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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 158 物語:ムヤ或いはメイサ

2016-07-20 23:17:26 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:ムヤ或いはメイサ その3



 ジュクモとメイサは再び翼をはためかせて空に上がった。ジュクモは笑顔で言った。
 「もし王様が自ら法器を取りに来られたら、どれほどの障碍を乗り越えなければならず、どれほど多くの兵を切り捨てたことでしょう。私たちは長い日々宮の中で寂しく暮らし、お会いすることもできなかったでしょう」

 メイサは辺りに気にしながら言った。
 「不思議です、空に開いた穴は何故湖と同じ大きさなのでしょう。そして私たちが動くのと一緒に動いています。ムヤの国王の法力は強いと聞いていますが、なぜ私たちはこんなに容易く国王の宝物を手に入れることが出来たのでしょう」

 このように思い巡らせている時、彼女たちの下方に若々しい緑の林に囲まれた湖が現われた。湖の上には五色の鳥が飛び交い、湖岸に咲く鮮やかな花の香りが天まで漂って来た。

 ジュクモが呼びかけた。
 「長い間飛んで疲れました。この湖のほとりで少し休みましょう」
 そう言うと、メイサの答えを待たずに、一直線に降りて行った。メイサもそれに従った。

 二人は鮮やかな花々を集めて花輪にし、身に飾り、岸辺で水と戯れた。拓けた高地にあるリン国にはこのように暖かい湖はなかった。ジュクモはあっという間に身に着けた羽衣を脱ぎ棄て、湖に入って行った。
 「まだ朝の内。しばらく楽しんでから戻っても遅くないでしょう。メイサも早くいらっしゃい」

 メイサが羽衣を脱ぎ、湖水に足をつけるより早く、湖畔の大木が突然勇猛な顔つきの若い将軍に変わった。
 「わはは、我が法王は英明であった。私にここでお二人を待てと命じられたのだ。もはや逃げられはせぬぞ」

 メイサはすぐさま衣を身に着け空へ飛び立とうとした。だが、ジュクモが水の中で顔色を失っているのが目に入り、一瞬躊躇しすきに、将軍が投げた縄によって地上へと引き戻された。
 メイサは叫んだ。
 「何をするのですか。私たちはただの旅人ではありません。世に降った仙女です。無礼は許しませんよ」

 若い将軍は一笑に付した。
 「二人の美しさは仙女にも勝るでしょう。だが、人であるのは分かっています。リンの国からいらっしゃったということも。我が法王はおっしゃった。おとなしく付いて来て、盗んだ宝を渡せばそれでよい、と。法王の寵愛はケサル王に勝るでしょう」

 メイサが翼を震わせ逃げようとすると、ジュクモが水の中からすがるように叫んだ。
 「メイサ、助けて」

 その声に後ろ髪を惹かれ、翼を開く間もなく、そのまま地上に倒された。もはや逃げるのをあきらめるしかなかった。

 よりあわれなのはジュクモである。水に入る時に薄い衣の他はすべて脱ぎ捨てたので、皇后でありながら、おずおずと水から上がった姿は、濡れた薄絹が体に張り付き、何も身に着けていないかのようだった。顔色は失われ、恥ずかしさに耐えるばかり。
 礼儀正しい将軍は視線をそらせ、ジュクモはメイサに手伝わせ服を着た。

 メイサは自らの羽衣を脱いでジュクモに着せながら、涙を流した。
 「お姉さま、私があの将軍を捕まえておきます。お姉さまは宝を持って早く飛んで逃げてください。

 将軍は振り向いくと、脅すように尋ねた。
 「どちらがケサルの妃ジュクモだ」

 メイサはジュクモに目で合図し、兵士の前に進み出ると、満面の笑みを湛えて言った。
 「私が美しさで知られたジュクモです。あなたについてムヤの王様に会いに行きましょう。これは私の姉です。無事を伝えるために帰らせてください」

 軍は二人をかわるがわる見たが、すぐには決断できなかった。

 メイサは言った。
 「彼女をごらんなさい。水に入って遊ぼうとその体を露わにしながら、事が起こるとひたすら怖がっているだけ。皇后の気品があると思われますか」

 それを聞いて将軍はなるほどと信じることにした。
 「分かった。そなた一人がおとなしく着いて来れば、これ以上困らせはしない」

 ところなんと、ジュクモはメイサに馬鹿にされたと思い込み、燃え上がった怒りに恐怖を忘れ、名乗りを上げた。

 「一歩進めば百頭の駿馬に値し、一歩退けば百頭のヤクに値する。百人の男が釘付けになり、百人の女が不運を嘆く。私こそケサルの愛する妃、美しさで知られるリン国の皇后ジュクモです」

 言いながら媚びを含むまなざしで見つめて将軍の心を乱そうとしたので、将軍は慌てて法王から与えられた人の皮で出来た袋を開いた。袋が開くや否や突風が起こり、二人の妃を袋の中に放り込んだ。将軍はやっと正気を取り戻し、袋を担いで王城へ戻った。

 二人は暗い袋の中に押し込められ、お互いを責め合ったが、もはやどうすることも出来なかった。口が開くと二人は袋から転がり出た。
 メイサは雀に変身したジュクモを発見し、ジュクモの目にもメイサは小さな雀に変わっていた。

 人の声が雷のように響きわたり、顔を挙げると、王座を並べて座っているムヤの二人の国王はまるで高い山のようだった。法王ユズトンバが俗王ユアントンバに向かって言った。
 「小さな法術を使っただけだ。そうしなければ生きた人間二人を皮で作った袋に押し込められないからな」
 「かなり時間が経ったので、元に戻れないかもしれませんね」

 この言葉を聞いて、ジュクモは自分もまたメイサと同じように醜い雀に変身しているのを知り、焦りと悲しさに、チュンチュンと泣き叫んだ。
 美貌が失われることに比べれば、命を失うことなど怖くはない。ジュクモは翼を振るわせ、法王の目をつつこうと中空まで飛び上がった。だが、法王が手の中の鈴を揺らすと、澄んだ音と共に金の光が放たれ、地に落とされた。

 法王は言った。
 「変われ!」


 すると二人の妃は人間の姿に戻った。







阿来『ケサル王』 157 物語:ムヤ或いはメイサ

2016-07-10 13:15:35 | ケサル
       ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:ムヤ或いはメイサ その2



 首席大臣の言葉にケサルの疑いはすべて消えた。それでも、嘆かずにはいられなかった。
 「これまで私は考えもしなかった。人の世、人の心がこのように複雑で深いものだとは。天に通じ神の力を持っていても是非を下せないほどに」

 ケサルは後宮に戻り深く自分を責め、しきりにため息をついた。
 メイサはその様子を見て、過ぎし日、国王が魔国に長く留まり、クルカル王が妃をさらって行くに任せ、ギャツァはそのために戦場で犠牲になったことを思い、また今、首席大臣が国の平安を守ろうと、国王の知らぬところでムヤ国との同盟を結び、そのため国王に責められたと知り、心は慙愧に耐えなかった。

 その夜は国王の傍に仕えず、一人で泣き通したが、空けの明星が昇る頃、ある決意を固めた。一人でムヤへ赴き、法器を手に入れ、国王が伽国で妖魔を降す助けとなろう、と。
 そう決心すると心の重荷が解かれ、すぐに起き上がって出発の支度を始めた。

 その夜、ジュクモもまた国王に仕えず、伽国への遥かな道のり、高い山、大きな河を想っていた。だが、それ以上に、国王が伽国の美しい皇后の法術にかかりそのまま帰って来ないのではと思い及ぶと、心に嫉妬の火が燃え盛り、服を羽織ると淡い月の光の下、中庭を彷徨っていた。

 ちょうどその時、メイサが旅装を整え出て行こうとするのを見かけ、呼び止めた。
 「メイサよ、どこへ行こうというのですか」

 メイサは涙を浮かべて答えた。
 「ムヤへ行き、法器を手に入れ、これまでの罪を贖います」

 ジュクモは冷たく笑って言った。
 「昔、あなたは魔国で王様を惑わせました。今、王様がムヤを討ちに行くのを知って、先に行って待ち伏せし、時が来たらまた同じように王様を迷わせようとしているのでしょう」

 メイサはジュクモの前に跪いた。
 「当時は寵愛を受けたいと望むばかりで、このような恐ろしい結果になるとは思いもしませんでした。その後幾度菩薩様に罪を悔いたことでしょう。今魔国へ行くのは法器を手に入れ以前の罪を贖うためです。どうぞお許しください。もし戻ることが出来ましたら、髪を落として尼となり、俗世を離れ、王様の寵愛を争うことは致しません。もし無事に戻れなければ、それは受けるべき報いでしょう。その時は王様に、リン国の国運を重んじ、卑しい妃のことをお心に掛けるには及ばないとお伝えください」
 言い終ると衣を翻し、鶴が羽根を広げたかのように飛び去ろうとした。

 メイサの悲痛な言葉に、ジュクモは止めどなく涙を流し、心の奥の嫉妬の火も消えた。メイサを引き戻すと、心はすでに許しながらも、口から出る言葉は厳しかった。

 「待ちなさい。私もあなたと一緒に行きましょう。もし法物を取りに行くというのが本当なら、私にもわずかばかりの神の力があります。もし、そこで王様を待つつもりなら、あなたに一人占めさせるわけにはいきません」

 言い終ると、手紙をしたため国王の枕元に置いた。もし十日以内に二人の妃が戻らなかったら、兵を寄越して助けるようにと書かれていた。

 こうして、二人の妃は衣を翼として、明るんだ空の下ムヤの国へと飛んで行った。

 太陽が昇りはじめる頃、目の前に高い山が現われた。メイサはジュクモに「この山を越えるとムヤです」と告げた。
 なんとそこに巨大に変身したケサルが立ちはだかり、背後の太陽が幾筋もの金の光を放っていた。よく通る声が空に響いた。

 「二人の妃よ、そのように急いで、どこへ行こうとしているのだ」

 二人はすぐさま翼を収め、国王の前に跪いた。
 ケサルはもとの姿に戻ると、山の頂で二人の妃を扶け起こし、言った。
 「そなたたちの想いはすでに分かっている。私が手助けしよう」

 二人は頭を地につけて感謝を表わした。

 「そのように心急いてはならない。ムヤへ行くなら十分に準備をしなさい」

 三人が高い山の頂からその麓まで飛んで降りると、山の下の林の辺りにすでに大きなテントが張られていた。境界を守るアダナモを除くリン国の十二人の妃が集まっていた。共に宴を開いてひと時楽しんでから、ケサルはジュクモとメイサにさらなる変幻の法を授けた。

