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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 60  物語 愛情

2014-09-03 23:56:08 | ケサル
物語 愛情 その1

 天馬ジァンガベイフを手なずけたジュクモは、この馬が必ず競馬大会で主人を助け勝利に導くことを確信した。
 そうなれば、ジョルは間違いなく自分の夫となり、自分は間違いなくリンの王妃となる。
 そう考えると、思わず心に喜びが満ちて来て、ジョルへの思いもゆっくりと深まっていった。

 時には途中で出会った美しい王子を思い出したが、胸の内に微かな恨み心を抱き、この二人が同じ人物にならいいのにと思うだけだった。
 ジョルに王子の美しさがあり、王子にジョルの神の力と勇敢さがあったなら。そう考えて思わずほほを赤らめ、両手で胸を押さえた。
 そうしないと心臓が野うさぎのように飛び跳ねて止められなくなりそうだった。

 だが、彼女はそれ以上想像を逞しくすることはなかった。
 彼女の使命はまだ半分終わったばかりなのだから。
 そこで、ジョル母子に早く出発するよう幾度となく促した。

 吉日を選び、三人はすべてを整え、馬を牽いて旅立った。

 途中、楽しげなジュクモは更に美しく、見つめるジョルは危く馬から落ちそうになった。
 それを見たジュクモは銀の鈴のような笑い声を残し、鞭を当てると先へと駆けて行った。

 そのなまめかしい後姿を眺め、ジョルが突然ジュクモとインドの王子の連綿として離れがたそうな様子を思い出すと、嫉妬の心が天から降りて来て、ジョルの心臓を鷲掴みにした。

 丘を越えるとジュクモは馬を停め、ジョルに向かって精一杯甘えた笑顔を投げかけた。
 ジョルはジュクモに近づこうとした。そうすれば心の中にある魔物が起こした痛みは消え去るだろう。
 だが、彼が手を伸ばしてしなやかな腰に触れるやいなや、彼女の手の中の鞭が軽く舞い上がり、馬を急かせて走り去った。
 ただ笑い声だけを振り撒いて。

 ジョルの、もともと醜い顔は暗い空気に覆われより醜く見えた。
 天から降った神の子は大いなる力を持っていたが、この時は嫉妬に心を掴まれていた。

 こんなふうにすべきでないとは分かっていた。なぜなら、あの美しい王子は自分が変化したものなのだから。

 だが、この移り気な娘は自分を誘っておきながら拒んでいる。
 道で会った見知らぬ者、でたらめばかり言う者、美しい顔を持った見知らぬ者に対しては恥じらいを捨てて懐に飛び込んだのに。

 手綱を持ったままぼんやりと道端にたたずんでいるジョルを見て、ジュクモはまた馬を駆って戻って来た。

 「あら、あなたの天馬はどうして私の馬に追いつかないのかしら」

 この時ジョルは自分に腹を立てないと決めていた。
 ジョルは言った。

 「僕の馬はまだ調教されていないし、鐙も鞍もない。早く走りたいなら一緒に乗ろう」

 言い終らないうちに飛び上がると、そのままジュクモの馬の背に降りた。
 ジョルの熱い息が象牙のように白いジュクモの首にかかり、ジュクモはさっと頬を赤らめた。

 「人に見られたらどうするの、降りてちょうだい」

 「僕の馬には鞍がないんだ」

 「父さんのお蔵の金の鞍を上げるわ」
 
 「天馬は扱いが難しい。良い轡が必要だ」

 「欲張りね。父さんのお蔵にいい轡があるのを知っているのね」

 「この大地で起こることは、知りたいと思えばすべて知ることが出来るさ」

 ジュクモにはこの言葉には別の意味が含まれているように思われ、胸のどこかがネズミの鋭い歯で噛まれたような痛みを感じた。

 だがジョルにとっては、彼女に向かって少しずつ近づいているだけで、やっと気持ちが晴れて来た。
 そこでまた話しかけた。

 「ジュクモよ、競馬に参加するには、この天馬にはまだ二つ足りない物がある。
  老総督がお前を迎えに寄こしたのだから、きっとお前が全部揃えてくれるんだろう」
 
 ジュクモは腰を抱いているジョルの手をさっと掃い、言った。

 「他の物は総督にお願いしてちょうだい」
 
 「不完全な装備は僕の千里の馬にふさわしくない」

 ジョルはジュクモを胸の中にさらにしっかりと抱きしめた。
 ジュクモは彼の胸に崩れ落ちないようにと無理して体をつっぱっていたので、ジョルはまるで木を抱いているような気がした。
 だがインドの王子に化身した時からこの魅力的な体がいかに柔らかいか知っていた。

 そこで馬から飛び降りた。怒りで胸が張り裂けそうだった。

 「もういい!お前たちで競馬に参加しろ。僕は天馬と共に天に帰る。
  極悪なトトン叔父さんを王にすればいいんだ。
  もしかしたら、競馬に参加するために誰かやって来るかもしれない!」

 ジュクモはその言葉を聞いて、心の中を見抜かれたと思い、慌てて答えた。

 「いいわ、必要なものがあれば言ってちょうだい」
 
 「しりがいで鞍をしっかり留めなくてはならない。
  鞍の上にはお前の家の四角い絨毯を敷かなくてはならない」

 ジュクモは思った。
 父親が最も大切にしている上等の馬具をジョルはすべて要求した。
 もし彼が本当に天から降された神の子ならなんでこんなに欲張りなのだろう。

 もし彼が本当にそうなら、トトンが王になっても変わりがない。
 違いは、トトンは年老い、ジョルはまだ若いこと。
 とは言え、ジョルの神がかりな様子より、トトンの堂々とした姿の方がまだましかもしれない。
 それに、インドの王子も求婚にやって来るはずだ。

 もしリンの人々の熱い期待がなかったら、すぐにでも鞭を振るって、喜ばせたかと思う傍から嫌がらせをする人物の前から走り去りたかった。

 ジョルは彼女の想いを見抜き、神の力のこもった杖を一振りすると、ジュクモの乗った馬は勢いよく走り出した。
 二つの丘を走り抜けると、やっと彼女の力で停めることが出来た。

 馬が停まったところは、まさに彼女とインドの王子が出会った場所だった。

 嫌がらせばかりするジョルを目の前にして、王子の愛情の深さが思い出され、別れ際に王子が嵌めてくれた水晶の腕輪を撫でていると、いつの間にかもう一度心が騒いでいた。

 水晶は涼しく滑らかで、まるで王子のきめ細かい肌のよう。
 水晶は透明で、まるで透き通って深く計り知れない王子の瞳のようだった。

 自分はリンの人々から競馬の賞品にされ、間もなく一国の王妃になる。
 だが、華奢で美しい王子は絶対にトトンやジョルの相手ではないだろう。
 そう考えると、思わず悲しみがこみ上げて来た。

 突然腕にはめた腕輪が枯れた蔓に変わり、自然にちぎれて、ぱらぱらと落ちて行った。
 ジョルが何時の間にか目の前に居た。

 彼はインドの王子と同じ姿勢で同じ岩の日蔭に座っていた。
 瞳は彼女の目を見つめ、深い思いが込もり、密やかに推し量りがたく、まさに王子の目そのものだった。

 ジュクモは自分の心を見抜かれたのを知り、傲慢だった頭を知らぬ間に垂れ、恥ずかしさに耐えた。









阿来『ケサル王』 59  物語 ジュクモ

2014-09-01 02:43:27 | ケサル
物語 ジュクモ その4





 天馬は聞くと、思ったとおり馬の群れを離れ、ゆっくりと歌声の方へと向かって来た。天馬は彼女たちのすぐそばで歩みを止めた。
 馬は振り返って、遠くへ走り去ってしまった野生の馬の群れを眺め、悲しげな人の言葉を話した。

 「私はジャンガペイフ、確かに天から降りて来て、すでに12年。
  脚力が盛んな時は荒れた山の中をむなしく駆けまわり、日々ご主人のお召を待っていましたが、
  ただ冷たい風が山の間で鳴るのを聞くばかりでした。
  馬の寿命は人には及びません。
  12歳の駿馬はすでに老人と同じ、もはや轡をはめられず、鞍の重さに耐えられません。
  今はただ、魂が天に召されるのを待つばかりです」

 ジュクモは思わず地に伏し拝んだ。

 「天馬よ。お前を荒れた山に無駄に年を過ごさせたのは、リンの人々が天意を知らなかったからです。
  今私たちはその罪を知りました。それでお前を迎えにきたのです。
  どうぞ主人を助けて大業を為させてください」

 「野の馬たちは私の来歴を知りません。何故なら智慧のない動物だからです。
  リンの人々が天から降った英雄を知らないのは、悪の道に落ちたからです。
  いまさら何を言うことがありましょう」

 天馬は言い終ると、空へと駆け上がり、そのまま雲に入り、逞しい体は雲の端に隠れた。

 絶望したジュクモはそのまま地に泣き崩れた。メドナズも地に伏し拝み、天に向かって叫んだ。
 すぐに神々がジョルの天界の兄トンチォングブを取り囲んで雲の端に現れた。

 彼が長い腕を軽く揮うと、手の中の輪縄が無限に伸び、天の外の天へ向かって飛んで行き、また引き戻すと、天馬が彼の傍らに立っていた。
 
 馬は言った。
 「私は人間界でむなしく12年を過ごしました…」
 トンチォングブは何も言わず、ただいとおしげに愛馬の首を撫で、一粒の仙丹を口の中に入れ、言った。
 「行くのだ!お前も主人も成人したばかりだ」

