語り部:病 その2
昏睡していたジンメイは自ら起き上がった。
目にはこれまでにないほど生き生きした光が輝き、いつもは暗く生気がない顔には特異な色つやが浮かんでいた。
そして、ジンメイは唄い始めた。
「ルアララムアラ ルタララムラタ!」
今回は誰も嘲って笑たりしなかった。何故ならジンメイの暗くかすれた声ががらりと変わっていたからである。
その口から発する声には、人々の心を奪う力があった!
彼はすぐにでも歌いたかった。だがまだ続いている高熱のため体はひどく弱っていて、今の一節だけでまた意識を失いそうだった。
青白い顔に微笑を浮かべて言った。
「物語だ、オレの胸の中全部がケサル王の物語なんだ」
活佛は言った。
「お前の心にはいつもケサルの物語があったのではないか」
ジンメイは体を起こし、言葉を返した。
「今回は違うんです。頭の中にいっぱい詰まってるんです」
活佛は言った。
「ワシとお前には縁がある、ワシと船で渡ったから、お前は無駄な道を行かずに済んだのだぞ」
ジンメイは目の前にいるのが自分を船に乗せてくれた活佛だと分かった。
「寺に会いに来るよう言ったのに、お前は来なかったな」
活佛の語気には咎めるような語気があった。
「ワシは言ったではないか、お前の心には宝が隠されている、と。ワシがそれを掘りだしてやろう」
確かに、頭の中に一時の間に沢山のものが詰め込まれ、体の中は、遥か昔の神、魔、人が入り混じった戦闘の殺伐とした気配に突き動かされていた。
すぐには何の糸口も見つけられそうになかった。
活佛は尋ねた。
「ワシの助けが必要かね」
「頭がすっきりするお経を上げてください」
活佛は笑ってから、手を挙げて端正な顔だちの婦人を呼び、糸を紡ぐ紡錘と羊の毛を持って来させた。
活佛は羊の毛の塊を手に取って言った。
「お前の頭の中の物語は、今はこのように絡まり合ったままなのだ」
その通りだった。
羊の毛は再び女性の手に戻り、彼女が片方の手で羊の毛を撚り片方の手で紡錘を回すと、瞬く間に、一本の細い糸が羊の毛の塊り中から引き出され、長く伸び、撚り合わさって面白いほど整然と紡錘に巻かれていった。
あっという間にその羊の毛の塊はきちんとした球形に巻き取られた。
頭の中の絡まり合って解れないないものにも糸口があり、始まりと終わりがあるのだと思うと、ジンメイの頭の中にあるはっきりしものが現れた。
活佛が再び糸の端を引っ張ると、巻き取られた糸はコロコロとほどけた。活佛は言った。
「こうやって、始めから終わりまで、その物語を語ればよいのだ」
ジンメイは起き上がっていた体を、また力なく横にして言った。
「でも、オレにはほんのちょっとの力もないんです」
「力はお前の体に戻って来る」
今、ジンメイは柔らかい羊の毛皮で体を覆い、星空を見上げながら、体の中の力が新たに生まれて来るのを待っていた。
見るからに慈愛に溢れてはいるが、本来は威厳に満ちた活佛を目の前にして、自分は将来の歌い手としてもう何もいらないとは言えなかった。
そこでジンメイは目を閉じた。
だが、活佛は命じた。
「目を開けてワシを見なさい」
ジンメイが目を開けると、活佛が片方の手でもう片方の腕に掛かる広い袖を引き上げ、その手の指を開き、顔から10㎝ほどの空中を撫でるように動かしているのが見えた。
その時ラマは、ひどく濁った重々しい声で一言一言はっきりと呪文を唱えていた。
活佛は疲れも見せず法術を施し続け、目の見えない男をイライラしたさせた。
暫くして活佛は言った。
「よし、試してみなさい、これで頭がはっきりしたはずだ」
ジンメイの頭は既にはっきりしていたのだが、また少しぼんやりし始めた。
どこがぼんやりしているのか。それはどうやって頭がすっきりしたかどうかを試す方法を知らないことだった。
活佛は周りを囲む人たちに言った。
「この男はどうやって試したらいいか、まだ分からないのだ」
この言葉がおかしくて、皆は思わず吹き出した。
月が昇りはじめた頃、郷の衛生院の若い女医が到着した。体温を測り血圧を測ったがすべて正常で、ただ心臓の鼓動が少し遅かった。
ジンメイが口を開いた。
「早くなるわけがない。これっぽっちの力もないんだから」
医者はブドウ糖の太い注射をした。
ジンメイは言った。
「力が遠い所からゆっくりゆっくり戻って来た」
今回は医者が笑った。
