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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』㊾語り部 病

2014-06-03 02:10:54 | ケサル
語り部:病 その2





 昏睡していたジンメイは自ら起き上がった。

 目にはこれまでにないほど生き生きした光が輝き、いつもは暗く生気がない顔には特異な色つやが浮かんでいた。
 そして、ジンメイは唄い始めた。

 「ルアララムアラ  ルタララムラタ!」

 今回は誰も嘲って笑たりしなかった。何故ならジンメイの暗くかすれた声ががらりと変わっていたからである。
 その口から発する声には、人々の心を奪う力があった!

 彼はすぐにでも歌いたかった。だがまだ続いている高熱のため体はひどく弱っていて、今の一節だけでまた意識を失いそうだった。
 青白い顔に微笑を浮かべて言った。

 「物語だ、オレの胸の中全部がケサル王の物語なんだ」

 活佛は言った。
 「お前の心にはいつもケサルの物語があったのではないか」

 ジンメイは体を起こし、言葉を返した。
 「今回は違うんです。頭の中にいっぱい詰まってるんです」

 活佛は言った。
 「ワシとお前には縁がある、ワシと船で渡ったから、お前は無駄な道を行かずに済んだのだぞ」

 ジンメイは目の前にいるのが自分を船に乗せてくれた活佛だと分かった。

 「寺に会いに来るよう言ったのに、お前は来なかったな」
 活佛の語気には咎めるような語気があった。
 「ワシは言ったではないか、お前の心には宝が隠されている、と。ワシがそれを掘りだしてやろう」

 確かに、頭の中に一時の間に沢山のものが詰め込まれ、体の中は、遥か昔の神、魔、人が入り混じった戦闘の殺伐とした気配に突き動かされていた。
 すぐには何の糸口も見つけられそうになかった。

 活佛は尋ねた。
 「ワシの助けが必要かね」

 「頭がすっきりするお経を上げてください」

 活佛は笑ってから、手を挙げて端正な顔だちの婦人を呼び、糸を紡ぐ紡錘と羊の毛を持って来させた。
 活佛は羊の毛の塊を手に取って言った。
 「お前の頭の中の物語は、今はこのように絡まり合ったままなのだ」

 その通りだった。

 羊の毛は再び女性の手に戻り、彼女が片方の手で羊の毛を撚り片方の手で紡錘を回すと、瞬く間に、一本の細い糸が羊の毛の塊り中から引き出され、長く伸び、撚り合わさって面白いほど整然と紡錘に巻かれていった。
 あっという間にその羊の毛の塊はきちんとした球形に巻き取られた。

 頭の中の絡まり合って解れないないものにも糸口があり、始まりと終わりがあるのだと思うと、ジンメイの頭の中にあるはっきりしものが現れた。

 活佛が再び糸の端を引っ張ると、巻き取られた糸はコロコロとほどけた。活佛は言った。
 「こうやって、始めから終わりまで、その物語を語ればよいのだ」

 ジンメイは起き上がっていた体を、また力なく横にして言った。
 「でも、オレにはほんのちょっとの力もないんです」

 「力はお前の体に戻って来る」

 今、ジンメイは柔らかい羊の毛皮で体を覆い、星空を見上げながら、体の中の力が新たに生まれて来るのを待っていた。
 見るからに慈愛に溢れてはいるが、本来は威厳に満ちた活佛を目の前にして、自分は将来の歌い手としてもう何もいらないとは言えなかった。

 そこでジンメイは目を閉じた。

 だが、活佛は命じた。
 「目を開けてワシを見なさい」

 ジンメイが目を開けると、活佛が片方の手でもう片方の腕に掛かる広い袖を引き上げ、その手の指を開き、顔から10㎝ほどの空中を撫でるように動かしているのが見えた。
 その時ラマは、ひどく濁った重々しい声で一言一言はっきりと呪文を唱えていた。

 活佛は疲れも見せず法術を施し続け、目の見えない男をイライラしたさせた。

 暫くして活佛は言った。
 「よし、試してみなさい、これで頭がはっきりしたはずだ」

 ジンメイの頭は既にはっきりしていたのだが、また少しぼんやりし始めた。
 どこがぼんやりしているのか。それはどうやって頭がすっきりしたかどうかを試す方法を知らないことだった。

 活佛は周りを囲む人たちに言った。
 「この男はどうやって試したらいいか、まだ分からないのだ」
 この言葉がおかしくて、皆は思わず吹き出した。

 月が昇りはじめた頃、郷の衛生院の若い女医が到着した。体温を測り血圧を測ったがすべて正常で、ただ心臓の鼓動が少し遅かった。

 ジンメイが口を開いた。
 「早くなるわけがない。これっぽっちの力もないんだから」

 医者はブドウ糖の太い注射をした。
 ジンメイは言った。
 「力が遠い所からゆっくりゆっくり戻って来た」

 今回は医者が笑った。
 「じゃあもっと早く力に戻って来てもらいましょう」

 医者は部屋の中に戻って点滴しようと言ったが、ジンメイは屋根でなくてはだめだと言い張った。そこで、みんなで屋根に点滴を置いた。活佛は裕福な家の仏間で休むよう連れられて行った。

 医者は病人に付き添って、月の光に微かに輝く透き通った液体が一滴一滴ジンメイの血管に入って行くのを見ていた。

 誰もが眠ったと思ったジンメイが、突然笑い出した。
 「活佛の手はすごく熱かったが、この薬は体の中を流れて行って、涼しくて気持ちがいい」

 女医は活佛に話題が及ぶのを嫌って言った。
 「力はまだ遠くにあるのかしら」
 
 「足の早いのはもう戻って来ました」

 「ではもう少し待ちましょう」

 こうして待っている間、皆は壁にもたれ上着にくるまって眠った。女医は敷物をかぶりオーバーの襟を立てて頭を埋め、やはり眠っていた。

 ジンメイは静かに横になったまま、片方の目には村の北側の河岸まで続く起伏する丘が見えた。

 月は薄い雲の中を通り抜け、地に映し出される影はその丘の上で絶え間なく形を変えた。
 ジンメイは再び物語の中の大群の兵馬が、怒涛のように入り乱れて戦うのを見た。


 ジンメイの力のほとんどがまだ遠くにあったが、一部は戻って来て、そこで彼は僅かに唇を動かして歌い始めた……
 彼にとっては、これは歌ではなく、真新しい使命だった。

 明日も彼はやはり羊飼いだ。だが昨日の羊飼いとは明らかに異なっているはずだ。

 活佛は言った。
 「ワシがあの男の智慧の門を開いたのだ」

 活佛が言いたかったのは、ジンメイの胸が物語で埋め尽くされ、多くの糸口がお互いに絡み合っている時、活佛が一度手でしごくと、乱れていた糸口が現われ、引き出され、そのおかげでジンメイは、女が糸を紡ぐ時の糸巻のように、くるくると止まることなく回り続けることになった、ということである。

 このようにして、神の力を授かったケサルの語り部が、また一人草原に誕生した。

 彼は間もなく語り始めるだろう。

 なぜなら彼は英雄から託されたのだから。

 日増しに凡庸へと向かう世には、英雄の物語が伝わり広まらなくてはならないのである。  

 その夜、物語すべてのの始まりが ジンメイの目の前にありありと浮かんでいた…








阿来『ケサル王』㊽語り部 病

2014-05-27 07:57:07 | ケサル
語り部:病 その1




 がっしりとして力に満ちた気高い人物が、瞬きした瞬間、ジンメイの前に立っていた。身に付けた金の鎧兜の光が、眩しかった。
 ジジンメイにはこの神人がケサルだと分かった。

 「あなたですね」

 鎧兜の神人はうなずいて言った。
 「そうだ」

 「ケサル大王」

 ジンメイは、さっと立ち上がり、地にひれ伏そうとしたが、王の神通力で動くことが出来なかった。
 大王が話すと、傍にいながら、その声は空の深い所から聞こえて来て、遥かに響いているようだった。

 「お前が語りたいのを、私は知っている」

 「オレは語りたいんです」

 「だがお前の声はかすれている」

 金の鎧の神人は指をはじき、仙丹を彼の口に入れた。涼やかで柔らかく、不思議な香が電光のように彼の体を駆け巡った。
 その香は光であり、自分でも今まで意識しなかった体の中のたくさんの通路を飛ぶように通り抜けて行った。

 ジンメイは叫んだ。
 「大王様」

 同時に自分の声がよく通って、胸から、額から共鳴しているのを感じた。

 大王は言った。
 「羊飼いよ、これからは私の物語を命ある者すべてに語りなさい」

 「でも…」

 「お前は聡明ではない。だが、今この時、それもすでに改められた」

 神人は突然消えた。だが、声だけはすぐ近くにあった。空が明るく澄んでいた。
 だが、雲が流れ、青空が開くと、折り重なる高い楼閣の中に、多くの神々が立っているのが見えた。

