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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ボクの音楽武者修行(続)  小澤征爾

2012-03-14 23:05:41 | Book


前回に書き落としたことがある。(以下、引用)

『指揮をするには、ものすごく鋭敏な運動神経がいるものだ。マラソン選手が毎朝走る練習をするように、
 僕も手を振り身体を動かす運動を続けた。
 試験だからといって普通の入学試験のように暗譜だけでやっていたら、体がナマってしまう。
 それでは大勢の人間の寄り集まりであるオーケストラを、自分の意のままに動かすことなど、とてもできるものではない。
 今後もぼくのように指揮の試験を受けようとする者があるだろうが、ぼくはその人たちに言っておきたい。
 何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。
 また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。
 それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確のオーケストラの人たちに通じるのだ。
 ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、1番貴重なものはこれである。』



指揮者のほとんどが「ムチウチ症」になるというお話は、たしか小澤さんの言ったことだったと思う。
指揮する姿を観ながら「なるほど。」と思ったことがある。
その上、小澤さんは「腰痛」もある。長い指揮者生活のご苦労を思う。

小澤征爾さんが「ブザンソン指揮者コンクール」で優勝したのは1959年。
その弟子筋にあたる佐渡裕が1989年……ちょうど30年後にあたる。

改めて、世界的指揮者として生きてこられた小澤さんの永年のすさまじいパワーを思う。
ここで少し休憩されて、また指揮棒を振り、後進の指導をなさってくださいませ。

ボクの音楽武者修行  小澤征爾

2012-03-12 12:33:25 | Book
小澤征爾64歳の挑戦 1/2 ~Autumnsnake おぉたむすねィく


小澤征爾さん復活!気迫のタクトに喝采


小澤征爾氏の1年間指揮活動中止の案内が、所属事務所から発信されました。

この本に関しましては、後ほど書きます。


《追記》

……と、書いたものの、この本は非常に楽しかったのですが、まとめるのは難しいことがわかりました。
簡単なメモでお許しくだされ。

  

若き指揮者時代(かわいい。)。バーンスタインとともに、初めての帰国を果たした小沢氏。


この著書のご本人の「あとがき」は「昭和37(1960)年2月」となっています。
ですからこれは小澤征爾(1935年9月1日生まれ)がまだ無名の若き日、貨物船に乗って日本を出て、ヨーロッパに渡り、
さまざまな国際音楽コンクールに優勝し、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任するまでの3年間の記録です。
フランス、ドイツ、アメリカが舞台です。その後の大いなる指揮者としての記録はありません。

しかし、その自然児のような、日々の疾走ぶりはわくわくします。
貨物船に同行した「スクーター」は、ヨーロッパの陸地を疾走します。
日本の旗(スクーター・メーカーからの無料提供&その宣伝を兼ねて。修理方法まで学んで。)を翻しつつ。
彼の天性の性格のせいなのか?ご家族のあたたかな、そして大らかな包容力のなせることなのか?
なによりも「西洋音楽」に触れたいという強い願いのなせることなのでしょう。
この後、彼は車を買います。簡単な運転免許証も取得します。
彼の行動範囲を広げるために欠かせないものだったと思います。

それでも日本を出て、10か月ほどでホームシックに。
幸せな小澤一族を離れて、1人で外国に暮らせば、それはごく自然の出来事かもしれない。
そしてドクターは、お金のない患者を病院ではなくて修道院に入れた。パリの毒気を抜くため。
寒いが、規則的な日常の仕事と食事、賛美歌を聴いた時の感動などなど…少し痩せたが元気になったとか。

この3年間を音楽家が文章にまとめるのは、小澤さんとはいえ困難なことに違いない。
日記代わりになったものは、家族宛てに小澤さんが書いた手紙を弟さんがすべてまとめて保存しておいたことによる。

(昭和55年7月発行 平成20年6月43刷・新潮文庫)