 間もなく首席大臣が兵を率いて現われた。
 トトンが新たなに方を授けた。
 もしアサイ羅刹から法力を備えたトルコ石の組紐を手に入れたいのなら、もう一つ特別なものが必要だ。それは、ある竹の根で、何故か人の掌のような形をしている。先端は人の指のように三つの節からなり、呪文を唱えると指のように思いのままに閉じたり開いたりする。これがあれば羅刹の頭からトルコ石の組紐を取ることが出来る。この法器はムヤ法王の加持を受けていて、三つの山が寄り添い二本の河が交わるところにある。

 トトンは言った。
 「お二人がムヤへ行き、もしその三節の道具を持って帰れば、無上の功徳となるじゃろう。アサイ羅刹と戦うには、ワシが自ら出向かなければならぬがな」

 この日、二人の妃は純白の鶴の衣を身に着け、ムヤに向かって飛んで行った。
 ムヤの上空まで飛んで来ると、法王ユズトンバが山の中で修業していたために、濃い霧が山を覆い、上からは何も見えなかった。ジュクモとメイサは身に着けたばかりの神の力を用い、呪文を唱えると、その翼は無限に広がっていき、力を込めて羽ばたかせると、空の下を覆った雲も霧も晴れ、山々に囲まれた広野に河が折れ曲がりながら流れ、岸辺の林の辺りに家々が整然と並んでいるのが見えた。

 法王は洞窟の中にいて、集めた気があたりへと散って行くのを感じ、異国の者が入って来たのを知った。だが、修業はまさに要の時、中断することは出来ず、空が開けたのに任せ、息を整え、天地の精華を体いっぱいに取り込んだ。
 指を使って占うと異国の者が来た訳が分かったので、ジュクモたちが宝を取りに来る場所に青い空を開けて置いた。

 二人の妃は天を旋回して間もなく、予言にあった三つの山と二つの流れが集まる所に竹林の緑が輝いているのを目にした。そこで青い風の道に沿って徐々に降りて行き、すぐに、人の手のように自由に動く竹の鉤を手に入れた。

 呪文を唱え、一声「変われ」と叫ぶと、竹の鉤は人の手のように開いた。








阿来『ケサル王』 156 物語:ムヤ或いはメイサ

2016-06-25 13:41:57 | ケサル
 ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:ムヤ或いはメイサ


 トトンがついに口を開いた。
「国王よ、法力を備えたトルコ石の組紐はある羅刹が身に着けていて、その羅刹・アサイはムヤの国に隠れ住んでいる」

 「ムヤ?それは遥かに遠い国か」

 タンマは言った。
「ムヤは遠い国ではありません。伽国との間、我が国の東側にある古い隣国です」

 ケサルは驚いた。
「これまで誰もその国のことを私に話さなかったではないか。そのような国があるとは知らなかったぞ」

 首席大臣は気力を振り絞って言った。
「私が報告させなかったのです。口止め出来るのは私だけです」

 ケサルは憤った。
「国王に伝えない知らせがあるとはどういうことだ。それはつまり、国王が完全に国を把握していないということではないか。これまで敵国の宝庫をいくつも開けて来た。だが、多くの民がまだ居場所がなく彷徨っている。今になってまた、自分の家の前にムヤという国があると知ることになるとは」

 「ムヤはとても大きな国じゃ」
 トトンはこの機に乗じて煽るように言った。
 「もしワシが首席大臣なら、もっと早く国王に報告していただろう」

 国王は羊の皮の巻物を広げさせた。地図の上にもこのムヤと呼ばれる国はなかった。

  首席大臣は跪いたまま前に進み、リンと伽国の間のうっすらとした地帯を指さし言った。
 「ここがムヤ国です」

 ケサルはこの地図を何度も見たことがある。戦いに勝利する度に、鋭い刀で境界を削らせ、墨での拡張した境界線を書き改めさせた。ケサルが指先でリンと伽国の間の北から南へとくねくねと伸びる墨の線を叩くと、指輪の赤いサンゴが砕けた。だがケサルは怒りを押し殺して言った。
 「これはどういうことだ」

  首席大臣は答えた。
 「それは大きな河です。北のこの辺りがリンと伽国の間の本当の境界です。南の一帯は…国王はすでにお分かりでしょう。罪はこの私にあります。目くらませの術を施して、ムヤに流れ込んでいる河を境界に見せたのです」

 ケサルが地図の上の特別に曖昧な場所に目をやると、怪しい霧が立ち昇り、漂い始めた。
 「故意に私に見せなかったものは、他にどれほどあるのか。言いなさい」

 トトンが叫んだ。
 「さすが、国王は賢明じゃ。彼らがこの国を隠したのは、内と外で呼応し王権を奪うためじゃ」

 「では、叔父上が報告しなかったのは何故なのか」

 砕けた指輪が国王の指を傷つけ、鮮血が地図の上、ムヤ国のある位置にゆっくりと滲んでいった。
 「目の前に隠れていたこの国を徹底的に平定する」

 「国王がお望みなら、このトトンが先鋒になろうではないか」

 首席大臣が大声をあげた。
 「王様、くれぐれも軽はずみに兵をお出しになってはなりません。リン国とムヤ国はすでに同盟を結んでいます。永遠に良い隣国となり侵犯しないと」

 「トトンの話を信じろというのか。お前たちはムヤとこっそり同盟を結んだのか」

 「国王はまだお分かりではないと思います。まず私の話をゆっくりお聞きいただき、それから決断しても遅くはないでしょう」

 リンが興ったばかりの頃、ケサルは魔国を倒した後、長い間国に帰って来なかった。ホルの大軍が押し寄せて来たが、この時、東方のムヤもまた精兵を境界に送り込み、一気に侵略しようとしていた。
 ムヤは兄弟二人が権力を握っていた。法王をユズトンバ、俗王をユアントンバといった。法王は鉄のように固い心を持ち、俗王は白い玉のように優しい心を持っていた。普段は法王が思いのままにしていたが、彼が籠って修行する時だけ、王権はユアントンバのものになった。
 ホルとの戦いが起こった時、法王ユズトンバは弟に言った。
 「今この時、ホルと共に兵を起こしリンを滅ぼさなければ、リンは将来の災いとなり、枕頭に虎がいるかのように安らかに眠れなくなるだろう。今リンの若い国王は酒色に溺れ、国に帰るのを忘れている。リンには三十将軍がいるが、首がないのと同じだ。ホルと兵を合わせリンを滅ぼそう」
 だが、俗王は軽率に戦いを起こすことを望んでいなかった。彼は言った。
 「ケサルは天の神から下され、衆生の危機を救うと言われています。この善良な国を滅ぼし、残酷な国に変えてはなりません」
 だが最後には、法王の意に従い、辺境に大軍を率いて西を睨み、侵攻の機会をうかうこととなった。

 首席大臣は平伏して言った。
 「あの時、王様は長い間魔国に留まりお帰りになりませんでした。内ではトトンが密かに敵国と通じて乱を起こそうとし、ギャツァは北の境界で敵の侵入を防いでいたので、私は僅かな供の者を引き連れて東の境へ行きムヤと談判しました。幸い俗王ユアントンバは生まれながらに善良で、我が国王が天から下され民を豊かにすると知って、兄法王を説得し、我がリンと同盟を結び、お互いによい関係で世世代代侵略しないことを誓ったのです」

 国王はそれを聞いて密かに恥じたが、心の中の怒りは消えなかった。
 「では、私が戻った後、なぜ真実をありのままに伝えなかったのだ」

 「法王は常に山の中で妖術の修行をし、ムヤの国中に妖怪や異人がたくさんいます。王様は妖魔を滅ぼすという命の下にこの世に降られました。隣国にこのようなことがあると知られたら、互いに認め合うことは出来ないでしょう。それで仕方なく今まで隠しておりました、ご明察ください」






阿来『ケサル王』 155 語り部 ダルツェンド

2016-06-17 01:58:50 | ケサル
        ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


語り部:ダルツェンド その3



 ヤンジンドルマは笑った。また金歯がのぞいた。
 「神様は私のことも愛してくれたんだ。でなければ農民の娘が働きもしないで国の金をもらい、家でのんびりと熱いお茶を飲んでなんかいられるわけがないよ。ねえ、ジグメ、私太っただろう。着る物も食べる物も心配ないし、何もしないんだから太らないずはないよね。医者はもっと歩け、山へ登れと言うけど、そんなことするもんか。だったら、村で畑仕事したり、牛や羊を飼えばいいのさ。神様が守ってくれてる。神様は私は愛してくれてるんだ」

 そう言うと疲れたのか、ふかふかの椅子に座って言った。
 「さあ、お茶を飲みな。私は少し休むから」言い終るとそのまま寝てしまった。

 ジグメたちは暫くぼんやりと座っていたが、帰る支度を始めた。
 ちょうど立ち上がった時、ドルマは突然目を開けた。

 「ジグメ、ちゃんとお別れをしないで、またこっそりとどこかへ行くつもりかい。キスしておくれ、こんなばあさんにならキスするのも恥ずかしくないだろう」

 二人は額を合わせた。

 コンロでは茶が湧き、濃厚な香りがそれほど広く無い部屋に充満した。

 ドルマはジグメの耳元で言った。
 「神様はまだあんたの所にいるよ。今、神様の匂いがした」

 二日間会場で過ごした後、ジグメは突然学者に尋ねた。
 「オレも最後にはあんなふうになるんだろうか」

 「私には分からない。君にも分からないだろう」

 「あんなふうにはなりたくない。オレはあんなになったりしない」

 ジグメがこのように確信出来たのは、自分の夢を思い出したからである。夢に入って来たのは神でではなく、物語そのままのケサルだったからだ。 

 「ケサルは何度もオレの夢に現れた」

 「多くの仲肯がそう言っているが」

 「神様じゃなく、国王としてのケサルだった」

 学者は暫く考えた。
 「それで、物語は永遠に自分から離れて行かないと信じているんだね」

 「ケサルは夢の中でオレに尋ねた。これから私は何をするのか、って」
 
 「それは誇らしかっただろう」

 「オレは何も言わなかった。物語は秘密なんです」

 「私にとっては、君のそういった経歴が解けない謎なんだ」

 「それは本当に起こったことです」

 「なぜ、そんなふうに起こったんだろう」

 「神様がオレにケサルの物語を教えたんです」

 「でも、どうしてそんなやり方をしたのだろう。この世の多くの人にとって、それはあまりにも不思議だし、信じがたいことだ」

 「そんな風に言ってはいけない」

 「私たちは古い友達だ。だから、心の中の疑問を話してるんだ」

 こうやって話を続けていくのは危険だ、とジグメは感じた。このままでは、物語を侮辱することになる。侮辱された物語は自分を離れて行くだろう。ジグメは物語が立ち上がり、去って行こうとしているのを感じた。
 ジグメは言った。
 「ここを出ます」

 「君のためにいろいろ手配したんだぞ」

 「すみません。でも、どうしても行かなくちゃならない。物語はオレに腹を立ててるんです」
 そう言いながらすでに歩き始めていた。

 歩き始めると、頭の中の物語は鎮まって行った。ジグメは長い溜息をついてから、やっと振り向いて後ろを眺めた。学者が、白髪の混じった頭で黙って見送っていた。ジグメは自分の声を聞いた。

