★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 ですhttp://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
物語:ギャツァの霊 姿を現す その2
ジュクモは詩に通じたラマの元で音律について学んでいた。彼女が手ほどきした若い娘たちが捧げる歌や舞はこれまでにないほど細やかで優雅だった。
彼女たちの舞い姿は、戦や、愛情や、労働の模倣を超えていた。
風がそよ吹く様、水が流れる姿と調和して、聞く者それぞれがかつて感じたことのある温もりとなり、頭の頂から背に沿い体の奥まで注がれていった。ジュクモが自ら歌えば、それはなおさらだった。
彼女が歌う時、ある者は雪山が腰をかがめるのを見たと言い、ある者は河の水が逆に流れるのを感じたと言った。
流れ去った時は誰にでもその足跡を残していく。天から下ったケサルも例外ではなかった。
だが、ジュクモはいつまでも、リン国の妃になった時のしなやかで麗しい姿のままだった。リン国の波乱に富んだ歴史をみなと共に経てはいないかのようだった。
彼女の表情は天真で深い情愛に満ち、妃になる前にケサルが変身したインドの王子に心を動かしたことなどなかったようであり、ホルにさらわれてクルカル王の子供を生んだことなどなかったかのようだった。
衰えを知らぬ青春と美しい歌声は聞く者一人一人の心を震わせた。生まれながらの麗しさに、目の前にいるのは仙女か、もしくは妖怪かとさえ思われた。
彼女のために、純潔なものは更に純潔に、卑劣なものは更に卑劣になっていった。
トトンが国王になる夢を見ていた時、国王の黄金の位の他に、最も多く夢の中に現れたのはジュクモだった。
トトンにすれば、皆から奉られる栄誉は少なくとも自分が領有するダロン部で十分に味わうことが出来た。
自分の心に蠢く野心をなだめる時は、ダロンは一つの国である、と自分に信じさせた。リンというさらに大きな国に統括されてはいるが、それはケサルもまた天上の更に高貴な神に統括されているのと同じようなのだと言い聞かせていた。
それは、常に不満を残していたが、周りといざこざを起こさない最も良い方法でもあった。
だが、王妃ジュクモの妖艶な様を目の当たりにして、真の国王のみが彼女を手に入れることが出来、彼女を所有出来るのだとはっきりと分かった。
この世界には国王が座る黄金の王座は無数にあるが、ジュクモは一人しかいない。
心の中でくすぶっていた野心の火種が燃え上がり、心の中のざわめきを抑えることが出来なかった。
トトンは自分のテントに戻り、祭壇を設けて祈った。
カチェの国王よ、無敵の魔力を顕して、その大軍が早く来させたまえ。
彼はまたこうも祈った。
もしその魔力が真に巨大なら、我が心からの願いを受けたまえ。
リン国ではケサルを除けば、トトンだけが天から魔力を持つことを許された最後の一人だった。
神は、人の世の妖魔を除くのと同時に、これから生まれるこの世の人間には神の力を与えなかった。妖魔がすべて除かれれば、神はもはや人を直接助けることはなく、それ以降は、人が自分で自分を助ける時代となるのである。
トトンの祈りは真剣で、衰えることなく強力だった。
大雪で黒い鉄の山に閉じ込められていたチタン王は夢の中でそれを受け取った。
チタンは従軍の占い師に、山羊ひげを生やした老人が私の夢の中に入って来た、と伝えた。
占い師は言った。王様は呪術師の夢をご覧になったのでしょう。
チタン王は言った。その男は身なりも振る舞いも国王のようだった、と。
その目をご覧になりましたか。
その男の目は機知に富み狡猾だった。
王様、お喜び申し上げます。この戦いは幸先よく勝利を収めましょう。もしケサルが天から降りて来なければ、その男がリンの国王になっていたのです。
トトンは夢の中でチタンに告げた。
大雪は半月ほどで止むでしょう。なぜなら、天には凍って雪になるための水がそれほど多くないからです。両軍が陣を組んで向き合った時、勝利の策を献上しましょう。
果たして十五日間雪が降り続いた後、天は晴れ渡った。
カチェの大軍は山を駆け降り、洪水のようにリンの草原に満ち溢れた。
リンの大軍はすでに小さな山を背に陣を組んでいた。