彼の手は語りつぐ  パトシリア・ポラッコ

2012-03-06 01:55:35 | Book


翻訳:千葉茂樹
原作&挿画:パトシリア・ポラッコ

パトシリア・ポラッコは1944年、ミシガン州ランシング生まれ。現在、同州ユニオンシティー在住。
カリフォルニア美術工芸大学卒。この絵本ではご自身の家族の歴史を書いていらっしゃるようだ。
この物語は、文字が読める奴隷黒人少年ピンクスと、文字が読めない貧農の白人少年シェルダンとの物語。
シェルダンには作者ポラッコ自身が投影されているようです。
南北戦争の時代に、それぞれの土地から北軍に徴用された少年2人が、部隊からはぐれた者同士として出会う。

「アンクル・トムの小屋」や「ルーツ」などに共通するテーマです。

足を怪我して歩けなくなったシェルダンを、ピンクスが助け、ピンクスの母の家に連れていく。
匿っていることが発覚すれば、母親共々どのような惨事が待っているか?
子供たちを地下に隠し、母親は銃殺される。
その後部隊に戻る途中で2人は南軍の捕虜となる。引き離されようとした2人の手はぎりぎりまで離されることはなかった。
シェルダンの手は、かの「リンカーン」と握手した手であったからなのだ。

黒人ピンクスは即刻しばり首になる。遺体は石灰の採掘跡に放りこまれた。
数か月後に、アンダーソンヴィル捕虜収容所を開放されたシェルダンは体重35キロだった。南北戦争は終わった。
この戦争は「黒人奴隷解放」を目的とした戦争だったのではないか?

そして生き残ったシェルダンは結婚し、沢山の子供に恵まれ、孫や曾孫にまで、これを語りつぐ。
それはさらに語りつがれ、それを受け取り、このような絵本にしたのが「パトシリア・ポラッコ」だった。

ここで友人からのメールの1部をご紹介します。

パトシリア・ポラッコの絵の才能を見出し、導き、障害(失読症)をも支えた美術教師が、
ポラッコに贈ったことば。中国の古いことわざです。

Yesterday is history. Tomorrow, a mystery. Today...a gift.

そして、先生はこういいます。

That's why it is called "the present"


  *    *    *


しかし、エイブラハム・リンカーンとはどのような人間だったのか?
「黒人奴隷解放」には熱心ではあったが、アメリカ先住民への敵意はなんだったのか?
この大きな矛盾に苦しむのは読者だけではあるまい。リンカーン自身、自らの矛盾に翻弄された生涯ではなかったのか?

さらに映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ 」を思い出す。
監督&主演「ケビン・コスナー」。南北戦争に嫌気がさした北軍の「ジョン・ダンバー中尉」が求めた任地は、スー族インディアンが住む、すぐ近くの掘立小屋だった。
しかしこの世界で中尉は人間性や信頼、愛、友情、約束を知ることになる。
これは、思い返せば「リンカーン」への批判とも思えてくる。



無駄話ですみませぬ。「ケビン・コスナー」の長年のファンですので、あしからず。

(2001年・あすなろ書房刊)

オニババ化する女たち 三砂ちづる

2012-02-15 00:03:28 | Book
映画『デンデラ』


 この著書の感想を書く前に、まず申し上げておきます。女性には「子供を産まない。」「結婚しない。」と主張する人生と、「子供を産めない。」という喪失の人生があります。後者の女性にとって、これはまことに残酷な著書だと思えます。この著書の趣旨は「女性よ、性をできうる限り幸福な営みとして受け入れ、子供を産みなさい。それもできるだけ早期に。」というものなのです。これはまさに酒井順子の著書「負け犬の遠吠え・講談社・2003年刊」の対極にあるかのようだが?