 「オレは世話になった学者にきちんと別れの挨拶をするべきだ。でも、それは無理だ。そう、それでいい。お前さえ離れて行かなければ、オレは天の果てまで行く。物語をなくし、家で毎日茶を飲んでいるなんて、オレには出来ない」

 後ろで学者が叫んだ。
 「どこへ行くんだ」

 「ムヤです」

 実はジグメは、あの山の辺りがムヤの地だと聞いたことがあるだけで、一体どこがムヤなのか知らなかった。
 公道に沿ってしばらく歩き、つつじの群れの中にうねうねと見え隠れする小さな道に入って行った。振り向くと、辺境の街に建ち並んでいた建物の姿は消えていた。木々の清々しい香りと、木の根元の枯れ枝の朽ちていく香りが混ざり合い、ジグメは自分が別の世界へ入ったのを感じた。水晶のシャンデリアがキラキラ光っているのはまた別の世界だった。

 一体どちらの世界がより真実なのだろう。ジグメには分からなかった。だが、木々が連なってくねくねとした小道の両側に聳えている世界は、ジグメの心を落ち着かせた。それはよく知った心安らかな世界だった。

 道端の草むらの中に巣を作っているひばりには驚かされた。彼の前を、投石機が投げだした石のように、真っ直ぐに雲の上へと飛んで行った。

 風が起こり、木々を揺らし、草を揺らした。緑色の光が波のように次々と翻り、遥か彼方まで駆け抜けて行った。






阿来『ケサル王』 154 語り部 ダルツェンド

2016-06-13 01:32:05 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:ダルツェンド その2


 学者は言った。
 「私たちは知り合って、もう十年以上になる。私は年取ったし、君もゆっくり落ち着くべきじゃないか」今回は語ってもらうためだけに呼んだんじゃない。君のような民間の語り部は国の宝だ。今回の会議で、専門家委員会は君のことを民間文芸大家と認めた。この称号を持つと、政府から家がもらえて、毎月の手当てと医療費が支給される。「ほとんど幹部と同じだ」

「オレが。幹部と同じ?」

「国は無形文化遺産を大切にしている。君のような人物を宝にしたいんだ」

 学者は少し興奮していた。
 「我々はいつも会議ばかりしているわけじゃない。会議をしても、君が嫌いな問題ばかりを討論しているだけではないんだ。まあいいか。この話はここまでにしよう。これ以上話しても君には分からないことばかりだろう。だが、長い間私が君のことを気に掛けていのは分かってくれ」

 「あなたはオレを放送局に連れて行ってくれた。俺の声を録音してくれて、オレもそれを聞くことが出来た」

 学者は笑った。
 「だが君は逃げ出した」

 ジグメは当時の辛かったことを思い出し、しばらく黙ってから言った。
 「あの女の人は、なぜスタジをに入るとあんな話し方をしたんだろう」

 「君は、彼女のアナウンサーとしての声に夢中になってしまった」

 「ジュクモがしゃべる時もあんなふうだったのかもしれない」

 「君がそう言ったと知ったら、彼女はきっと喜ぶだろう」

 「あの人はオレを嫌ってた。俺みたいなみすぼらしい男が、気高いあの人をいやな気分にさせたんです」

 「彼女も後悔していたよ。もし君に会ったら代わりに謝ってくれと言っていた」

 「本当にそう言ったんですか」

 「さて、これももう過ぎたことだ。私は年を取り、もう退職だ。そこで思った。あちこちで歩き回る者は、足の力も衰えていく。落ち着かなくてはいけないんだ、とね。君は落ち着きたいと思うかね」

 「分かりません」

 「行こう、ある人に会わせてやろう」

 二人は橋を渡り、折れ曲がった通りを抜け、灰色のコンクリートの建物の暗い踊り場で呼び鈴を押した。ドアを開けたのは数珠を手にした年取った女性だった。彼女は学者に満面の笑みを投げかけた。ジグメは薄暗い廊下でピカピカ光る彼女の金歯を見ていた。

 彼女は部屋の奥へ向けて大声で言った。
 「大事なお客様だ、茶を入れておくれ」

 客間の電灯の下まで来て、ジグメは彼女が誰か分かった。放送局で一緒に語ったヤンジンドルマだった。穏やかな顔つきのでっぷりとした老婆になっていた。
 ヤンジンドルマもジグメだと分かった。うつむいて唇をしっかりと閉じ、ピカピカの金歯を隠した。だがすぐにまた大笑いし、茶を入れている夫を呼んだ。

 「見て、放送局から逃げ出した人だよ」

 ヤンジンドルマはまたジグメに顔を向けて言った。
 「あの人にあんたが誰か話してあるんだ」

 緊張した空気は消えた。

 「立派な仲肯だな。あんたがいろいろなところで語っていることは、みんな伝わって来るよ」
 老人は腰を曲げ尊敬を込めてジグメが持っている六弦琴に額を触れた。
 「あんたはまだ英雄物語を語っているんだろう。神様はあんたを愛してるんだな」

 「神様はみんなを愛しているさ」

 「録音されたものの他には、ワシはこいつの語りを聞いたことはないんだ」

 ヤンジンドルマは言った。
 「あんたのために語ってあげたじゃないか」

 「ほんの一部分だけだ。完全な物語じゃない。神様はお前の頭の中から物語を持っていってしまったんだ」

 ジグメは分かっていた。
 神は一人の語り部にすべての物語を与えるわけではない。もし完全な物語を与えたとしても、彼の口を借りてひと時の間語らせるだけだ。その後は語り部たちは、その物語を忘れて行く。

 ジグメはドルマにそうだったのか、と尋ねた。
 ドルマは言った。
 「放送局から戻った後は、文化芸術館で毎日物語を集める人の録音機に向かって語っていたんだ」

 彼女は物語の初めから終わりまで語り、何本ものテープに録音した。その中の一本が壊されてしまった。猫が棚からテープを落とし、中身を引っ張り出しもおもちゃにしたのだ。テープは茶を沸かすコンロまで引きずられ融けてしまった。
 研究者は欠けた部分をもう一度録音することにした。その時になって、彼女は気づいた。頭の中が空っぽでどうしても物語が浮かんでこないことに。三日間ずっと、頭の中は曇った空のように一面の灰色で、人も馬も山も湖も現れなかった。
 物語を与えた神がその一切を持って行ってしまったのだ。

 三日後、研究者はまたやって来たが収穫なく帰って行った。
 一年後、二年後、彼らはまたやって来たが、やはり失望して帰って行った。







阿来『ケサル王』 153 語り部 ダルツェンド

2016-06-09 00:55:27 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:ダルツェンド




 ダルツェンドとは古い地名である。
 朝廷の大軍が異郷を滅ぼそうと大軍を進めた時、この地を後方とした。この地はもともと異郷だったが、占領された後、軍がこの地に炉を築き矢を作ったので、この名が着いた。

 石弓を使う兵たちが降伏を拒む者に向けて矢を放ち、抵抗する彼らの体を粉々にし、鮮血を流し尽くすと、大軍はもとの兵営に戻って行き、この地はまた名前を変え、康定と呼ばれた。
 それから百年以上が過ぎ、この地は賑やかな辺境の街となった。旅行者が街を行き交い、登山者はアウトドア用品店で最後の買い物をする。市場では、農夫がキノコと薬材を売り、遊牧民は干しチーズとバターを売る。

 街の中心にある最大のホテルには赤い幕が掲げられていた。
 「祝ケサル学術討論会開催」

 この大会のために、草原を流れ歩いていたジグメはある辺鄙な場所で探し出され、ジープに載せられてこのホテルに連れて来られた。
 この会で、最初に彼を発見した学者と再び巡り会った。

 その夜のパーティーで、ジグメは研究者たちのために、ケサルが伽国で妖魔を倒す物語の中の「メイサ、ムヤで宝物を手に入れる」を語った。学者が、研究者たちのために中国語や英語に訳していった。

 続けてジグメは、研究者たちの会議にも参加したが、彼らの話は聞いても良く分からなかった。
 昼食会の時、彼はずっと頭の上の巨大なシャンデリアを見つめていた。ジグメがそのシャンデリアを見ていると、周りの人々がみな彼を見るので、ジグメはそれ以上見るのが恥ずかしくなった。しばらくして、ジグメは酒のグラスの中にもその煌めきが映っているのに気付いた。
学者が尋ねた。
 「そんなに見てばかりいて、どうかしたのかね」

 ジグメは答えた。
 「こんなにたくさんのガラス…落ちて来るのではと心配で」

 「これはガラスではなく、水晶だ」

 ジグメは目を見張った。
 「これが全部水晶?」

 「そんなことで驚くとは。語りの中では、ケサルが敵を征服して宝の蔵を開けるごとに、水晶は洪水のようにあふれて来るのではなかったかな」

 「それは物語の中のこと。でもこれは本当の…」

 ジグメがここまで言うと、テーブルを囲んで座っていた研究者たちが注目し始めた。
 「語り部が今言ったことを聞いたか。仲肯は、物語の中だからこんなにたくさんの水晶や宝物があると思っている。つまり現実にはこんなにたくさんはあるはずがないってことだろう」

 「つまり、物語が真実だとは思っていないということか」

 他のテーブルに座っていた教授がやって来て傍らに座った。
 「どうやら私だけが物語の真実性に疑問を持っているのではなさそうだ。こんなに有名な仲肯でも、物語が本当だとは思っていないとは」

 彼はジグメの肩に手を置き言った。
 「語り部の先生。どうして物語は本当だと信じないのか教えてくれないか」

 ジグメは顔を真っ赤にして言った。
 「オレは物語が本当だと信じないわけじゃない」

 「だが、たった今言った言葉ははっきりと聞こえましたよ。ただ物語の中でだけで真実なだけだ、という意味じゃなかったかな」

 「オレは物語のことを言ったんじゃないんです。ただ…」

 ジグメはそれ以上言えなくなり、シャンデリアから下がっている首飾のように連なった水晶を見上げた。
 自分が言いたかったのは、物語の中のたくさんの宝物は本物ではないかもしれない、ということのようであり、また、物語の中の水晶はそのまま伝わって行ったのでなく、このようにキラキラと輝く複雑な形のシャンデリアになったのだ、ということのようでもあった。
 彼はどもるように言った。

 「オレは、オレは、物語のことじゃなくて…」

 古くからの友人がこの苦境から彼を救った。
 「我々は討論をどんなに複雑にしてもかまわないが、彼は語ることだけ知っていればいいのだ」

 学者はジグメをテーブルから連れ出し、広い階段を下り、街の中を走るように流れ、波音を響かせる河の畔へ来た。河の上を吹く冷たく澄んだ風が彼の頭をはっきりさせた。
 ジグメは言った。
 「オレはあの人たちを好きではない」