 言い終ると手にした輪縄を雲の端からメドナズの手まで降ろすと、それに続いて天馬も雲から降りて来て、しっかりと顔を挙げて二人の女の前に立った。
 神の前にいる時よりもより一層輝いていた。

 驚きと喜びにジュクモは駆け寄って馬の首に抱き付いた。
 この時、天馬は驚いたかのように再び空へ駆け上がった。

 あっという間に、潤った雲を通り抜け、滝のように降り注ぐ陽の光を通り抜け、高い天へと昇った。
 二人の女の叫び声を聞いて、天馬が口を開いた。

 「怖いからと言って目を閉じないで。下の広い世界をご覧になって下さい」

 メドナズとジュクモは目を開け、下界を見下ろした。
 雄大に広がる大地を見、明るく輝く湖と河を見、山脈がうねるように旋回して行くのを見た。
 リンの国が雪山が隆起するのに従って、漢、インド、ペルシャの間に高く聳えているのが見えた。

 漢は日の出る方角にあり、ペルシャは日の落ちる方角にあり、インドは熱気の立ち昇る南の方角にある。
 この三つの国は偉大な都を持っていた。都の大きな道には人と乗り物が往来していた。

 そして北の方角、そこはリンと同じ広大な荒野だった。
 竜巻が巨大な砂柱を巻きあげ、塩水の湖は太陽の光の下きらきら光る塩を結晶させていた。

 大地の広大さは彼女たちの想像をはるかに超えていた。
 漢の宮殿の瑠璃の屋根に月の光が注ぐ時、ペルシャの王宮の金の頂はその日初めての陽の光に照らされていた。

 天馬は再び口を開いた。

 「ご覧になりましたか。リンが世界のすべてではありません。
  最も素晴らしい世界でもありません」

 「降ろしてちょうだい。
  あなたがジョルを助けてくれなくても、私たちは彼と一緒にいなくてはなりません」

 天馬はそれを聞いて笑い出した。

 「私は暇に任せて空を飛んでいるのではありません。
  天から降った神の子の功績がまだ成っていないなら、私も天界へは帰れないのです。
  お二人を天上にお連れしたのは、見て頂くためです。
  リンには良い未来もあれば、悪い未来もあり、
  人の幸せと苦しみは人間の巨大な世界にすでに満ち満ちています。
  リンの未来のためにしっかりと見届けて下ださい」

 そう言うと天馬は彼女たちの衣装をなびかせ、空に駆け上り、リンよりも更に広大な世界を見せた。
 良い山と悪い山、良い水と悪い水、良い国と悪い国が見えた。

 飛び越えた地域はあまりに広く、そのため、彼女たちは非凡な空間を横切り、同時に神奇な時間を通り抜け、様々な始まりと終わりを見た。
 悪い始まりと良い終わり、良い始まりと悪い終わり、または混沌とした無知を見た。始まりはあるがないに等しく、終わりはあるが終わりの意義が現れていないのを見た。

 天馬が言った。

 「リンでは文字が出来たばかりです。
  そのため聡明なお二人も天下の大勢を語る本を読んだことはないでしょう。
  地上に戻れば私は一匹の馬、話すことは出来ません。
  お二人が天上で学んだ道理を、ジョルが混乱した時に示してあげて下さい」

 「彼は神の子です、私たちのような凡人の道理を聞くはずがありません」

 「彼は神の子ですが、あなた方と共にいる凡人でもあるのです。
  ジュクモ様、あなたの家には多くの駿馬がいて、あなたは良い馬を見分けることがお出来になります。
  私は少年のご主人様が杖に乗って草原で遊んでいる様子しか見たことがありません。
  彼が良馬を操っているのを見たことがありません。
  そこで、ご主人様の前で私の良いところを大いに褒めて頂きたいのです」

 天上を一巡りして戻り、ジュクモは喜びに満たされて輪縄をジョルの手に渡した。

 「ジョル、天馬は神の勇ましさを身につけたわ。あなたは間もなくリンを治めるでしょう」












阿来『ケサル王』 58  物語 ジュクモ

2014-07-26 02:33:17 | ケサル
物語:ジュクモ その3





 「老総督が競馬に参加するように言ったとのことだが、僕が持っているのは誰よりものろい馬だと知っているのだろうか」

 「私の家の厩には良馬がいくらでもいるわ。好きに選んでいいのよ」

 「でも、トトンおじさんのユウジアに勝てる馬はいないだろう」

 「では、どうしたらいいの」

 「天から降された馬がいるのだ。僕が生まれた時、野生の馬の中に降された。それは神様が僕のために用意した世にも稀なる馬だ。お前と母さんが力を合わせた時にだけ捕まえることが出来るのだ」

「私が? 野生の馬を捕まえる?このジュクモは高貴な生まれの娘よ。家の馬だって自分で世話することはないのに。野生の馬を捕まえるなんて、夢にも思ったことはないわ」

 「心配することはない。その馬は人の言葉が分かるのだ。お前と母さんなら必ず捕まえられる」

 「それなら、喜んで行きましょう」

 彼女がこう言い終るやいなや、もとの美しい顔立ちに戻った。

 ジュクモは心の中で呟いた。
 ジョルはその野生の馬の扱い方を知っているのに、なぜ自分で行かないのだろう、おまけに、走り回る野生の馬の群れの中から、どうやってその馬を見つけるのだろう。
 心に迷いがあるため、体は前へと進んでいかなかった。

 どうして出発しないのかとジョルが尋ねた。

 ジュクモは答えた。
 「どんなに河にも水源があり、荒野を行くには山の形を見る、と言うでしょう。天馬がどんな形をしているのか、どんな色なのか、どうして話してくれないの」

 そう言われてジョルはやっと母とジュクモに話した。

 「その特徴は九つある。
  ハイタカの頭、狼の首、ヤギの顔、カエルのまぶた、
  蛇の目、ウサギの喉、鹿の鼻、ジャコウジカの鼻の穴、
  九番目の特徴が最も重要だ。その耳に小さなワシの羽が生えている」

 ジュクモはまた尋ねた。
 「どうしてあなたは自分で天馬を捕まえに行かないの」

 ジョルは彼女をじっと見つめ、笑って何も言わなかった。

 メドナズは言った。
 「畑の土、種、温度、この三つが揃って作物は育ちます。
  母、ジョル、ジュクモ、三人の前世の縁はすでに定まっていたのです。
  私たち二人が力を合わせればジョルをリンの王に出来るでしょう。
  そして私たち二人だけがジョルが王となる栄誉を共に喜ぶことが出来るのです」

 ジュクモは自分が競馬の賞品であることを思い出した。
 そして、自分に注がれるジョルの目を見ているうちに、ふと、どこかで会ったような気がして、心が一瞬震えた。

 ジョルの黒くて深い眼差しはインドの王子の目の中にあった表情とそっくりだった。
 彼女は思った。
 もし、ジョルが王子のような男らしい顔だちで、穏やかな身のこなしであったなら、そしてインドの王子がジョルのように神に通じ変化する力を持っていたなら、自分は世界一幸せな女性になれるのに。

 ジョルはその時ジュクモの想いを感じ取り、一瞬、王子の姿へと変化した。
 ジュクモは何かを見たようだった。だが、目をこすってもっとしっかり見ようとすると、ジョルはまた元の姿に戻っていた。

 訝しく思いながらも、ジュクモはメドナズと共に山を登って行った。
 二人がパンナ山に登ると、野生の馬が群れをなして疾走しているのが見えた。
 大地が、ばちで打たれる太鼓のように細かく震えていた。

 すぐに群馬の中に混じって荒涼とした地を駆けまわる天馬を見分けることが出来た。
 前から見るとその姿は猛々しく威厳があり、横から見るとその体つきは力強く逞しい。

 二人が近づくと馬は顔を上げていななき、思い切り大地を蹴って走り去る。
 まるで旋風のように。

 何度も試みたが、近づく術がなかった。
 この時やっと、ジョルがこの馬は人間の言葉を理解すると言ったことを思い出した。
 メドナズは天馬に向かって歌った。


  弓の名手の長い尾の矢も

  英雄の手で弓につがえられることなく

  弓壺に入れられたままでは

  敵に勝利することは出来ません

  どんなに鋭利でも何の用がありましょう
  


  神の宝馬よ

  真に天が降した神の馬ならば

  主人を助けて功を立てなければ

  荒野を疾駆しても何の用がありましょう





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阿来『ケサル王』 57  物語 ジュクモ

2014-07-21 12:47:12 | ケサル
物語:ジュクモ その2




 「私はそのリンの人間です。でも、そんなお話、聞いたことがありません」

 美男子はゆっくりと口を開いた。
 「ジュクモという娘は絶世の美女だと聞いている。もしや、あなたがジュクモではないのか」

 この一言にジュクモは気が動転して、自分でも気づかずぬうちに、僧がまじない用の太鼓を振る時のように首を振った。

 「私はまだ求婚の礼をしたわけではない。だったら、あなたを娶ってもいいわけだ!」

 これを聞いてジュクモの心は喜びと悲しみの間を行きかった。
 なによりも喜ばしいのは、自分が心を動かされた男性が同じように心を動かされていることである。
 悲しいのは、王子はジュクモの美しさを耳にして求婚に訪れながら、途中で美しい女性に出会うなり、名前も家柄も聞かず気持ちを移してしまったことである。
 幸いに、出会ったのはこのジュクモで、他の娘ではなかったのだが。