 ジンメイは羊を追いながら草原から家へ帰った。

 目の前の風景は刻々と変化した。

 羊たちが時に獅子へと変わり、雪豹に変わり、言い表しようのない姿の妖魔に変わった。

 手に持つ鞭を振るうと電光が煌めくのが見え、その後、一瞬のうちに、現実なのか頭の中なのか、馬に乗った兵の大軍が見えた。
 ある時は微動だにしない凛然とした空気に恐れを感じ、ある時は、狂風に吹き荒れる潮のように、雷鳴かと思われる音と共に互に攻め入り、互いに占領しあった。

 幸い、羊の先頭が道を知っていたので、羊を囲いまで連れて行き、羊の後ろの目の見えない牧人を村まで連れて帰った。

 ジンメイは黄昏の光の中、手探りで柵の扉を閉めると、そこで意識を失った。

 牧人が倒れると、大人しい羊たちが驚いて啼き始め、雄の羊たちは堅い角で柵にぶつかって行った。
 羊は静かな動物である。いつもは囲いの中に戻ると、口の中が空っぽでもずっと咀嚼を続け、まるで彼らの沈黙は、こうやってモグモグと歯を動かして味わわなくてはならないものがたくさんあるからであり、羊とは心が豊かで繊細な生き物であるかのようだった。

 だがこの日は違った。すべての羊が何かを恐れて興奮していた。村で一番の物知りの老人も、このように多くの羊が同時に啼きわめくのを見たことはなかった。
 このような現象は、常でないことが起こるのを意味していた。

 羊の囲いへと向かう途中も、人々はまだ尋ね合っていた
「狼に噛まれたんだろう」
「気を失ったんだ」
「羊がぶつかって来たんだろうか」
「焼けている炭みたいに熱いそうだ」

 皆が駆けつけると羊たちはあっという間におとなしくなった。

 皆は担いで連れ帰ったジンメイを床に置いた。何も掛けなくても、体の下の熊の皮の敷物は彼の体温を更に高くした。

 二頭の馬が村を跳び出した。一頭は数十里離れた郷の医者を呼びに、一頭は寺に活佛を呼びに。
 彼の高熱では、活佛も医者も間に合わなのではないかと心配された。だが待つ以外何も出来なかった。誰もどうしていいか分からなかった。

 だが、病人は自分から起き上がった。

 「熱くないか?」

 ジンメイは熱いとは言わず、言った。

 「息が苦しい。外に行きたい」

 「外?」

 牧人は庭がいいとか他がいいとかは言わず、言った。
 「星の下に行きたい」

 星の下!
 皆は病人を担ぎ上げ庭へ行った。ジンメイは言った。
 「庭じゃない。屋根の上だ」

 皆はその時気付いた。
 そう、庭では多くの星は見られないではないか。

 彼は担がれて平らな屋根の上に来ると、石の板の上に寝かせるよう指示した。その滑らかな石の板は、皮をなめす時に使っていたものだ。

 天上の星はすべて揃っていた。星座はそれぞれの位置で輝いていた。
 ジンメイは石の板の上に平らに寝て、石板の冷たさを感じ、満足して言った。
 「オレは見た」

 彼はまた言った。
 「水」
 そして意識を失った。

 湯が届けられた。だがすぐに誰かが気付いた。湯ではなく、泉から湧き出したばかりの最もきれいな水だ。

 泉の水が届けられた。
 意識がはっきりとしないまま、ジンメイはごくごくと飲んだ。
 まるで胸の中に大きな火があって、大量の水で消さなくてはならないかのように。

 二杯目を泉に取りに行かなくてはならなかった。
 二杯目はいくらも飲まなかった。残った水に柏の枝を浸して、彼の顔と激しく起伏する胸に少しずつ振りかけた。

 ジンメイがまた言った。

 「オレは見た」

 皆は彼が意識を取り戻したと思った。だが、本当には目覚めてはいなかった。

 誰も彼に何を見たのかとは聞かず、言った。
 
 「こいつは見たんだ」

 誰も片目しか見えない人間が普段は何が見えないのかは言わず、意識を失っていると言う必要もなかった。

 目の見えない男は満点の星の輝きのもと、夢の中で確かに見た。
 千年以上、一代また一代と語り部が語って来た史詩の物語が彼の目の前で演じられるのを。
 体中が燃えるようだったが、心の中は清々しかった。

 ずっとずっと昔、髪の黒いチベットの民が暮らしたこの高原、金沙江の両岸に険しい崖が高くそびえる谷間、黄河がうねうねと通り抜ける果てしない草原、総てが史詩が演じられた広々とした舞台である。

 深夜、星の光が水のように注いで、村の外から馬のひずめの音が響いて来た。

 まず、寺の活佛が到着した。









 


阿来『ケサル王』㊼物語 寺

2014-05-22 20:31:57 | ケサル
物語:寺 その2



 ジョルとギャツァはまた河原まで馬を走らせた。
 
 そこで、手下の大軍を使って大地全てに穴を開け、牧草全てを枯らすことの出来るネズミの王を矢で射殺した。

 三日後、二人が再び河原に来ると、雨上がりの大地は生命を回復し、青々とした草の葉が地上を覆い、まるでけぶっているようだった。
 瞬く間に、家を失って彷徨っていた牧人たちがここに根を下ろした。

 ギャツァは知った。リンの新しい生息の地は、弟ジョルがこのようにして開いて来たのだと。
 そして、心から言った。

 「弟よ、お前こそ我々の王になるべきだ」

 ジョルはその場ででんぐり返しをして、醜くも滑稽な風体に変化した。
 「誰かの王だなんて…」

 ギャツァは馬から降り、兜を脱ぎ、弟の前にひれ伏した。
 「オレにはお前の兄と言えるだけの力がないのだ」

 弟は元の姿に戻り、兄を引き起こし、額を兄の額に貼り付けた。
 ジョルは言った。
 「ここで別れましょう」

 「僧たちを本当に来させるのか」

 「すぐやって来るでしょう」

 「だが、寺はまだ出来ていない…」

 ジョルは遠くの峠を指して言った。
 「兄さんがあそこに着いた時、振り返って見てください」

 ギャツァは馬に乗り、遠くへ向けて駆けて行った。

 ジョルは天の兵たちが天から自分を守っているのを知っていたが、気付かないふりをしていた。
 普通の人が見えないものをジョルは見ることが出来る。
 そろそろ彼らに姿を現してもらおうと、言った。
 「雲の後ろに隠れている兵たちよ、私の前に降りて来い」

 天の兵たちはそれに応えて姿を現し、輝く甲冑と輝く刀、鉾がジョルの前に整列した。

 ジョルは言った。
 「人々は疲れている。天の菩薩のご意志で寺を作るのだ。お前たちは神の力を現して、すぐに寺を完成させてくれ」

 天の兵士と神々は再び空に昇って行くと、間もなく、空に黒い雲がモクモクと現れ、寺を建設中の小さな丘を覆い尽くした。
 雲の中では雷鳴が轟き、稲光が走り、矢のようなにわか雨と重い霰が降って来て、石工と大工は丘から逃げて行った。

 後ろでこのような大騒ぎが起こっても、ギャツァは振り向かなかった。
 豊かな河原を見通せる峠まで来て、やっと後ろを振り向いた。
 彼は大工や石工と一緒に雲が分れ霧が晴れるのを眺め、空の端に虹が懸かるのを見た。

 寺は既に完成していた。

 重厚な赤い壁は力強く、金色の塔の先は秋の空に刺さっていた。
 ジョルは再び兄の前に奇跡を現したのである。

 ギャツァはより強く確信した。
 ジョルのみが未来のリン国の王にふさわしいと。
 
 未来のリン国の王が僧たちを寺に住まわせるのなら、自分もまた必ず僧たちを寺に来させよう。
 だがどのようにして彼らを権勢争いに明け暮れる城から立ち去らせるのだろう。
 戦場では勇猛ながら生来善良な人物には手に余る問題だった。

 この思いが道中ずっと彼の心を不安にさせていた。
 だが思いもよらず、半分ほど来た所で二人の僧が新しく入信した弟子を数人連れて忙しげに向かって来るのに出会った。
 彼らは仏像と経典を携えていた。

 二人の僧は既に絹の衣を脱ぎ捨て、数人の弟子はぼさぼさの長髪を剃り、さっぱりとした頭には細かい汗が日の光を反射していた。

 天の兵たちがジョルを助けて寺を完成させたという知らせは、電光のように四方八方に走り、飛ぶように道を急ぐギャツァまで届いた。

 「仏の教えが無辺の力を示したのです」

 僧はギャツアに言った。

 「それは、僧が寺に戻ったことだけにとどまりません。
  世の人々はっきりと知るでしょう。
  この後、リンには多くの寺が星のように建ち並び、寺の金の頂がリンの祝福された山の上に煌めくだろうということを」