 学者は笑った。
 「我々のケサルの会で、この物語が本当かどうか論争するとは思ってもいなかっただろう」

 ジグメは喉の奥で、うん、と声を漏らし、学者の言葉への同意を示した。

 「君をこんなことに巻き込むべきではないようだ。私はただ君に研究者に語ってもらうよう提案しただけなんだ」

 「オレは帰りたい」

 この話をしている時、ジグメの目はほとばしる河の流れに沿って西の空を見上げた。
 彼は知っていた。峡谷の一番奥、山の峰の後ろは広大なカムの大地であり、広々とした草原、雄大に聳える雪山、宝石のように青い湖があることを。

 広い道は峠を越えると、その先で大きな幹が枝分かれするように沢山の道に別れ、それぞれの谷の中にある村と高地の牧場へと続いて行く。物語を語る者は一羽の鳥のようにいくつもの枝の間を飛び回り、最後に、一つの枝に止まってさえずるように語り出す。何代にも渡り、物語はこのようにして人々の間をどこまでも伝わって行ったのである。

 学者は言った。
 「知っているかね。山を越えるとムヤだ。さらに西へ行くと広々としたアッシュ高原。そこはケサルの生まれた場所であり、ジュクモが沐浴した湖がある。その先は兵器、北へ行けば塩の湖、大きな河に沿って下ればモン国の険しい峰と高い山だ」






阿来『ケサル王』 152 物語 妖妃乱れる

2016-05-09 09:41:56 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:妖妃乱れる その2



 病の皇后との面会が許される日、公主が宮中に上がり母を尋ねると、寝屋には帳が幾重にも懸かり、甘い薬草の匂いが立ち込めていた。折り重なる帳を通して、父である皇帝が皇后に尋ねているのが聞こえた。

 「そなたの弱った体が回復するようにと、国中に名医を募った。国の蔵から褒美として多くの銀と財物を分け与えた。それなのに、なぜそなたの病は癒えないのだ」

 皇后はすすり泣いた。
 「陛下、私の病は国中のすべての財物を使い果たしても良くはならないのです」

 「もう手立ては無いというのか」

 「私は陛下の民の目と口の魔力を受けてしまいました。ですから、一度は死ななくてはならないのです。もし陛下が本当に私を惜しいと思って下さるなら、私がみまかった後、私の言葉通りになさって下さいますか。そうすれば必ず生き返り、またお仕えすることが出来るでしょう」

 「そなたと結ばれてからは、もう他の女を愛することは出来ない。そなたは本当に生きかえるのだな。夫婦となってまた愛し合えるというのだな」

 皇后は皇帝に伝えた。
 自分の言葉通りに行えば、必ず生き返る、死んだ後、亡骸を上等な絹で包み、僅かな光も入らない密室に置くように、と。
 「陛下は命を下し、太陽を金の蔵に閉じ込め、月を銀の蔵に閉じ込め、星を螺鈿の蔵に閉じ込めるようにして下さい。空に鳥を飛ばさず、水中に魚を泳がせず、風さえも吹かせないようにしてください」
 自分は、九年の間暗く鎮まった場にいなくてはならない。三年の間に再び血が流れ始め、その後の三年で皮膚が蘇り、さらに三年の間に肉と骨が力を取り戻す。生き返った後は、美しさはこれまでに勝り、永遠の命を得て、皇帝と共に終わりのない楽しみを味わえるのだ、と。

 皇帝は尋ねた。
 「そなたは永遠の命を得るが、私はどうなのだ。私は死ぬのだ。そうであれば、永遠にそなたは私のものにならず、他の皇帝のものになってしまう」

 「私がお助けいたします」

 「私に永遠の命をくれるのか」

 皇后の言葉は力なく虚ろだった「心配なさらずに、永遠の命が得られるようお助けいたしましょう」

 それはあり得ないと悟った皇帝の心に、悲しみが込み上げた。皇帝の表情は皇后を不安にしたが、もはやこれだけが一縷の望みと、妖皇后はそのまま語り続けた。
 「私が死んだ後、伽国はリン国とのすべての交通と交易を断ち、リン国へと通じるすべての橋を壊し、渡し場を閉ざさなくてはなりません。私の死は重大な秘密とし、リン国へ伝えてはなりません」

 「何故だ」

 「もしケサルが知ったら、私の亡骸を燃やそうとやって来るでしょう。そうなれば、もう生き返ることは出来ないのです。切に、切に、お願い致します」

 公主アグンツォの耳はこれらすべてをしっかりと聞き取った。

 間もなく、皇后は死んだ。長い間公主は深い悲しみの中にいた。だが、父王の哀しみはその十倍、百倍を超え、毎夜密室の中で皇后の傍らに眠り、自らの体温で皇后の亡骸を温めた。この時から伽国は太陽を失い、月を失い、夜ごとに静かに煌めく星までも失った。
 こうして、国中すべてが暗黒に包まれた。鳥はもはや鳴かず、花はもはや咲かず、人々は歌うことなく、その苦しみは言葉にならなかった。

 公主は、自分を生んだ母は実は人の世を乱す妖怪だったのだと知った。もし意のままに生き返らせたら、この国はこれからどのような災いを受けるか分からない。様々に思いを巡らせ、純真な公主は母の亡骸をこの世から消し去り、民を救い、伽国に再び光をもたらす決心をした。
 最後に、共に成長した姉妹たちに思いを伝え、ハトに手紙を持たせるという方法に思い至り、リン国の国王ケサルの助けを求めたのである。

 こうして、暗闇の中で黒い絹に金の糸で刺繍された手紙がケサルの下に届いた。

 難題は、手紙に書かれている、亡骸を消滅させるために無くてはならないという緑、白、赤、黄、青各色のトルコ石で編まれた組紐のことだった。
 この組紐はアサイという羅刹の頭に飾られていた。トルコ石は組紐として編まれ羅刹の頭に結ばれ、彼と共に長い年月修行して来たという。ケサルが、一体何年になるのかと尋ねると、少なくとも三百年は経っているとのこと。さらに不思議なのは、誰もが羅刹の存在を知っているのに、どこへ会いに行けばよいのかは誰も知らないのだった。

 この時トトンが地下の牢で意気揚々と自作の歌を歌うのが聞こえた。

   雨が降る時を知りたくば、天の雲に尋ねるがよい。
   雲は鷹よりも空高く昇るのだから。
   だが、アサイの行方を知る者は 地下の牢につながれたまま


 トトンが最初に歌った時、誰もがあざ笑った。彼が何度も歌い続けると、国王の探るような真剣なまなざしに、笑った者たちはみな気まずくなった。誰もその羅刹と話したことはなく、彼がどこにいるかはもちろん分からなかった。

 トトンはまだ自分で作った歌を歌い続けていた。
 ケサルはニヤリとした。
 「死んでしかるべき罪人を殺さなかったのは、この時に役立たせるためだったのか」
 言い終ると暗い牢に繋がれている叔父を連れて来させた。

 「罪人よ、その羅刹は本当にトルコ石の組紐を頭に飾っているのか。今どこに隠れ住んでいるのか」

 「尊敬する国王よ、手を縛っている縄があまりにきつく、舌がこわばってしまったぞ」

 「死を前にしてそれだけ口が回れば十分でしょう。叔父上は気が弱かったはず。なぜ今は恐れないのですか」

 「真に死に臨めば、恐れて何になろう。ましてや、甥が伽の地へ行って妖魔を倒そうとしている時に、ワシが役に立つと思えば、もう恐れる理由は無いではないか」

 「叔父上がおっしゃりたいのは、叔父上がいなければ、私は偉業を成し遂げられないということですか」

 トトンの目は音を立てるほどにグルグルと回った。
 「ワシはただ、このトトンがいれば事は容易い、と言っているだけじゃ」

 「誰か、縄を解け」

 縄が解かれると、トトンは拝伏した。
 「再び生かされた恩に感謝する」








阿来『ケサル王』 151 物語 妖妃乱れる

2016-05-01 16:33:01 | ケサル
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物語:妖妃乱れる




 手紙を書いたのは伽国の公主だった。

 「わたくし大伽国公主は、天から降った英雄ケサル大王の御前に、拝伏してご挨拶を申し上げます。お願いしたきことにつき細かく述べますことをお許しください」

 もともと、広大な領土と多くの民を有する伽国皇帝もまた天によって封じられた者だった。国内の大臣は万を超え、辺境に封じられた首領は数え切れなかった。宮中の妃は1500人にも昇ったが、どの妃も皇帝ガラガンゴンの心を満たすことは出来ず、そのためこれまで皇后を立てられなかった。長い間皇后を頂かない世は、国中の人々を不安にしていた。

 だが、宮中のあれほど多くの妃たちもみな女性としての輝かしい時をとうに過ぎ、大臣たちは仕方なく他の手立てで皇后を探す画策をしていた。年ごとに貢物を納めに訪れる近隣の属国をあまねく訪ね歩いたが、やはり皇帝の意に沿わなかった。竜の国まで行けば高貴な家柄の美しく聡明な女性を迎えることが出来るかもしれない。大臣たちがそう思いついたところに、知らせが届いた。

 東海の竜宮に比類なく美しいニマチジという姫がいて、ちょうど嫁ぐべき年頃となり、その麗しさは言葉では言い尽せず、もし姫を妃に迎えれば皇帝は必ず満足されるだろう。

 伽国はこの時、これまでになく内向的な、自らの心と感情に耽溺し、政を顧みない皇帝を頂いていた。
 大臣たちは協議の末、皇帝には報告せずに、花嫁を迎えに行く使者の隊伍を整え、黄金、宝石、白銀、銅器、香木、象、孔雀、竜、鳳凰を持たせ、大きな船で東海へと向かわせた。

 ところが、彼らが着いたのは実は竜宮ではなかったのである。

 皇帝がどこまでも心の内に籠っていたため、伽国と竜宮は往来が途絶えて長い年月が立っていた。そのため、竜宮には今年頃の公主はいないことを大臣たちは知る由がなかった。彼らに届いた知らせとは、伽国を手に入れて人の世を惑わそうと考えた妖魔が思いついた計略だった。
 その計略は思いのほか易々と成功することとなった。

 大船は海上を九日間航行し、妖魔たちの用意した偽の竜宮に着いた。竜王はすぐさま求婚の使者の願いに応え、更に嫁入り道具としてたくさんの深海の宝をニマチジに与えた。盛大な宴会が三日続き、姫と侍女と海底の珍しい宝は、求婚の使いに伴われて海面に浮かび上がった。

 航海は順調で、三日も経たず海岸へ戻り着いた。
 姫は、肌は白く滑らかで水から取り出したばかりの貝に勝り、容貌は開いたばかりの花に勝り、歩く姿はそよ風が軽く水面を撫でるかのようだった。類まれな美女は、当然皇帝の心を捉えた。常に寄り添い、夜の床で愛をはぐくむのはもとより、皇帝の最大の願いは宮殿を出て天地を祭る神事に皇后を携え、多くの民に美しい伴侶を誇示することだった。
 皇帝がこれほど美しい皇后を得たことを民が自らの幸せと誇りに感じて欲しいと望んだ。

