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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

セカンドハンドの時代 「赤い国を生きた人々」

2017-02-24 13:42:35 | Book



著者:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
訳者:松本妙子

この本は、1991年ソヴィエト連邦(社会主義)の解体から、ロシア連邦(資本主義)へと移行した時代を生きた人々(決して特別な人々ではなく、市井の人々)の声を取材した一冊である。なんと606ページ。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの熱意と永い歳月を要した困難な取材に、気の遠くなるような思いに迫られました。そして、多くの人々が国の激しい変動に翻弄されたことが、よくわかります。

「セカンドハンド」とは「思想も言葉もすべてが他人のおさがり、だれかのお古のような」そうした状況を言っているようだ。お仕着せの時代をさしているのだろうか。

歴史とは恐らく権力者と国家の動きを捉えているだけで、それに翻弄された市井の人々の真実の声は、なかなか聴こえてはきませんが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの言葉に尽くせないほどの膨大な取材によって、私はそれを聴くことができました。それは単なる取材ではなく、語り手にすべてをゆだねて、質問はしない。そして語られた言葉たちは、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによって、文学の域まで到達したと思う。

弾圧と犠牲のうえに、強大な軍事国家を築いたとしても、口を封じられた市井の人々が語りださなければ、真の歴史は見えてこないと著者は教えて下さいました。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著書は……

 「戦争は女の顔をしていない」
 「ボタン穴から観た戦争――白ロシアの子供たちの証言」
 「アフガン帰還兵の証言――封印された真実」
 「チェルノブイリの祈り――未来の物語」

以上4作と、「セカンドハンドの時代」を加えて、「ユートピアの声」シリーズとなっています。これらの困難極める仕事によって、2015年、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはノーベル文学賞を受賞されています。お国では、大きなニュースにはしていないようですが……。

以下、引用。 映画監督 イリーナ・ワシーリエヴナの話。
『ルーシ(ロシアの古名)では、太古の昔から懲役囚が愛されてきました。(中略)酔っぱらった男が、わたしたちのヒロインがどこに住んでいるのか教えてくれた。百姓家から彼女が出てきた。わたしはすぐに気に入った。青い青い目。均整のとれた豊かな身体つき。美人と言っていい。ロシア美人です。このような女性は、貧しい百姓小屋でもモスクワの豪華な部屋でも輝くのです。彼女は殺人犯の妻で、わたしたちはまだ彼に会ったことがありませんが、終身刑を課せられ、結核をわずらっている。彼女は、わたしたちがここにやってきた目的を聞くと、「わたしの連続ドラマね」とわらった。わたしは歩きながら、彼女を撮ることをどう切りだそうかと考えていたのです。カメラをこわがったらどうしようかと。彼女はいうのです。「わたしっておバカで、会う人ごとに自分の話をしちゃうんです。泣く人もいるし、ののしる人もいるわ。よろしかったら、あなたにもお話します。」話してくれる。』

心に残った……。

(2016年9月29日 第一刷 岩波書店刊)

アウシュヴィッツの図書係  アントニオ・G・イトゥルベ

2016-12-18 16:10:27 | Book



翻訳 小原京子

これは、ディタ・クラウス(1929年・プラハ生まれのユダヤ人)の実話をもとに書かれた小説です。
アウシュビッツ・ビルケナウ強制(絶滅)収容所の31号棟には、ユダヤ人の子供500人が収容されていました。1944年、若者アルフレート・ヒルシュはそこに学校を建てた。子供たちを20位のグループに分けて、それぞれに教師を付けた。もちろんユダヤ人の。教師たちは小声で語る。狭い収容所で、それぞれの教師の講義が邪魔をしないために。黒板も机もない。わずかな椅子があるだけでした。
そしてさらに秘密の図書館を作った。たった8冊の本だが、その図書係になったのが、「ディタ」という少女だった。彼女の仕事はたった8冊の本を教師と子供に貸し出し、傷んだ本の修理をして、毎晩違う場所に隠すことだった。もちろん彼女も秘かにそれらの本を何度も読んだ。