前に並ぶのは当然王子ザラ、トトンの息子トンザンとトングォの若い英雄たちである。シンバメルツ、タンマ等老将軍と共に陣の前線で敵を迎え撃った。
攻めては引き、激しい戦いが三日間続いたが、勝敗はつかなかった。
ケサルはテントの中にゆったりと座り、首席大臣と賽を振って遊んでいた。一方チタン王は、夢の中に現れたトトンがなぜまだ策を献上に来ないのかと焦りに苛まれていた。
トトンも手をこまねいているわけではなかった。大きなテントに籠り、強い法力で隠れ身の木に念を送っていたのである。
そろそろ加持の効果を試す頃だと考えたトトンがダロン部の陣へやって来ると、二人の息子トンザンとトングォが一丸となって相手の大将と戦っている様が目に入った。攻めては戻り、戻っては攻め、何度も渡り合い、どこも勝敗がつきそうになかった。
トトンは二人の兄弟に何かあってはと、すぐさま呪文を唱え、鳥の翼のように広げた隠れ身の木を空中に放つと、二人の息子は背後で声を挙げている兵もろとも影も形もなくなった。相手の大将は大太刀を円盤のようにグルグルと振り回し、他のの陣へと向かって行った。
その太刀の下、二人の千戸長が次々と切り殺され馬から落ちた。
老将タンマが大将の行く手を遮って、陣はやっと元の形を取り戻した。
トトンはしてやったりとほくそ笑み、名馬ユジアに跨ると中軍のテントへと走った。
ケサルは笑いながら言った。
「叔父上は、英雄たちが前線を塞ぎ切れないと恐れ、変幻の術で私も隠そうとやって来たのですね」
「ワシは、隠れ身の術を使って敵の陣へ殴り込もうと、許しを得に参ったのだ。チタン王を殺せば、カチェの大軍は先頭を失い、自ずとリンから引き下がるだろうからな」
「カチェの国王は無知で、身の程知らずにも兵を起こして世を乱しました。必ず滅ぼさなくてはなりません。無傷で帰らせるなどもってのほか」
トトンは我が意を得たりとのぼせ上がった。
「ここ数日、英雄どもは苦戦しながら勝利できずにいるようじゃ。国王よ、勝利を収めて城に帰りたいのなら、ワシに行かせてくれ」
首席大臣は聞き入れてはいけないと合図を送ったが、ケサルは言った。
「では、ご苦労だが行ってくれますか」
こうして、トトンは意気揚々と木の鳶に乗って敵の陣営へと飛んで行った。
物語:ギャツァの霊 姿を現す その2
ジュクモは詩に通じたラマの元で音律について学んでいた。彼女が手ほどきした若い娘たちが捧げる歌や舞はこれまでにないほど細やかで優雅だった。
彼女たちの舞い姿は、戦や、愛情や、労働の模倣を超えていた。
風がそよ吹く様、水が流れる姿と調和して、聞く者それぞれがかつて感じたことのある温もりとなり、頭の頂から背に沿い体の奥まで注がれていった。ジュクモが自ら歌えば、それはなおさらだった。
彼女が歌う時、ある者は雪山が腰をかがめるのを見たと言い、ある者は河の水が逆に流れるのを感じたと言った。
流れ去った時は誰にでもその足跡を残していく。天から下ったケサルも例外ではなかった。
だが、ジュクモはいつまでも、リン国の妃になった時のしなやかで麗しい姿のままだった。リン国の波乱に富んだ歴史をみなと共に経てはいないかのようだった。
彼女の表情は天真で深い情愛に満ち、妃になる前にケサルが変身したインドの王子に心を動かしたことなどなかったようであり、ホルにさらわれてクルカル王の子供を生んだことなどなかったかのようだった。
衰えを知らぬ青春と美しい歌声は聞く者一人一人の心を震わせた。生まれながらの麗しさに、目の前にいるのは仙女か、もしくは妖怪かとさえ思われた。
彼女のために、純潔なものは更に純潔に、卑劣なものは更に卑劣になっていった。
トトンが国王になる夢を見ていた時、国王の黄金の位の他に、最も多く夢の中に現れたのはジュクモだった。
トトンにすれば、皆から奉られる栄誉は少なくとも自分が領有するダロン部で十分に味わうことが出来た。
自分の心に蠢く野心をなだめる時は、ダロンは一つの国である、と自分に信じさせた。リンというさらに大きな国に統括されてはいるが、それはケサルもまた天上の更に高貴な神に統括されているのと同じようなのだと言い聞かせていた。
それは、常に不満を残していたが、周りといざこざを起こさない最も良い方法でもあった。
だが、王妃ジュクモの妖艶な様を目の当たりにして、真の国王のみが彼女を手に入れることが出来、彼女を所有出来るのだとはっきりと分かった。
