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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

さようなら、私の本よ!  大江健三郎

2014-02-27 12:31:15 | Book


これは「取り替え子・チェンジリング・2000年」と「憂い顔の童子・2002年」との3部作となっています。すべて講談社刊。
3部とも主人公の老作家「長江古義人」をはじめとして、その家族、友人たちとの物語です。
そしてこれらはすべて「いのち」の根源を辿る道のりであり、死者への語りかけでもあり、
古義人は何度も少年期に戻り、そこに置き去りにされたままでいるもう一人の分身の「童子」とのはるかな対話を続けながら、
さらに老境に入った小説家としての「総括」あるいは「覚悟」かもしれません。
それを建築家の「繁」と「おかしな2人組・スウード・カップル」として締めくくろうとしたのだろうか?


さようなら、私の本よ! 死すべき者の眼のように、
想像した眼もいつか閉じられねばならない。
恋を拒まれた男は立ち上がることになろう。
――しかし彼の創り手は歩き去っている。


この詩は、老年になって、暴力事件の被害者となり、深手を負って入院した「古義人」が、
集中治療室から集団快復病棟に移された夜に見た夢のなかで、
若いナバコフの小説(ドイツ語)の結びとなっていた詩のような一節を「古義人」が邦訳したものだった。
それが、この小説のタイトルとなっています。

この物語の第1部の扉は、このエリオットの詩から開かれた。


もう老人の知恵などは
聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい
不安と狂気に対する老人の恐怖心が
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


上記の3冊の小説のなかで、老作家は次々に大切な友人を亡くしています。映画監督、音楽家、編集者などなど・・・・・・。
そして残された友人の建築家の「繁」を中心として、その周囲の若い人間たちとのドラマが「さようなら、私の本よ!」だった。
「繁」はアメリカの大学で教鞭をとっていたが、長い空白ののちに帰国して「古義人」とともに、深く関わる時間を共有することになります。
エリオットの詩に「ゲロンチョン」という作品があります。
ギリシャ語で、geron(old man)とtion(little)を組み合わせた言葉で、「小さな老人」の意味ですが、
一般的な意味では、精神が萎縮しつつある人間と社会を象徴しているようです。
主人公の老作家の軽井沢の別荘は、この「小さな老人=ゲロンチョン」という名前が付けられています。
かつて設計と建築に関わったのは「繁」であり、案は「古義人」だった。


――ぼくの父親がいったのは、ぼくの代りに死んでくれるほかの子供ということだが、
  きみのお母さんがいわれたのは、ぼくがきみの代りに死ぬ、ということだね。(古義人)

――それでも、事の始まりは、われわれお互いの母親が、それぞれの子供をね、
  相手のために死ぬ人間へ育てようと、そういう密約だったのじゃないか?(繁)


少年期に不思議な出会いをした二人の少年の、再び老齢にはいってから交わされたこの会話は一体なんだろう?

これは、第2部の扉にかかれた詩です。


死んだ人たちの伝達は生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


第3部の扉では・・・・・・


老人は探検家になるべきだ。
現世の場所は問題ではない
われわれは静かに静かに動き始めなければならない。
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


三島由紀夫の自決、「古義人」のかつての自殺未遂、
「古義人」と「繁」を中心として会話があり、そこに集まった若い人たちの考え方あるいは1人の老作家の見方など、
錯綜する対話のなかで、「古義人」は、1つの時代を終えて、
あらたな老作家として、どう書いて生きてゆくのか?を模索するのでした。


 (2005年・講談社刊)

憂い顔の童子  大江健三郎

2014-02-25 21:08:21 | Book



このなかで主人公の小説家「古義人」の母親が、ある文学研究者のインタビューに答える言葉が秀逸です。
大変に見事な言葉ですが、これも「ウソ」でせうか?以下は引用です。


「古義人」の書いておりますのは小説です。小説はウソを書くものでしょう?
ウソの世界を思い描くのでしょう?そうやないですか?
ホントウのことを書き記すのは小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・

あなたも『不思議な国のアリス』や「星の王子さま』を読まれたでしょ?
あれはわざわざ、実際にはなさそうな物語に作られておりますな?
それでもこの世にあるものなしで書かれておるでしょうか?