 そう言うと、僧たちはあわただしく彼らの寺へと向かって行った。







阿来『ケサル王』㊻物語 寺

2014-05-09 00:26:27 | ケサル
⑲ 物語:寺 その1




 ジョルはまた隊商から石の税を取り始めた。

 リンから移ってきた各の人々は、隊商がまた馬の背に石を積んでいるのを見て、ジョルが「寺」と呼ばれる大きな家を建て,僧と俗人を分けると知り、自主的に石を運ぶ列に加わった。

 実は二人の僧は俗人たちの中にはいなかった。彼らは貴族とばかり共に過ごし、貴族たちに教えを伝えていた。

 二人の僧の一人は東方の漢から、もう一人は南方のインドから来ていた。
 僧は、リンではすでに神と崇められているパドマサンバヴァと同じ教えを守っている、と言った。
 だが、リンの人々は素直には信じなかった。

 パドマサンバヴァは各地で妖魔を倒したが、彼の謎めいた行き先は誰も知らなかった。
 言い伝えでは、彼は光を操って行き来し、妖魔を倒す以外の時間は辺鄙な山の洞穴で、壁に向って修行し、人々の布施をほとんど受けなかったという。

 だが、この二人は、経を背負い、杖に頼って歩き、リンにやって来た時には、がりがりに痩せて、身に着けている衣はもとの色を失っていた。
 二人はリンに来てからは、一日中経の読み方を教えた。

 パドマサンバヴァと同じ教えを尊んでいると聞いて、彼らから経を学んでいる人々のほとんどは、実は、早く妖魔を鎮める教えを授けて欲しいと望んでいた。

 だが僧は言った。
 多くの妖魔は人の心に生まれる。自分たちが教えているのは、心の魔を調伏する方法である、と。

 心の魔とは何か。財宝を求め、権力を渇望し、貧しい人々が溢れているのに美しい衣と美食を欲するのは、すべて心の魔によるものである。
 だが、リンに来て何年もしないうちに、人々は僧のもたらした神の像にひれ伏し、悟りに導き心を清める六字の真言を唱えるようになった。

 こうして、僧はの長の城塞に住み、キラキラと輝く絹の衣をまとい、法器は金銀に彩られ、一言話をするごとに、人々は皆うなずいて受け入れるようになった。僧はの長のために策略を練り、時には自らが直接その権限を行使した。

 老総督ロンツァは、ケサルが寺を建てる計画をしているという知らせを身近に暮らす二人の僧に伝え、彼らの意見を求めた。

 僧の一人は言った。
 「私たちは衆生を救うために来たのです。衆生とともにいるべきです。」

 もう一人の僧は言った。
 「羊を飼うものは羊の中にいなくてはならないのです」

 総督はこのような言い方を好まず言った。
 「そうおっしゃるのは、わしも一匹の羊だからなのだな」

 「総督様、お気を悪くなさらずに。人は無上の教えの前ではみな羊なのです。私たち出家した者の羊ではありません」

 深く機嫌を損ねた総督は言った。
 「どちらにしても我々はジョルの開いた地に住んでいる。やはり彼の計画に従うことにしよう」

 二人の僧はまだ反駁しようとしたが、総督は手を上げて二人の言葉を遮った。

 総督はギャツァに言った。
 「お前の弟のところへ行ってくれ。
  ジョルの行動の道理を、なぜ我々は理解できないのだろう」

 ギャツァは命を受けて何よりも嬉しく、すぐさま馬に跨って出発した。

 少なくとも5日はかかるだろう。
 途中、ギャツァは群れを成して走り回る羚羊に会った。もしかしてこの中に悪戯好きのジョルが変化しているかもしれない。そこで疾駆していた馬を止めて言った。
 「愛する弟よ、もし変化しているのなら、俺の前に出て来い」

 羚羊はギャツァが背に負っている弓と鞍の辺りに掛けている矢の袋を見て、恐れをなして散り散りに逃げて行った。

 ギャツァはまた途中で群れを成す鹿、野牛、野性の馬を目にした。常に様々に変化するジョルは、だが、その中にいなかった。
 ギャツァは母メドナズの前まで来た。メドナズは微笑んで、蛇行して流れる黄河湾を指さした。

 群れを成す白鳥が青い水の中でゆっくりと遊んでいる。ギャツァは馬を急かして河辺まで行くと、一羽の白鳥が飛んで来て肩に止まった。それから、ギャツァは水鳥の鳴き声がジョルの笑い声に変わるのを聞いた。白鳥の翼が弟の手に変わり、彼の肩を抱いた。

 「兄さん、会いに来てくれたんですね」

 兄は自分の額を弟の額にぴったりと寄せ、長い間離れなかった。そして言った。

 「お前の建てた寺に連れて行ってくれ」

 彼が「寺」という言葉を使った時、馴染みがなく、どこか不自然だった。リンにはこれまでこのようなものはなく、ただ石を積んで築いた祭壇があるだけだった。

 ジョルは笑った。
 「兄さんはその言葉をうまく使えないんですね。私もそうなんです」

 その時、新しい石の税で建てられた寺は完成に近づいていた。大きな堂には間もなく二人の僧がそれぞれ漢とインドから運んで来た仏像が祭られ、中二階の美しい部屋は彼らが携えて来た経典を保管するために使われる。

 ギャツァは弟に言った。
 「僧は城塞から離れたくないようだ」

 ジョルは言った。
 「彼らはもともと寺から来たのです」

 「なぜ知っているのか」

 「なぜかは分かりませんが、知っているのです」

 ジョルは言った。
 「僧たちはやって来るでしょう。寺は彼らの家なのです」

 それはギャツァにとって一生で最も楽しい数日だった。
 兄弟は馬を駆って丘を駆け降り、更に下って洞窟ばかりでわずかな草も生えない岩の丘に来て、五百歳を超えた熊を洞穴の前で殺した。妖怪と化していた熊は夥しい羊と、羊を守る牧人を殺していた。

 ギャツァは優れた英雄であり、多くのリンの敵を殺してきたが、これは彼が殺した初めての妖魔だった。
 ギャツァは言った。
 「オレにも妖魔が殺せるのだ」

 「戦いに勝てると思えばそれは出来るのです」




ケサル会のおしらせ ③

2014-04-23 21:06:21 | ケサル

ケサル勉強会「ケサル大王伝全三回」の第一回は4月20日に終了しました。
とても収穫の多い会でした。

その時の様子が大谷監督のFacebookで紹介されています。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100004568860869



第二回 5月16日(金)、第三回 5月18日(日)

どちらも午後6時から
台東区生涯学習センター会議室で

会費各回1000円
お問合せはメッセージ/ootani11☆gmail.com






ケサル会のおしらせ ②

2014-04-19 13:26:02 | ケサル


明日に迫ったケサル勉強会「ケサル大王伝全三回」のお知らせをもう一度!



ケサル会のお知らせ〜「ケサル大王伝全三回」①

4月20日(日)夜6時から9時 台東区生涯学習センター306号会議室
以後5月16日(金)18日(日)夜6時を同所で予定。
会費各回1000円。 お問合せはメッセージ/ootani11☆gmail.com



講師の宮本神酒男さんのホームページにも、こっそりとお知らせが載っていました。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/

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ケサルの勉強会を開催します! (ケサルの会) 
2014年4月20日(日)5月16日(金)5月18日(日)pm6時~ 
台東区生涯学習センター(台東区中央図書館と同じビル かっぱ橋通り)305か306号 
どなたでも、興味のある方、遊びに来てください!(会費1000円)

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★宮本さんについては大谷監督のFacebookに興味深い文章があります。
 ケサルの語り部の再来か…
 読むだけでも神秘な世界に触れることが出来ます。






どんな会になるのか楽しみです。




阿来『ケサル王』㊺語り部 渡し場

2014-04-18 20:16:46 | ケサル
語り部:渡し場




 ジンメイは前の夜野宿した場所でもう一晩寝ることにした。

 たき火が消えた後、羊の毛皮に丸まって、星が一つ一つ夜空に瞬いているのを見ていた。
 山の上の寺の鈴の音が耳元でまたチリンチリンと響いたような気がした。

 自分を悟りに導いてくれる菩薩が夜空に現れるかもしれない。だが、彼はそのまま眠入ってしまい、途中目が醒めて、河の水がまるで頭の上を流れているかのように大きな音を立てているのを聞いた。

 次に起きた時、日はすでに高く昇っていた。強烈な日差しがまぶしくて目が開けられなかった。
 日の光に包まれて体は何時になく心地よく、寝返りを打ち、もう少し寝ていようと思った。だがザワザワした人の声に目を開けた。

 渡し場にはすでに多くの僧や人々が集まり、誰かが河辺に立って大声で対岸の渡し船を呼んでいた。
 渡し口の辺りに船頭親子が現われた。
 老人は二本の櫂を担ぎ、若者は頭の上に大きな鍋を載せるように牛革船を載せていて、二人は後先になりながら河岸へと下って来た。

 ジンメイは向きを変えて起き上がると、昨夜消したはずの火がまた燃えていて、火に掛けたやかんがグツグツと音を立てていた。
 火の傍に座って熱い茶をすすっている太ったラマが笑いながら彼に朝の挨拶をした。