 春になった。
 風が宮殿の外の柳を緑に染め、土地の神と五穀の神を祭る日となった。だが、ニマチジは宮殿を出ようとしなかった。
 
 皇后は皇帝に尋ねた。
 「私は美しいですか」

 「美しいという言葉ではそなたの姿かたちを言い尽すことは出来ぬ」

 ニマチジは涙を流した。
 「陛下。言葉では言い尽くせないという私の美しさは、ただ陛下だけのもの。民たちに見せることはなりません。それが神様のおぼしめしなのです」

 彼女は皇帝に告げた。この世で最も美しいものは最も脆く最も壊れやすく、民の憧憬の眼差しと賛美の言葉はどれも彼女を強く損なうのだ、と。

 「陛下。民の視線は私にとっては目の魔力であり、民の言葉は私にとっては口の魔力なのです。彼らの目と舌に晒されるのは、私にとって一輪の花が寒風と霜の中に置かれるようなものなのです」

 皇帝は仕方なく一人で出かけた。
 それからは、皇帝は自ら祭を取り行おうとはせず、皇后と共に後宮に籠り、政にかまわず、姫に仕えるために着き従って来た竜女を通して大臣に自らの意志を伝えるようになった。ほとんどの時、竜女たちが伝えたのはでたらめに作られた偽の詔だった。

 妖皇后が宮廷を惑わしたため、国では多くの災害と異常現象が次々と起こった。
 湖は枯れ、澄んだ鳴き声を高らかに響かせていた鶴は他へ移り、宮廷の画師が描いた絹の上の鶴さえも羽根を振るわせて去って行った。雄大な山が途中から崩れ、河は流れを変えた。ある土地では命の拠り所である水源が枯れ、ある土地では大水が道や町や村を覆った。

 皇帝と妖皇后が生んだ公主アグツォが十三歳になった時、この国を襲う災難は更に深刻になっていた。
 大臣たちも、これらの災難は妖皇后が宮廷を惑わしたためだと、考えるようになった。そしてついに、妖皇后ニマチジは竜宮の生まれではなく、九人の魔女の生気と血が混ざり合って生まれたものだと知った。

 そこで公主の十五歳の成人の儀を借りて、盛大な祝いの席を設け、天の神の助けを願った。

 妖皇后の人間界での寿命を終わらせるため、天の神、水の神、山の神それぞれがびっこ、めくら、おしに扮し、牛とロバを追いながら街に現れた。三人は王宮前の広場までやって来ると、牛とロバのしっぽを結び付け、それぞれに得意な芸を演じ始めた。おしはひらひらと飛ぶように舞い、めくらはよく通る声で高らかに歌い、びっこは手品で観衆の目をくらませた。踊りと歌と手品と、これまでに見たことも聞いたこともない出し物に、町中が湧きかえった。

 広場の喧噪と歓声はそのまま宮中に伝わり、三日三晩続くと、ニマチジは好奇心を抑えきれなくなり、頭から薄絹をかぶり、夕暮れに紛れて広場を見下ろす宮殿の楼閣に登った。

 この時一陣の風が吹き、人々の目線を避けるための薄絹を靡かせ、地平線に近づいていた太陽がその日最後の閃光を放って楼閣を照らした。ニマチジの麗しい姿が何千という人々の目に晒された。
 多くの視線が彼女の上に同時に集まり、多くの口から驚きと賛美の言葉が湧き上がった。美しい妖皇后、未だ修練が成就していない妖怪は、人々の口の魔力と目の魔力をまともに受けた。冷たい風と厳しい霜がなよやかな美しい花に降りたように、宮中に戻ったニマチジはその日から病に臥せった。

 妖皇后は病を得ると、誰とも会おうとせず、公主でさえ決められた時に会うしかなかった。







阿来『ケサル王』 150 物語 伽国の手紙

2016-04-24 00:18:06 | ケサル
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物語 伽国の手紙 その3





 三日後、各部の兵馬が次々と到着した。トトンは自ら進んで許しを請い、申し開きを繰り返した。自分には反乱する意思など微塵もなかった、タンマに追い詰められ兵を挙げて相対することとなった、戦ううちに挑発的な言葉を使わざるを得なかった、と。

 ケサルは言った。
 「もし、タンマが力を尽くして戦わなかったら、私が変化の術を施さなかったら、各部の兵馬が命を受けた後すぐさま駆けつけなかったら、叔父上は間違いなくこの黄金の王座に納まっていたはずです。叔父上が国王になったら、私をどのように扱うつもりだったのですか。首を落とすか、暗い牢に入れるか、あの時と同じように荒野に放擲するか」

 トトンは額を地にすり付け、声を高めた。
 「我が国王よ、伽国からの手紙を読んでから処罰を考えてもよいではないか。もしこの度の出征にワシを用いずとも良いとなれば、殺しても切り刻んでも恨み言は言わぬ」

 国王は冷たく笑い、手紙を読み上げるよう命じた。

 手紙を開くと、思いのほか長文で、細かい文字が三枚の薄絹を埋め尽くしていた。その場にいる者――大臣も呪術師も、誰もそこに書かれている異国の文字を読めなかった。国王はまずトトンを地下牢に連れて行かせ、手紙が訳されてから処分することにした。

 首席大臣は言った。
 「もしギャツァの生母が生きていれば、この文字を読むなど、容易いことだったでしょう」

 その言葉が終わるやいなや、洞穴を吹き抜ける風のような音が宮殿中に響き渡った。
 「グヮーン」
 「グヮーン」
 それは人々の口から発せられた非難の声だった。

 首席大臣はすでに百歳を過ぎ、老いのために体は衰え、昔に比べ政に疲れていた。

 国王は軽く眉を寄せた。
 「リンと伽国とは交易をしていながら、一つの舌で二つの言葉を話し、両の目で二つの文字を読める者はいないというのか。ホルの言葉を話し、リンの言葉をも話すシンバメルツのような者が」

 老将タンマは前に進みかけ、また下がった。
 国王の目線は彼の所で止まった。
 タンマは何も言わず、王子ザラを国王の前に押し出した。
 国王は笑いながら言った。
 「お前は異国の言葉を習得しているのか」

 王子ザラは答えた。
 「二種の者たちがその力を持っているはずです。寺で経を訳すラマと二つの国を行き来する商人です」
 
 ケサルは言った。
 「まさにその通りだ。一つの土地と民を導く者であっても、すべての事柄を身に着けている必要はなく、ただ、誰がその能力を持っているかを知っていれば良いのだ。早くその者たちを王宮に連れて来なさい」

 朝廷から戻る時、ケサルは振り向いて首席大臣に尋ねた。
 「太陽が沈む前に手紙に何が書かれているか分かるだろうか」

 知恵を持つラマと賢明な商人が宮殿へ上がり、異なる文体で一つの手紙を訳した。ラマが訳した文は優雅で美辞麗句を連ねていた。商人の訳した文は簡単明快で話すように分かりやすかった。文体がどうであれ、どちらも手紙が述べている言葉を正確に伝えていた。

 国王はその場で自らの想いを語った。
 これからのリン国の文書は二つの文体を併せ持ち、奥深く典雅に、そして話し言葉のように分かりやすくあらねばならない、と。

 だが、理想と現実は相いれない。千年過ぎ、また百年が過ぎ、この地の人々は少しずつ心の内を省み、自らを見つめるようになっていった。そうなると、美辞麗句で飾られた優雅な文体が盛んに用いられ、分かり易いす民間の文体は姿を消してしまった。だがこれは後の話。

 訳された文章がそれぞれ異なっていながら同じことを語っているのを宮殿の人々が目の当たりにしている間に、首席大臣は国王へ報告するため、供を連れ大急ぎで宮中へ向かった。
 宮中へ続く薄暗く折れ曲がった回廊を進みながら、西に向けて開いた窓に近づき外を眺めると、真紅の夕日は、山の頂までまだ馬一頭分の距離があった。







阿来『ケサル王』 149 物語 伽国の手紙

2016-04-18 01:03:01 | ケサル
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物語:伽国の手紙 その2



 瞬く間に、王城から四方へ遣いが出され、各部の兵は王宮に集まって忠誠を尽くすよう促した。

 王城から十数里離れた路上で、タンマは馬を牽いてトトンの行く手を塞いだ。
 「ダロン部の尊敬する長官よ。領地で命を待たずに、このようにあわただしく、しかも意気揚々とどこへ行こうというのか」

  二人は常から水と油のように相入れず、さらにこのような状況で向き合うと、一触即発の緊張が走った。

 「国王に報告することがあるのだ。もし遅れて大事となったら、タンマよ、どう責任を取るつもりか」

 「命もないのに王城へ兵を引き連れて来るとは、そなたこそ乱を起こそうと企んでいるのだろう」

 この言葉はトトンの心に眠っていた火種を起こし、激しい炎を燃え上がらせた。
 「道を開けた方が身のためだ。わずか数千の兵馬で、我がダロン部の数万の兵の相手が出来ると思っているのか」

 「リンの王位を奪おうと乱を起こしたとしか思えん」

 この時、炎はトトンの心の中で一層激しく燃え盛った。
 タンマを囲む隊伍の旗を見ると、王城を守っている精兵はほとんどすべて集まっている。各部から兵馬が到着するには早くとも三、五日が必要だろう。

 本来ここまで兵を率いて来たのは、手紙を届け、そのまま国王に着いて伽の地へ遠征するためだったが、思いもよらず、絶好のきっかけと巡り合ってしまった。相手が反乱と言うなら、そうしようではないか。
 そう考えると即座に挑発的な言葉が口を突いた。
 「もしワシが反乱したらどうするつもりだ」

  人を煽るその態度に激怒したタンマは、一言も答えずにトトン目掛けて馬を走らせた。

  二人は激しく剣を交えたが、勝負はつかなかった。空が暮れかけても、トトンは戦いをやめようとしなかった。
 ついにトンザンが馬に鞭打って駆けつけ、タンマとトトンを引き離し、父を連れて陣営へと戻った。

 トンザンは父を説得しようとした。
 「タンマが道を遮ったのではありません。国王が父上を信頼せず、我が兵を王城に近づけないようにしたのです。父上は何故無理やり通り抜けようとしたのですか。息子である私が一人で出て行き、国王の手に手紙を渡せばそれでよいのではありませんか」

 トトンは大声をあげた。
 「ケサルよ!わしは良かれと思って兵を率い、お前を助けに来たのだ。それなのに歓待するどころか、腹心の大将を寄越して途上でワシを邪魔するとは。それを反乱というのなら、今日にでも反乱して見せよう」