 それでも、男性は他の男など及ぶべくもなく、彼女の心は最後には喜びで満たされ、彼に告げずにはいられなかった。自分こそ、その名を遥かまで伝える高貴な生まれのジュクモであることを。

 胸の高まりを抑えきれないジュクモとは異なり、王子はなんと、どうやって彼女がジュクモであると証明できるのかと尋ねた。

 ジュクモは長寿の酒が入った瓶を取り出した。それはジョルのために用意したものだった。
 瓶の口の封蝋に押された印が彼女の高貴な身分を証明していた。

 あろうことか、男性は酒瓶を受け取ると、よく見もせずに封印を剥がすと、瓶の中の酒を一気に口の中へと注ぎ込んだ。
 上等の酒は彼の顔を更に魅惑的に輝かせた。

 「リンの競馬に参加しなければ賞品の娘を手にすることは出来ません」

 「それなら参加しよう。美人を手に入れなくては王とは言えぬ」

 ジュクモは嬉しさを抑えられず、娘が持つべき誇りと恥じらいなどおかまいなく王子に抱きつき、ありとあらゆる甘い言葉を囁いた。
 王子は水晶の腕輪を彼女の手に載せた。
 ジュクモは白い帯に九つの結び目を作り王子の腰に結び、競馬の会場で会うことを約し、恋々としながらも別れを告げた。

 黒い人もインドの王子もジョルが変化したものだとは、ジュクモは知る由もなかった。

 砂の山が消え、緩やかな丘がいくつか目の前に現れた。
 それらの丘はナキネズミの穴だらけで、一つ一つの穴の入り口にジョルがネズミのようにしゃがんでいた。
 それを目にして、彼を迎えに来たはずのジュクモもびっくりして大きな岩の後ろに身を隠した。

 この時ジョルは分身をすべて元に収め、叫んだ。
 「女の妖怪よ、見つけたぞ、出てこい」

 ジュクモはすぐさま姿を現し言った。
 「ジョル、ジュクモよ」

 ジョルは彼女がインドの王子に示した甘い蜜のような態度を思い出して、思わず心が痛み、言った。
 「妖怪め。騙さるものか」

 彼女を目がけ石を投げつけると、たくさんの小石が飛び散って、ジュクモの貝のように美しい歯が石に当たってぼろぼろと抜け落ち、頭の半分の毛がそぎ落とされた。
 ジュクモは地面にぺたんと座り込み、大声で哭きだした。

 ジョルはジュクモの醜い様子を見て、心では大いに悲しみながら、その場でジュクモと分かった様子をするのも間が悪く、母を呼びに戻り彼女を家に連れて行かせた。

 メドナズは以前の美しいジュクモが毛が抜け落ち歯の抜けた奇怪な姿に変わってしまったのを見て、ジョルの悪ふざけと分かったが、はっきり言う訳にもいかず、ジュクモを慰めるしかなかった。
 「一緒にいらっしゃい、ジョルに頼みましょう。あの子は、あなたをもとのように美しくする神様の力を授かっているから」

 ジョルはジュクモを見るなりハハハと笑って言った。
 「言われてみれば、お前は誇り高いジュクモだ。てっきり妖怪が化けたのかと思った。以前妖怪がお前の姿に化けて僕を愛した振りをして、悲しい思いをさせられたことがあったのだ」

 「私は老総督の命で、あなたたち二人を競馬に参加するよう迎えに来たのです。道がどんなに遠いか、どんなに辛いかも顧みずにやって来たのです。それなのにこんな妖怪のように醜い姿にさせられて。戻ってから、どうやってみんなに会えばいいのか」

 話し終わらないうちに、また泣きじゃくり始めた。

 ジョルは再び嫉妬の心が甦り、彼女はこんな姿ではインドの王子に会えないと悲しんでいるのだろうと考えた。
 だが、インドの王子とは、彼女をからかおうと思って自分が変化したものだ。そう思い到ると心は穏やかになった。

 「お前を美しく戻すのは簡単だ、ただし、僕を助けるためにして欲しいことがある」

 「元の姿に戻れるなら、一つと言わず、十でも百でも、出来るだけのことをします」






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阿来『ケサル王』 56  物語 ジュクモ

2014-07-15 20:41:04 | ケサル
物語:ジュクモ その1




 リンの誰もが、トトンがジョルの策略によって競馬を計画したとは知るはずもなかった。
 そこで、老総督とギャツアたちは早くジョルにこの知らせを伝えなくてはと心焦った。

 彼らが競馬の時を草原に花が咲き乱れる季節まで延ばしたのは、ジョルに競馬に参加する準備の時間を与えるためだったのだ。
 リンにはトトンを超える勇気のある豪傑は事欠かないが、ユウジアと呼ばれる風を切る馬を超える駿馬はいなかったからである。

 ジュクモは心を痛めていた。
 「ジョルの馬とはあの杖だけ。杖を駿馬とみなすことは出来るのかしら」

 老総督はしばらく考え込み、
 「わしが心配なのは杖が馬とみなされるかどうかではなく、
  どのようにジョル母子を呼び戻し、競馬に参加するよう説得できるかどうかだ。
  みな考えてくれ、彼らを迎えに行くのに、最も望みを託せるのは誰だろうか」

 みなの目は一斉にジュクモへ注がれた。
 一つには、彼女がこの競馬の重要な賞品であること、二つには、ジョルを追放する時、彼女の口から出た叱責の言葉が、毒薬のように二人の傷口に注がれたこと、三に、天と競うほどに美しいジュクモはトトンが勝利してその妻になるのを望んでいないこと。

 果たして、ジュクモは口を開いた。
 「老総督様、英雄の皆様、この黄河のほとりの豊かな地へ来てから、
  私は自分の見境のない言葉を後悔しています。
  もし、今回ジョルとその母親を連れ戻すことが出来たら、私の心の傷もおのずと癒えるでしょう」

 すぐに、彼女は老総督の議事室を出て、家へ帰り荷物をまとめた。
 ジュクモが馬に乗り出発する時、後ろ温かくからからかう声が聞こえてきた。

 「面白いことは尽きないものだ。美しい娘が将来の婿を迎えに行くのを初めて見たよ」

 彼女の頬がひとりでに赤らんだ。まるで、早朝のまだ昇る前の太陽が染めた一刷けの朝焼けのように。

 この日、荒涼とした一面の広野まで来ると、晴れていた空が突然黒い雲に覆われた。
 黒い馬に乗った黒い人が手に長い矛を持ってどんよりした空気の中から現われた。
 顔は炭のように黒く、目は銅の鈴のよう、獰猛な顔付きにジュクモの美しい顔が青ざめた。

 黒い人は口を開いた。
 「お前のしなやかな姿は天女のようだ、身に着けた飾り物は星のようだ。
  富と美は両立しがたいと言うが、お前は何故あり得ないことを可能としたのか。
  この二つのものを一身に集めるとは」

 ジュクモは必死で心を鎮めた。体はまだ振るえていたが、声は落ち着いていた。
 「大樹は沼に育たず、好漢は女性を苦しめず、と言います。先を急ぐ者に道をお開け下さい」

 「お前を先に行かせるには三つの条件がある。選びなさい。第一、ここに残って私の伴侶になること」

 「いやです!」

 「第二、一度私と楽しむこと。その後、馬と身に着けた玉を通行料として置いていくこと」

 「なんでそんなことを!」

 「第三は下の下の策だ。色鮮やかな錦の衣装を置いていき、何も身に着けず家に戻ること」

 黒い人は無表情に、
 「オレには慈悲の心などない、悲しい声で許しを請うてもダメだ。
  すぐにお前の命を撮るつもりはない。我々には前世の縁があるようだからな」

 「玉は差し上げますが、馬は差し上げられません。あなたの愛人、伴侶になるなどとはもっての外。
  あなたは立派な方です。私のような弱い女性を苦しめないでください。
  私には使命があるのです。リンの未来の王を迎えに行くのです」

 「その幸運な者は誰だ」

 「若い英雄ジョルです」

 「ジョルという名を聞いたことがあるようだ。ここは許してやろう。
  事が終わったら馬と玉をここに届けるのだぞ。
  誠を示すために一番大切なものを置いて行け」

 ジュクモは躊躇することなく金の指輪を外して渡した。

 黒い人、黒い人が乗る黒い馬、そして荒野を覆っていた重苦しい雲はあっという間に消え去った。

 ジュクモは馬を急かして更に前へ進み、「七つの砂山」と呼ばれる場所へ来ると、七人と人と七匹の馬が山の上に立っているのが見えた。
 ジュクモは先ほどの驚きの後で人の姿を見たので、即座に馬を進ませた。

 近くまで来ると彼らは食事の支度をしているところだった。
 頭と思われる人物が岩影にもたれて休んでいた。

 ジュクモは彼を一目見るなり、金縛りにあったように足が動かなくなった。
 これまでに、このように美しく、このように高貴で穏やかな男性を見たことがなかった。

 彼の皮膚は赤銅のような輝きを放ち、頬は化粧を終えたばかりの女性が最後にさした紅のよう、漆黒の瞳は深い淵のようだった。

 さらに信じられないことに、ジュクモが現われれば男たちはみな酒に酔ったようになるのに、この人物は彼女など目に入らないかのようだった。
 彼女にとってはこれは何よりも礼を失した態度だった。

 馬を返して去ろうとすると、その美男子が口を開いた。
 「私はインドの王子だ。リンに求婚に行く途中でここを通った」

 リン? 求婚?