 混乱した頭で、自分の喉が何か音を立てているのを聞いた。多分「おはよう」と返事をしたのだろう。

 ラマは言った。
 「茶を頂いたぞ」

 元々動きの遅い頭が、この時は目覚めたばかりのぼんやりした状態で、しばらくどう答えていいか分からなかった。

 ラマがまた言った。
 「顔を洗えばすっきりするだろう」

 ジンメイはすぐに河辺に走って行き、冷たい水を掬い取り、顔をその中に埋めた。
 水をたっぷりと飲み、ガラガラとうがいし、息が臭くないのを確かめてから、焚火のそばへ戻り、ラマに向かって笑いかけた。

 「お坊様、オレが話しても、口の匂いは気にならないですか」

 ラマは厳しい顔付きで言った。
 「わしは活佛だ」それから笑って「普通のラマにはこんなにたくさん供の者はいないぞ」

 「ということは…」

 ジンメイは河の北岸に霞んだような、だが金色に輝いている大きな寺を見上げた。
 活佛は頷いた。
 「一番大きいのではないがな」

 巨大な寺院の中には、合わせて30人は超える、等級の違う様々な活佛がいた。

 二人は一時話をせず、渡し場の辺りで親子が牛皮船を水の中に滑り込ませるのを見ていた。
 数日雨が降らず、牛の皮は乾いていた。水の中に暫く浸し、縫い合わせた所に水が入らないよう油を塗らなくてはならなかった。活佛は言った。
 「まだしばらく待たなくてはならないようだ。先ほど夢で何見たのか話してくれ」

 ジンメイは言った。
 「昨日寺に行きました」付け加えるように言った。「お坊様の寺ではなく、このちら側の山の上の小さな寺です」

 供の者たちが日差しが強烈なのを見て活佛のために眼鏡を持って来た。活佛は眼鏡をかけると、何も言わず茶色いレンズの後ろからジンメイを見た。

 「夢で菩薩様を見ました」
 「菩薩は何か示現されたか」
 「示現って何ですか」
 活佛は笑った。
 「つまり、菩薩は何をされたのか、何をおっしゃったのか、ということだ」
 「オレには何も言いませんでした」
 「菩薩がお前に何か言うはずはない」
 「菩薩様はケサルと話しました」
 「何だって!」

 活佛は体を振るわせた。もしこれ程太っていなかったら、きっと地面から跳び上がっていただろう。

 「ケ、サ、ル!観、音、菩、薩!」

 活佛の激しい反応がジンメイを驚かせた。
 確かだ。空が明けるころ、彼はまた夢を見たのだ。やはり前に夢見た場面だった。

 活佛は続けて問いかけた。ジンメイは答えた。
 菩薩はケサルに、寺を建て、リンに来たばかりの僧と俗人を切り離すように言ったことを。

 活佛はぽかんとして、ぼそぼそと言った。
 「僧と俗人を切り離す…」

 ジンメイは言った。
 「やって来たばかりの坊さんとトトンが三色の砦の中にある宝座を争ったからです」

 その時、渡し船が河を渡って来た。供の者たちが活佛を取り囲んで船に乗せた。
 ジンメイは野宿の跡を片付け、一人で歩いて行きかけると、活佛が自分に向かって手を振っているのが見えた。
 こうして、ジンメイは供の者たちの不機嫌な表情に耐えながら船に乗った。
 活佛はその間静かにジンメイを観察していたが、岸に上がってから声をかけた。
 「寺に会いに来なさい。わしの名はアワンだ」

 活佛は供の者たちを一瞥して行った。
 「その時、お前たちはこの男に辛く当たってはならない」

 供の者たちが主人の言い付けを聞いている時に現した表情は、言い付けが終るとまた別の表情に変わった。
 つまりそれは、典型的な付き従う者の表情だった。

 活仏は言った。
 「菩薩はお前の心に宝を埋められたのだ。私がそれを掘り出して見せよう」

 ジンメイはそれについては知っていた。

 ケサルの英雄物語は、遥か前からすでに、神によって人の世に埋められ隠されているのである。後の世の人が途切れることなく発見できるようにされていて、それを伏蔵という。

 ある伏蔵は紙に書かれ、土の中に埋められ、縁ある者によって掘り出される。

 また、ある伏蔵は直接人間の心の中に埋められ、それは心蔵または識蔵と呼ばれる。機縁が来た時にある者の意識の中から兆しを見せ、姿を現し、新たに世の中に伝わっていくのである。










ケサル会のお知らせ

2014-04-14 23:57:29 | ケサル
ドキュメンタリー『ケサル大王』の大谷監督を中心に、ケサルの勉強会が始まっています。
今回特別シリーズ「ケサル大王伝全三回」として、物語を読み通す企画が出来上がりました。
講師は、チベットの文化を深く蓄え、伝えてくれる、まさしく語り部のような宮本神酒男さんです。
どんな質問にも答えてくれます。
その熱さに触れるだけでも刺激的な体験になると思います。
多くの方に参加していただきたいので、ここでお知らせします。

以下に大谷監督のfacebookからの記事を転載します。

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◎ケサル会のお知らせ〜「ケサル大王伝全三回」①


4月20日(日)夜6時から9時 台東区生涯学習センター306号会議室
以後5月16日(金)18日(日)夜6時を同所で予定。
会費各回1000円。 お問合せはメッセージ/ootani11☆gmail.com

昨年からの勉強会、今回から「ケサル大王伝」を全三回で読み通す事にしました。

語学の天才、宮本神酒男さんはチベット語版、デビッドニール版、ブータン版などの「ケサル大王伝」を精力的に翻訳され、おかげで物語の詳細(差異)はもちろん、登場人物の行動、心理描写そして文字通りチベットの知恵と文化の宝庫として物語をいっそう理解、把握できるようになりました。

この成果を皆さんにも楽しんでもらいたいと思います。

今回は「天から降りて競馬大会に勝利、王になり美女をめとる」までです。

宮本さんに博識を披露してもらいながらケサル大王を肴に語り合う雰囲気です。
予習は必要ありませんが宮本さんのケサル満載のHPを紹介しておきます。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/gesarcontents.htm



会場はかっぱ(合羽)橋道具街通りと言問通り交差点、台東区中央図書館3階
http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/syougaigakusyuucente/annaizu.html


生涯学習センターまでの案内図 台東区ホームページ 
 電車 地下鉄日比谷線 【入谷駅】徒歩約 8分 つくばエクスプレス線 【浅草駅】徒歩約 5分 JR山手線・京浜東北線 【鶯谷駅】徒歩約15分





阿来『ケサル王』㊹語り部 古い寺

2014-04-13 22:43:40 | ケサル
語り部:古い寺 その2




 ジンメイは思った。自分も寺へ菩薩を見に行けばいいのだ。

 村の人たちが寺へ参るには二つの選択がある。
 一つは河の北岸にある寺。その寺はまるで小さな町のように、多くの建物が一つの丘全てを覆っていた。いくつもの大きな堂の黄金の屋根が低い僧坊の間に高く聳え、きらきらと光り輝いていた。

 その中に観音堂があり、観音像は千の手を持ち、その手をまるで孔雀が羽を広げたように体の後ろから広げていて、すべての開いた掌の中心には美しい目がついていた。

 ジンメイは河の南岸の寺へ行った。その寺には建物が一つしかない。ほとんどの信徒はその寺には行かなかった。彼は乾した食糧を持ってその寺へ行った。

 本来、村を出て東に二、三里行くと渡し場がある。だが彼は自分一人のために渡し船を出してくれることはないと分かっていた。そこで西に数十里行き、そこから公道の橋を渡り、また河に沿って東へと戻り、その日の夜は渡し場の辺りで野宿した。

 次の日、山を登って行き、昼頃中腹の開けた場所に出た。風に吹かれて揺れる麦の波の中に、寺の赤い壁が見えた。

 寺の中は静かで菩薩を安置している本堂の入り口には鍵がかかっていたが、僧坊の扉は開いていた。彼は入って行き、声をかけたが答えはなかった。
 石の水甕に木のひしゃくが浮いていた。爽やかで冷たい水をひしゃく半分ほど飲み、部屋の外の壁の根方に座った。

 ここはなんと清らかで静かなのだろう。
 壁の隙間から青いよもぎが伸びていた。彼は一本むしり取ると、爽やかで苦みのある草の匂いが沁みた指を鼻へ近づけた。二羽のカササギが軒先でチチ、チチと暫くさえずり合ってから、羽根を震わせて飛んで行った。

 この寺は寺とは呼ばず、堂と呼ばれていた。観音堂。

 どれくらい前になるか、田を耕していた農夫が犂の先に石が当たるのを感じた。掘り出した石はそのままでまるで菩薩の姿のようだった。
 その時仏教はこの地方を統治していなかった。おそらく、ケサルが人の世に生まれた頃だろう。