 トンザンは父を諌めた。
 「今王城の力は僅かでも、ケサルは天の神が降され、その力は壮大で…」

 「ケサルに神の力があり、ワシには無いとでもいうのか。ワシの息子なら、隷属に甘んじてはならない」
 
 トンザンが何も答えずにいると、トトンは口調を緩めて言った。
 「過ちでもいい、それを押し通すのだ。うまくいけばそれは天から授かった機会だったのだ。うまくいかなかったら、タンマが道を塞ぎ勝負を挑んで来たからだ、と言い訳すればよい。明日の朝早く、全軍で戦いに備え、うまくいけば、そのまま王宮を攻める。うまくいかなかった時に、伽国の手紙をケサルに送り届けても遅くないだろう」

 だがその夜、空を覆うほどに霧が立ち込めた。
 朝、ダロン部は濃霧の中で陣を敷き、太陽が昇り霧が晴れたら突撃しようと待ち構えた。だが、ケサルの法術により、霧はいくら待っても晴れず、昼だというのに夕暮れ時のようだった。

 双方は陣を組んだまま、小競り合いを繰り返すのみで、本格的な攻撃を出来ずにいた。トトンは哀れにも力を消耗しながら、わずかな戦果も得られなかった。

 次の日、ケサルは術を変え、晴れ渡った空に、風の神、雷の神、霰の神の力を借りて雹を降らせ、隊列を組んだばかりのダロンの兵馬を散り散りにした。

 三日目、後方から、ザラ王子の率いる大軍が出発し、昼夜をいとわず進んで三日の内に到着する、という密書が届いた。
 トトンは考えた。三日間では、たとえタンマに勝つことは出来ても、王城を攻めることは出来ないだろう。そこで、自分は戦いの場から抜け出し、トンザンに伽国の手紙を託した。
 トンザンはタンマに道を譲るよう頼み、一人国王に会いに行こうとした。

 そこでタンマはトンザンと共に国王に会いに行った。途中タンマは尋ねた。
 「戦わずに父を助けようとしているのか」

 トンザンは言った。
 「もしダロン部が本当に反乱すれば、力の限り戦うだろう」

 タンマには事の次第が分からず、言った。
 「きちんと国王に説明するのだぞ」

 国王はトンザンに会うと、彼を責めることなく、手紙を受け取り、褒美を与え言った。
 「各部の兵が日を置かずに王城に集まるだろう。事の是非は皆に判断してもらおう」

 トンザンはしきりに弁解した。
 「父は手紙を受け取り、ただ功を立てたいがために、王様の命を受ける前に兵馬を動かしてしまったのです」

 国王は言った。
 「たぶん、事の起こりはそうだっただろう。だが、そこから後の事はそうではないようだ」

 「それはタンマに迫られ…」

 ケサルは言った。
 「そなたを困らせるつもりはない。すべての所以を明らかにするために、そなたはまず帰り、三日後に父を連れて再び来なさい」







阿来『ケサル王』 148 物語 伽国の手紙

2016-04-13 01:59:37 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:伽国の手紙



 ケサルが領地を巡行しているまさにその頃、遥かな伽国から三羽のハトが飛び立った。

 三羽のハトは金色の皇宮―伽国の公主が一人住む蘭香閣から飛び立った。
 一羽は公主がリンの国王に宛てた自筆の手紙を身に着けていた。二羽は公主が国王に贈る品々-―美しい玉と公主の花園の珍しい花の種を携えていた。

 ハトは長い時間飛び続けた。

 三羽のハトがリン国へと飛んで来るには、伽国とリン国の間にある山の国ムヤを通る。

 その昔、リンがホルを征服した時、ムヤは兵を出してリンを助けた。戦いの後は兄弟国として盟を結び、永遠に睦まじく侵略はしないと天に向かって誓い合った。時が経ち、ムヤの法王は、リン国を兄として奉るのが面白くなくなり、ムヤを通るリンの隊商に重い税を課し、その後ついに境界を閉鎖せよと命を降し、リン国とは音信を絶った。

 ほとんどの時間、ムヤ国の法王は山の中で厳しい修行に励み、様々な霊力を高める巨大な法器を生み出そうとしていた。
 そのため、通常の国政は弟ユアントンバに任せていた。

 三羽のハトがムヤを通り過ぎるその時、法王ユズトンバは高い山で修行の最中だった。雨風を呼び、手塩にかけた法器に更に強い力を持たせようとしていた。

 まさにその時法王は、ハトが自分の国を飛び越えようとしているのを目にし、ハトのはやる想いを感じ取った。
 そこで、鞭のような電光を孕んだ黒雲で空を満たし、自分の頭の上にだけ晴れ間を残し、如意神変と呼ばれる法器を天を衝く大樹に変化させた。

 如意神変はもともと小さな木片だったが、地底の暗がりに一千年埋められ、逆巻く洪水に湖へと流され、その冷たい水の中で一千年の眠りに入った。時が経ち、湖は干上がり高い山となった。
 鉄のようで鉄ではなく、玉のようで玉ではない、夜の闇より黒い木片は、高い山の頂で一千年電光に打たれ、更に法王の供養と祈祷により内に持つ力を呼び覚まされ、外からもより多くの力を取り込んで、常にはない様々な変化の力を具えた。

 三羽の疲れたハトが美しい実を着けた木に止まると、木は巨大な袋に変わり、ハトをすべてその中に閉じ込めた。
 ユズトンバは声を挙げて笑った。
 「伽国から来た遣いよ、我がムヤはお前たちの目的地ではないようだな。そのように急いでどこへ行こうとしているのだ」

 ハトは言った。
 「お前の変幻の術にかかるとは。これでは使命を全うできない。殺せ」

 「お前たちはあまりに小さく、おまけに、長く飛んだ後で、脂も肉も使い果たしているだろう。お前たち三羽を殺して、力では及ぶもののない国王に骨ばかりのハトを食えと言うのか。安心しろ、殺したりはしない」

 「それならなおのこと、我々がどこへ行くのか教えることは出来ない」

 ムヤの国王は人を呼んでハトが身に着けている手紙をほどかせ、開いて読むと、すべてが明らかになった。
 「公主に忠誠を尽くす伽国のハトたちよ。自ら死ぬがよい。お前たちの秘密はすでに我々の知るところとなった」

 ハトは空高く飛び上がり、そこから地上目がけて矢のように降下した。こうして自分の命を終わらせようとしたのである。
 だが、ムヤ国王は法術を使って地面をヨーグルトのように柔らかく変えた。

 法王は言った。
 「お前たちを死なせないことにした。やはりリンのケサルに手紙を届けるがよい。ケサルがどうやってこのムヤ国を通らずにお前たちの公主を助けるのか見てやろう」

 ムヤ国王はハトに食べ物を与え、体力を回復させた。
 「さあ、飛んで行け。そしてケサルに尋ねるのだ。ムヤが道を貸さなければ、どうやって軍を率いてお前たちの国に行くつもりなのか、と。もし出来ぬならお前たちの公主はワシに助けを求めに来るだろう」

 ハトは尋ねた。
 「我々の公主を助けてくれるのか」

 「もちろんだ。もし、彼女がワシの妻になるのなら」

 三羽のハトは翼を振るわせて飛び立ち、リン国へと向かった。

 数日も経たず、ダズの王宮の頂に降りた。だが、彼らが会えたのは嫉妬に苛まれている王妃ジュクモだけだった。
 ジュクモはハトに言った。
 「国王はメイサを連れて領地の巡幸へ行きました」

 ハトはそのままホルまで飛んだが、国王はすでに発ってかなりの時が経っていた。
 体の弱ったシンバメルツは悔しそうに言った。
 「今回の大事にも、このおいぼれは国王について出陣し、先頭に立って敵を倒すことが出来なくなってしまった」

 王子ザラの領地では、三羽のハトは新しい矢を試していた兵器の匠たちにもう少しで射殺されるところだった。王子ザラは暖かい言葉でハトをねぎらい、ダロン部へ行く方向を教えた。
 ハトが空の向こうに見えなくなるより先に、王子は兵馬を整えるよう命を伝え、国王について伽国へ出征する準備を始めた。

 ダロン部に着くと、国王はすでに去っていた。
 トトンは厚くもてなし、ハトに向かって、自分こそ世に名をはせるリン国の王だと告げた。そこで、使者であるハトは公主の手紙と貢物をすべて献上した。

 トトンは言った。
 「そなたたちは安心して国へ帰り、公主に伝えるがよい。間もなく、ケサルはリン国の大軍を率いて伽国へ出発する、とな」
 言い終ると、その言葉通り大軍を集め、すぐに王城へ向かって出発した。ダロン部の兵を一番に王宮へ到着させ、自分がいかに有能かを示そうとしたのである。

 ケサルが王宮に戻った。
 ジュクモは国王が再び遠征に行くことを恐れ、伽国の使いが助けを求めて来たことを伝えなかった。

 数日して、美しく晴れ渡った日、ケサルは色とりどりに花の先乱れる野外に大きなテントを張り、大臣たちと酒を酌み交わし、新しく伝わって来た歌を楽しんでいた。
 その時、遥か遠くの青空の下に、黄色い埃がもうもうと立ち昇った。すぐにそれは、何千もの人と馬が王城に向かって駆けて来るのだと分かった。

 国王は不思議に思った。
 「出征の命など降していないのに、何故兵馬がやって来るのだろうか」

 首席大臣は一目見て言った。
 「埃の上がっているのはダロン部へと通じる道です。もしやトトンが…」

 そこで国王はすぐさまタンマに王城を警護する兵を連れて偵察に行くよう命じた。
 タンマは命を受けるとあわただしく数千の兵馬を集めた。

 今回トトンがダロン部の大軍を率いて王城に駆けつけたのは、誰にとっても思いもよらないことだった。
 「もしや、トトンは大胆にも王位を奪おうとやって来たのか」









阿来『ケサル王』 147 語り部 拒絶

2016-04-06 02:53:53 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:拒絶その2



 夢への闖入者は音もたてず、興味深げにただ見つめていた。やはりジグメが先に口を開いた。
 「どうして黙ってるんですか」

 「お前も私に何も話してくれないではないか。だからお前の姿を見ていようと思ったのだ」ケサルは言った。
 「お前は私が想像していた様子とは違う」

 「どう違うんですか」
 ジグメは、国王であるケサルは天の神であるケサルより愛おしいと感じた。

 「思っていたより不器量だ」

 「天の神がオレの腹にあなたの物語を詰め込む前、オレは字も読めない羊飼いでした」

 「今の暮らしはどうだ」

 「よく分かりません。いい時もあれば悪い時もある」

 「家はあるのか」

 「生まれた家はあります。でも、あなたの物語を語り歩くようになってから決まった家はなくなりました。
  オレたち語り部にとって、自分が今いる場所が家なんです」

 「オレたち…と言うことは他にも語る者がいるのか」

 「たくさんいます。でもみんなはオレが一番うまいと言ってます」

 「妻はいるのか」

 「いません」

 「金もなさそうだが」

 「ちょっと前にかなり稼ぎました。百元も!」

 「どうして私には見えないのだ」

 ジグメは袋の中の金を見せた。

 「ただの、字を書いた紙ではないか」

 「銀行が字を書いた紙が金なんです」

 「そうだとしたら、字には強い魔力があるということか。我々の場所では、字はただ紙に書かれた言葉でしかない。
  今、私はトトンの領地にいる」

 「トトンはあなたに貢物をして国王になりたがっています」

 「トトンは国王になるのか。いや、言ってはならないのだったな。
  だが、私は彼にはなって欲しくない。リンの各の首領も同意しないし、首席大臣も同意しないはずだ。
  巡幸に行った時、多くの苦しんでいる者を見た。
  私が良い国王であるなら、なぜあのように多くの民が腹を空かせ、流れ歩いているのだろう。
  お前の周りにも苦しんでいる者は大勢居るのか」 