「じゃあもっと早く力に戻って来てもらいましょう」
医者は部屋の中に戻って点滴しようと言ったが、ジンメイは屋根でなくてはだめだと言い張った。そこで、みんなで屋根に点滴を置いた。活佛は裕福な家の仏間で休むよう連れられて行った。
医者は病人に付き添って、月の光に微かに輝く透き通った液体が一滴一滴ジンメイの血管に入って行くのを見ていた。
誰もが眠ったと思ったジンメイが、突然笑い出した。
「活佛の手はすごく熱かったが、この薬は体の中を流れて行って、涼しくて気持ちがいい」
女医は活佛に話題が及ぶのを嫌って言った。
「力はまだ遠くにあるのかしら」
「足の早いのはもう戻って来ました」
「ではもう少し待ちましょう」
こうして待っている間、皆は壁にもたれ上着にくるまって眠った。女医は敷物をかぶりオーバーの襟を立てて頭を埋め、やはり眠っていた。
ジンメイは静かに横になったまま、片方の目には村の北側の河岸まで続く起伏する丘が見えた。
月は薄い雲の中を通り抜け、地に映し出される影はその丘の上で絶え間なく形を変えた。
ジンメイは再び物語の中の大群の兵馬が、怒涛のように入り乱れて戦うのを見た。
ジンメイの力のほとんどがまだ遠くにあったが、一部は戻って来て、そこで彼は僅かに唇を動かして歌い始めた……
彼にとっては、これは歌ではなく、真新しい使命だった。
明日も彼はやはり羊飼いだ。だが昨日の羊飼いとは明らかに異なっているはずだ。
活佛は言った。
「ワシがあの男の智慧の門を開いたのだ」
活佛が言いたかったのは、ジンメイの胸が物語で埋め尽くされ、多くの糸口がお互いに絡み合っている時、活佛が一度手でしごくと、乱れていた糸口が現われ、引き出され、そのおかげでジンメイは、女が糸を紡ぐ時の糸巻のように、くるくると止まることなく回り続けることになった、ということである。
このようにして、神の力を授かったケサルの語り部が、また一人草原に誕生した。
彼は間もなく語り始めるだろう。
なぜなら彼は英雄から託されたのだから。
日増しに凡庸へと向かう世には、英雄の物語が伝わり広まらなくてはならないのである。
その夜、物語すべてのの始まりが ジンメイの目の前にありありと浮かんでいた…
昏睡していたジンメイは自ら起き上がった。
目にはこれまでにないほど生き生きした光が輝き、いつもは暗く生気がない顔には特異な色つやが浮かんでいた。
そして、ジンメイは唄い始めた。
「ルアララムアラ ルタララムラタ!」
今回は誰も嘲って笑たりしなかった。何故ならジンメイの暗くかすれた声ががらりと変わっていたからである。
その口から発する声には、人々の心を奪う力があった!
彼はすぐにでも歌いたかった。だがまだ続いている高熱のため体はひどく弱っていて、今の一節だけでまた意識を失いそうだった。
青白い顔に微笑を浮かべて言った。
「物語だ、オレの胸の中全部がケサル王の物語なんだ」
活佛は言った。
「お前の心にはいつもケサルの物語があったのではないか」
ジンメイは体を起こし、言葉を返した。
「今回は違うんです。頭の中にいっぱい詰まってるんです」
活佛は言った。
「ワシとお前には縁がある、ワシと船で渡ったから、お前は無駄な道を行かずに済んだのだぞ」
ジンメイは目の前にいるのが自分を船に乗せてくれた活佛だと分かった。
「寺に会いに来るよう言ったのに、お前は来なかったな」
活佛の語気には咎めるような語気があった。
「ワシは言ったではないか、お前の心には宝が隠されている、と。ワシがそれを掘りだしてやろう」
確かに、頭の中に一時の間に沢山のものが詰め込まれ、体の中は、遥か昔の神、魔、人が入り混じった戦闘の殺伐とした気配に突き動かされていた。
すぐには何の糸口も見つけられそうになかった。
活佛は尋ねた。
「ワシの助けが必要かね」
「頭がすっきりするお経を上げてください」
活佛は笑ってから、手を挙げて端正な顔だちの婦人を呼び、糸を紡ぐ紡錘と羊の毛を持って来させた。
活佛は羊の毛の塊を手に取って言った。
「お前の頭の中の物語は、今はこのように絡まり合ったままなのだ」
その通りだった。
羊の毛は再び女性の手に戻り、彼女が片方の手で羊の毛を撚り片方の手で紡錘を回すと、瞬く間に、一本の細い糸が羊の毛の塊り中から引き出され、長く伸び、撚り合わさって面白いほど整然と紡錘に巻かれていった。