 ある日、行脚の僧がこの地にやって来て、多くの神々の像の中に供養されている自生観音を見て、さっと跪き、伏し拝んだ。当時、この畑の中央に石を積み上げた祭壇があった。

 布教に来た僧は伏し拝んだ後、立ち上がると、杖で他の像をすべて叩き壊した。僧が土で作った像を打ち砕くのを見て、人々は怒り、この狂った人物を殺そうとした。だが人々はすぐに、石の像も僧の木の杖で粉々にされるのを目にし、恐れて地にひれ伏した。

 この僧が祭壇の石を使ってこの寺を建てたのである。
 当地の人は、僧は誰にも助けを求めなかったがわずか十日程でこの建物が人々の目の前に現れた、と伝えている。

 寺にはただ一体の自生観音が祭られている。

 この僧は後の僧のように饒舌ではなかった。ほとんど話をしなかった。
 彼の顔には何時も石像の顔のような微かな微笑みが浮かび、彼の目は菩薩の眼差しとよく似て、すべてを見抜いているようでもあり、また、何も見ていないようでもあったという。

 その後、彼は去って行った。彼の残した言葉。
 「これからの寺は日を追って華美で軽佻になって行くだろう。だがこの寺はこのままにしておくように」

 後の人々はその僧の言付けをずっと守り、中原の皇帝が下された法王が、大規模な工事で河の対岸に金色に輝く寺を建造した時、もともと賑やかとは言えなかったこの寺の参拝者は更に少なくなった。

 当時の住職は局面を変えようと考えあちこちへ布施を求め、いくらかの金を集めた。住職は新たに土の観音像を作った。自生菩薩は新しい像の中に収められた。住職はまた、新しく作った菩薩にきらきら光る金粉を施した。その金粉はラマが手ずから粉にしたものだった。
 だが、寺はそれ以上賑わうことはなかった。

 羊飼いジンメイは初めてこの観音堂にやって来た。

 指についたヨモギの匂いを嗅ぎながら、温かい日差しの下で眠った。眠る前彼は祈った。夢の中でもう一度菩薩と会わせてください、と。
 だが、夢を見ることはなく、突然響いたチリンチリンという鈴の音で目を覚ました。

 目を開けると、本堂の大きな扉はすでに開かれていた。
 靴を脱いで中へ入った。暫くしてやっと、目が堂の中の暗がりに慣れた。裸足の僧が少し重そうに屋根に届きそうなほど高いマニ車を回していた。マニ車の上に付けられ鈴が揺れて、澄んだ音を立てていたのである。
 その後で、ジンメイは厨子の中に、菩薩の絹に包まれた体と、長い時の中で黒ずんだ金の顔を見た。

 ジンメイは僧に言った。
 「もとの菩薩の姿が見たいんですが」

 その僧は笑みを浮かべて両手でバツを作った。だが口は開かなかった。

 「オレは菩薩が見たいんです。オレが夢に見たのと同じ姿か、見てみたいんです」

 僧の笑顔は更に優しげになったが、やはり口を聞かなかった。

 「菩薩は、オレをケサルの語り部にしようとしているようなんです」

 僧は何も言わず、またあの重いマニ車を回しに行った。鈴の音がチリンチリンと響いた。

 鈴の音はジンメイの頭の中へと落ちて来た。まるで露が一粒一粒これから開こうとする花のつぼみの上に落ちているかのように。

 ジンメイが寺を去り、清々しい風が顔をなでる麦畑の中を歩いている時、草採りをしている女が彼に言った。

 「あたしたちのラマは口を聞かないんだよ」

 「口が聞けないのかね」

 「修行の間は口を聞かないのさ」

 「また会いに来るよ」





阿来『ケサル王』㊸語り部 古い寺

2014-04-09 01:43:28 | ケサル
語り部:古い寺 その1




 ジンメイの夢に不思議な変化が現れた。

 これまで、途切れ途切れの夢の中で、ジンメイはずっと傍観者だった。彼の言い方によれば、映画を見ているようだった。だが、夢に観音菩薩が現れるのを見た時、彼はもはや傍観者ではなかった。
 自分自身が夢の中に現れるのを見たのである。
 更に奇妙なのは、彼はなんとジョルの傍まで駆け寄って大声で叫んだのだ。

 「知らないんですか。この方は菩薩様ですよ」

 ジョルは湖を眺めたままぼんやりしていて、まるで相手にしなかった。菩薩には見覚えがあるようにも思えたが、どこで会ったのか、すぐには思い出せなかった。後になって、少しずつ昔の天上での様子を思い出すのだが、だがこの時は、どんなに考えても思い出せなかった。

 ジョルが座ったまま動かないので、ジンメイは焦りのあまり本当に空に飛び上がった。しかも、雲の上で菩薩に追い付いた。たが、護衛の天の兵士に大声で止められた。

 菩薩は言った。この者をこちらに来させて話をしよう。

 ジンメイはびっくりして五体を投げ出し、柔らかい雲の上にひれ伏した。体の下の雲がそこだけ抜け落ちてしまいそうな気がした。

 菩薩は言った。
 「お前は落ちることはない」

 雲は本当に沈まなくなった。菩薩は言った。
 「もっと近くに来なさい。なぜ話をしないのだ」

 ジンメイは自分の口ごもった声を聞いた。
 「菩薩様のお姿は寺にある像と違っています」

 「像はどれも同じではないと聞いている」

 「聞いている?では、菩薩様は寺に行った事はないのですか」

 「寺?煙でいぶされ焦がされてしまう。行って何をするのだ」
 
 羊飼いはむきになって言った。
 「でも、菩薩様がジョルに寺を建てろと言ったのをはっきりと聞きました」

  菩薩は意味ありげに微笑み、何も言わなかったが、その傍らで威厳たっぷりな声がした。
 「こら!そのようなことを聞いてはならぬ」

 羊飼いはびっくりして雲から落ちた。驚いて一声叫んで、地上でもがきながら目が覚めた。

 周りは静かだった。
 羊の群れは草を食み、藍色の湖の上を白い鳥が飛んでいた。ジンメイはゆっくりと目覚めると、残念な思いで胸が一杯になった。ずっと夢の中にいられたら、菩薩様のそばにいられたらどんなにいいだろう。だが、彼は部屋からボロボロの袋を投げ出すように、自分を夢の中から投げ出した。

 その頃、ジンメイは益々頭がぼんやりして、村で人に会うごとに言った。
 「オレは見たんだ」

 「めくらのくせに何が見えたって言うんだ」

 「菩薩様を見た」

 「菩薩に会いたかったら寺へ行けばいいじゃないか」

 「本物の菩薩様だぞ」

 これには誰も何も言えなかった。ただ肩をすくめてこう言うしかなかった。
 「可哀想に、頭がおかしくなったようだ」

 頭のおかしな男はなんと又こう言った。

 「物語の中の少年ケサルにも会ったぞ!」

 彼の耳にははっきりと英雄物語を語る馴染みの旋律が響き始めた。
 「オレは聞いたんだ」言うと同時にジンメイの口から誰もがよく知っている前口上のはやし言葉が口をついた。

 ルアララムアラ ルタララムタラ

 みんなは大笑いした。これは証明にも何もなっていない。
 カムの草原では耳のある者はみなこの英雄物語の始まりのはやし言葉を知っている。人間だけではない。とがったくちばしで木の幹をつつくキツツキでさえよく似た旋律を出すことが出来る。

 タタ――ララ――タラ――タ!

 ジンメイは顔を赤く膨らませて反駁した。
 「それとは違う」

 みなはどっと笑った。
 「聞いたか、こいつは人とキツツキは違うと言っているぞ」

 キツツキは驚いて柏の木から飛び立ち、風車のように羽根を旋回させながら、遠くの山へ飛んで行った。
 それは縁起の良い山だった。地上では花が咲き乱れ、きらきら光る水晶が地下で成長していた。まるで物語が一人の語り部の心の中に蓄えられているかのように。

 このはやし言葉を始まりとして、英雄物語の語り部は空を仰いで神々の名前を呼ぶ。もう何回になるだろうか。
 語りのはやし言葉が耳のあたりを揺蕩うと情景が定まる。その時顔を上げて空を見ると、上空の気流に乱されて流れ雲が様々な猛獣や神々の形へと変わっていく。これらの形を持ったものが彼の頭の中を好き勝手に走り回り、静止した虹と暴走する雷が同時に現れる。

 物語!

