語り部:競馬 その2
この時ジンメイは影から出て、頂上でその人物と向き合って立っていた。
話しかけて来たその人物は老人で、やせ細った顔に鷹のような目が鋭い光を放ち、白い髭が黄昏の風の中で軽くなびいていた。
誰もが語り部に対して抱くイメージそのものだった。
老人はその姿だけでジンメイを圧倒した。ジンメイは言った。
「お年寄り、オレの語りはあんたには及びません」
老人はハハハと笑った。
「お前はワシの姿だけ見てそう言うのじゃろう。だがワシは競馬の始まる前に馬や騎手を讃えることしか出来ないのだ」
ジンメイは、如何にもそれらしいこの老人が自分とは異なった語り部なのだと知った。
彼らは物語を語らず、ただ英雄物語の中の馬や武器や英雄の姿形、神山、聖湖、語り部の象徴である帽子を讃えるだけである。
その声は高らかで、言葉は華麗に響き渡る。
ジンメイは賛歌を真似て、自分の語りにも取り入れていた。
ジンメイは老人に言った。
「オレも賛歌を真似て喉を鍛えたことがあるんです」
「お前は神から授かった仲肯じゃ。神がお前に語らせている。鍛錬など不要じゃ」
「では、お年寄り、あんたは?」
「ワシは生まれながらに声が良くてな、それで、語ることにした。
だからワシは鍛錬しなくてはならん。一人でこの山の頂上に座っていろいろと考えているところじゃ」
「教えて下さい。今何を考えているのか」
「夕映えがこのように美しく輝いているのに、それにふさわしい詞がまだない。
どれほどの煌びやかな言葉があればこの壮大な光景を表現できるのか、と考えておる」
「あんたならきっと思いつきますよ」
老人はゆっくりと首を振り、悲しそうに言った。
「だが、それは変化し続けている、一瞬の間にいくつにも姿を変える。それらをとどめておく言葉がないのじゃ」
「それは言葉が少なすぎるから…」
「ワシには分からん。多すぎるからかもしれん」
この時、まるで夕映えが燃え盛る力を失ったかのように、満天の茜色が瞬く間に消え、空はすぐさま黒一色になった。
「夜の膜が降ろされた。さあ、祭りを楽しむ人のところへ行って語りなさい」
テントはそれぞれ一つの広場を囲んでいた。どの広場も焚き火が明るく燃えていた。
ジンメイは老人に別れを告げ、その焚き火の明かりへ向かって歩いて行った。
草原では決まりごとがある。
焚き火を囲んで共に酒を飲み物を食う者たちはほんの少し腰を上げ、新しく加わる者のために座る場所を作るのである。
そうしてから、酒の椀と羊のもも肉が手渡される。
ジンメイは二人の言葉少ない男の間に座って夕飯にありついた。
彼は酒には強くない。
だが、椀は何度も彼の前に回って来て、少し頭がくらくらした。
空を見上げると、夕映えで焼かれた黒い雲はすでに消え、群がる星々が天の幕に登場していた。
ジンメイは帽子をかぶらず語り部の旗も立てていなかったが、琴を袋から取り出し天の星の光を見上げて弦を弾いた。
こぼれ出た音が天で瞬く星の光と呼応した。
途切れ途切れの琴の音が人々を沈黙させた。
夜の風が炎を揺らし、旗がなびくのに似たぱちぱちという炎の音が聞こえるほどに静かになった。
琴の音は徐々に繋がり、伸びやかになり、勢いよく流れる谷川のように激しく雄壮に響き渡った。
人々は小声で囁きあった。
「あの男か」
「あのめくらか」
それはジンメイの耳にも届いた。
彼は微かに微笑むと、立ち上がり空を見上げ、琴の弦を弾きながら焚き火の傍、人々の中心まで進み、歌い始めた。
雪山の獅子王よ、
たてがみを緑に輝かせ
その姿を見せよ。
森で戦いを待つ虎よ、
美しい虎班を波打たせ
その姿を見せよ。
大海の底深く泳ぐ金の眼の魚よ、
六枚の豊かな鰭をくゆらせ
その姿を見せよ。
人の世に隠れ住む天から降った神の子よ、
機縁は至った
その姿を見せよ。
前奏が終わると、語り部は少し声を低くした。すると、喝采の声が聞こえた。
ジンメイは続けて琴を鳴らす。
今彼が聞いているのは人の声ではない。
キラキラと煌めく星が一粒ずつこぼれ落ち琴の上で飛び跳ねる音だ。
目を閉じると、駿馬が駆け回るのが見えた。
千年前の物語が生き生きと目の前に繰り浮かび上がる…
この時ジンメイは影から出て、頂上でその人物と向き合って立っていた。
