……。

世界共通にある「ママ」「マンマ」は教えなくても子供は語りだします。
最初は「まんまんまん……」と言います。これはその段階では「母」でもなく「ごはん」でもない。「音」です。
それから機嫌がよければ、1人でも「ああああ」とか「きゃっきゃ」とか、限りなく「音」を言います。
そして、1年も経てば「名詞」を語り、その後「動詞」を語り、「要求」を主張して、
言葉によって伝えることを学びます。ほとんどこれは母親から自然に学びます。気をつけませう。

母親の胎内で微生物から1つの生命体となる。赤ちゃんはその段階では「四足」です。
そこから胎内を出て、「四足歩行」から「二足歩行」までに1年かかります。
そこから言葉を覚えるまでの歳月は「原始」から「現代」までを駆け足で時代を超えてゆくのです。

……などと、岡ノ谷教授にお伝えしたいです。

 (2011年4月・河出書房新社刊)