 さて、女性が仕事を持ち、自立できる時代が来たことは、おおいに喜ぶべきことです。しかしここでいつも問われるのは「母」と「子供」の問題なのでしょう。「母」が自立するために「子供」の存在は大問題となってしまった。まず今の出産適齢期にいる女性たちは「子供を産むか否か?」を考えるようになり、その後で「出産と育児の困難さ」に直面し、そして「仕事との両立は可能か否か?」という構図で考えるようになってしまったようです。

 しかし本来「子供」が産まれ、育ってゆくことは原初から引き継がれたものであり、特別なできことではない。無意識下にあった自然ないのちの営みを、女性の生き方の「大テーマ」として考えなければならない時代になってしまったということではないだろうか?元より「子供の生誕」と「女性の現代の生き方」とを並列して考えることには無理があるのではないだろうか?

 わたくし個人の過去の体験を思うとき、みずからのからだに内包されていた「人間の原初」を見たという鮮明な記憶があります。そして赤子は、母親の胎内で人間の進化の永い歴史を十月十日でやり遂げて、その時代に産まれてきたのです。口元に触れてくるものを「吸う」という記憶行為だけを母親の胎内からたずさえて……。そしてその行為の力強さも驚嘆に値するものでした。さらに四足歩行から二足歩行のいきものに変わるまでには約一年の期間があり、それらの過程は母と赤子の「蜜月時間」となるわけです。この相互の関わりが母と子供とのいのちの連鎖を自然に取り結ぶのではないでしょうか。そこは「フェミニズム」も「ジェンダー」も介在できない「アジール」的な世界なのではないかと思われます。

 この著書にはさまざまな事例が挙げられていて、列挙することは到底無理なことですが、「京言葉」についての事例のみご紹介いたします。わたくしにとっては一番興味深いところでもありましたので。「おいど」は通常「おしり」と解釈されていますが、実は「肛門、膣、子宮、外性器」全体を表現する言葉だそうです。また「おひし」は「女性性器」を表わす言葉で、お雛祭りの「菱餅」はこの「おひし」に由来するもの。ですから上方では「正座しなさい。」は「おいどをしめなさい。」となり、正座を崩すと「おひしが崩れますえ。」というお叱りを受けることになります。このなにげない日常の躾が、実はとても大切な女性の身体性を強靭に育てあげる教訓だったのですね。

 また、著者はさまざまな提言の根拠として、世界各地での母子に関する取材や保険活動の現状や統計報告もたくさん提出しています。また著者自身の「気付き」にすぎないものも記されています。この混在がこの著書の「生煮え」状況をつくっていることも否めません。この著書は「ジェンダー」「フェミニズム」の流れに「投げられた小石」の一つだと受け止めます。

「オニババ」を三砂ちづるはこのように定義しています。性と生殖にきちんと向き合えないまま、その時期を逸してしまった女性を昔話の「山姥」や「オニババ」に喩えたにすぎません。子供を持たぬ女性たちよ、早急に解釈して憤怒するなかれ。女性が「子供を産まない自由」について考えることのできる今日に至るまでには、過去の女性たちの永い永い歴史があるのだと考えてみてはどうか?ということなのではないでしょうか?

(光文社新書・2004年刊)

イタリアの詩人たち  須賀敦子

2012-01-29 14:24:01 | Book


この本は、須賀敦子が選んだ、19世紀から20世紀を生きた5人の詩人についてのエッセーであり、それぞれの代表的な作品の紹介ともなっています。
彼女の細やかな、そして真摯な眼差しが感じられる心地よい文章です。しかしながら読み手のわたくしはそこに紹介されている詩の原文にあたることはできない。
「完璧な韻律」と言われても、わたくしは須賀敦子によって日本語に翻訳された詩を読むしか手立てがない。これがもどかしい。


 ウンベルト・サバ(1883年~1957年)