話しかけて来たその人物は老人で、やせ細った顔に鷹のような目が鋭い光を放ち、白い髭が黄昏の風の中で軽くなびいていた。
誰もが語り部に対して抱くイメージそのものだった。
老人はその姿だけでジンメイを圧倒した。ジンメイは言った。
「お年寄り、オレの語りはあんたには及びません」
老人はハハハと笑った。
「お前はワシの姿だけ見てそう言うのじゃろう。だがワシは競馬の始まる前に馬や騎手を讃えることしか出来ないのだ」
ジンメイは、如何にもそれらしいこの老人が自分とは異なった語り部なのだと知った。
彼らは物語を語らず、ただ英雄物語の中の馬や武器や英雄の姿形、神山、聖湖、語り部の象徴である帽子を讃えるだけである。
その声は高らかで、言葉は華麗に響き渡る。
ジンメイは賛歌を真似て、自分の語りにも取り入れていた。
ジンメイは老人に言った。
「オレも賛歌を真似て喉を鍛えたことがあるんです」
「お前は神から授かった仲肯じゃ。神がお前に語らせている。鍛錬など不要じゃ」
「では、お年寄り、あんたは?」
「ワシは生まれながらに声が良くてな、それで、語ることにした。
だからワシは鍛錬しなくてはならん。一人でこの山の頂上に座っていろいろと考えているところじゃ」
「教えて下さい。今何を考えているのか」
「夕映えがこのように美しく輝いているのに、それにふさわしい詞がまだない。
どれほどの煌びやかな言葉があればこの壮大な光景を表現できるのか、と考えておる」
「あんたならきっと思いつきますよ」
老人はゆっくりと首を振り、悲しそうに言った。
「だが、それは変化し続けている、一瞬の間にいくつにも姿を変える。それらをとどめておく言葉がないのじゃ」
「それは言葉が少なすぎるから…」
「ワシには分からん。多すぎるからかもしれん」
この時、まるで夕映えが燃え盛る力を失ったかのように、満天の茜色が瞬く間に消え、空はすぐさま黒一色になった。
「夜の膜が降ろされた。さあ、祭りを楽しむ人のところへ行って語りなさい」
テントはそれぞれ一つの広場を囲んでいた。どの広場も焚き火が明るく燃えていた。
ジンメイは老人に別れを告げ、その焚き火の明かりへ向かって歩いて行った。
草原では決まりごとがある。
焚き火を囲んで共に酒を飲み物を食う者たちはほんの少し腰を上げ、新しく加わる者のために座る場所を作るのである。
そうしてから、酒の椀と羊のもも肉が手渡される。
ジンメイは二人の言葉少ない男の間に座って夕飯にありついた。
彼は酒には強くない。
だが、椀は何度も彼の前に回って来て、少し頭がくらくらした。
空を見上げると、夕映えで焼かれた黒い雲はすでに消え、群がる星々が天の幕に登場していた。
ジンメイは帽子をかぶらず語り部の旗も立てていなかったが、琴を袋から取り出し天の星の光を見上げて弦を弾いた。
こぼれ出た音が天で瞬く星の光と呼応した。
途切れ途切れの琴の音が人々を沈黙させた。
夜の風が炎を揺らし、旗がなびくのに似たぱちぱちという炎の音が聞こえるほどに静かになった。
琴の音は徐々に繋がり、伸びやかになり、勢いよく流れる谷川のように激しく雄壮に響き渡った。
人々は小声で囁きあった。
「あの男か」
「あのめくらか」
それはジンメイの耳にも届いた。
彼は微かに微笑むと、立ち上がり空を見上げ、琴の弦を弾きながら焚き火の傍、人々の中心まで進み、歌い始めた。
雪山の獅子王よ、
たてがみを緑に輝かせ
その姿を見せよ。
森で戦いを待つ虎よ、
美しい虎班を波打たせ
その姿を見せよ。
大海の底深く泳ぐ金の眼の魚よ、
六枚の豊かな鰭をくゆらせ
その姿を見せよ。
人の世に隠れ住む天から降った神の子よ、
機縁は至った
その姿を見せよ。
前奏が終わると、語り部は少し声を低くした。すると、喝采の声が聞こえた。
ジンメイは続けて琴を鳴らす。
今彼が聞いているのは人の声ではない。
キラキラと煌めく星が一粒ずつこぼれ落ち琴の上で飛び跳ねる音だ。
目を閉じると、駿馬が駆け回るのが見えた。
千年前の物語が生き生きと目の前に繰り浮かび上がる…
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