 ジュクモの頭に一人一人姉妹の姿が浮かんだ。心の中で、どの娘がその幸せに預かるのだろうと考えずにはいられなかった。




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阿来『ケサル王』 55  語り部 帽子

2014-07-11 20:41:35 | ケサル
語り部:帽子 その2




 ジンメイの叔父もまた少しは名のある語り部だった。
 だが彼は師匠について学んだ語り部だった。

 神授型の語り部は、それとはまるで異なっている。
 彼らは師なく自ら印を得るのである。その時が来ると、彼らの口から詩が溢れ出す。それは泉の水が湧き出すかのようである。

 ある地方に、ある日突然神授型の語り部が現れると、人から学び、胸の中の物語に限りのある叔父のような語り部はほとんどその存在理由を失ってしまう。
 叔父は優れた語り部になりたかったのだが、最後には精緻な技を持つ木版の彫師になった。

 低い長椅子で深く眠っているジンメイの表情の変化はまだ続いていた。
 口元には微笑みが浮かび、顔全体に慈悲の表情が覗えた。

 叔父は言った。
 「誰がお前に琴を贈ったのかは聞かない。どうやってこれほど耳に心地よい琴の音を出せるようになったのかも聞かない。今はワシに、語り部として最後に二つのものを贈らせてくれ。」

 ジンメイは言った。
 「帽子」

 叔父は笑った。
 「目を覚ましたかと思ったぞ。夢の中でどの神様がオレに帽子をもらえと言ったのやら」

 ジンメイの答えはなかった。

 叔父は一言謝ってから、半分彫った経版を片付け、厚さが様々で、向きも異なった彫もの用の刀を袋に仕舞った。

 部屋に入る時彼は言った。
 「二日ほど針仕事をすることになりそうだ」

 家の中には神の像はなかったが、彫り上げたが人に渡すのが惜しくなったパドマサンバヴァを描いた版木があった。
 彼は版の前で香を焚いた。

 「大師様。あなたはケサルが英雄になるのを助けられました。
  今私は甥ジンメイのために仲肯の帽子を縫わなくてはなりません。
  もし大師がお喜びなら、その帽子を美しく仕上げさせてください。
  今は縫うのも繕いも機械でするようになりました。
  私はもう何年も針を持っていないのです」

 それからの二日間、叔父は甥の傍らに座って語り部の帽子を縫った。

 何年も仕舞われていた金糸を織り込んだ上等な錦の布を断ち、最もよい絹の糸で繋ぎ合わせた。

 帽子はまるでそそり立つ雪山を思わせた。
 真ん中に大きな尖りがあり、周囲には更に三つの小さな尖りがあった。
 三つの小さな尖りには鷹や鷲の羽が差してあった。
 真ん中の尖りは天に通じる塔を象徴していた。三つの尖りは、多くの人が、敏捷な戦いの馬がピンと立てた耳だと信じていた。

 大きな尖りの中程には小さな鏡があって、この世界の一切が神の慈悲の目で見通されていることを示していた。

 叔父は一日かかって、帽子を縫い上げた。
 叔父が体に付いた細かな糸を払っている時、ジンメイは目覚めた。

 起き上がると嬉しそうな表情で言った。
 「オレの帽子だ」

 「甥よ、お前のしっかりした口ぶりで分かる。神様は本当にお前を選んだってことが」

 叔父は帽子の真ん中にはめ込んだ鏡を彼に向けた。
 「見てみろ!お前、見た目まで変わってしまったぞ」

 ジンメイは言った。
 「腹が減った」

 叔父は頑なに言った。
 「まず見るんだ」

 ジンメイは失明していない目を鏡に近づけ、思わず声をあげた。
 そこには、物語の主役、英雄ケサルが鎧兜を身に着け矢壺を背負い、駿馬に跨っている姿が見えた。
 それは、競馬に勝利し、人々の歓呼の声を受けた時の英雄ケサル王だった。

 ジンメイは起き上がり、帽子を前にして地にひれ伏した。

 叔父は訳が分からず尋ねた。
 「なんで自分の帽子を拝むんだ」

 「ケサル大王が鏡の中にいる」

 叔父も慌てて地に跪き、その小さい鏡を見た。
 「ワシには見えん」

 ジンメイは言った。
 「もし叔父さんにも見えたら、オレが叔父さんに帽子を作るんだが」

 叔父は帽子を整え、大きい尖りと小さい三つの尖りをしっかりと立たせた。
 「お前は本当にこの帽子をかぶりたいか」

 ジンメイは何も言わずに腰を屈め、頭を叔父の前に差し出した。

 叔父はジンメイに帽子をかぶせると、涙を流した。
 「今からお前はお前自身ではなくなる」

 「じゃあ、オレは何者になるのか」

 「神様の特別なしもべだ。神様から授かった物語を語りに、お前はこれからあらゆる場所を放浪し、自分の家を失うのだ」

 ジンメイは帽子の位置を整え、言った。
 「掛け図を探しに行かなくては」

 掛け図もまた語り部になくてはならない道具の一つだった。
 錦の布で表装されたケサルを描いた掛け図は、四方を語りながら旅する時、旗のように背中に挿して行く。
 縁のある地に着くと掛け図を地に挿し、その絵の下に座って琴を手に語り始めるのである。

 「しばらく休んでから行きなさい」叔父は言った。
 「これから、お前は帰ることのない道へ踏み出すのだから」
 話しているうちに、叔父の頬にはまた涙が流れた。

 ジンメイはこの時すでに語り部としての口調を身に着けていた。

 「おじさん、どうしたんですか。
  今のオレは、おじさんがなりたくて、でもなれなかったその姿なんです」

 言い終ると、ジンメイは琴の弦をそっと撫で、門を出た。





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語り部の帽子
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阿来『ケサル王』 54  語り部 帽子

2014-07-06 00:55:08 | ケサル
語り部 帽子




 丘の上に着いた時、空はまだ明けきっていなかった。

 振り返って、夜明け前の淡い光に包まれた村を見下ろした。
 村はまだ目覚めていなかった。だが、ジンメイは村を後にしようとしていた。

 草むらでは、大きな露がぶつかり合いころころと転がって、彼の柔らかな革靴に落ちた。
 わずかな荷物を背負い、村を出て先へと進んだ。
 村のはずれの羊小屋を囲む太い杭が朝の光に黒く光っている。
 檻の中に横たわっている羊たちはまるで灰色の雲のように、外に向おうとする光を懸命に夢の中に留めようとしているかのようだ。

 この静かな村は一人の羊飼いを失おうとしていた。
 太陽が昇った時、村人たちは羊を牧場に追っていく男を新たに探さなくてはならないだろう。

 彼は微かに笑い、向きを変えて大股で前へ進んでいった。
 歩むごとに道端の草が当たり、ずっしりと重い露が一粒一粒足の上に落ちるのに任せた。

 三日後、ジンメイは一本しか道のない小さな村に着いた。
 村には六弦琴を作る年老いた職人がいた。

 指さされた庭に入っていった時、年老いた職人が造り上げたばかりの琴を試していた。
 貝の様に丸い琴の空洞に息を吹きかけ、それを耳のあたりまで持ち上げて注意深く音を確かめる。
 その顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。

 老職人は言った。
 「さあ、試してみろ」

 弟子の一人が出てきて琴を受け取ろうとした。すると、老人は言った。
 「お前じゃない。あの男だ」
 老人は入って来たばかりの人物に直接琴を渡した。

 ジンメイは言った。
 「オレですか?」

 老人は三人の弟子に顔を向けて言った。
 「これはとても良く出来た琴だ。わしが作った中で一番いい琴だ。今、これを受け取るべき者が来たのだ」

 「この男が…」

 三人の弟子が同時に声を上げた。彼らは、琴がこのような男の手に渡るとは思ってもいなかったのだ。
 ジンメイの、見えない方の目は大きく見開かれ、見える方の目は逆にしっかりと閉じられた。

 この村は牧人相手の仕事で成り立っている。だが、この工房はそうではなかった。

 この男の来歴を知るには、その身なりを見るまでもなく、間抜けて見えるほど頑な表情を見るまでもない。
 歩くと体が左に右に揺れるがに股の脚を見れば、そして、体から立ち上る牧人特有の獣臭い匂いを嗅げばそれで十分だった。

 弟子たちには、たとえ幻覚を誘う草を食べても、琴がこのような者の手に渡るとは想像できなかっただろう。
 しかもそれは、老いた琴職人がその生涯の最後に造り出した、最も優れた琴なのである。
 そこで彼らは一斉に声を上げた。