 「たくさんいます」自分もその内の一人だとジグメは言いたかった。だが、言わなかった。
 ジグメはただこう言った。
 「偉い人もたくさんいるし、金持ちもたくさんいます」

 「そうだとしたら、この世はあまり変わっていないようだ」

 「たぶん変わっていません」

 「戦いはあるか」

 「テレビで言ってました。世界では多くの国が今戦っている最中だ、と。
  ただし、妖魔と神々が戦うのではなく、人と人が戦っています。黒い肌の人も戦い、白い肌の人も戦い、オレと同じような肌の色の人も戦っています」

 「そろそろ帰らなくてはならない」

 「では、帰って下さい」

 音もなく現われた者は影のように去る。悩める国王はそのまま姿を消した。

 目が覚めた時、ジグメがまず思ったのは、幸いにもケサルが自ら作ったリン国がまだあるかどうかを尋ねなかったことだった。
 あると答えれば嘘になり、ないと答えればケサルが傷ついただろう。

 歩き始めてしばらくの間、行くべき場所がなくなってしまったように感じていた。
 その時突然、ケサルの物語を書き続けているラマ、心臓を掘り起こしているラマを思い出し、再びそこへ向かった。

 半月後、ジグメはラマと会った。林を吹き抜けるざわざわという風の音の中で、ジグメはラマが禅定から戻って来るのを待った。

 ラマは目を開き、ジグメを見て言った。
 「私はあの場にいた人々に、あなたがもう一度帰って来ると言っておいた」

 「オレが戻るのを待っていたのですか」

 「ずっと待っていた。あなたが帰って来ることは分かっていた。心の中から掘り起こした新しい物語を教え、あらゆる場所で語ってもらわなくてはならない」

 ジグメは夢の中の国王を思い出し、うつむいて何も言わなかった。

 「断るのか」

 ジグメは思ったままを尋ねた。
 「どんな物語を書いたんですか」

 ラマは言った。
 「仲肯はこれ程多くいるが、ケサルの物語はまだすべて語り尽くされてはいないのだ。私は神の意を受けて英雄の功績すべてを掘り起こした」

 「ラマ様の物語の中で、ケサルは何をするのですか」

 「これまで聞いたことのない魔国を征服し、宝の蔵を開け、珍しい宝を手に入れる」

 ジグメは暫く迷ったが、終に口を開いた。
 「オレは断ります。そして、どうかもう書かないでください。ケサルは天に帰りたがっています。とても疲れているんです」

 ラマは驚き、表情を変え、皮肉たっぷりに言った。
 「おお、凡夫がラマに説教しておる」

 「オレはお願いしてるんです」

 ラマは落ち着きを取り戻すと言った。
 「そう言うからには何か所以があるのだな」

 ジグメは答えた。
 「夢の中でケサルと会いました」

 「それは知っている。語り部はみな夢の中でケサルの意を受けるのだと言うではないか」

 「オレが会ったのはリンの国王のケサルです。ケサルは終わることのない戦いに飽き飽きしています」

 「戦いに飽きるとは。
  戦いこそがケサルに多くの栄光を与えたのだ。人々が彼の物語りを伝えて来たのは、勇壮な戦いがあればこそではないのか。
  ケサルは戦神にも例えられる無敵の王なのだから」

 「オレはもうこれ以上書かないようにとお願いに来たんです。大王ケサルはすでにうんざりしています」

 ラマは尊大な表情で言った。
 「神があなたを仲肯としたのは、あなたの果報だ。それなのに物語に文句をつけるとは、己の身分を忘れてはいまいか。
  我々は神に選ばれたのであって、神を崇めるべき僕なのだぞ」

 「きっと…ケサルは天に昇った後、人の世での苦しみを忘れたのです」

 「神よ、道理に背いた者のでたらめな言葉をお聞きになりましたか」

 「オレも正しいとは言い切れません。でもそう思うんです」

 「神を冒涜する者よ、帰りなさい」

 「お願いです…」

 「誰か、この男を帰らせろ」

 「間違っていますか」

 「間違っている」

 「間違っていません」

 「誰か、この男を」





阿来『ケサル王』 146 語り部 拒絶

2016-04-03 12:25:59 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304





語り部:拒絶



 ジグメはある村で語った。

 語りが終わった後、小さなもめ事が起こった。村人たちはこれまでのように語り部への祝儀を持ってこなかった。食べ物や心づけの金を。村人は、今回の語りは村長が招いたものであり、村の金で支払うべきだと考えたのである。

 村人たちは、みんなの金は工事の検査の来る役人をもてなすだけでなく、このような楽しみにも使うべきだ、と言った。
 村長は、このような昔ながらの語りは昔ながらのやり方ですべきだと譲らなかった。
 「良馬は主人を乗せて出かければ、良く知る道を選ぶもの」

 双方がもめている間に、派手な格好の若者がジグメに百元渡した。その後若者はジグメに付いて来て、師になって欲しいと頼み込んだ。

 ジグメは若者に答えた。
 自分の物語は神から授かったものであり、他人に教えることは出来ない、と。
 若者は、それは分かっている、だが、自分が習いたいのは六弦琴の弾き方といくつかの節回しだけで、物語を覚えたいのではない、と言った。
 その後、自分の袋から琴を取り出し、胸に抱えたまま一時口の中で何かつぶやいてから弾き始めた。

 「あんたの琴の音の方がオレのよりきれいだ」

 「音ではなく、節回しなんです。この琴であなたの節を弾きたい。節だけで充分です」

 ジグメは、この若者に教えるには長い時がかかるだろうと考えたが、若者がついて来たのは三日だけだった。

 広野を歩き疲れると、二人は腰を下ろして琴を弾いた。
 ジグメが短く弾くと、若者が後について短く弾く。ジグメが一区切り弾くと、若者はまたそれに付いて一区切り弾く。
 英雄の物語では重要なのは物語を語ることであり、そのため節回しは数種類しかない。若者はすぐに学び終えた。

 その時二人は、やはりかつてのリン国だと言われている自治州に着いた。
 二人が山の上から降りて来ると、地を這う風に背中を押され、長い間歩いた後にもかかわらず足の運びは軽かった。
 地上の風は北に向かって吹いていたが、上空の薄い雲は東へ向かって軽やかに飛んで行った。

 街の広場はあまりに広く、二人は噴水の前に座り、人や車が行き来するのを眺めていた。若者が言った。
 「そろそろお別れですね」

 彼はジグメにまた金を払おうとしたがジグメは断った。彼の心は広場のようにとめどなかった。
 後ろで噴水がザーッという音と共に噴き上がり、ザーッという音と共に落ちていった。

 ジグメは言った。
 「節回しは物語を語るためのものだ。なのにあんたは何故節回しだけで、物語を習わないのかね」
 ジグメは自分の考えが変わっているのに気付いた。この愉快な若者に長い時を経た物語を教えたいと思い始めていたのである。

 だが若者は言った。
 「この節回しに新しい歌詞を合わせてみたいんです」

 若者は琴を弾きながら歌った。歌ったのは男と女の愛だった。その眼には憂鬱の色があった。

 若者はまず低い声で試すように歌い始め、琴の音は徐々に高まっていった。
 ある時は彼の教えた節であり、ある時は彼の教えた節ではなかった。それを聞いて彼の心は広場よりも果てしなくなった。

 歌声を聞きつけ人々が集まって来て、若者の演奏を聞いた。若者を取り巻く人々はどんどん増え、娘たちは嬌声をあげ、男たちは口笛を吹いた。彼らには若者が誰か分かっていた。ジグメはその時やっと彼が有名な歌手だと知った。

 若者は歓声の中で彼の師匠を紹介した。だが続いて起こったのは儀礼だけの拍手だった。
 彼らは帽子やスカーフを空中に放り投げ、もう一曲歌うよう求め、若者はまた歌い始めた。

 ジグメは立ち上ったが、歌手はもう歌い始めていて、途中でやめることは出来ず、目だけでジグメを追った。
 その眼差しは彼の歌っている愛と同じで、なすすべもなく、ただ胸の奥深くで別れを惜しんでいた。広場と群衆に背を向けた時、ジグメは涙を流した。

 ジグメは言った。
 「ひどい風だ。目が痛くてたまらない」

 次に自分に言った。
 「オレは泣いている」
 そう言うとまた涙があふれた。泣いた後、体中が伸びやかになっていた。

 その夜、ジグメは故郷とよく似た牧場に泊まった。テントの真ん中の牛糞が燃える赤々とした火が少しずつ暗くなり、彼は眠った。
 夜中に目が覚めると、羊と青草の匂いのする女が彼の毛布の中に潜り込んで来た。彼は女を胸に抱きしめ、ハァハァと喘いだ。

 女は口を耳元に当て言った。
 「ちっとも仲肯らしくないわね」

 彼はまた喘いだ「ハァ、ハァ…」

 こうして毛布の中はまたジグメ一人になった。

 ジグメは、毛布から出て行った女が子供に乳を与えている音を聞き、星の光が草の露の上に落ちて震える音を聞いた。

 この場所で、リンの国王ケサルが再び彼の夢に現れた。





阿来『ケサル王』 145 物語 巡幸あるいは別れ

2016-03-22 15:56:27 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語: 巡幸あるいは別れ その3




 ホルを去る夜、宴が終わり、愛する妃と蜜のように愛し合った後、ケサルは言った。
 「そろそろ天へ帰る時が来たようだ」

 メイサは国王の胸に頬を寄せ言った。
 「どうしても私たちをお捨てになるおつもりですか」

 「私が去らなければ戦いは止みそうもないのだ」

 「王様が退治したのはすべて人間に害を与える妖魔です」

 「だが、我が兵たちは死んでいった。彼らの母と子供は犬のようにあちこち彷徨っている」

 「偉大な英雄、慈悲深い王様。もし千回死んでも、メイサは王様のお側でお仕えするでしょう」

 ホルを後にし、国王は王子ザラの領地へ行った。
 星の煌めく夜、丘の上に聳える、東から西へと横たわる群山を望み、大河が北から南へと貫く深い渓谷を望む城砦の頂からは、兵器の鉄を溶かす炉の赤々とした光が眺められた。
 ザラが報告した。明日、国王には、新しい冶金の技を学んだ工匠たちがどのように新しい兵器を作るのかをご覧いただきます。