「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら・・・・・・なにげなく選んだ道を、サバと歩くことができたなら・・・・・・」と、
1958年(サバの亡くなった翌年。)に言ったのはジャコモ・デベネデッティだが、その同じ思いを抱いて須賀敦子は「サバ」について書きはじめる。
この思いが彼女のエッセー「トリエステの坂道」にも繋がっているのだろう。
「サバ」はヘブライ語で「パン」を意味する。母親はユダヤ人だったが、彼女は「サバ」誕生の前に、「美しくて軽薄な」白人の夫に捨てられ、
幼い「サバ」はこの町のゲットーで育つ。父親のイタリア名はすすんで捨てて、「サバ」というペンネームとする。
彼の詩作の源泉は「トリエステ」と妻の「リーナ」、時代に遅れた詩人と見られる傾向もあり、ユダヤ人であることの孤独などから、孤高の詩人でもあったが、
須賀敦子は彼の貧しさのなかで育った誠実なやさしさ、韻律の美しさに注目した。


 ジョゼッペ・ウンガレッティ(1888年~1970年)

「ウンガレッティ」はエジプトのアレキサンドリア生まれ。両親はルッカ(トスカーナ)出身。2歳で両親を亡くし、24歳でアレキサンドリアからパリに出る。
「アフリカ人」の彼が、フランス文化とイタリア文化の坩堝に巻き込まれることになる。
「ウンガレッティ」の詩作は彷徨し、姿勢が整わないままに、ヨーロッパは第一次大戦の舞台と変わる。
この「死の時代」のなかで皮肉にも彼の詩は生命に肉迫するものとなる。そうして新しいイタリア詩の誕生を迎える。
季節をめぐるように「ウンガレッティ」の詩作は充足の秋へと向かう頃に兄を失い、九歳の息子を失う。
「死は生きることで贖われる。」と、28歳の「ウンガレッティ」は戦場でうたったが、秋の終わりには「挽歌」とともに、詩人の冬の季節が来てしまった。


 エウジェニオ・モンターレ(1896年~1981年)

オペラ歌手を目差したこともあった彼は、彼の詩の重要な特徴となった音楽的ともいえる韻律として詩のなかに活かされている。
さらにフランス語、スペイン語、英語などを独学で学び、外国文学を原語で親しんでいる。
音楽評論、外国の詩のイタリア語訳など、彼の活動の範囲は広く、それが詩人「モンターレ」の豊かな土壌ともなっている。
1938年に、ファシスト政党党員になることを拒否。翌1939年に出版された第二詩集「機会」は、
前線に送られた若きインテリ兵士の限られた荷物のなかには、しばしばこの詩集があったという伝説をもつ詩集となっています。

彼は「サルヴァトーレ・クワジーモド」とともに「ノーベル文学賞」受賞者でもあるが、
「サルヴァトーレ・クワジーモド」の受賞は否定論者が多かったのに対して、
「モンターレ」の受賞は否定論者はなく賞賛されている。
 また、人生の大半を精神病院で過ごした「ディーノ・カンパーナ」の死後の評価はさまざまに拡散するばかりであったが、
その彼に確固たる評価を与えたのも「モンターレ」だった。


 ディーノ・カンパーナ(1885年~1932年)

「ディーノ・カンパーナ」は精神分裂病者で、生涯の大半を放浪と病院で過ごしていることによって、彼の二十世紀詩人としての存在そのものが特異なものとなっています。
この難しい詩人に向き合い、須賀敦子は粘り強く彼の作品と生涯を書いていらっしゃいました。
「ディーノ・カンパーナ」がこの地上に残した詩集は「オルフェウスの歌」(自費出版である。)一冊だけであったが、
彼の残したものの特異ともいえる大きな存在感は、のちのち文学評論家を迷わせるものとなる。
死後「オルフェウスの歌」は再評価され、復刻されます。
さらに「初稿」「未完詩集」、「評伝」「注釈」など、続々と出版されます。須賀敦子は最後にこのように記しています。

『彼は狂気に守られて、純粋詩の世界だけを追求することができた、数少ない幸福な詩人であったとさえいえるのではないか。
その意味からも、彼は、やはり《見者》の群に属する、光彩を放つ存在だったと、私は考えたい。そして《見者》はいつも不幸である。』