この世界には国王が座る黄金の王座は無数にあるが、ジュクモは一人しかいない。
心の中でくすぶっていた野心の火種が燃え上がり、心の中のざわめきを抑えることが出来なかった。
トトンは自分のテントに戻り、祭壇を設けて祈った。
カチェの国王よ、無敵の魔力を顕して、その大軍が早く来させたまえ。
彼はまたこうも祈った。
もしその魔力が真に巨大なら、我が心からの願いを受けたまえ。
リン国ではケサルを除けば、トトンだけが天から魔力を持つことを許された最後の一人だった。
神は、人の世の妖魔を除くのと同時に、これから生まれるこの世の人間には神の力を与えなかった。妖魔がすべて除かれれば、神はもはや人を直接助けることはなく、それ以降は、人が自分で自分を助ける時代となるのである。
トトンの祈りは真剣で、衰えることなく強力だった。
大雪で黒い鉄の山に閉じ込められていたチタン王は夢の中でそれを受け取った。
チタンは従軍の占い師に、山羊ひげを生やした老人が私の夢の中に入って来た、と伝えた。
占い師は言った。王様は呪術師の夢をご覧になったのでしょう。
チタン王は言った。その男は身なりも振る舞いも国王のようだった、と。
その目をご覧になりましたか。
その男の目は機知に富み狡猾だった。
王様、お喜び申し上げます。この戦いは幸先よく勝利を収めましょう。もしケサルが天から降りて来なければ、その男がリンの国王になっていたのです。
トトンは夢の中でチタンに告げた。
大雪は半月ほどで止むでしょう。なぜなら、天には凍って雪になるための水がそれほど多くないからです。両軍が陣を組んで向き合った時、勝利の策を献上しましょう。
果たして十五日間雪が降り続いた後、天は晴れ渡った。
カチェの大軍は山を駆け降り、洪水のようにリンの草原に満ち溢れた。
リンの大軍はすでに小さな山を背に陣を組んでいた。
前に並ぶのは当然王子ザラ、トトンの息子トンザンとトングォの若い英雄たちである。シンバメルツ、タンマ等老将軍と共に陣の前線で敵を迎え撃った。
攻めては引き、激しい戦いが三日間続いたが、勝敗はつかなかった。
ケサルはテントの中にゆったりと座り、首席大臣と賽を振って遊んでいた。一方チタン王は、夢の中に現れたトトンがなぜまだ策を献上に来ないのかと焦りに苛まれていた。
トトンも手をこまねいているわけではなかった。大きなテントに籠り、強い法力で隠れ身の木に念を送っていたのである。
そろそろ加持の効果を試す頃だと考えたトトンがダロン部の陣へやって来ると、二人の息子トンザンとトングォが一丸となって相手の大将と戦っている様が目に入った。攻めては戻り、戻っては攻め、何度も渡り合い、どこも勝敗がつきそうになかった。
トトンは二人の兄弟に何かあってはと、すぐさま呪文を唱え、鳥の翼のように広げた隠れ身の木を空中に放つと、二人の息子は背後で声を挙げている兵もろとも影も形もなくなった。相手の大将は大太刀を円盤のようにグルグルと振り回し、他のの陣へと向かって行った。
その太刀の下、二人の千戸長が次々と切り殺され馬から落ちた。
老将タンマが大将の行く手を遮って、陣はやっと元の形を取り戻した。
トトンはしてやったりとほくそ笑み、名馬ユジアに跨ると中軍のテントへと走った。
ケサルは笑いながら言った。
「叔父上は、英雄たちが前線を塞ぎ切れないと恐れ、変幻の術で私も隠そうとやって来たのですね」
「ワシは、隠れ身の術を使って敵の陣へ殴り込もうと、許しを得に参ったのだ。チタン王を殺せば、カチェの大軍は先頭を失い、自ずとリンから引き下がるだろうからな」
「カチェの国王は無知で、身の程知らずにも兵を起こして世を乱しました。必ず滅ぼさなくてはなりません。無傷で帰らせるなどもってのほか」
トトンは我が意を得たりとのぼせ上がった。
「ここ数日、英雄どもは苦戦しながら勝利できずにいるようじゃ。国王よ、勝利を収めて城に帰りたいのなら、ワシに行かせてくれ」
首席大臣は聞き入れてはいけないと合図を送ったが、ケサルは言った。
「では、ご苦労だが行ってくれますか」
こうして、トトンは意気揚々と木の鳶に乗って敵の陣営へと飛んで行った。
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