 「この男が…」

 「そうだ、この男だ。お前たちが琴に油を塗って磨き上げた時、ワシはこの男が来るのが分かったのだ」

 「どうして分かったんですか。占い師みたいに」

 琴職人は三人の弟子には構わず、ジンメイの方を向き言った。
 「持って行きなさい。お前は夢に見た様子そのままだ」
 
 「親方はこの男を夢に見たんですか」

 「そうだ、神さまがワシに夢を見させたのだ。
  神さまは言った。お前の琴は一番ふさわしい者に出会う、と。
  神さまは言った。お前の琴作りの生涯はこれで終わりだ、と。
  さあ、若者よ、お前の琴だ、受け取りなさい」

 ジンメイはおどおどと琴を受け取り、うっかりして琴の弦に触れた。琴は美しい音色を立てた。

 「オレ…金を持ってません」

 弟子はいらいらして言った。
 「金がないのに何しに来たんだ。羊で払おうっていうのか」

「とんでもない。羊の群れは村の人のもの、オレは雇われて番をしてるだけで…羊はオレのじゃないんです」

「でも、お前は琴を探しに来たんだろ」

「そうです、オレは琴と語り部の帽子を探しに来たんです」

 今度は琴職人が苛立った。
 「まだ持って行ってないのか」

 ジンメイは言い訳しようとした。
 「でも、オレは本当に弾けないんです…」

 怒った老人は棒を手にして、野良犬を追い払うかのようにジンメイを庭から追い出した。

 こうして語り部は自分の琴を手に入れた。
 三日後、ジンメイは琴を弾いて語りに使う拍子を取れるようになった。

 道を行く時、ジンメイは、自分の耳の奥に神の使いが体を縮めてしゃがみ、リズムを響かせているように感じて、拍子に合わせて足を踏み出し、拍子に合わせて、大通りを得意揚々と歩く人のように体を揺らした。

 歩きながら彼は突然気付いた。水の動き、山の起伏はもともと同じリズムであることを。
 そのリズムは一つだけでなく、異なったリズムもあることを。
 
 風は草を波打たせ、天空では様々な鳥が様々なリズムで翼を羽ばたかせる。

 より微かなリズムも感じることが出来た。

 風が岩の空洞を通り過ぎ、水が樹の中を昇り、鉱脈が地下で伸びて行くリズム。
 ジンメイはいとも簡単に琴を鳴らし、それらのリズムを真似ていった。

 叔父の家のまだ青い実を付けた木で覆われた門の前に辿り着いた時には、すでにさまざまなリズムを繋ぐことが出来た。

 いつの間にか耳の奥でリズムを刻んでいた神の使は消えていた。
 それは彼自身が彼の手の中の琴を通してあの長く古い歌のリズムを聴き取っていたのだった。

 高鳴る戦いの太鼓、軽やかな蹄の音。神が降りてくる時の憤怒の雷鳴、女の妖怪は鞭を揮うように蛇の形の稲妻を振り動かす…

 叔父の家の門の鉄の環を叩いた時、その音はジンメイを現実の世界へ引き戻し、ここ数日何も食べていないことに気づいた。
 扉が開くのを待たず、ジンメイはそのまま気を失った。

 ジンメイの叔父は出て来るなり、すぐさま琴を目に目をやり、倒れている甥に向かって言った。

 「運命の時が訪れたようだな」

 ジンメイの叔父は人を呼んで、ジンメイをスモモの木の下の低い椅子に寝かせ、ヨーグルトを与え、香を焚いた。
 ジンメイはまだ目覚めていなかったが、辛そうに寄せていた眉はほころんでいた。

 空気の中にこれまでと異なる匂いが漂った時、彼の鼻は敏感にひくひく動き、緩んでいた口元がきりっとした線を描いき、ざらついた石のようだった耳にかすかな光が透けて見えた。

 ジンメイの顔はまさに変化していた。

 無表情な顔から、今は生き生きした顔に変わった。奇跡はこのように起こるのだ。

 一人の人間が今まさにこれまでとは違う人間に変わろうとしていた。
 朴訥な牧人が、胸に幾万もの詩を秘めた「仲肯」―神から授かった語り部となるのである。

 そう、表情の変化はその顔かたちまで変化させるのである。









阿来『ケサル王』53  物語 トトンの夢

2014-06-29 21:36:10 | ケサル
物語:トトンの夢 その2




 老総督は常と同じく落ち着いていた。
 これは、天から降った神の子がリンで王となるという予言が実現されるためではないか、と考えていた。

 そこで彼は明るい表情でうなずき、言った。
 「名に恥じず行動力のある英雄が老いていく者に代わるべきである。
  競馬の賞品とするのもよい考えだ。公明正大な方法でリンの王位、美女、七宝を手に入れるのなら、
  誰も反対する理由はないだろう。

  ただ、ダロン部の首領に伺いたい。
  空が凍り雪の降る季節は競馬にふさわしくないのではないか。
  何故首領のご本尊はこの時にこの予言を降されたのだろう」

 誰もが老総督の言葉は理に適っていると思った。

 草原には確かに競馬の習慣がある。だがそれは毎年、春花が開き、山神を祭る季節であり、雪と氷に閉ざされる時ではなかった。

 トトンはかなり焦っていた。
 「古いしきたりを変えていけないことがあろうか。
  ワシは占ってみた。五日後の正月十五日が吉日である。
  競馬はその日に行おう」

 老総督はゆっくりと口を開いた。
 「十五日が吉日であるのなら、このように重大な問題は、リンの全ての主だった者たちを招集し、
  もう一度競馬を催す時を協議すべきではないだろうか」
 みなは頷いて同意した。

 ギャツァには分かった。
 これは老総督が十分な時間を用意して、弟ジョルを探し出し、彼を競馬に出てさせるためだ、と。
 もしジョルが参加しなかったら、リンではどの英雄の馬もトトンの玉佳には勝てないだろう。

 ギャツァは言った。
 「競馬のことには反対しない。だが、私の弟ジョルを忘れないで頂きたい。
  ジョルと母メドナズは我々によって追放された。
  にもかかわらず、彼は我々に新たな生存の地を見つけてくれたのだ。
  もし彼を参加させないのなら、私はこの新しい国には残らない」

 トトンが鋭い声で言った。
 「それはお前の母親が違う国から来たからではないのか」

 「では、私の弟は参加できないというのか」

 トトンは笑った。
 「誰かジョルが駿馬に乗っているのを見た者がいるかね。
  わしは同意する!
  ただし、ワシが送った杖を馬代わりにしてはならぬ」

 この時、正月十五日まではわずか五日しかなかった。だが、この五日間がトトンにとってはこの一生で過ごした全ての時間より長く感じられた。

 この世にこれより素晴らしい賞品はない。王位、美女、七つの宝はすぐ目の前にある。
 彼にすれば、この賞品はまぎれもなく自分に合わせて設けられたもので、競馬大会が始まれば、それはいとも簡単に手に入るのだ。

 だが、彼は出来るだけ心の焦りを抑え、表面はいつもの落ち着きを装い、これまでにない忍耐力で、リン始まって以来最も参加者の多い酒席を用意した。
 今回の宴は実は自分が王になる前奏であり、出来る限り盛大でなくてはならず、会場は煌びやかでなくてはならなかった。

 正月十五日になった。

 交差する小道はすべて太い道に集まり、太い道はダロンの城塞に通じていた。
 リンの有力な人物たちが、渓流のように一つに集まった道を通って連なるようにこちらに向かって来る。

 男たちは雪山のように荘厳で、娘たちは湖水のように穏やかだった。
 勇み立つ若者たちは、弦の上で放たれるのを待っていた矢のように一斉にダロン部の宴のため建てられたテントに集まった。

 始まりを告げる高らかな声が響き渡った。

 「上座の花模様の金の敷物には、ギャツァ・シエガ様、ニぺンダヤ様、アヌバセン様、レンチンダル様、四名の王子と英雄がお座りください」

 「中央の錦の敷物の席には、老総督、ダロン長官トトン様、センロン様、ランカセンシエ様、四名の王さま方がお座りください」

 「熊の皮の席には、遥かに名を轟かす占い師、公証人、医師、星占い師の方々がお座りください」

 後方の一列は、リンのセンジアン・ジュクモをはじめとする十二人の美女が座る場所だった。
 その他の人々も美食の盛られた膳の前に座った。

 みなが肉や酒を大いに味わった頃、トトンは、神が夢に現われリンは競馬で王を選ぶよう託されたことを話した。
 勿論、王位に加えて美女と珍宝が競馬の賞品になるということも忘れなかった。

 「すべては神のみ旨である。
  今日我がダロン部に出向いて頂いたのは、競馬の時と道筋をすぐにでも決めるためである」

 トトンは会場を見まわし、ひどくがっかりしたように口調に変えて続けた。
 「ただ残念なのは、我が親愛なる甥ジョルがまだ来ていないことだ!
  だが、彼が本当に参加したいなら、その時は杖に乗って現われるだろう」