 サルヴァトーレ・クワジーモド(1901年~1968年)

さて。須賀敦子も苦しみつつ書いているようで、この詩人の評価は難しい。
「ノーベル文学賞」受賞者ではあるが、この受賞そのものが不評であったという詩人です。
シチリア島のラグーサという小さな町で、駅長の子として生まれる。
文学仲間に出会うのはパレルモの中学時代。その出発点からスムーズに一九三〇年詩壇に登場してゆくことになる。
幸運ともいえる道筋だったように思えます。しかし須賀敦子の「クワジーモド」への言及には厳しい言葉が並ぶ。何故か?
「クワジーモド」は詩壇で、それ相当の評価をほぼ持続的に維持していたが、いつでも「疑惑」がついてまわった。
それは彼の作品の言葉の美しさとは裏腹に見えてくる、ものごとの本質性に対する徹底した無関心による非情さだった。
彼にも戦争は無縁ではなかった。しかし戦前の若い時代のみ、彼の詩は熱く息づいていたが、
戦後の「クワジーモド」は「水子の儚さにも似た世界にしかもとめられない。」ような「夢の職人」だったという厳しい言及となっていました。


 *   *   *   *   *

 以上5人のイタリア詩人について読んできましたが、読了後に驚かされたのは、このタイプの異なる詩人たちの生涯についてよりも、
須賀敦子が詩人をみつめる時のやさしさと同時にある「厳しさ」の方でした。それは「権威」に阿ることのない視線の確かさだったように思います。

(1998年・青土社刊)

モカシン靴のシンデレラ  中沢新一 牧野千穂(絵)

2012-01-27 22:41:18 | Book


「シンデレラ」の起源は旧石器時代と言われています。それがさまざまな形で世界中に拡散したものと考えられています。
500年ほど前、アメリカ大陸には先住民がおりました。そこに殖民者が入り込み、ヨーロッパ文化は先住民に伝わりました。
先住民のなかの「ミクマク族」とフランス人植民者は互いの神話や民話や物語を語り合いました。
そのなかの「シンデレラ=灰まみれ」が「ミクマク族」の心をとらえたのでした。

「ミクマク族」には不思議な技を持っている「灰まみれ少年」がいるのです。
それは竈のそばにいて灰まみれになっている少年です。
竈は死者の世界の入口なので、火のそばにいる者は死者と生者の交流の能力を持っているのです。この「灰」が最初のキーワードでした。 
そして「ミクマク族」が疑問に思ったことは、「灰まみれ」の娘が「灰」を拭って、きれいに着飾って、王子の心を惹くという点でした。
これは「聖なるミクマク族」には赦し難いことでしたので、ここで「ミクマク族」の「シンデレラ」が誕生したのでした。
原題は「肌をこがされた少女」。英訳の原題は「見えない人」でした。

王子は「ヘラジカ」の霊に守られた偉大な狩人で、聖なる魂の少女にしか見えない「見えない人」。
シンデレラのガラスの靴は父親のお古のモカシン靴(ここに密かな父親の守護を感じます。)、
衣装は森の白樺の皮(わたしの独断ですが、これはヘラジカの食料ではないでしょうか?)、
「幸運のお守り」とされる「ウェイオペスコール」と呼ばれるわずかな貝殻の首飾り(これは装飾ではないでしょう。)でした。
「シンデレラ」には、どの少女にも見えなかった「見えない人」が自然に見えたのでした。
ここで少女は体にあった火傷の跡が消え、焼けちぢれた髪が美しい黒髪になったのでした。

この物語は、ヨーロッパにおける「女性の美しさと幸福」と言うテーマをさらに深め、純化させたということでしょう。
中沢新一の翻訳とは言い難く、創作とも言い難い物語ですが、牧野千穂のやさしい絵がこの本をさらに魅力的にしたと言えるかもしれません。

 (2005年・マガジンハウス刊)