「古義人」は小説を書いておるのですから。ウソを作っておるのですから。
それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?
それはウソに力をあたえるためでしょうが!

ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙一枚差し出して見せるでしょうか?
死ぬ歳になった小説家というものも、難儀なことですな!


ここまでが引用です。大分以前、朝日新聞に高橋源一郎が書いた大江健三郎の書評も同時に思い出します。
新聞の切り抜きが行方不明なので、うる覚えのメモですが
「事実にほんの少しの嘘を加えることで、より真実に近ずくのではないか。」というような言葉でした。

なぜ「童子」なのか?小説家「古義人」の幼少年期、こころのなかに二人の童子がいました。
一人は故里の山の樹に行ったまま帰らず、もう一人の残された淋しい童子は故郷を離れてたくさん勉強をしましたし、
旅をしたり、友や家族を愛したり、一生懸命に「ウソ」の小説を書いたのでした。
それはきっともう一人の童子のためでしょう。
それで淋しい童子は、もっと淋しくてなってしまうのでした。

 (2002年・講談社刊)

取り替え子・チェンジリング  大江健三郎

2014-02-24 14:53:24 | Book



自死した映画監督の「吾良」がカセットテープに残した、
主人公の作家「古義人」へのメッセージを聴くヘッドホンを「古義人」は「田亀」という昆虫の名前に例えていますが、
これはともに少年期を過ごした村にいた、ごく見慣れたものだったのでしょう。なるほど旧式(?)ヘッドホンの形に似ています。
以後、「古義人」はすべてヘッドホンを「田亀」と呼んでいます。


確認のために、対談集「大江健三郎・再発見・・・2001年・集英社刊」のなかの、
井上ひさし&小森陽一&大江健三郎の対談のなかで「田亀」を理解した次第です。
田亀」は「田鼈」とも表記されます。小森氏は「鼈=すっぽん」というところまで想像を拡大しています。
実際に小説の中ではベルリンから帰国したばかりの「古義人」が、
読者から送られてきた「鼈=すっぽん」とキッチンで大格闘する場面がありますが、
大江健三郎にはそこまでの拡大した比喩ではなかったということでした。

そして「古義人」の「田亀」との対話は、ベルリンへの旅の前まで続きました。
ベルリンからの帰国後は「吾良」の映画化されなかった「シナリオ」と「絵コンテ」に移っていきます。
それは登場人物が「古義人」を中心とした、周囲の人間がモデルとなっています。

しかし途中から、なぜタイトルが「取り替え子・チェンジリング」なのか?という疑問(愚問?)になかなか答えが見出せない。
大江健三郎の小説は一見私小説のように見えますが、実はまったくの小説なのです。
惑わされずに読まなければ、わたくしたちは大きな過ちをおかすことになります。
さらに現実には、大江健三郎が障害者の父親であるということを前提として読むことも控える方が懸命な読者となるだろうと思います。
彼はあくまでも小説家なのですからね。

最終章に入って、ようやくそのタイトルの意味が浮上します。
「古義人」の妻「千樫」は「吾良」の妹です。「千樫」は「古義人」を父として
「吾良」をふたたび我が子として産もうとしていたのだという思いがあったことに初めて気付くのでした。
そのきっかけは「古義人」がベルリンから持ち帰った、彼がセミナーのテキストとして取り上げた「モーリス・センダック」の絵本と、
みずからの少女期(母、「吾良」弟妹を含めた)にあまりにも深く重なったからでした。以下は引用です。


『古義人と結婚して最初の子供が生まれるのを待っている時、
千樫が考えたことは――これもいまセンダックの絵本を読んだことで初めて妥当な表現を与えることができる。
アイダのような勇敢さでふるまって――本来の吾良を取り返すと同じことをしよう、ということだった。
私がお母様の代わりに、もう一度、あの美しい子供を生もう。
(中略)しかし古義人は私の企てのなかで、どんな役割だったのだろう?そう考えて、千樫は答えを導くことができなかった。』


ここから「吾良」の自死は「古義人」から「千樫」の心の喪失の問題として移行してゆきます。
これが「取り替え子・チェンジリング」なのです。
これに加えて、ベルリンにいた時に書いた講義録のなかには、少年期の「古義人」の記憶が書かれています。
それは医者すらも希望を失ったほどの状況から救いあげた彼の母の言葉がありました。


『――もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。
 ――・・・・・・けれどもその子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
 ――いいえ、同じですよ、と母は言いました。あなたが私から生まれて、いままでに見たり聞いたりしたことを、
読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。』


読者としては、「古義人」と「千樫」との長いこころの道のりを歩いてきたような気持でした。
小説家として生きること、その傍らに生きること。それ自体が至福であり、かつ受難ではないか?