 トトンの息子トングは言った。
 「リンのこれから催される競馬について、道筋は短すぎてはならない。
  この競馬を世に知ら示すため、起点は最もインドに近い場所とし、
  終点は最も漢に近い東方にすべきである」

 それはあまりに突拍子もない思い付きで、全ては手に入れたも同然というダロン部の傲慢さを露にしていた。

 センロンは皮肉を込めた口ぶりで言った。
 「競馬を真に名だたるものにしたいなら、起点は空に、終点は海にすべきだろう。
  賞品は当然日と月であり、リンの幾万の民が競馬を観戦する席は星々の上に設ければよい!」

 これを聞いて皆はどっと笑った。

 トトンは自分が精魂を傾けて膳立てした盛大な宴会が、人々の心を抱え込めなかっただけでなく、逆に嘲笑される結果になるとは想像していなかった。 そこで大声で息子を下がらせた。

 この時ギャツァが立ち上がった。

 「競馬の起点は阿玉底山、終点は古熱山、途中で美しい黄河を超える。
  みなが競馬を見る場所は魯底山の頂、法術師と僧が祈祷する場所はその反対側の拉底山としよう。
  時間は早くからの慣わしの通り、草が萌え水の美しい夏としよう」

 居並ぶ者たちは声をそろえて「よし!」と賛同した。

 トトンも仕方なくはやる心を抑え、みなと共にまだ来ない夏を待った。







阿来『ケサル王』52  物語 トトンの夢

2014-06-24 01:03:31 | ケサル
物語:トトンの夢





 ジョルが夢を見たのと同じ時、彼の叔父トトンも夢を見ていた。

 仏教がリンに広がり始めた頃、トトンは続けて呪術を修練するだけでなく、仏教の密教の中でも法力の強い馬頭明王を本尊と崇め、日夜休むことなく秘法の修練に励んでいた。
 馬頭明王はどのような姿をしているのだろうか。
 それは勇猛無敵の憤怒の相である。まさにトトンの想像していた通りの、強い神通力のある者が必ず顕すであろう、人々から畏怖される姿そのものだった。

 もし修行者が馬頭明王の法力を得たら、羅刹、鬼神、天龍八部の一切の邪気を降伏し、迷い罪業、疫病、病苦を消滅させ、さらに一切の呪い、法術から逃れることが出来るという。
 もし、この法を修めたなら、トトン自身が金剛不壊の体になるのである。

 彼の修行はまるで成果がなかった。もしくは、彼の修練の導師である僧が言うような成果は時が経ってもまだ表れていなかった。
 彼は猜疑心が強く、この僧はまだ功力を持つに至っていないのではないか、あるいは、天地にはもともとこのような法力の強い馬頭明王はいないのではないか、と疑い始めていた。

 まさにこのような時、夢の中で目の前に馬頭明王が現れたのである。

 それが本当の馬頭明王ではないとは、トトンは知らなかった。

 天母ラマダムは去る時に、早くトトンの崇拝する馬頭明王に変化して、競馬によってリン国の王位を争う時をトトンに決めさせるよう、ジョルに言いつけていた。
 ジョルは母を助けて眠りに着かせてから、自分も寝床に横になった。

 ジョルは悩んだ。自ら赴いて、疑い深い叔父を神が定められたこのはかりごとに引き入れるべきがどうか。
 このような疑問を抱きながらジョルは眠った。
 心の奥深くで人々から崇められる王位を渇望していたからだろうか、眠るとすぐに夢の中で起き上がり、馬頭明王に変化して叔父トトンの夢の中に入った。
 不安で落ち着かないトトンが自分の前に額づいているのが見えた。


 「私はもうご本尊様がいらっしゃるかどうかなどと疑ったりは致しません」
 ジョルは多く話すことはせず、馬頭明王の口を借りて言った。
 「疑り深い者よ、今、目の前にいるのは馬頭明王である」

 トトンは地にひれ伏して拝み、仕切りに慄いた。
 ジョルはそれにはかまわず歌を作り、歌いながら夢から離れていった。


 「リンはこの後、国とならずにいてはならぬ
  ダロンの長官よ、そなたが担うべきだ
  リンの勇士は馬の術に優れ
  馬上の英雄は民の信を得る
  そなたの久しい王への志
  そなたの我が教えの敬虔な修行に免じ
  そなたを競馬に勝利させ王とならせよう」


 トトンは目覚めると、秘法を修行している本尊の姿はなかったが、その歌声は耳元に残っていた。
 興奮して、再び眠りには着けなかった。よいことに、すぐに太陽が東方に連なる雪の峰の間から昇って来た。

 トトンはまた馬頭明王の神像に何度も礼をし、いつものように茶を持って来た妻タンサに夢を伝えた。
 「神は御旨を告げられた。ワシは競馬で王となるのだ」

 タンサは疑問に思った。
 「みんなは言ってますよ。あなたの甥ジョルは天から下された…」

 トトンは怒って妻の話を遮った。
 「いいか。リンの王位だけではない。競馬の賞品はリンで最も美しいジュクモだぞ。このような美女こそ国王の妃の栄誉を受けるのにふさわしいのだ」

 タンサはそれでも言わずにいられなかった。
 「そんな予言をするなんて、それは神様じゃなくて悪魔でしょうよ。天の神様はもうすでに…」

 トトンは、今回神は本当に自分に望みを託したのだと信じていた。
 何故なら、彼が法術に優れているだけでなく、どの勇士の駿馬も地を駆ける力は彼の玉佳馬に及ばないことを、リンの人々はみな知っているからである。
 そのため、年老い色香は衰えながら、舌だけは良く回るタンサは彼の怒りを爆発させ。

 「黙れ、このアマ!神の予言は金の宝塔だぞ。その下品な舌で叩き壊せるとでも思ってるのか。ワシの子を産み育てていなかったら、その舌を引きちぎってやるところだ。でたらめが言えないようにな。ワシが競馬で勝利し、ジュクモをダロンの家に迎えたら、黙っていれば飯を食わせてやるが、また口を挟んだら追い出してやる。ジョルが王になると信じているなら、ヤツについて行け」

 タンサは仕方なく口をつぐみ息子に訴えに言った。
 ところが、息子の口ぶりも父とまるで同じだった。
 「ダロン部の女として、ダロンがリンの王になるのを望まないのか」

 この時、トトンは幻術によって数羽のカラスに変化し、ダロン部の砦を出て各へと飛んで行った。
 カラスは弓を恐れるものだ。そこで、カラスたちは各に飛んで行くたびに、まずカーカーと啼いてから、各首領をダロン部での重要会議に召集する旨をしたためた木の札を落として行った。
 人々が木の札を拾い書かれた文字を読んでいるうちに、カラスは得意げな声を発して慌ただしく飛び去った。

 二日の間に最も遠くのの首領までもが到着した。

 トトンは家臣に命じて食事と飲み物で老総督と各の首領や英雄を歓待させたが、自分はもったいぶって姿を現さなかった。
 皆は苛立った。
 「我々を呼んだのは美味い物で歓待するためだけではないだろう」

 その時、トトンはやっと姿を現した。
 「我々が黄河の縁に流れて来て何年たったかはさておき、我がダロン部がこのように皆様を歓待すれば、三年は大目に見ていただけるでしょう」

 老総督は言った。
 「皆と相談すべきこととは何か」

 トトンが目で合図すると、家臣が護法神馬頭明王が夢の中でどのように予言したかを伝えた。
 リンは競馬大会を開き、勝利したものが王になり、勝者は更にリンで最も美しいセンジャン・ジュクモ及び金、銀、瑠璃、シャコガイ、メノウ、真珠、ほら貝などの様々な珍宝を手にすることが出来る。

 皆は即座に理解した。トトンは競馬を通してリンの王権を得ようとしていることを。
 だが、この趣旨は神から授かったのだと言われては、反対は出来なかった。

 タンマはやきもきしてギャツァを見た。
 ギャツァも緊迫した目線を老総督に投げかけた。







こちらもよろしくお願いします。

2014-06-23 09:10:44 | ケサル


こちらもよろしくお願いします。

やっと三部の内の第一部が終わりました。

そこで内容をまとめてみようと思い書いてみたのですが、
一気に書き上げるのは難しい!