 だが、彼の頭の中で物語の輪郭は朦朧としている。夢で見て、それからずっとぼんやりと聞こえているのだが、綿々と続く複雑な物語をきちんと語ることができないのだ。だから、みんなには彼を嘲笑する理由がある。夢の中でさえ、人々のなんの悪意もない嘲笑が聞こえて来るのである。

 人々はその場を離れ、馬に乗って去って行った。雅壟河の岸に沿って暫く疾走し、河の流れに沿って円を描くと、視線から消えた。
 ジンメイはがっかりして心が空っぽになった。

 自分自身でもはっきりと見分けられなかった。この情景は夢の中で見たのか、それとも馬に乗った人の群れが消えた後、夢を見始めたのか。だが、現実であれ夢であれ、その時の情景はありありと目に浮かぶ。

 人々が長い裾をたくし上げ、馬に飛び乗り走り出すと、胸元に吹きこんだ風で上着が膨らみ、背中がはちきれそうに見えた。その後で、琴をつま弾く金属的な音が響いたかのようだった。
 草原にはあちこちに散らばった羊の群れと、浅い沼地に反射するきらきらした日の光だけが残った。草の上に寝転がり、片目で空を流れる雲が変化していくのが見えた。

 心の中に何かが湧き上がって来るのを感じ、千年伝わって来た古い歌のはやし言葉を再び口ずさんだ。

 ルアララムアラ、ルタララムタラ

 超常的な視力を持つ右眼を覆い、失明した左眼を太陽に向けると、幾筋もの色とりどりの光が啓示に満ちて射し込んでくるのが見える。
 ジンメイは眠った。だが片目は閉じられず、変化する流れ雲は一瞬五色に輝いた。

 彼は言った。
 「菩薩様、あなたに会いたいです」

 だが、菩薩は現われなかった。







阿来『ケサル王』㊷物語 菩薩

2014-04-01 23:38:33 | ケサル
物語:菩薩 その2




 その時、一枚の光の壁がジョルと山の下へとゆっくりと流れていく血の塊りの間に降りて来た。汚れた血は鼠の鳴き声のようにヂューヂューと音を立て、あっという間に沸き返り、消えた。
 

 観音菩薩がその光の中から現われた。
 中空の蓮の花の上に静かに座っている。

 ジョルはそれが誰なのか知っているようにも思えた。だがあえて尋ねた。
 「あなたは何者ですか」

 「私は遥か遠くからお前に会いに来た」

 まるで誰かに引っ張られているかのように、ジョルは知らぬ間に手を挙げ、天を指さした。

 菩薩は微かに笑うと、語気を一変させて言った。

 「お前は多くのものを殺しすぎる」

 「やつらが無数の人間を食い、この世界を荒らしまわる妖魔だということを知っているのですか」

 「知っている。私はお前に殺すなと言っているのではない。だが、今のように勇み立ち、商人が金を見た時と同じように喜んで殺してはいけない」

 「どういう意味なのかよく分かりません」

 「それはとても難しいことだ。衆生ために妖魔を滅ぼさなくてはならず、だがまた、妖魔に対して憐みの心も持たなければならないのだ」

 「それが何の役に立つと言うのでしょうか」

 「衆生を善に向わせるためだ」

 ジョルは笑った。

 「老総督の近くに現れた僧もあなたと同じようなことを言っていました。僧たちはあなたの信者なのですか」

 「人は誰でもすべてを悟る仏法の信者になることが出来る」

 「では、お帰り下さい。老総督と共にいる髪を剃った二人の信者を、私は好きではないのです」

 「なんと言った」

 「彼らを遣わしてリンの王にするつもりなのですね」

 「彼らは人々の心に慈悲の種を撒こうとしているのだ。田を耕す農夫のように。王になることない」

 「彼らはなりたいと思っているのです」

 菩薩は空から降りて来た。
 地上に足を着け、まだジョルの前まで辿り着かないうちから、ふくよかな香りが顔を撫でた。菩薩は深く息を吐いた。

 「私はこのために来たのだ」菩薩は言った。
 「近くへ来なさい。お前と話したいことがある」

 リンの民に仏の教えを伝えようと誓いを立てたあの二人の僧は、上はの首領から、下は黒い頭の民たちまでが篤く崇めたため、思わず支配欲を生じてしまった。
 本来神は、神の子を地上に降し、多くの法力を与えて魔物たちを一掃させ、殺戮が収まった時、僧を人々の前に現わし、その心に善良の種を撒かせようとのお考えだった。
 僧たちの現れるのが早すぎたのかもしれない。荒れ果てた地に身を置き、期待をこめて蒔いた種の成長が見えず、彼ら自身の心に荒れ草の芽が芽生えたのだろう。

 菩薩は言った。
 
 「ここを行き来する隊商から再び石の税を取りなさい」

 「石の砦はもう必要ありません」

 「砦ではなく、寺を作るのだ」

 「寺?誰が住むのですか」

 「仏と仏の教え、そしてその教えを伝える僧たちだ。僧たちはいつまでも俗人の中に混じっていてはいけない。彼らもまた生身の人間なのだから」

 ジョルは、一方でこの者は何のために自ら現われたのかと訝り、一方では既にうなずき、その言葉を聞き入れていた。
 菩薩は更に言い渡した。

 「寺はこの世の穢れから離れた所に建てなくてはならない。王の砦のように広い道の傍らに建ててはならない」

 「なぜでしょう」

 菩薩は答えなかった。答えるのは難しかった。
 人の心を耕して福の田となす者を、何故人の群れから遠ざけ、深い山の中に隠棲させるのか。
 菩薩はジョルに告げなかった。ジョルが身につけた神の力は人の世に降る時に天の諸仏が彼に授けたものなのだということを。

 別れ際に菩薩は言った。

 「私が現われるのは人々に何かを悟らせるためだ。私が思うに、お前もそうなのではないか」

 ジョルは言った。

 「昔のことがふと浮かんでくるようなのですが、すぐに漠然としてしまうのです」

 「では何かを悟ったのだな」

 「何かが分かったのか、という意味ですか、あなたは…」

 「菩薩と呼びなさい」

 「菩薩様のおっしゃたことは分かりました。では、私はこれから先、笑いながらではなく、涙を流しながら妖魔を殺さなくてはならないのですね」

 「いつかお前は涙を流すようになるだろう」

 ジョルは笑った。

 「以前ここに、無限の力を持つパドマサンバヴァ大師が来たと聞きました。リンの妖魔を退治し、だが突然帰ってしまったそうです。菩薩様、あなたが何か言ったからなのですか」

 菩薩は思った。
 今日は並外れて聡明であり、同時にかたくなで道理を知らない相手に会ってしまった、と。相手をしても徒労に終わるだけだろう。
 菩薩は蓮華の座に坐って雲の上へと昇って行った。だが菩薩の声はジョルの耳元で響いた。

 「未だ機縁が至っていない。これ以上話しても無駄だ。機縁が至った時にまた会おう」

 言葉が終わると同時に姿も消え、湖にはただ虹が懸かっているだけだった。
 虹を見つめながら、神の子は、心の中の何かが菩薩の言葉によって呼び覚まされ、突然周りが見知らぬ世界のように感じられた。

 神の子は思った。

 「リンに来てもう12年になる」

 そう言ってから、はっと気付いた。

 「何故今、自分がリンに生まれたと言わずに、来た、と言ったのだろう」

 天から菩薩の声が伝わって来た。

 「そのことを良く考えなくてはならない」








阿来『ケサル王』㊶物語 菩薩

2014-03-19 00:50:21 | ケサル
物語:菩薩 その1



 ジョルは去って行った。
 一つには人々が休むことなく争うのを嫌ったからであり、一つにはリンの境界を更に広げようとしたからである。

 その時代、北方のホルが争いを起こすほかは、他の国々――南のインド、西のアラビア、東の漢の王朝との間にはすべて、主のいない広い無人地帯あった。
 ジョルは黄河の上流に向かって行き、マーマイユロンソンドと呼ばれる地までやって来た。
 すべての主のいない荒れた地と同じように、ここもさまざまな妖魔や邪鬼が横行していた。

 ジョルはいつものように、数え切れないほどの分身に分かれ、あちこちの山や河へと追いかけて妖魔を殺し、妖魔たちは逃げ場を失った。
 この地を穢れ無く、人が住むのに適した地にするため、ジョルは確かに多くのものを殺戮した。

 妖魔たちは四方へ逃げていく時は決まってさまざまな獣に変身し、殺戮者が手加減せざるをえないように数え切れない程の数に分身した。
 もしこの時ジョルが三十歳の青年だったら、手加減し、退却したかもしれない。だが、彼はまだ子どもだった。

 ジョルがリンから追放されたのは五歳の時だった。
 八歳の時、再び自らをユロングラソンドから追放した。
 その一年ほどの間、ジョルは母を連れてマーマイユロンソンドにやって来て、いつもテントの中で寝転がりふさぎ込んでいた。

 九歳の時、ジョルは名づけようのない悲しみから抜け出し、まるで悪戯でもしているかのように山や谷の中で悪魔たちを追いかけた。
 子どもにとってそれは一種の楽しい遊びでしかなかった。

 妖魔たちがジョルと取っ組み合って負けた後、様々に変身するのを見たり、自分の多くの分身が、変身した妖魔がわざと弱々しい振りをしてうろたえているのを杖で撃ち殺すのを見ては、一種奇妙な感覚にとらわれた。
 始め、ジョルの魔法の杖は時に獣たちを誤って傷つけることがあった。
 例えば妖魔が逃げる時太った尻を必死で振っているタルバガンに変身すると、その中にどうしても、穴から出て太陽の元で体を温めている本物のタルバガンが二、三匹混じっていた。