 (2000年・講談社刊)

一茶   藤沢周平

2014-01-29 21:48:56 | Book


この本を読むきっかけは、江戸学者の「田中優子」が「江戸文化の多くを、この本から学んだ。」という言葉からでした。

小林一茶(1763年~1827年)は江戸後期の俳人。名は弥太郎。信濃柏原出身。
継母と異母弟との折り合いが悪く、それほど貧しくはない農家の長男でありながら、
十五歳で江戸に出て奉公先を転々としながら、「俳諧」の世界を知ることになります。
俳諧の宗匠「二六庵竹阿」の弟子と言う説がありますが、この小説のなかでは僭称であるとなっています。

江戸前期には、俳人松尾芭蕉(1644年~1694年)は、「俳諧」に高い文学性を賦与してはいますが、
短歌が宮廷文学から出発したのに対して、もともと「俳諧」は庶民(博打に似たものとして。)の遊びから出発していることが、
わかりやすく書かれていました。
幕府が禁止令を出した俳諧遊びの「三笠付け」は、さまざまに形式を変えながらも密かに続いていました。

一茶の俳諧の出発点はそういう世界だったわけです。
思わぬ才能が一茶に「賞金」をもたらし、それが奉公先を転々とする一茶の生活費ともなったわけです。
しかし、この時期の一茶の経歴はどこにも書き記されていません。
その時代の農民出身の若者の記録などあるはずもないことでしょう。
これはあくまでも作家の創作でありましょうが、
この時代の「俳諧」に自らの生き方を求めた若者の姿とは、このようなものであったことでしょう。
一茶は「俳諧」の世界で、農民から脱却して一流の俳諧師をめざしたのですね。

しかし、江戸で一茶が一流の俳諧師(家を構え、人並みに家族生活を営み、宗匠として弟子を多く抱えて、生活にゆとりがあること。)
になることはありませんでしたし、江戸俳諧の傾向と信濃出身の貧しい一茶との句には、お互いに相容れないものが「障壁」のようにいつでもあり、
一茶の俳諧師としての日々は、地方を回りながら草履銭で、
なんとか「食い繋ぐ・・・・・・あまり好きな言葉ではありませんが、ここにはある意味これしかない、と言う言葉ですね。」生活の連続でした。

やがて不本意ながら、一茶を江戸へ奉公に出した郷里の父親が病に倒れる。
看病に帰郷する一茶の先々の生活を思い、父親は直筆の遺言状を書きます。
「山林、田畑、家、すべて半分を長男弥太郎(=一茶)に譲渡する。」という思いがけないものでした。
この時代から直筆の遺言状が大きな権利を持つということはあったのですね。

この遺言状が実現するまでには、かなりの歳月を要しましたが、
最後には遺言状以上のものを手に入れるという一茶の強引さ、狡猾さもここに表出します。
その期間に一茶は徐々に江戸俳諧から離れ、北信濃周辺の門人との繋がりを準備、地方の俳諧師として信濃に帰郷するのでした。
この時の一茶は51歳でした。その後結婚、三人の子に恵まれながらも三人とも幼くして病死、妻の菊も病死しました。
その後、再婚と離婚、三度目の子連れの妻と継母に看取られて、65歳で亡くなります。俳句は20万句と言われています。

継母の言葉が心に残ります。
『旅ばっかりしてらったひとでなえ。もう出かけることもなくて、眠ってるようだなえ』

 さて、一茶という人間をどのようにとらえるか?難しいところです。
それぞれの人間の生きている足場から、とらえるしかありませんね。
水上勉が「良寛」に自らの境涯を重ねるように愛しい思いで書いたように、
藤沢周平もそのような「愛しさ」を一茶に抱きつつ書いたのでしょう。
歴史上実在した人間を「評伝」としてではなく「小説」として書く時、
そこにどこまでの「嘘」と「真実」が錯綜し、小説となるのか?そのようなことも考えさせられる一冊でした。