あっという間にその羊の毛の塊はきちんとした球形に巻き取られた。
頭の中の絡まり合って解れないないものにも糸口があり、始まりと終わりがあるのだと思うと、ジンメイの頭の中にあるはっきりしものが現れた。
活佛が再び糸の端を引っ張ると、巻き取られた糸はコロコロとほどけた。活佛は言った。
「こうやって、始めから終わりまで、その物語を語ればよいのだ」
ジンメイは起き上がっていた体を、また力なく横にして言った。
「でも、オレにはほんのちょっとの力もないんです」
「力はお前の体に戻って来る」
今、ジンメイは柔らかい羊の毛皮で体を覆い、星空を見上げながら、体の中の力が新たに生まれて来るのを待っていた。
見るからに慈愛に溢れてはいるが、本来は威厳に満ちた活佛を目の前にして、自分は将来の歌い手としてもう何もいらないとは言えなかった。
そこでジンメイは目を閉じた。
だが、活佛は命じた。
「目を開けてワシを見なさい」
ジンメイが目を開けると、活佛が片方の手でもう片方の腕に掛かる広い袖を引き上げ、その手の指を開き、顔から10㎝ほどの空中を撫でるように動かしているのが見えた。
その時ラマは、ひどく濁った重々しい声で一言一言はっきりと呪文を唱えていた。
活佛は疲れも見せず法術を施し続け、目の見えない男をイライラしたさせた。
暫くして活佛は言った。
「よし、試してみなさい、これで頭がはっきりしたはずだ」
ジンメイの頭は既にはっきりしていたのだが、また少しぼんやりし始めた。
どこがぼんやりしているのか。それはどうやって頭がすっきりしたかどうかを試す方法を知らないことだった。
活佛は周りを囲む人たちに言った。
「この男はどうやって試したらいいか、まだ分からないのだ」
この言葉がおかしくて、皆は思わず吹き出した。
月が昇りはじめた頃、郷の衛生院の若い女医が到着した。体温を測り血圧を測ったがすべて正常で、ただ心臓の鼓動が少し遅かった。
ジンメイが口を開いた。
「早くなるわけがない。これっぽっちの力もないんだから」
医者はブドウ糖の太い注射をした。
ジンメイは言った。
「力が遠い所からゆっくりゆっくり戻って来た」
今回は医者が笑った。
「じゃあもっと早く力に戻って来てもらいましょう」
医者は部屋の中に戻って点滴しようと言ったが、ジンメイは屋根でなくてはだめだと言い張った。そこで、みんなで屋根に点滴を置いた。活佛は裕福な家の仏間で休むよう連れられて行った。
医者は病人に付き添って、月の光に微かに輝く透き通った液体が一滴一滴ジンメイの血管に入って行くのを見ていた。
誰もが眠ったと思ったジンメイが、突然笑い出した。
「活佛の手はすごく熱かったが、この薬は体の中を流れて行って、涼しくて気持ちがいい」
女医は活佛に話題が及ぶのを嫌って言った。
「力はまだ遠くにあるのかしら」
「足の早いのはもう戻って来ました」
「ではもう少し待ちましょう」
こうして待っている間、皆は壁にもたれ上着にくるまって眠った。女医は敷物をかぶりオーバーの襟を立てて頭を埋め、やはり眠っていた。
ジンメイは静かに横になったまま、片方の目には村の北側の河岸まで続く起伏する丘が見えた。
月は薄い雲の中を通り抜け、地に映し出される影はその丘の上で絶え間なく形を変えた。
ジンメイは再び物語の中の大群の兵馬が、怒涛のように入り乱れて戦うのを見た。
ジンメイの力のほとんどがまだ遠くにあったが、一部は戻って来て、そこで彼は僅かに唇を動かして歌い始めた……
彼にとっては、これは歌ではなく、真新しい使命だった。
明日も彼はやはり羊飼いだ。だが昨日の羊飼いとは明らかに異なっているはずだ。
活佛は言った。
「ワシがあの男の智慧の門を開いたのだ」
活佛が言いたかったのは、ジンメイの胸が物語で埋め尽くされ、多くの糸口がお互いに絡み合っている時、活佛が一度手でしごくと、乱れていた糸口が現われ、引き出され、そのおかげでジンメイは、女が糸を紡ぐ時の糸巻のように、くるくると止まることなく回り続けることになった、ということである。
このようにして、神の力を授かったケサルの語り部が、また一人草原に誕生した。
彼は間もなく語り始めるだろう。
なぜなら彼は英雄から託されたのだから。
日増しに凡庸へと向かう世には、英雄の物語が伝わり広まらなくてはならないのである。
その夜、物語すべてのの始まりが ジンメイの目の前にありありと浮かんでいた…