もう少し気楽に、でも大切に考えていきたいと思い、
新たな場を作りました。

Kesaru Note
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ケサルは壮大な史詩であり、語り部による語りで伝えられてきました。
様々なバージョンがあり、様々なアプローチがあります。
これまでの研究も学びながら、私なりの考えをまとめていきたいと思います。

物語を読んで興味を持たれたら、こちらもよろしくお願いします。

どちらかと言えば、自分のためのメモです。
ご意見をいただけたら嬉しいです。








阿来『ケサル王』51 第二部 物語 天上の母

2014-06-20 03:23:06 | ケサル
第二部
競馬で王となる




物語:天上の母

 ジョルは夢を見た。

 夢の中で、天界から高貴な女性がふわりふわりと降りて来るのが見えた。周りを囲んでいた雲が消えると、女性はすでに自分のテントの前に立っていた。

 母メドナズは深い眠りの中にいる。

 月は高く懸かり、その清らかな輝きが大地に降り注ぎ、辺りを満たす光は昼よりも明るかった。

 ジョルは思った。この方は本当の仙女ではないだろうか。
 彼は深く礼をして、仙女にテントに入るよう勧めた。テントの中はすぐに不思議な香りで満たされた。ジョルは言った。
 「仙女様、お座りください。母を起こして熱いお茶を入れさせましょう」

 「母!」
 仙女の体が激しく揺れた。仙女はかなりの間ジョルに背を向けて立っていが、身をかがめて熟睡しているメドナズを見つめ、また暫く沈黙してから言った。

 「このかわいそうな女性をゆっくり休ませましょう。この夜は、お前ともう一人の母のものです」

 ジョルの心にはっきりとした痛みが過った。
 「もう一人の母?」

 仙女は頷いて言った。
 「そうです、私は天上の母ラマダムです」
 
 「天上?」

 ジョルは心では理解したようだったが、表情はぼんやりとしたままだった。
 この様子を見て天の母ラマダムはジョルを胸に抱き寄せ、悲しみをこらえて言った。

 「そうです、お前は天から来たのです。神様がお前を人間の世に降したのです。リンに行って妖魔を倒し、民を蒙昧から抜けださせる王とするためです」

 その時、天上に居並ぶ神々が姿を現し、夜の空の一角に虹と陽の光が現われた。
 神々は智慧の扉を開く美しい天の調べを奏で始めた。
 神々の手の中の弦が鳴らされると、人間の智慧を呼び覚ます音が光線のように駆け巡った。

 音楽はジョルに天界への朧げな記憶を呼び覚まし、人間界でのこの十年の境遇を思い起こさせた。
 ジョルは心の奥底に恨みが生じるのを抑えきれず言った。

 「もし、あなたが本当に私の天上の母であるなら、何故息子がこのような辛い目に遭うのに耐えられたのですか」

 この一言に、ラマダムの目に涙があふれた。
 「それは、おまえ自身が人間界に行って苦難を救うという大願を発したからです。私のお前への思いは、人間界の母と同じです」

 ラマダムは息子に、彼自身が下界に行って衆生を魔の道から救い、慈愛と正義の国を建てるとの大願を発したのであり、母はただ息子が大きな功績を成し遂げ天上界に戻った時に、やっと安心できるのだ、と伝えた。

 地上の息子は天の母に尋ねた。
 「私は本当に天から来て、天に帰るのですか」

 天の母のほほに清らかな涙が流れた。だが厳かに言った。
 「お前がしたことすべては天から見えています。お前は人の世に来た使命を忘れてしまったようですね。愛する息子よ、本当に忘れてしまったのですか」

 ジョルは言った。
 「本当に覚えていないのです。それでも、私はやはり多くの妖魔を倒し、善悪を見極められないリンの人々のために黄河の上流に新しい故郷を探し出しました」

  天の母は手を伸ばしジョルの目にそっと触れた。ぼんやりしていた目が澄んだ光を放った。母はもう一度慈愛の手をのばし、ジョルの顔をそっとなでた。わざと滑稽にゆがませていたジョルの顔が本来の姿に戻った。

 「お前は最も尊厳のある姿を人々に示さなくてはなりません。お前は天庭を人の世に知らしめているのですから」

  ジョルは「母さん」と叫びたかった。だが、羊の毛皮の上で熟睡している人間界の母に目をやると、苦しみに耐え続けたその顔は疲労でやつれていた。それを見て、ジョルは目の前に突然降臨した大らかで高貴な女性に向かって、声に出して母とは呼べなかった。

 今、ジョルは自分は確かに天の庭から来たことを信じた。だが、それは天の母ラマダムに告げられたからであって、自分の頭の中に天庭の記憶が呼び覚まされることはなかった。

 ジョルは言った。
 「人々は今の私を好きなのです」

 天の母ラマダムは言った。
 「分かっています。でも、お前は知らなくてはなりません。その人々はすべてあなたの将来の民なのです」

 「総督、兄ギャツア、そして大将タンマ、彼らは皆こう言います。リンは国になり、私がその国の王になるのだ、と」

 ジョルはその先を話したいと思った。だが、天の母は柔らかな指を軽く彼の唇にあてた。
 「お前は言いたいのですね。でも、お前の叔父トトンが…、と。息子よ、恨んではいけません。お前は必ず勝利します。天から降りてきた英雄が辛そうな様子をしてはなりません。お前は、リンの民と神を長い間待たせてしまいました。今年のうちに王にならなくてはなりません」

 天の母は伝えた。
 「リンに降る時、一頭の神の馬が共に下されました。今、この神馬は野の馬の群れに紛れ、日々することなく、黄河のほとりで丘から丘へと彷徨っています」

 天の母は雲に乗って空に昇って行きながら、最後にこう言い聞かせた。
 「早くお前の馬を探しに行きなさい。その馬を馴らすのです」

 言い終ると、雲に乗った天の母と、母に仕える美しい侍女たちは目の前から消えた。

 ジョルが目覚めると、テントの中にはまだ不思議な香が残っていた。枕元には侍女がわざと忘れていった髪飾りがあった。
 テントの外に出ると、月の光だけがあった。

 「でも、私はその馬を知りません」
 耳下に天の母の厳しい声が響いた。
 「お前は何をためらっているのですか。それはお前の馬です。すぐに分かるはずです」

 ジョルは叫んだ。
 「母さん」

 星の光が自分に向かって降り注ぐのを感じた。

 テントの中で熟睡していたこの世の母も起きて来て、彼に上着を着せかけた。

 一頭の馬の影が目の前の丘と空の際に現れた。

 ジョルは母に言った。
 これからはもう叔父さんの魔法の杖には乗りません、逞しい駿馬に乗ることにしましょう、と。

 母は額を彼の額に近づけ、言った。
 それこそ私が息子に望む英雄としての姿です。

 ジョルは母に尋ねた。
 自分は王になるべきでしょうか。リン国の王になるべきでしょうか。

 母は厳しい表情で言った。
 もしその王がリンの国を強大にし、民を豊かにすることが出来るのなら。
 
 「それは本当に私なのでしょうか」

 「あなたです。あなたは理由もなく人の世に来たのではないのですよ」

 母に先程の夢を語りたかった。だが、母はそれを聞いて心を痛めるかもしれない。そう考えて、その思いを打ち消した。





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ケサル 第一部終了 

2014-06-17 22:25:14 | ケサル
 これでやっと第一部が終わりました。

 リン国の王ケサル(ジョル)と語り部ジンメイが、それぞれに自分が何者なのかを見つけるまでが、描かれてきました。

 この阿来の「ケサル王」で、ジョル(ケサル)を悩ませた一番大きな問題は、宗教を受け入れるかどうかだったのではないでしょうか。
 史詩「ケサル伝」では、ジョル(ケサル)は自分が天から遣わされたと知っていて何をすべきかを自覚しています。
 ところが、阿来の「ケサル王」では、ジョルは瞬間的に啓示が閃きますが、自分の立場を知らず、神から守られていることにも気づきません。

 パドマサンバヴァを追い返し、リンに現れた二人の僧には嫌悪感を抱きます。
 妖魔を倒し、追放され、新しい街を作りながらも、王になることを拒否し続けます。

 そんな孤独なジョルに、ある日、観音菩薩が夢に現れ、仏の教えについて諭します。
 その時からジョルは自分がどこから来たのか考えるようになり、ついには菩薩の言葉を受け入れるのです。

 語り部になるよう選ばれたジンメイも、一向に物語を語れず焦りを感じています。
 やはりある日、夢に観音菩薩が現われ、物語全てを与えます。
 それでも自信のないジンメイの夢に現われたのは、ケサルその人でした。

 ケサルはジンメイに語り部としての美しい声と知恵を授け、
 「命ある者すべてに私の物語を語りなさい」と告げます。

 二人の孤独な魂はこうして時空を超えて出会い、交感し、新たにそれぞれの道を歩み始めていきます。

 今広く伝わっている「ケサル」は仏教色の強いものですが、チベットの土着の宗教やボン教に近い物語等、様々なバージョンがあります。
 阿来のケサルはそのどれとも違った独自の世界を創り上げています。

 今回、中国のケサル研究家、李連栄先生とお話する機会がありました。

 「阿来のケサル」に対するチベットの人たちの評価は厳しいということは阿来自身も書いていますが、それは本当のようです。
 チベットの人たちにとって神とも崇められる大英雄があまりにも人間的に描かれているからです。

 ケサルには、阿来を世に出した小説『塵埃落定』の主人公と重なる部分が感じられます。
 血なまぐさい少年時代、人とは異なった奇異な振る舞い、交易による富の蓄積、兄への想い、そして最後には天に昇って行く…どちらが先か後かではなく、これは阿来の中に刻まれた一つの典型としての人物像なのではないでしょうか。
 これは私の勝手な思い込みかもしれませんが。


 李先生にはもう一つ、物語の導入部分に書かれている「家馬と野馬」について尋ねてみました。
 李先生はすぐに一つの民話を教えてくださいました。

 「昔三匹の馬の兄弟がいました。
  草原で自由に暮らしていましたが、一番上の兄馬が重い病気になり、
  兄弟はどうしても助けたいといろいろ手を尽くしました。
  一番下の弟馬は人間のところへ行って兄を助けてくださいとお願いしました。
  助けてくれたら何でもいうことを聞くという弟馬の思いを聞き入れ、人間は兄馬を助けました。
  こうして弟馬は人間に仕えるようになり家馬となりました」