 (1981年初刷・2007年34刷 文藝春秋・文春文庫)

私は負けない 村木厚子

2013-12-29 14:47:31 | Book
 

サブタイトルは「郵便不正事件はこうして作られた」となっています。
構成と聞き手は江川紹子さんです。

まずは目次から。これを紹介することにも意味があることだと思うから。


はじめに  村木厚子

第一部
第一章 まさかの逮捕と二十日間の取り調べ  村木厚子
第二章 一六四日間の勾留  コラム……冤罪の温床となっている人質司法  村木厚子
第三章 裁判で明らかにされた真相  コラム……特捜神話に毒されたマスメディア  村木厚子
第四章 無罪判決  コラム……検察への、国民の監視が必要  村木厚子
終章  信じられる司法制度を作るために  村木厚子

第二部
第一章 支え合って進もう  夫・村木太郎インタビュー
第二章 ウソの調書はこうして作られた 上村勉×村木厚子対談(進行…江川紹子)
第三章 一人の無辜を罰するなかれ  周坊正行監督インタビュー

おわりに  村木厚子

《解説》真相は今も隠されたまま 江川紹子

巻末付録 1郵便不正事件関連年表
     2上村勉・被疑者ノート(抜粋)


  *     *     *


冤罪事件というものが、たくさんあるとは知っていましたが、
この事件の経緯を読んでいますと、改めて検察の狡猾さと強かさがはっきりと見えました。
村木さんと江川さんの書かれた言葉は、これからこのような事件を知った時に、
必ず思いだすことでしょう。

無罪でありながら、検察側が強引に作りだす「有罪」というストーリー。
その線に沿って「調書」は作り出される。
「ノー」と言えば、あらゆる脅しが待っている。

もっとも印象に残った言葉。上村氏の被疑者ノートから。
(平成21年5月28日 取調官=國井)

一人で誰にも知られることなく発行するつもりだったから、
一番知られたくない決済権者の村木本人から倉沢へ渡すというのは
どう見てもおかしいと認めなかった→どうしても村木と私をつなげたいらしい。
だんだん外堀からうめられている感じ。逮捕された私から村木の
関与の供述が得られれば検察のパズルは完成か。(中略)
いつまでも違った方向を見ていると拘留(勾留?)期間が長期化しそうで恐い。
しかし、現次点で村木の関与は思い出せない。どうしたものか。



私の力不足ゆえ、この書の紹介が稚拙であることをお許し下さい。  


 (2013年10月25日・中央公論社 初版発行)

悪童日記  アゴタ・クリストフ

2013-11-05 17:12:36 | Book



 翻訳:堀茂樹


「アゴタ・クリストフ」はハンガリーのオーストリアとの国境近くの村に生まれ育ち、
ハンガリー動乱(1956年)の折に亡命して以来、スイスで暮しているようです。

この「悪童日記」は彼女の処女小説です。
フランス語で書かれ、1986年パリのスイユ社から世に送り出されました。
その後、日本で翻訳出版されたのは1991年となっています。
原題は「大きな帳面」となっているように、双子の少年が記した62章の日記形式になっているフィクション小説です。

主人公の双子の少年は「大きな町=ハンガリーのブタペスト?」から、
母親に連れられて、「小さな町=オーストリアとの国境にごく近いハンガリーの農村へ。
「母方の祖母の農家」へやってくることから、この物語は始まります。
父親は戦場にいる。つまり「疎開」ですね。母親は「大きな町」に一人で帰ります。
この祖母と母は十年も会うことがなかった。従って少年たちと祖母とは初めて出会い、共に暮すことになったのです。