 暫くして、ジョルの杖は本物と偽物を見分けられるようになった。
 本物のタルバガンは杖の影が近づいてくるのを目にすると、目と口をぽかんと開け、声を挙げられなくなる。
 偽物のタルバガンは必ず喉をすぼめていかにも悲しそうな声を出すのである。

 ジョルが一つの地方の妖魔を平定するたびに、行き場を失った人々が集まって来て、高い雪山と低い湿地との間に新しい道が出来、すぐに商人たちが現れた。
 隊商はユロングラソンドの繁栄をよく知っていて、恐れることなく続々とやって来た。

 ジョルは商人に茶を運ばせた。
 茶によって、肉を大量に食べ生臭い強烈な匂いを発する人々も草木の香しさを漂わせるようになり、隊商は最大級の交易を成立させた。

 隊商はマーマイユロンソンドに現れると、尋ねた。
 「マーマイの王様、王様は今でも石を交易と入境の税としていますか」
 「石の砦は必要なくなった」
 「では何が必要ですか」
 「考えさせてくれ。次に来た時に伝えよう」

 ジョルは杖に乗って遠くへと飛んで行き、ある湖まで来た。
 湖には悪い龍がいて、時々隊商の馬を飲みこみ、海の珊瑚の樹を強要した。悪い龍は水の中の住みかを竜宮のように飾りたかったのだ。

 ジョルは湖に飛んで行き、これ以降、水の中に潜ったまま岸に上がって悪さをしてはならない、隊商に金や物を要求してはならない、と大声で命令した。
 龍は水面に現れてハハハと大笑いすると同時に、巨大な水柱を吹きあげた。

 「小僧、お前の杖など穴倉の狐やネズミを仕留められるだけだ」
 「なにを言う!お前の命をいただくのに杖などいらない」
 「来い」

 龍は身を踊らせ、伸び上がると体は百丈を超えた。

 ジョルは杖に乗りあっという間に空中を三回廻り、その後、手のひらから続けて三度稲妻を放つと、龍はあっという間に湖の中で息絶えた。
 この様子を見ていた人々と商人たちは言った。
 「彼は何故、我々の王にならないのだろう」
 だがジョルは既に杖に乗って遠くへ飛び去っていた。

 彼らは走って行って、ジョルの母メドナズに尋ねた。
 メドナズは女たちを集めて糸紡ぎと縫い取りを教えているところだった。メドナズは言った。
 「もしかして、私の子がなりたいのは王座にいない王なのかもしれません」

 十一歳の年、ジョルは杖を手に山から降りて来た。
 彼が殺した三匹の妖魔の分身が変身したヒキガエルとトカゲの薄汚れた血が、ジョルを追うように後ろの山の斜面から流れて来た。
 ジョルは休まずにどんどん足を早めなくてはならなかった。そうしなければその血に足が埋もれてしまいそうだった。
 ジョルはかなり焦ったが、だが分かっていた。山の下のあの湖の岸に着くころには、あふれ出した血の中に残っている妖魔の最後の力はゆっくりと使い果たされることを。







阿来『ケサル王』㊵物語 黄河湾

2014-03-15 13:27:21 | ケサル
物語:黄河湾 その3





 二日後、ジョルは再び皆の前に現れた。

 またもや鹿の皮の服をまとい、ゴツゴツした鹿の角を頭に着けていた。
 顔は元のように薄汚れ、曲がりくねった杖に跨っていた。

 彼は砦の頂の明かり取りの天窓から総督の宝座に飛び降りた。
 総督はやかましく言い争い続ける者たちを追い出し、目を閉じて休んでいるところだった。
 目はしっかりと閉じられていたが、口からは何度も溜め息が漏れた。

 ジョルは総督の肩をゆすり、にやにやしながら言った。
 「あの者たちは総督の頭をクラクラさせたのですね」

 老総督は危く椅子から跳び上がるところだった。
 「ジョル、帰って来たのか!」

 総督は再び叫んだ。
 「皆、入って来い。ジョルが帰って来たぞ!」

 ジョルは杖を振り、言った。
 「呼ばなくていい。彼らに分からせることは出来ないのだから」

 「お前が使ったのは、天から授かった神通力か」
 「分かりません。でも、あの者たちに知らせたくない。彼らには分からないでしょう」
 「そう、お前こそ天から下された子だ。お前こそあの神の子だ」

 風が窓から入って来た。
 風はまずジョルの体へ向かい、身に着けた鹿皮の絡まった毛を揺らし、そうしてから、ジョルの体から発する耐え難い臭いを乗せて老総督の高貴な鼻に潜り込んだ。

 総督は手で鼻の穴を覆った。ジョルは笑った。
 「それが神の子の匂いです」

 総督はジョルの肩を掴み、力一杯揺すった。
 「菩薩は既に天から降りて来て我々の前に現れ、リンのすべてのにお前の命令を聞くよう示されたのだ。
  わしは今皆の者をお前の前につれて来るぞ」

 「菩薩?」
 「観音菩薩だ」

 ジョルは、天上でツイバガワとという名の神だった時、この菩薩に会ったことがある。だが、降って人となり、これらの記憶はもはや薄れてまった。
 ある瞬間、頭の中に一つの像が現われる。だがすぐに、その像はぼんやりしてしまう。
 まるでさざ波に揺られた影のように消えて行ってしまう。

 そこで尋ねた。
 「菩薩とは何ですか」

 「今回我々と共に来た者の中で、髪を剃った僧を見ただろう」
 「見ました、彼らも王になろうとしています」
 「あの僧は菩薩の教えを崇める信徒だ。彼らは菩薩の教えを伝えに来たのだ」
 「教え」
 「人が互いに争わず、人が善を求めるように導く教えだ」
 
 ジョルは頭が重くなり、言った。
 「私はここを去ります」
 「行くことは出来ぬ」
 「行かなかったら、頭が爆発してしまう」
 「神の子よ、お前は行くことは出来ない」

 ジョルは既に杖に乗って天窓まで舞い上がり、懐から羊皮紙を放り投げ、言った。
 
 「私は黄河湾の地形をよく分かっているし、リンの各の地勢もよく知っています。各へ土地を分けておきました」

 ジョルがふわふわと去って行く時、人々は彼が空を飛ぶ後姿を見た。
 怪しげな格好で杖に乗り、呪術師のように空を駆ける姿を。

 その後ジョルは、群衆の驚きの声の中一羽の鳳に姿を変え、大きな翼を広げてそのまま雪の峰の方へと去って行った。

 その時、老総督が青の羊皮紙の巻物を手に人々の前に現れた。
 「争いを止めない者たちよ、恥を知りなさい。夜半になると、わしの心臓は恥ずかしさのために痛み苦む。
  偉大な姿を現した者、その醜さゆえジョルと呼ばれる者は、我々のためにすべてを手配していた」

 その後のすべては順調だったと言えるだろう。
 ジョルの意図の通りにリンの各が身を寄せる地は次のように決まった。

 ラセカドは役人が暮らすのに適している。長系八兄弟の領地となった。

 最も美しい大渓谷ペマ・ランシアは勇者が住むのに適している。仲系六に分け与えられた。

 黄河の南に面したザドゥチュ渓谷はジョルの父センロンに与えられた。

 三色の砦のあるユロングラソントは当然老総督ロンツァに分配された。

 それぞれのに落ち着き先が決まったのを見て、トトンは焦った。
 「我々ダロンの新しい領地はどこだ?」

 黄河の下流ルグの上に、喉のように狭まった峡谷があり、蓮の花が開いたような平坦な地がある。このような良い場所がなぜか荒れたままになっている。
 人を呼ぶと魔女が答え。犬を呼ぶと狐や狸が応える。
 まさに勇猛果敢な男の住むのにふさわしい地であり、当然トトンの率いるダロンに与えられた。

 三色の砦を手に入れられず、総督の金の宝座が自分のものにならなかったことにトトンが不満を抱いた他は、総てので、民も首領も皆ジョルが再び去って行ったことを恥じ、心が落ち着かないでいた。









阿来『ケサル王』㊴物語 黄河湾

2014-03-10 23:59:08 | ケサル
物語:黄河湾  その2




 あまりにも多くの人間が砦の中で言い争いを続けたために、屋根を覆っている石の板はガタガタと震え、遠くの静かな河原で餌をついばんでいた水鳥さえも驚いて飛び立った。
 ただ、疚しさを隠せないギャツァと大将タンマだけがジョルに従って外に出た。

