ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

とげ抜き新巣鴨地蔵縁起・伊藤比呂美(続)

2010-03-31 21:32:55 | Poem
 これは小説でもドキュメンタリーでもエッセーでもない。れっきとした詩集なのです。図書館では「詩集コーナー」に置いてあります。書店ではどうか?詩集売り場に置くと売れないから、小説売り場にあるのではないか?

 本を開いて、まず驚いたこと。延々と長い17編のドキュメンタリーのような散文詩ですから、紙面は小説と同じように見えますが、上下の余白がたった6ミリです。手近にあった大江健三郎の小説と測り比べてみましたが、大江の本の上下の余白は2センチ~2,5センチ(←これが、ほぼ標準。)でした。

 なんという偶然!この本を夕べ読み終わって、少しだけメモ書きをしてから、寝る前に、読みかけだった大江健三郎の「水死」の続きを読んだ途端に、こんな文章に出会いました。こちらは小説ですよ。(←それにしても、なんという読書彷徨・・・。)


 『文庫本のこまかな活字が埋めている長方形、周りの白い部分(そこを英語だとmarginといい、その余白への書き込みのことをmarginaliaとも言うと、なにかの雑談で話すと、それは文化人類学者や建築家の友人たちと、たまたま周縁性ということを共通の主題にしていた頃だが、周りの者のいうことを聞き流して自分の黙想のなかに入るようだった篁さんが、しばらくして「マージナリア」という深い美しさの新作を発表した。自分の人生でいちばん創造的な環境のなかにあった時期!)・・・以下略。』


 些細なことを書きましたが、このはみ出さんばかりの紙面が伊藤比呂美さんの爆発するような生きるエネルギーを表わしています。某社の「定義集」のなかで「本の中で行の終わりが余白にとどかないところ――そんなのが詩ね。」という小学生の言葉が収録されているのですが、それを久しぶりに思い出しました。この子に教えてあげたい。「余白をはみ出るようなものも詩ですよ。」って。

 まさにこれは「満身創痍」の詩集です。カリフォルニアの家族(3番目の夫と小学生の娘のあい子)と、熊本の肉体的にも精神的にもすでにあぶない老親の介護との往復生活。さらに一方的にしか連絡のない1番目の夫との間の娘(ベイエリア在住らしい。)、2番目の夫との間の娘は拒食症&鬱病の大学生の「よき子」、さらに犬と猫。自称「たらちねの母」は、それらの家族のために走ります。「生きている。」を連呼しながら。そして比呂美さんを守ってくださったものは、「キリスト」でもなく、「死者の書」でもなく、まさにアニミズムの「とげ抜き地蔵」だったということです。

 愛娘もこの詩集を半年前に読んでいました。「どうだった?」とたずねましたら「つかれた・・・。」と申します。「でもねぇ。比呂美さんは一人っ子だったのかしら?なんだか兄弟姉妹の存在が全く感じられないのだけど。」とつぶやきましたら、愛娘は「お母さんだって、一人ぽっちでおじいちゃんとおばあちゃんの介護をしたでしょ。」と・・・。そうでした。かつて老親介護が始まったのは愛娘が大学の合格が決まった翌月からでした。下の息子はその後から大学受験期に入りました。心配はありましたが問題もなく通過しました。比呂美さんのようなご苦労はありませんでしたが、わたくしは結婚は1回だけでした。離婚もありません(^^)。そういえば海外生活もなかったなぁ。

 比呂美さんのお父上と、わたくしの亡父との奇妙な共通点がありました。それは「藤沢周平」です。その年齢に辿り着くまでには、さまざまな読書経験があるはずです。しかしその流れがある時からまったく変わります。亡父はわたくしが買ってきた本を「面白くない。」と言い出しましたので、夫に相談しましたら「藤沢周平はどうだろう?」と言いました。そういえば詩人の嵯峨信之氏が病室で読んでいたのが「藤沢周平」だったと、どこかの本で読んだことを思い出しました。それは大当たりでした。郷里の書店の「藤沢周平」を買い占めた感じでした。


  *     *     *

ポーランドの詩人「ヴィスワヴァ・シンボルスカ」の言葉が思い出されます。


   なにごとも二度は起こらない
   けっして だからこそ
   人は生まれることに上達せず
   死ぬ経験を積むこともできない

   (「なにごとも二度は」より)


   詩を書かない滑稽さより
   詩を書く滑稽さのほうがいい

   (「可能性」より)

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