祖母は近隣から「魔女」とも「夫殺し」とも噂され、入浴も洗濯もせず、ケチな生活をしている農婦です。
母親の愛に守られ、清潔な生活をしていた少年たちの過酷な生活が始まるのでした。
しかし少年たちは、この過酷ともいえる生活のなかで、逞しく、賢く、自立してゆくのです。
まず文字の勉強は、「大きな町」から携えてきた父親の大辞典と、祖母の家の屋根裏部屋にあった聖書をお互いに熟読します。
からだを鍛え、農作業を覚え、お金を稼ぐ方法を覚え、どのような過酷な状況にも生き抜ける心身を自力で育てるのでした。
それは大人ですらできないであろうと思われる過酷さです。これはちょっと表現しがたいものがあります。
人間の死すらも冷静に見つめ、迎えに来た母をその場で亡くし、祖母の死への願いを冷静に実行し、
捕虜収容所から逃げてきた父親の国境を越える逃亡計画にも双子の少年は手を貸しながら、父親は地雷で死ぬ。
死者が出たあとでは、その直後の逃亡者は逃げ切れる。双子のどちらかが。。。

衝撃的な小説ではあるが、読後に救いのない思いに陥らなかったのは何故だろうか?
それは双子の少年の並はずれた状況把握、判断の見事さにあるのだろうか?
そして彼等は双子であることによって、お互いのどちらかが生き残ることに賭けたのでしょうか?
人間はここまで強靭にも残酷にもなれる。
しかしそこは間違っているのではないのか?とこちらから主張できないほどの少年の強靭さを見事に描き出した小説であったと思います。
この「悪童日記」には続編が2冊あるようです。少年たちのその後の生き方をいずれ読んでみたいと思います。

 (1991年初版・1992年8刷・早川書房刊)

日本語のゆくえ  吉本隆明 (続)

2013-10-22 00:31:39 | Book


吉本氏の「無」の意味を「なにもない。」と解釈するのは違うんじゃないかな?
過去と未来が含まれる「神話的な想像力」と、その詩が俚歌(りか)のごとく
未来にむけて歌い継がれるだけの要素があるか?
それがないなら「無」だと言うことじゃないかな?

「意味を拒否した言葉」を駆使して、組み合わせて誰も描けなかった世界を
描こうとしているのではないか?そこに何があるか?ということではないの?
「今現在」だけを存在価値とすると、想像力は痩せてしまうのではないか?
「断想」ではなく、過去と未来を繋ぐものでなければ「無」になってしまう。

名作が何故ここまで残ったのか?
今の時代の詩が今後数百年生き残るだろうか?
数百年生き残る詩を意識して書いている詩人は今はいないでしょう。
そこまで高い基準で考えて吉本氏は「無」と言ったのではないでしょうか?


我が独断にて失礼。

日本語のゆくえ  吉本隆明

2013-10-13 13:30:50 | Book
すでにご逝去なさった吉本隆明氏(1924年11月25日~2012年3月16日)の
死の約3年前に出版された本ということになる。

これは、吉本氏の母校である東工大の集中講義「芸術言語論」の集成であるので、
会話体の文章で書かれています。

しかしながら、帯文に驚いた!
「今の若い人たちの詩は無だ。」と書かれていました。



さらに帯文の裏表紙にはこんな風に書かれています。



この講義は5章に分かれていますが、その最後の章「若い詩人たちの詩」のなかで
語られた言葉でした。

17人の若手詩人の詩集を、初めて読まれた吉本氏の驚きが伝わってくる。
これは単なる、若手と大御所との意識の相違ということで括れることではないだろう。
この驚きの先を考えてくださるはずの、吉本氏はもういない。

これを読んだ若手詩人が、これだけで吉本氏拒否という現象が起きたとしたら
それはとても残念なことで、吉本氏の懐の深さを理解した方がいい。
この先の会話は、もし生きていらっしゃったら実現したかもしれないのだ。


 (2008年1月30日 初版第一刷 光文社刊)

abさんご   黒田夏子

2013-08-12 21:45:47 | Book


まずは日本語の横書きに悩まされる。
さらに「、」が「,」になっているし、「。」が「.」になっている。
さらにまた「漢字」で書けば読みやすいであろうと思われる部分が
「ひらがな」になっているので、時々読み直しをしている。
作家の年齢(1937年生まれ)を知らなければ、若い娘の舌足らずの言葉遊びだと思うかもしれない。
こんな苦労しても読むのは、それなりの作家の意図があるのだろうと思いつつ……。読んでいる。

(中間報告)

読了。結局最後まで苦しんだ(笑)。

最初の「a」と「b」とは、どちらの小学校に行くのか?という選択であったが、
引っ越しのために、どちらも選択しないままに新しい奇妙な住居に移る。

母親不在となった、少女期から大人までの娘の生きた軌跡を描きながら、
そこに介在する父親と家事がかりとの、希薄で濃密な人間関係が描き出される。
「家事がかり」はいつの間にか「妻」のような存在となる。
その「受像者」として、その主人公が存在していた。