小澤征爾さんと、音楽について話をする・小澤征爾×村上春樹

2012-01-20 12:11:06 | Book
小澤征爾さん復活!気迫のタクトに喝采


これは対談集である。とても楽しく読みました。このご本を貸して下さった方に感謝いたします。
どうやら音楽の知識範囲という点においては村上春樹は小澤征爾よりも一枚上手のようです(^^)。

そしてこのお2人を最初に会わせたのは、小澤征爾のお嬢様「小澤征良」と村上春樹の奥様とが友人であったことから。
大腸癌の手術のあとで、時間のゆとりのあった小澤征爾の京都の音楽塾への村上春樹の訪問からはじまり、
次には村上家への小澤親子の訪問。
村上の書斎での、小澤との音楽談義がその出発点となったようです。
村上が持っていたレコードやCDの量のすごさと、その演奏や指揮の在り様に対する耳の繊細な感応度などなど驚くほどだ。
そうした交流のなかで自然にこの対談という流れに……。
そして、小澤征良のお薦め通りの1冊の対談本が出来上がる。それほどに音楽のお話は尽きることがなかったということ。
さらに、読み手までを楽しく巻き込んでしまうほどに楽しい1冊となった。

この本の企画&構成は村上春樹である。
小澤征爾の体調は決してよいものではなかった。対談の途中では、こまめに水分と食べ物の補給が欠かせない。
しかし、今までの過密スケジュールから一旦遠ざかり、こうした楽しく充実した時間が持てたことは幸いでもある。
それは、今までまとめて文字化されることのなかった、小澤征爾の天衣無縫な天才の音楽活動の魅力を引き出せるだけの
知識と耳を村上春樹が持っていたことによるものが多い。

そうして、村上は小澤のひた走った指揮者としての過去の日々の思い出を改めて引きだしたとも言えるだろう。
小澤征爾1人ではできなかったことだったかもしれない。
こうしたお2人の音楽と語りのハーモニーは心地よく読者を魅了する。

カラヤンやバーンスタイン、その他の指揮者としての姿勢、あるいは小澤征爾に託したもの。
それを書いていけばきりがない。
この本のおかげで、近所の図書館の小沢征爾のCDがほとんど借り出されてしまっているという現象まで起きているそうです。


この本からの引用はきりがないほどあるので、別の本から思いだしたことをここで引用します。大江健三郎の言葉です。

『いま、小澤さんは、大きく達成した、揺るがない巨匠だ。そして若い人たちに伝えるべきことを切実に考え、
 それを伝えるシステムを実現している。そして指揮台に立てば、あいかわらず若わかしく、
 新しさは、成熟のきわみの新しさだ。』(同じ年に生まれて・小澤征爾*大江健三郎・2001年・中央公論新社刊より。)


(2011年11月30日・新潮社刊)

The ARRIVAL   Shaun Tan

2012-01-10 14:15:24 | Book


まず、この「文字なし絵本」への深い興味がありながら、
購入を躊躇っていましたわたくしの背中を押して下さったK・Iさんに感謝していますことを記しておきます。
また邦訳がほとんど必要のない洋書のままで購入すればよいこと。
しかも円高の折り、このハードカバーの古色蒼然風に造られた魅力的な本を、アマゾンで安価に購入できることも教えて頂きました。
早速注文をしましたが、こんなにワクワクしながら待っていた本も久しぶり♪
届いてからは、読みかけの本を放り出して、何度も繰り返し見ました(読むのではなくて…)。

絵が語り出すことを何度もみつめる。その度に少しづつ変化する。
そのどれもが許される物語なのだと思う。

ストーリーを辿るだけならば簡単なこと。
妻と小さな娘を置いて、出稼ぎに出る男が、言葉の不自由さ、文化や環境の違い、日常の様々な戸惑いなどを乗り越えて転々として、
やがて家族を呼び寄せて、ハッピーエンドで終わる。それだけのこと。