収容所の移動がある度に、人々は選別される。体力のある者とない者にわけられていく。そしてない者が殺される。ある者は移送される。この繰り返しで人々は淘汰されてゆく。病気で死んだ者は、大きな穴に投げ込まれるだけだ。移動先の環境、食糧事情、労働条件はどんどん悪化するだけだ。

別棟にいる父が死に、移動先で母が死に、独りぼっちのディタは、なんとか過酷な日々を生き抜き、ナチスの魔手から解放される時を迎えた。

440ページにもなる長編小説であった。中間部では辛くて読めないという思いもあったが、終章に向かってわずかな光が見えはじめたあたりから、一気に読み終えました。こんなことは二度とあってはならないと思うのは勿論のことだが、過酷極まりない状況のなかでも、ディタは懸命に生きた。その後の人生も……。そこに消えることのない「光」を見た。



 (2016年7月10日 第一刷 集英社刊)



現代詩の難解性をめぐって(抄) 鮎川信夫

2016-12-13 14:05:04 | Book


 

現代詩文庫9  鮎川信夫詩集より。

『詩の難解性をめぐって(抄)』より、引用。
『何事も国民大衆を第一とする社会は、よい社会なのだろう。しかし、他に害を及ぼさない少数者の楽しみのことを考えてやれる社会は、さらによい社会と言えよう。現代詩がその一部において難解であり、虚無的退廃的にみえたとしても、それをしいて駆逐することによって、今日の社会が急に明るくなるともおもえない。われわれの社会が寛容さを少しも持たなかった戦争期においてかえって難解、虚無、退廃の詩がひとつもなかったという事実を、もっと深くかえりみるべきである。
詩人があつかう主題は、古今東西、どこの国でも、そんなに変わりがあるわけではない。愛情、建設、戦争反対はもちろん、どんな主題であっても、それはわれわれの感情生活の母胎となっている土地や家や仕事のなかから、自由に求められてきたし、これからもそうであろう。』


これは、1958年、敗戦から13年後に書かれたものである。
戦後の鮎川信夫には、戦死した友「森川義信」への深い思いがある。

「死んだ男」

こうして、改めて読んでいくと、「荒地詩人」の考えていたことは、そのまま今の時代に引き継がれるものであった。

プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争  135枚が映し出す真実

2016-12-04 13:15:32 | Book







田島奈都子(編著) 
戦前戦中のポスターデザインを研究する東京都青梅市立美術館学芸員。 


長野県の阿智村に残されていた135枚のプロパガンダ・ポスターが、この本の出発点であった。戦前期の阿智村は貧しい農村だった。そのために満蒙開拓の悲劇の舞台でもあった土地である。
(かつてモンゴルに旅した時に、開拓民の墓地を訪れたことがあるが、小さな墓標に書かれた出身地が「長野県」が圧倒的に多かったことを忘れられない。)

おそらく1925年あたりから、プロパガンダ・ポスターは制作され始めて、1945年あたりまで続いていたのだろう。この本を読み進むうちに、戦状はどんどん苦しくなる。軍部は国民を追いつめていく。読む方もどんどん苦しくなって、それが怒りに変わるのだった。

兵士の募集、国民への戦意高揚、工廠要員の募集、貯蓄や国債の奨励、小児保健の奨励、銃後奉公、労務動員、米の節約、金や銅や真鍮の供出、養蚕の奨励、化学繊維産業の奨励、羊毛の供出、などなど……際限もなく続くプロパガンダ・ポスター。この費用も膨大なものだろう。

なんて、愚かな戦争に国民は騙され、苦しめられ、我慢し、さらに貯蓄や国債などただの紙になってしまったろう。憤怒の思いで読み終わりました。

こんなに愚かな日本の戦争の歴史から、まだ70年しかたっていないのに、またまた愚かな動きが感じられる今日この頃である。


 (2016年7月 勉誠出版刊)