しかし、それなりの年齢になれば家を出る娘。

そこは「さんご」のような家であるらしい。書棚が間仕切りになったような家である。
この物語のなかでは、時間の進み方が遅かったり、逆戻りしながら進む。
最後の「a」と「b」とは、「巻き貝のなかからにじりでた者=父親か?」と幼かった主人公との散歩の
コース選択になるのだが、「a」と「b」とのどちらも選べないほどに、日々はかぐわしいのだった。
「さんご」はおそらく「珊瑚」だろう。

ここには、従来の「家」とか「家族」というものは存在しない。
貧しい暮らしなのか?豊かな暮らしだったのか?という問いに応答することはない。
あくまでも、この家の受像者としての主人公(=書き手)の視線が注がれているようだった。

芥川賞の選考委員の方々は、「読みにくい」とは思わないわなかったのよね?
わたしだけが苦しんだのよね?


 (2013年・文藝春秋刊)

福祉先進国スウェーデンのいじめ対策  高橋たかこ

2013-04-23 22:11:37 | Book


筆者の「高橋たかこ」は1978年生まれ。スウェーデン・ストックホルム大学人文学科卒業。
ストックホルム在住25年(この本が出版された2000年時点での数字であるから、そのまま在住であるならば38年在住?)。
通訳、翻訳、毎日放送レポーター。2人のお子様も今は30歳前後?
確認したいことがあるけれど、Googleには出てこないし、Amazonでは「高橋たか子」ばかりでてくる。
(いやはや、たか子さんの本は膨大にある。改めて驚いている。)


とにかく読了。(図書館の本である。)
13年前のスウェーデンのいじめ対策であるから、現在ではどの位の推移があるのだろうか? 
日本の13年前と比較すればいいのだろうか?

福祉先進国と言われるスウェーデンにおいても、「いじめ」は7人に1人の子供が関係しているとのこと。
日本における「通信簿」というものは、スウェーデンでは中学2年から始まるとのこと。
子供たちが、成績においてはじめて篩にかけられるのは高校受験である。
もちろん定期試験もなく、スウェーデンの子供たちは突然始まる成績競争を迎えることとなる。

スウェーデンの「いじめ対策」は日本よりも進んでいたと思われる。
それは国が主導権を行使して、組織化され、命令系統も学校現場へ早急に下る仕組みになっている。
また親たち、子供たちの「いじめ対策」に向かう様々な活動は日本よりもはるかに活発である。

しかし、「いじめ」の根底に動かし難くある「第三者の見て見ぬふり」は、日本でもスウェーデンも変わりはない。
これが一番の障害となることはあきらかなのではないか?

いじめる側の子供がどうしてどのようにして、そこに存在するのか?
それは両親の愛情が歪みなく、子供を抱いていたか?ということに尽きると思う。
スウェーデンはすでに、大家族の時代から核家族へ、さらに日本よりもはるかに高い離婚率である。
核家族は分子家族へ向かってゆくのではないか?
子供たちは、急いで大人にならなければならないところに追い込まれているのではないか?
「急いで大人になる。」ということは、子供にとっては「強くなる。」ということで、
その「強さ」の意味をを間違えるのだ。

そうして「いじめっ子」は子供世界を支配し、「いじめられっ子」を増殖させていく。
さらに「見て見ぬふりの子」を増殖させる。
自然に普通に愛されて育った子供にとっては、「いじめ」は想定外の体験である。
「いじめる心理」を理解できないし、「いじめをやめて。」と言っても、やめてはもらえない。

まずは「いじめっ子」を育てないことから出発しなくてはならないが、それは、どだい無理なこと。
ねばり強く、子供たち、親たち、学校などなど、さまざまな活動を通して対処するしかないだろう。
スウェーデンに始まった「オンブズマン」活動もその1つのやり方だと思うし、
行政、法律などが深く関与するというやり方もあるが、そのどれもが完璧ではない。
人間が人間として向き合うことを忘れないようなものでありたい。


 (2000年・株式会社コスモヒルズ発行)