しかしそれだけであろうか?
もともと妻と子を置いてきた土地の家々の屋根が並ぶその上にが龍の尾のようなものが静かにうねっている。
まずその土地から男は列車に乗る。そして船に乗る。船室の丸窓から見える男がだんだん小さくなってゆく。
海上の雲の表情が日々刻々と変わる。

旅日記を記しながら、男はそのノートの一枚で鶴を折る。
するとたくさんの見たこともない鳥たちが船上を、海上を飛ぶ。
すると、見たこともない巨大な人間らしきもの、生き物らしきものが立ちあらわれる。1つの島のごとく……。
人間ではないものが、この物語の案内をしている。
無名の港に着き、移民船(のようなもの)から下船したたくさんの人々は、それぞれのパスポートが与えられる。

そして天を飛ぶ気球(のようなもの)に吊るされた電話ボックス(のようなもの)で、
男が見知らぬ土地へ移動する。
どこにでもあるようで、どこにもないような土地だ。
通じない言葉を超え、様々な不幸な人々に出会い、幸福な人々の笑顔にも出会い、戦争にも逃亡者にも負傷者にも出会い、
職を探し、ようやく妻と子に送金し、やがて家族がよみがえるまで。
全く無音の世界のようでありながら、絵はしずかに読み手に語りかける。

「あなたが物語をお書きなさい。」と……。読み手は試されているのではないか?



*     *    *

「絵本「アライバル」作者ショーン・タンさん「YOMIURI・ONLINE」より転載、お許しを。


初めての来日。「高野山で宿坊にも泊まりました。東京はビルの上でみんながゲームしていそうなエキゾチックな街ですね」
 
震災後の日本でじわじわと売れ行きを伸ばしている絵本がある。
思わぬ災害によって新しい土地へ旅立ち、居場所を見つけていく男を描いたオーストラリアの絵本作家ショーン・タンさん(37)の『アライバル』(河出書房新社)だ。
新刊の翻訳刊行を機に来日したタンさんに、作品に込めた思いを聞いた。

「津波でも個人的な転職や恋愛でも、人生に大きく影響を与えるのは予測もできないような出来事だということを『アライバル』では描いている。
その意味で、日本の皆さんにも何らかの方向を示すことができていたらうれしい。」

絵のみで物語が進行する『アライバル』は、2500円と割高な絵本にもかかわらず、4月の刊行から半年間で2万5000部まで部数を伸ばした。
不思議な建物や生き物、食べ物など、異国の風景が細部まで丁寧に描かれる。現実のどの国とも言えない空想的な世界は、
中国系マレーシア人で1960年にオーストラリアへ渡ってきた父から聞いた体験談がモチーフとなっているという。

最近、『遠い町から来た話』も刊行された。『アライバル』に感動した岸本佐知子さんが翻訳を担当した15の物語は、
謎の生物で交換留学生としてやってくる「エリック」をはじめ、タンさんならではのSF的な世界が広がる。
そこに現実の人種差別や環境問題への鋭い風刺を読み取ることもできるが、描くときには、最初からテーマを決めているわけではないという。
「紅茶カップや犬といった身近なものを描いているうちに、潜在的に自分の中で引っかかっていたことが隠喩となり、目の前にあるようになるんです。」
作品に通底するのは、人間や世界へのあたたかい視線と信頼だ。「あらゆる問題は想像力で解決できると思う。
権威や当局は、人々に思考や想像力を使わせないで『どちら』と選ばせようとするけれど、現実には数十万の選択肢がある。
想像力を阻むことは、個人にとっても国にとっても不運の始まりです」。穏やかな目が鋭さを帯びた。

猫柳祭・犀星の満州(続)

2011-12-15 22:10:47 | Book
前日には、無駄話で終わったようなメモでした。すみませぬ。

大事なことを書き忘れました。
「猫柳」は、満州の早春を告げる銀色の花なのです。
↓の写真は偶然に、この本を読んでいる頃に、散歩中に撮ったものです。
これは赤い芽なのか?蕾なのか?わかっていませんでした。