 
 奴隷制の始まりを思い起こさせ、そこから人間の心の深い闇に繋がっていく重苦しい導入部分。
 それを象徴するのが「家馬と野馬」の物語です。
 この状況をチベットの人たちは民話という形に残して来たのです。

 自分の生まれたギャロン地方に伝わったものだ、と阿来は他の小説で書いています。
 ギャロンはカム、アムドとは少し異なる独自の言葉を持つ地域で、西チベットともつながりがあるのではないかと言われる特殊な地域です。
 そこにこのような根源的な民話が伝わっているというのは驚きです。

 第一部最後の「挿話」の部分にも三匹の妖魔から始まる不思議で壮大なエピソードが語られています。
 これは民話なのか、それとも阿来の創作なのか。
 それにしても、ケサルも四大魔王も同じ体から生まれた、とは何とも理解しがたい物語ではないでしょうか。
 でも、それがチベットなのかもしれません。

 他にも気づかない所でチベットに伝わる民話が取り入れられているのではないか。
 そう思って阿来のケサルを読むとより一層興味がそそられます。


 第二部では、いよいよ王となるための競馬が始まります。

 この競馬にも様々なバージョンがあり、それぞれに深い意味が込められているようです。
 阿来はそれをどのような物語にし、どのような王が誕生するのか。
 そしてジンメイはどのような語り部になって行くのか。
 またゆっくりと見ていきたいと思います。

 以前ご紹介した「阿来が語るケサル王伝」の中で阿来は書いています。

一人の作家にとって、架空の伝奇物語をもう一度構築しなおし、その広大な物語の体系の中から歴史の姿が立ち上がってくるのを目にするのは、非常に不思議な体験である。
まず古い物語が準備されているため、私の創作も野放図にはならず、幾度も確かな歴史の場と文化の間に引き戻された。
写作のすべての過程は厳粛な学習の道程となり、自己の感情が精神の豊かさで満たされた。

我々が共にこの過程を味わい、共にこの偉大な史詩を味わい、チベットの歴史と文化を味わい、この同じ世界に多元的で豊かな文化がまだ存在していることを見る機会を持つ時、それは大きな意義のあるものになるだろう。












ケサル会時間変更のお知らせ

2014-06-13 02:06:09 | ケサル


『ケサル会ーケサル大王伝を読む・第4回』は
 6月15日(日)午後1時半開始〜4時半終了に変更

 

W杯第一回戦見たい!のでズラしました。

サッカーの後はケサルの競馬で盛り上がります。


 
台東区生涯学習センター 306号室。会費1000円
*参加の希望の方はootani11☆gmail.com 大谷へ









第4回ケサル会のお知らせ

2014-06-11 01:36:48 | ケサル
遅々とした歩みですが、前回でやっと第一部が終わりました。第二部は競馬から始まり、王となったケサルが悪魔に支配される国々を倒していく英雄物語らしい場面が展開します。
そこで、ケサル会のお知らせです。
この中で競馬についても大いに語られるということで、素晴らしいタイミング!楽しみです。

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☆『ケサル会ーケサル大王伝を読む』第4回開催のお知らせ


6月15日(日)午後1時から4時 (今回は昼間開催)
台東区生涯学習センター 306号室。会費1000円
*参加の希望の方はootani11☆gmail.com 大谷へ


全三回で終了予定だった「ケサル大王伝を読む会」は多方面の方の参加で盛り上がり、急ですが、追加開催をいたします。
今回は宮本神酒男さんに大王伝の残りをまとめてもらい、「ケサル」シンポジウムで話題になった「競馬」編の謎、さらにケサルの世界に広がる影響、いわば研究と文化における「ケサル」最前線を、相変わらずの熱のこもった講演で紹介してもらいます。
初めての方でも気軽にご参加下さい。

                 *
「競馬」はケサルが勝利して王になり、美女を娶る、いわば英雄譚共通の成人儀礼と考えられます。
シンポで 李連栄先生は「競馬」編は仏教思想の入った「大王伝」完成時期に作られた新しい話ではないかと報告。
 
藤井真湖先生は50編のモンゴル英雄叙事詩のうち競馬が出てくるのは10編、しかし主人公が馬に乗るのは「ゲセル・ハーン」だけだ!なぜ?
「チベット・ケサル」と「モンゴル・ゲセル」では「競馬」はどちらが古い(先)と言う疑問も発生。

「デルゲ」版と呼ばれるゾクチェン寺の僧侶たちが作った「ケサル」本が「競馬」編を一層、複雑、面白い話に仕立て、多角的な考察を引き起こしています。
この僧侶たちの精神が欧米に亡命した僧侶に受け継がれ、ハイブリッドなケサル文化が誕生しました。 

以上「ケサルの最前線」を宮本さんが丁寧に話をして下さるでしょう。
                 *
清の康煕帝が作らせたと言われる、世界で初めて刷られたケサルのモンゴル版「ゲセル北京木刻版」(1716年)の漢語訳本を李先生が送って下さり、今日手にしました。
「競馬」がどう書かれているのか興味があります。「北京版」の制作背景も知りたい。
                 *
青海省を旅した方が、ケサル大王を意識していたら「マニ塚はケサルの時代からある」など各地域でケサルに結びつく興味深い体験をされたとメールをいただきました。
                                  
私もケサルを知ることで一層、チベットへの興味を深めてきました。
                                                 大谷寿一











阿来『ケサル王』㊿物語 挿話

2014-06-08 16:38:20 | ケサル
物語:挿話





 ずっとずっと遥かな昔、魔物の三兄弟がいました。
 雪山に囲まれた康蔵高原を我が物顔に走り回り、人肉を食い、人血を飲み、人の骨を食い、その皮を着て、ひどく凶悪で残忍でした。
 その罪はあまりにも深く、天の神様に懲らしめられます。

 天の神様は彼らに転生を許し、転生に当たって願を懸けることをお許しになりました。
 ところが、彼らはまだ本当には目醒めていなかったため、祈りの中で神に背く言葉を口にしました。
 そのため、次に生まれ変わる時、三匹の蟹に変身させられ、険しい崖の下に閉じ込められてしまいます。

 三匹の蟹は、前世での罪と、この世での無意味な恨みとで、互いに噛み付き合い、和解することなく、絶えず争い、こうして長い年月がたちました。

 ある年のある日、ある神様がここを通りかかり、崖の下で、息も絶え絶えなほど精根尽き果て、それでも戦いをやめない三匹の蟹を可哀想に思い、鉄の杖を一振りして大きな岩を打ち砕くと、三匹の蟹はやっと解脱することが出来、再び生まれ変わって、九つの頭をもつタルバガンになりました。

 三十三天に住まわれる大梵天王はこれをご覧になり、不吉な知らせとして、剣を取って一振りすると、タルバガンの九つの頭は地に転がりました。

 四つの黒い頭は山道を転がる時、こう祈りました。

「我々は妖魔の中の精鋭である、仏法の敵に生まれ変わり、衆生の運命を欲しいままにさせ賜え」 

 祈りにこめた思いが強烈だったため、四つの黒い頭は願いを叶え、それぞれに、北方ルザン王、ホル・バイジャン王、ジャン国サタン王、モン国シンチ王となりました。

 四方を脅かす四代魔王となったのです。

 最後に心優しい白い頭が祈願しました。
 「四つの黒い頭は魔王になり人間を苦しめることでしょう。私を魔王を降し人々を守る世界の王に変えて頂けるよう、ひたすらお願い致します」

 後になって、その祈りの通り、白い頭は天界に昇り、大梵天王の子ツイバガワに生まれ変わりました…

 その時、家畜としての馬と野姓の馬が分かれてから間もない頃、蒙昧の中にある人々まだ知恵を持たず、妖魔と凶暴な妖怪が横行していました。
 美しい地にありながら人々の生活は無辺の苦海にいるようだったのです。

 その時、財宝は少数の者に集まり、そのため人々はもはや睦まじく愛し合わなくなっていました。
 狩に用いられる刀は人々が互いに殺しあうために使われました。

 人々は苦海にもがき苦しさに生きる望みを失い、地下に蔵れていた鉱脈さえも他所へと移って行き、この非人間的な地から逃れようとしていました。

 ここはもともと智慧の花咲く地でしたが、悪い行いがはびこったため、教化の届かない地となってしまったのです。

 よこしまな願いを発した魑魅魍魎たちが雪山に囲まれた広大な高原を誰はばかることなく横行していました。
 すべての河、山、草原、村には無数の妖魔と怪物がいて、眼に見える敵と目に見えない悪魔が黒い頭のチベットの民を悪の道に走らせました。

 地に暮らす民が唯一できること、それは、天の神様に祈ることでした。

 天上の神様たちはついに人々の哀しみ苦しみを知り、一堂に集まって考えました。

 そして、天上の神々の中から、大願を起こし衆生を苦難から救おうとする者を下界に降すことにしたのです。

 それが大梵天と天母ランマンダムの子ツイバガワでした。

 ツイバガワはすでに人の世に降りました。
 まだリンの王になる前、その名をジョルといいました。

 王になった後、人々が永遠に褒め称えるケサル王となるのです。