大分以前に書いた詩ですが、ここにふたたび記します。


   この星  高田昭子  

   午後の陽だまりで
   わたしの子供がまどろんでいるとき
   君の国では明るい月が高くのぼり
   あなたの国では朝餉を囲んでいるだろう
   ――時は途方に暮れている

   いま わたしの国を温めている太陽は
   君の国からめぐってきた
   そしてやがてあなたの国へ朝を届けるだろう
   ――時がひそかに立ち上がり
     武器を手にする気配がする

   太陽が一日をかけてめぐってゆく
   この小さな星の
   わたしたちの時間が凍えてゆく

   愛よ 立ちなさい。

   この星には
   戦争と正義を一つの箱に入れて
   一羽の白い鳩に変えてみせる
   魔術師たちがいる

   わたしたちが
   その魔法にかけられる前に
   愛よ 立ちなさい。   

14歳〈フォーティーン〉 満洲開拓村からの帰還

2016-11-09 15:54:50 | Book



ノンフィクション作家「澤地久枝・1930年9月3日生まれ」の記憶による、少女時代の自伝である。4歳の時、建築技師だった父親の仕事の関係で家族とともに満州へ移住。1945年、吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げるまでの記録です。

戦後70年、澤地久枝の弟の孫が14歳になった時にこれは書きはじめられた。しかし14歳だった頃の彼女自身が、70年前の歴史をきちんと把握していなかったことも思う。その揺らぎのなかで、彼女は「書く」という方向を選んだ。

この本を読み終えて、何気なく「奥の細道」を開いた。(突然の展開で申し訳ない。)

行く春や鳥啼き魚の目は涙

耳慣れた芭蕉の句が、突然別の景色に変わった。引揚船の風景である。乗船する前に死んでしまった人もいたのだ。葫芦島に着いてからも待たされる難民の方々。そして、乗船できた引揚船のなかでも人は死ぬ。死んだ赤子は水葬に付される。(これは澤地さんの本には書かれていません。念の為。)共に身を投げようとした母親を男たちが引き留める。狂い泣く母親。海では誰が泣いてくれるのだろう?
私の内で、見えない糸がほつれながら伸びてきて、海の鳥が啼いて、魚の目が涙を流すのだと、私の脳内に巻き付いてきた。そこから次々と芭蕉の句が立ち上がる。

一つ家に遊女も寝たり萩と月

蚤虱馬の尿する枕もと

そこに「遊女」はいなかったと思うけれど、内地へ強制送還(引揚)されることになった在満日本人は、住み慣れた自宅を出され、指定された場所に収容される。それぞれの異なる生き方をしていた人々が、狭さと不衛生とに耐えながら、引揚の時を待つ日々。

しかし、14歳の筆者が1か月滞在した(授業の一環として。)満蒙開拓の方々の生活は、これに同じであった。帰宅した少女は、まず母親にお風呂に入れられ、頭のなかの虱退治をされた。1か月間入浴しなかったし、泥まみれになって農業に従事してきたのだった。満蒙開拓の男たちはほとんどが召集されていたから。

ヘンな展開になったことをお許し願いたい。
澤地久枝氏がこういう展開を願ってはいないだろうと思うと申し訳ない。

哈爾浜で生まれ、敗戦後は父の判断で新京に移住。そしてほぼ筆者と同じ時期に2歳で葫芦島から一家で引き揚げてきた私である。父母の思い出話はすべてではないし、2人の姉はわずかな記憶があるらしいのだが、私は内地の記憶しかない。そのために私は、こうした本を読み続けるしかない。澤地氏の弟さんのお孫さんに語り伝える術もないのだ。

(2015年 集英社新書 第一刷)

戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊

2016-11-04 16:08:56 | Book
 

モリー・グプティル・マニング

翻訳 松尾恭子

1933年、ナチス・ドイツは、ベルリンにおいて、大々的な焚書を行なった。
その中に、「ハイネ」の書籍も含まれていた。しかし、人々の「ローレライ」の記憶は消せない。そのためナチスは「全体主義らしい丁重さで……ハイネの名前を抹消し、歌だけ残した。」という。数え切れないほどの書物が焼かれ、1935年、ヒットラーの「我が闘争」のみが兵士の書物とされた。