 ジョルは兄に尋ねた。
 「父さんは」

 「父上は老総督の加勢をしている」

 「母さんに会いに来ないで争いに加勢しているとは。父さんに何が出来るというのか」

 「誰もが自分がどちらの側につくのかを示さなくてはならないのだ」

 「では兄さんは」

 「お前はどうして王を名乗らないのだ」

 「どうして王を名乗らなくてはならないのですか」

 「国を興すためだ。本当の国を!今、同じ一つの祖先から栄えて来た各がまるで砂が崩れたようにばらばらになっている」

 タンマも言った。

 「誰もが知っています。ジョル、あなたこそ神がリンに降された王だということを」

 ジョルは空を見上げた。

 「私は知らない。誰からも聞いていない。私が知っているのは、このような争いがいかにつまらないものかということだけだ」

 この時砦の中から知らせが届いた。
 教えを伝えるために外から来た二人の僧が言ったという。

 リンで誰が王となるかは神が遣わされるまで暫く待たなくてはならないだろう。
 もし二つの派が互いに譲らないのなら、我々が代わりに政を行ってもよい。
 神が遣わすその王以外には、我々のような外の世界から来た者のみが公明正大に王権を行使できるのだ、と。

 二人の僧は更に深い意味を持つ理由を語った。

 天の下、世界は既に神によって幾つかに分けられた。それぞれの世界はそれぞれ一つの宗教によって教化されている。
 リンは既に仏法の光によって導かれている。
 これから王を称する神の子は、西方の仏の国の大成就者の加護を受けている。
 そうしてこそ様々な神通力と明晰な智慧を持ち、様々な力を具えるのである。
 パドマサンバヴァ大師と観音菩薩はリンで既に様々な化身となって表れている。

 「僧?」

 その一瞬の間にジョルの顔にいくつもの表情が現われた
 
 厳粛から失望へ、失望から困惑へ。その困惑は一瞬のうちに笑いへと変わった。
 そして、リンから追い出された時のなりふり構わぬ滑稽な姿に戻ると、例の杖に乗って山の上へ飛んで行った。

 ギャツァは追って行こうとしたが、追い着けるはずはなく、砦へと戻った。

 砦の中は瞬時に静まった。みなギャツァがジョルの言葉を携えて来たと思ったからだ。
 人々の期待のこもった眼を見ながら、ギャツァは自分もまた権力争いのるつぼに巻き込まれずにはいられないのだと分かった。

 まず口を開けた。だが、声を出さなかった。
 次に口を開けて、やっと声を出した。
 下で待っている者たちは我慢できず、大声で言った。

 「吐き出したばかりの言葉を腹に戻すな。大きな声で話せ!」

 ギャツァはやっと声をはりあげた。

 「ジョルは王になることを望んでいない。ならば、ジョルが宝座に就かせた者が当然我々の首領だ」

 人々は、ギャツァはジョルの言葉を伝えているのだと理解し、やっと争いを止めた。
 ギャツァは、抜いた刀を皮の鞘に納める音を聞いた。もしジョルがこの音を聞いたら失望し、あざ笑うだろう。

 人の群れはゆっくりと散って行った。
 総督ロンツァは深いため息をつき宝座に力なく座っていた。

 総督はギャツァに尋ねた。

 「共に災厄から逃れ、初めての食事を共にしたばかりで、なぜこうなってしまったのだろう」

 ギャツァは何も答えなかった。ただ、剛直なタンマはひどく怒って言った。

 「そのことは総督になる方がお考えください」
 
 センロンが声を荒げた。

 「上の者に向かってなんという態度だ。下がりなさい」

 ギャツァは父の傍らへ歩み寄り、出来る限り声を落として言った。

 「もうここは大丈夫です。母上のところへいらしてください」

 この時、漢の妃はすでにドナズを探していたが、見つけられなかった。
 母子の姿を見た者はいなかった。

 砦の近くにあったテントは消えていた。
 テントを囲み風よけとなっていた草を混ぜたレンガも風が一吹きした後、跡形もなく消えていた。
 まるでその草地にはこれまで何も存在していなかったかのように。

 人々は前にもまして恥ずかしさに責め苛まれた。
                                                                      このこのようにしてジョルは再び皆の前から姿を消した。

 各が広い黄河湾でどのように住み分けるのか、議論はやまなかった。











来『ケサル王』㊳物語 黄河湾

2014-03-04 01:46:58 | ケサル
物語:黄河湾 その2





 次の日早く、ジョルは首領たちを率いて高い丘に登った。
 ジョルは意気揚々と、目の前の山や河を指して言った。

 「さあ、これが黄河です。ここには、英雄の馳せ回る道があり、民が交易する市があり、牛や羊を放牧する草原があります。
 石の税で築いた砦は敬愛する総督に捧げましょう。
 議事庁は堂々と広く、号令を下し私たちを招集する時は、老総督よ、高い塔から声は自ずと遠くまで届くでしょう」
 
 老総督は言った。
 「あれはお前の砦だ。お前が我々の王だ」

 下にいる者たちの間に、すぐさまそれに応える声が湧き起こった。
 「ジョル王!ジョル王!」

 ジョルの父が大声で叫んだ。
 「彼はジョルではない。ケサルだ!」

 人々は今はじめて気付いたかのように叫んだ。
 「ケサル王!ケサル王!」

 ケサルはその様子を見て、急いで神通力を使い、喜び叫ぶ者たちが再び巨大な叫び声を上げられないようにした。
 それから、微かに力を込めて、老総督を砦の中に導き、虎の皮を敷き、ひじ掛けに龍の頭を彫った黄金を施した宝座へと連れて行き、言った。
 「総督、ここにお座りください」

 老総督はひたすら抗った。
 「神のご意志は既に示されているのだ。お前こそ我々の王だ」

 トトンも前に進み出て言った。

 「総督の言うとおりだ。お前こそ我々の王にふさわしい。
  早く座って各の新しい居場所をすぐさま配分するのだ。
  いつまでもお前の砦で美食に預かっているのは我々も心苦しいからな」。

 「トトン叔父は、農夫たちに少しでも早く種を植える場所を与え、牧人たちに少しでも早く牛や羊を彼ら自身の牧場に追って行かせたいようだ」

 「さすがワシの甥だ。ワシは老総督のように遠慮深くはなれなくてな。心優しい甥よ、地勢には高低があり、土壌には良し悪しがある。我々ダロン部洛はリンでずっと河のほとりの良い場所を占めていた」


 老総督はその言葉を聞いて、何度もため息をついた。
 「一人一人の心が自らの過ちを恥じている訳ではないのか。
  誰もが悔い改め善をなそうとしている訳ではないのか」

 トトンは面白くなかった。
 「老総督よ、お前はいつもそのようにきれい事ばかり言うのだな。それはお前が玉座でお高くとまっているからだ。
  ワシは民に代わって彼らの暮らしと幸福に心を砕いているのだ。仕方のないことではあるが。だからワシの言葉は聞き苦しくなるほかないのだ」

 トトンはジョルを傍らに引き寄せて言った。
 「リンの民は不公平な総督にもはや我慢ならないようだ。お前はリンにこのように大きな恩恵をもたらしたのだ。
  ワシらの王になってくれ」

 彼はまたジョルの袖口を引いて言った。

 「愛する甥よ、お前が王にならないのは怖いからではないか」

 「いいえ、怖くありません」

 「お前は、自分が怖がっていることを分かっていないのだ。子供っぽい知恵では、海のように深い策略をめぐらす者たちに立ち向かえないと恐れているのだ。」

 「トトン叔父よ、もうやめましょう」

 「何を恐れているのだ。恐れることはないぞ」

 「恐れていません。心がとても疲れているのです」

 「それが恐れているということだ」

 「そうです。おっしゃるとおりです。トトン叔父よ。子供のような単純な知恵では海のような策略をめぐらす方々には立ち向かえない、と恐れているのです」

 トトンは甥が自分を皮肉っているのを分かっていたが、どうしても諦める訳にはいかず、慇懃に言った。

 「のろまな総督を宝座から降ろせば、ワシがお前を助けてやろう。総督になってやろう。
  お前は妖魔を倒して遊んでいればそれでいい。面倒なことはすべてワシがやってやる」

 これらの話は皆に聞こえていた。
 
 老総督は大声で言った。
 「ジョルが王になるのであれば、わしは総督を続けよう」

 ダロンの民はトトンの側につき、その他のは総督の側につき、争いは決着がつかなかった。
 争う内に、誰もがジョルのことをどこかへ忘れてしまった。

 ジョルは言った。
 「争いをやめるのだ!」

 だがその声は弱々しかった。
 人々の声はいよいよ熱を帯び、いよいよ高くなった。

 ジョルは、大量の渡り鳥が豊富な餌を求めて湖上に降りた時の耳をつんざくようなかまびすしさを思い出だした。
 
 ジョルは城塞から去った。

 ジョルの寂しげな様子を見て、母メドナズの心は耐え難いほどの痛みを感じた。

 「あの人たちはお前の砦が欲しいのだろうか」

 「母さん、なぜ母さんは龍の宮殿を去ったのですか、なぜ私をこの人の世に生んだのですか」

 それは神にお聞きなさい。そう言いたかった。
 だがメドナズは息子をより悲しませる言葉を口には出来なかった。