しかし、この本を読みながら、改めて「猫柳」を調べてみましたが、これは「猫柳」の蕾でした。
早春を待って、また↓この樹に会いにゆきます。確認してきます。(こういう偶然のし・あ・わ・せ♪)





参照:「猫柳写真集」

猫柳祭・犀星の満州  財部鳥子

2011-12-14 23:46:07 | Book
哈爾濱



今日もまた天日昏し蒙古風  狼山(我が亡父の俳号)

いきなりこの拙句を出すことをお許し願いたい。この本を読む途中から思い出して、とうとう最後まで頭を離れることがありませんでした。

このエッセー集は、小説「天府 冥府・2005年7月7日・講談社刊」
書かれた詩人財部鳥子さんにとっては、「天府」の時代のみを旅した室生犀星の「満州」と、「冥府」までを幼い目で見てきた彼女の「満州」との
大きな時間の経過と、またそこに時を超えて共通する「黄砂」「広大な大陸」のイメージとが交錯した形で書かれています。
子供時代を「ジャムス」で暮らしていらした財部さんにとっても「哈爾濱」は大都会だったようです。
「哈爾濱」はロシアによってつくられた街であり、満州のなかで異国のような魅力あるところであったのだろう。
内村剛介も「哈爾濱学院」の退学を思い留まらせたのは「哈爾濱」という街の抗し難い魅力にあったという。

この本は、時には財部鳥子さんの「冷徹」とも思える犀星への視線が感じられます。
室生犀星が書いた「哈爾濱詩集」や満州を舞台にした小説は、「敗戦国日本」の時代ではないし、短い旅なのですから。
室生犀星の満州への旅(1937年)は、朝日新聞連載小説「大陸の琴」のためであったらしい。(これが犀星唯一の海外旅行である。)
この旅のために、犀星はこれも生まれて初めて「背広上下、Yシャツ、コート」を新調している。
洋服を着たことのなかった犀星は、この苦痛にも耐える旅だったらしい(^^)。


わたくしが「満州」「哈爾濱」に拘るのは、父が大学卒業と同時に「哈爾濱」へ行ったからです。
そして母はまさに「大陸の花嫁」として、父のもとへ嫁いで、敗戦、引き揚げを経験しているからです。
教師だった父には当然たくさんの教え子がいます。同僚もいます。
そういう方々も含めて、1度でも敗戦前の満洲…とりわけ「哈爾濱」で暮らした者にとっては、
そこは故郷のようになつかしい場所となるようです。敗戦ののちにもそれは変わらないのです。
母は頻繁に「マーチョ」に乗って、「キタイスカヤ街」へ買い物に行っていたようです。
幼い頃から、「哈爾濱」の思い出話ばかり聞かされて育ったわたくしにとっても、特別な故郷のようです。
(記憶は皆無ですが…。)


そして小さな島国、湿度の高い文化や風景に比べて、
数日かけて「黄砂」や「広大な風景」を通り過ぎてのちに、辿りついた「哈爾濱」という都会は驚くべきものであっただろう。
そこは「ロシア」の風景であった。
室生犀星が青春期に親しんだロシア文学への思いも重なってくるのは当然のことだったろう。
「詩は美しい若者が書くもの」と決めて、詩を離れ小説に越境していった犀星に「哈爾濱詩集」を書かせる魔力があったということか?

犀星が満州の行く先々で、新聞社の案内で行くところは、大方女性のいる(かなりきわどい)酒場であった。
そこで働く女性たちの社会的立場はひどく低いものであった。

ここでまた、父の話になるが、「哈爾濱」取材に訪れた、某作家の案内役を依頼されたという話がある。
父が連れていったところは、もとは修道院、今は酒場という場所で、そこを舞台に小説が書かれている。
……というわが一族の伝説もある。。。


一体わたくしはなにを書きたかったのか?混乱しているままで御免。

(2011年8月30日・書肆山田刊)