それに対して、アメリカの図書館活動は戦場の兵士たちに、本を送ることを始める。筆舌につくしがたい戦うばかりの兵士の日々を、もっと人間らしくいきられるようにとの願いをこめて。
始めは本の寄付を呼びかけ、出版社には兵士のための本を依頼し、その協力は大きな力となった。しかし、紙がない。「戦時図書審議会」が組織されて、「兵隊文庫」と呼ばれる本が量産された。それは小型のペーパーバックだったが、移動の多い兵士の尻ポケットにも入るという、大きな利点があった。本の選択は発禁本にもおよび、兵士の要望にも応えたために、兵士からの感謝の手紙が届くようになる。時には作者が返事を書いた。

しかし、政治の世界には「本の規制」が動き出すが、ルーズベルト四選により、その危機をまぬがれた。(1944年11月4期目。しかし1945年春に死去。)その後間もなくヒトラーが自殺。1945年には日本の敗戦である。

その後もアメリカの戦争は終わらない。「兵隊文庫」の活動は弛まず続けられた。しかし、兵士たちが軍隊から帰国する時はきたが、陸海軍の大幅な縮小にすぎない。それでも予算縮小しながら続けて、1947年9月に「兵隊文庫」プロジェクトは終了した。

さて次は、帰還した兵士たちの就職や進学の問題が待っている。この本では、「兵隊文庫」によって学んだ兵士たちは、順調にそれぞれの生き方をしているように書かれていたが、果たしてそれは本当だろうか?

むしろ、私が納得したのは、アメリカの軍隊の規模の大きさと強さは、そうした国による兵士への待遇によるものだったのか、と思う。日本人が「天皇」と「神風」を信じて、脇目もふらずに戦争に邁進したのとは、根本的に違う発想だった。

しかし、戦争によって兵士が心を病むことを「兵隊文庫」だけで救えたとは、到底かんがえられない。そのことについては、一切触れていない本であった。ナチス・ドイツの「焚書」の数より、アメリカの「兵隊文庫」の数が上回ったことが強調されていました。

「兵隊文庫」のなかには、その後長く読み継がれたものも当然あった。
たとえば、F・スコット・フィッツジェラルドが1925年に発表した「グレート・ギャッツビー」は、作者の存命中は「失敗作」とみなされていたが、「兵隊文庫」となって、兵士の心をつかんだ。そして本土の人々も読むようになって、アメリカを代表する作品となった。どうやらこの日本語訳をしたのは2006年「村上春樹」だった。

内村剛介ロングインタビュー・生き急ぎ、感じせく―私の二十世紀

2016-10-07 21:43:58 | Book



インタビュアー、及び編集、構成は陶山幾朗氏である。


内村剛介に恋してる。今まで使用しなかった脳内のどこかが、にわかに働き始めたせいではないか?
内村剛介少年は紅い夕日にひかれて、少年大陸浪人となって満洲へ。「台連第二中学校」を経て「哈爾浜学院」へ。卒業後は関東軍に徴用。敗戦時にソ連軍に逮捕され、シベリアに抑留され、1945~1956年の間「スターリン獄の日本人」となる。
ここには、究極のエピソードがある。逮捕されたが、すぐに延吉の収容所から開放されたが、一緒に開放された友が発疹チフスの高熱におかされる。進退窮まった内村氏は、医師を求めて収容所に戻るしかなかった。そこから11年である。

帰国後の内村氏は、「挫折」や「悔恨」に陥るいとまはなく、エネルギッシュな執筆活動を始められました。しかしながら内村氏は日本へ帰ることに固執していたわけではないようです。奥様には「再婚」を勧める手紙を、ロシアから出していました。しかしながら、それで女性が「ああ、そうですか。」と再婚するわけないでしょ。自分の論理だけで妻の論理と重ねることのできない男よ。