 国王は言った。
 「その必要はない。ここから見ればよい」

 「いいえ、大王が親しく作業場に臨まれたなら、工匠たちには無上の誉れとなりましょう」

 赤々と燃える火を見ながら、国王は尋ねた。
 「兵器を作るには多くの費用が掛かるのだろうな」

 ザラは答えた。
 「国王のお力により、度重なる戦いで得られた財宝で十分まかなえます」

 国王はザラの砦に三日留まったが、それ以上兵器について尋ねることなかった。ある時は一人沈黙し、ある時はザラに老人や貧しい者を思いやる国王になるよう諭した。それは自分がなりたくともなれなかった国王の姿だった。

 国王は言った。
 「お前の体にはギャツァの血が流れている。お前がリンの王になった時には、彼と同じように広く豊かな心を持たねばならい」

 ザラはそれを聞くと驚き顔色を変え、王座の前にひれ伏した。
 なぜなら、いつの時も心して王位を待ち望んでいると国王に感じさせてはならない、と周りの者に常々忠告されていたからである。

 国王はザラを助け起こし言った。
 「お前は公明で私心のないギャツァの息子だ。卑しい考えを毒虫のように心に潜り込ませてはならない」

 兵器を去る時、ケサルはため息をついてからメイサに言った。
 「私は王子の心の中に解きがたい謎を残してしまった。ザラはこれから、民のために宝を使うだろうか、それとも、これまで通り鋭利で無敵の兵器を作り続けるだろうか」

 「ザラ様は、今からどのように偉大な国王になるかを学ばれることでしょう」

 ケサルは笑った。
 「悩み多い国王になることだろう」

 「国王とは辛いものであるのなら、なぜトトン様はいつもそれを望まれるのでしょう」
 国王はメイサにダロン部に行って直接自分で尋ねさせることにした。

 ダロン部の豪華な宴で、メイサはこの問いを口には出来かった。トトンがまだ愛しい息子を失った悲しみの中にいたからである。
 
 国王は心を尽くしてトトンを慰めた。
 トトンの中で本来の悪い癖が頭をもたげ、表情も高慢になっていった。
 宴の後、彼はメイサを引き留め、九尺もあるサンゴの樹と銅の山から生まれた自生仏を国王に渡すよう頼んだ。

 「何か望みでも」とメイサは尋ねた。

 トトンは言った。
 「大王が行幸されるという知らせは広く伝わっている。誰もが国王が我々の元を去り、天に帰るつもりなのだと話している。そこでじゃ…リンの国で、国王以外に強い神の力を持った者はといえばこのトトンのみ…」

 「何をおっしゃりたいのですか」

 「ケサルもこのトトンだけが彼の大業を継ぐことが出来ると知っているはずじゃ…」

 メイサは、国王はこの大仰な貢物を断るだろうと思ったが、なんと国王は受け取った。公正な国王がそうするはずはないとメイサは考えていたのである。
 国王は言った。
 「もし、我々がみな物語の中に生きているとしたら、すべてのことはすでに定まっているのだ。もしすべてが定まっているのなら、トトンがこのように贅沢な貢物をしたからといって、何も変わることはないのだ」

 ケサルはメイサに言い付け、人を遣わしてこの宝を各地で珍奇な宝を探し求めているペルシャや漢の商人に売り、それで得た金を路上で出会った貧しい民に施すようにさせた。

  ケサルは言った。
 「そろそろダズの王宮に戻ろう。家のない者に会ったら家を持てるようにし、嫁入りを控えサンゴの首飾りを持っていない娘に首飾りを与え、幸せを感じて欲しいのだ。病気の者に薬を与え、裸足の者に丈夫な靴を与え、寄る辺ない者に喜びを与えよう」

 そして、ため息を一つつくと話題を変えた。
 「私はまたあの者の夢に入った。不思議なのは、彼の夢に入るとは彼の体の中に入ることなのだが、彼の姿をはっきりと分かっていることだ」

 国王が見た語り部ジグメは、痩せて背がひょろりと高く、六弦琴を抱え、顔には長い間の苦しみが刻まれ、靴の埃を見れば常に旅の途上にあると分かり、眼差しは暗澹としていた。

 ケサルは言った。
 「天界の私がリン国での功績を彼に伝えさせているのに、なぜ彼は高貴な人間ではなのだろう」

 国王はこう言いたかったのである。
 後の世のリン国で、自分の業績をより良く覚えているのは高貴な子孫であるはずなのに、何故その物語を語り伝えるのはごく普通の民なのだろう。その者は、身分が低く身なりもみすぼらしい。

 国王は自らを責めた。何故自分は心の内に多くの疑問を抱えるようになってしまったのだろうか、と。







阿来『ケサル王』 144 物語 巡幸あるいは別れ

2016-03-18 03:07:28 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語 巡幸あるいは別れ その2



 ケサルはメイサに言った。
 「一粒の宝石がこれほどまでに人々を喜ばせるのか」

 メイサは穏やかに答えた。
 「王様。宝石にではなく、幸運に巡り合えたことを喜んでいるのです。あの人たちはこれまでずっと幸運とは無縁だったのです」

 ケサルは思った。一つの国を滅ぼし、人々を魔法の呪縛から解き放ち、呪いの言葉で重く閉ざされていた石の門を開くたびに、金銀、水晶、赤や青の宝石、シャコガイ…様々な宝がまるで洪水のように溢れ出て来た。
 「それらすべてを分け与えたのに、何故下々にまで届かなかったのだろう」

 メイサは暫く考えてから言った。
 「王様は首席大臣にこうおっしゃいましたね。王様が下界に降りられたのは妖魔を消滅させるためであって、人の世のことには関わらない、と」

 「人の世はこのようにして長い時を経て来たのだろうか」

 「私には学問はありません。でも、私が生まれた時から世の中はこのようでした」

 その日一日、国王の心は楽しまなかった。
 国王と馬を並べて進むメイサもまた、心を欝々とさせた。

 「尊敬する王様。誰もが王様に出来ないことはないと考えています。でもメイサは知っています。王様にとってこの世は分からないことだらけなのだと」

 ケサルは心の中で思った。
 「メイサこそ私の心を知る女だ」メイサを連れて来たのは正しかった。

 幾日もせずに、当時のホルとリンの境界に来ていた。
 数十年が過ぎ、当時両軍が砦に用いた木はすでに朽ち果てていた。
 国王の心は重く沈んでいった。当時の戦場だった、ギャツァが命を落とした場所に石の祭壇が築かれていた。ケサルは馬を降り、祭壇の周りを何度も行きつ戻りつした。靴は草むらの中の馬の骨や錆びた矢じりを踏んだ。ケサルが徘徊した辺りに、人が踏み固めた小道が出来ていた。

 「私と同じようにこの地を徘徊している者よ。分かっているぞ。出てきなさい」

 シンバメルツが腰を屈めて古い柏の木の後ろから現れた。その憔悴した様子にケサルは驚いた。
 「どうしたのだ、その様子は」

 「後悔が毒虫のように私の心を蝕んで来ました。国王が大業を成し遂げられた今、その毒虫がこの罪深い体を食い尽すのに任せているのです」

 明るかった空がまるで泣き始めたように雨を降らせた。
 ケサルはシンバの肩を抱いた。
 「誰もがお前のリン国への忠心を知っている。お前が心の内で自分を責めているのを知り、天も感動の涙を流している」

 「私は罪人です。それなのになぜギャツァ殿の霊は私を助けたのでしょう。ギャツァ殿の気高さを想うと、自分が一層小さく感じられるのです」

 ここまで聞いてメイサも心を痛め、傍らに立ち尽くしたままこらえきれずに涙を流し、ケサルが大業を成すために怖れることなく自らを捧げようと心に決めた。

 ケサルは言った。
 「ギャツァは真っ直ぐな男だった。だから自分と同じ真っ直ぐな者を助けたかったのだ。豊かな基礎を築いて万代も続く強大なリン国を作るという私の大業が成就するために、ギャツァはそなたの助けを求めているのだろう」

 シンバメルツの頬を雨と涙が濡らした。彼は顔を上げると天に向かって声を挙げた。
 「ギャツァ殿。戦神として崇め祭るギャツァ殿。それは本当ですか」

 空中にゴロゴロと雷鳴が走った。雨は止み空は晴れ、青く澄んだ空の下に美しい虹が現われた。
 シンバは空を見上げて涙を流し、言った。
 「私の罪は許されたのでしょうか」

 晴れ渡った空にまた雷鳴が響いた。

 シンバは言った。
 「そうであれば、思い残すことはありません。王様を我が領地にお連れして、ホルの民の歓呼の声と敬愛の念を受けていただけたら、私は安心してみまかることが出来ます」

 メイサは言った。
 「国王の今回の巡幸は、まさにホルに行ってあなたとホルの民に会うためなのです」

 だが、ケサルは眉を寄せた。
 「民は私を歓迎するだろうか」

 「必ず歓迎するでしょう」

 「だが、途中で会った者たちは私を避けた」

 「王様が偉大なケサル王だということを、彼らは知らないのです」

 「無一文な民が物乞いをしているのに幾度も出会った」ケサルは言った「地に撒いた宝石を拾った時の、彼らの喜びようはなかった。何故なのだ。我々が征服した敵国の宝を民たちには与えていないのか」

 「軍と共に出征した兵たちには与えています」

 「では、まだ多くが余っているということだな」

 「私の手の中には何も残っていません。」

 「?」

 「我々が戦いで得た宝は、また新しい戦いで使われるのです」

 「路上で物乞いをしていた女や子供たちは…」

 「命を落とした兵の母親と子供たちです」

 「どうして彼らを助けないのだ」

 「次の戦いがなくなるその日が来れば、助けることが出来ます。少なくとも私はそう考えています」

 「と言うことは…」

 「地位も権力もあるリンの英雄と大臣がすべて王様のように民を憐れむ心を持っているわけではありません」

 シンバメルツとメイサは、国王が心の中にこのようにたくさんの疑問を抱えているとは考えていなかった。
 ケサルは、財宝にはどんな使い方があるのか、と尋ねた。

 答えは…より雄壮で煌びやかな砦を作るをため、より荘厳な寺を作るため。時には、そのまま洞窟の中に隠しておかれる。なぜなら人は巨大な富を持つことで、より一層高い地位を手にし、より多くの力を天から賜ったと思えるからである。

 ホルへと向かう道に、ケサルの名はいち早く伝わっていった。行く先々で多くの民の歓呼の声があがった。
 民は幸運にも偉大な大王が作った国に生まれたことに幸せと誇りを感じている。ケサルはそのことを確かに感じた。