この本では、抑留生活についてばかりでなく、ロシア文学者として、ロシア語とロシア文学、ロシアの国の特性についてたくさん語っておられます。今後ロシア文学を読む場合に、これが頭を離れないことでしょう。さらに、こんなお話がありました。以下引用します。(長いですが。)

『ロシアのように余りにも広大な土地に対して、人間の数が極めて少ないという、このどうしようもなく乖離した現象に発していると言えます。そして、この乖離ないしは空白部分というものを埋め、かつこれを支配することができるのは、つまるところより強力にして絶大なるパワーなんですね。だから中央集権もその極まった体制をもってしなければ、とてもこの広大な空間を有効支配できないということになるわけです。で、ともかくそれには人間が足りない、となる。そこで、どうするか。じゃあその足りないところへ捕虜をもってくるとか、あるいは囚人を使えばいいじゃないかということになる。要するに強制的な力をもってして人間を狩り集め、これをあてがって労働をさせればいいという発想になるわけですね。
このように、昔からロシアを開発するためには、極めて強大な集中力と強制力をもったところの中央集権的な力によって、その広い土地と人間とをドッキングさせるというのが唯一の方法だったわけです。そういう論理がもともとロシアにはあり、それが彼等の発想の根源にあると僕は思います。』

ロシアの捕虜となったご当人が冷静に分析しています。すごい。
このように、内村剛介氏はロシアの文学者、政治家、民衆、不満分子などなどを分析してゆきます。一番私が「目からうろこ」だったのは「コザック」でした。若い頃にロシア民謡を好んで歌っていた私でしたが、これらのほとんどがロシアの歴史を如実に表していたのではないだろうか?
コザックは、エンクロージャー(囲い込み政策)に反発して、新天地を求めて出てゆき、そこを開拓して豊かな土地にする。そこを国家が奪う。そしてそこはすでに自由の天地ではなくなる。また新天地を求める。この繰り返しがロシア全土を豊かにしていったということのようです。

書き出すときりがないほどですので、これにて終りにします。
あの世の内村剛介さま。遅ればせながら深く感謝致します。


 (2008年初版発行 2009年第3刷発行 恵雅堂出版株式会社刊)

失語と断念―石原吉郎論  内村剛介

2016-09-21 16:17:02 | Book




この1冊は、詩人石原吉郎の「死」に内村剛介が手向けるために書かれたものである。しかしながら、まさに、良い意味での「死者を鞭打つ」言葉に満ちていたのでした。驚いた。
詩人の言葉の世界は甘いのだと、ロシア文学者が鞭打つ。確かにそうかもしれないと思えてくるのも不思議だ。様々なロシア文学を例に挙げながら、あるいは「鳴海栄吉」の詩を紹介しながら、内村剛介の強い言葉が押し寄せてきました。これには抗う言葉が私にはない。
もしも、生きて石原吉郎がこの言葉の波に、立ち尽くすとしたら、彼は立ち続けることができただろうか?内村剛介の「言葉の強さ」はどこからくるのだろう?
ロシア文学者としての確固たる歴史的視点。抑留者としての石原吉郎との生き方、考え方の相違は大きい。内村剛介の存在を無視して、これからの石原吉郎の言葉を読むことは、私には不可能なことに思えてきました。

これが危険なのかどうか?迷いつつ……。

話題は変わりますが、内村剛介の本「生き急ぐ・スターリン獄の日本人」と「失語と断念―石原吉郎論」の2冊を読んだだけで、「イワン」という名前がこれだけ登場しました。「イワン」とは、何か?

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエーフスキー
父親のフョードル・カラマーゾフ
長男のドミートリィ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ
次男のイワン(イヴァン)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ
三男のアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ

『イワンの馬鹿』 トルストイ

『イワン・デニーソヴィチの一日』 ソルジェニツィン

『イワン・イリノッチの死』 トルストイ

全部、読まなくてはいけないような気がする。(既読もあるが…)内村剛介の言葉は怖い。けれども、その言葉の勢いに付いて行きたいような魔力がある。

話題はかわりますが、北条民雄の「いのちの初夜」を石原吉郎は愛読していたという。内村剛介もこの本には深い感銘を受けているという。ここに共通点があったことは嬉しい。内村は、北条以前に「いのち」と正面から向き合うような小説を書いた作家はいないとまで言う。


さて、最後に引用します。
『日本の荒廃は戦中の日本軍に日本人の在りようそのものに萌していたのであって、敗戦はそれをあらためてあられもなく示したにすぎない。日本はそして日本人はみずからをすでに裏切っていたのである。そののち石原がシベリアで見たものはもうひとつの世界大の荒廃であったというだけのことだ。だからサンチョ・パンサ石原にとっては戦前・戦中・戦後とかいうかっこいい区分はそもそもナンセンスなのであった。これは書くべき詩を持とうにももはや持ちようもないという自覚でもある。だが、このこと自体を示せば日本はまだ「詩」が出来上がるのであった。この逆説を彼ははじめおずおずと示した。だが、示してしまうとそれは“戦後”日本ではいくぶん新鮮に映るのであった。』

(1979年 思潮社刊)

生き急ぐ スターリン獄の日本人   内村剛介

2016-09-14 20:37:42 | Book




内村剛介(1920~2009)は栃木県生まれ。ロシア文学者、評論家。小学校卒業後に満州に渡る。大連の中学校を経て、1943年ハルビン学院卒業。関東軍に徴用。1945年~1956年までソ連に抑留されました。

この本の前に読みました石原吉郎の「望郷と海」に感じる「文章の渋滞」に対して、内村剛介の文章には速度と筆勢が強く感じられます。書き手が違えば当然のこととは思いますが、詩人と評論家との違いかしら?いや、ロシア文学者の視点かもしれません。

「あとがき」より。
『東京八重洲口のホテルの一室で一気に書き上げた。出来上がった作品には不満であるが、投げ出してその運命に委す。執筆中に深夜廊下のドアの開閉をかすかに聞きつけては思わず起ち上がったりした。独房の錯覚である。やはり十年の慣性は残っている。それは「生き急ぎ感じせく」日本の娑婆のくらし十年ぐらいでは消滅しないもののようだ。』
ここを読みますと、内村剛介の書き方が理解できたような気がします。

石原吉郎は、1953年にシベリア強制収容所から解放される。スターリンの死んだ年に。内村剛介は、その3年後の1956年にスターリン獄から解放される。ここは独房であり、強制労働はなかったようだ。

「審問」「抑圧」「破綻」の3章に分かれて書かれていますが、「審問」では、意味をなさない質問が繰り出されるばかり、そして独房へもどる。これが繰り返される。「抑圧」の章では「イワン」が多く引用されていました。「破綻」では、ようやく世界が動き出しました。囚人たちの歌が聞こえてきます。そしてスターリンの死。
さらに、「審問」には香月泰男の「運ぶ人」、「抑圧」では「列」、「破綻」では「鋸」の絵画が配されていました。


そして、永く残酷な11年間を、狂うことなく生き抜いた。なんと強い方なのだろう!

さらに引用します。頭を垂れて拝読しました。
『ラーゲリや監獄に拘禁されている者はその肉体が奴隷なのであり、逆に、それを監視する者はその精神が奴隷なのである、と。つまり肉体を拘禁され監視される囚人は精神の奴隷であるところの看守を監視し、その精神を拘禁しているのである。肉体の奴隷の中には精神を奴隷にしてはならぬという不断のたたかいがあった。囚人は外に向かってではなく、むしろ内に向かってまず存在の原理をたたかわねばならぬのである。衰え果てた肉体を養うところの物理的な糧は絶対的に乏しく、その不足を補うものは無限の精神の糧である。』

あの時代のソ連を生き抜いた方の、知的で力強いよきご本でした。


 (昭和42年・1967年初版発行 三省堂新書3)