塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』㊽語り部 病

2014-05-27 07:57:07 | ケサル
語り部:病 その1




 がっしりとして力に満ちた気高い人物が、瞬きした瞬間、ジンメイの前に立っていた。身に付けた金の鎧兜の光が、眩しかった。
 ジジンメイにはこの神人がケサルだと分かった。

 「あなたですね」

 鎧兜の神人はうなずいて言った。
 「そうだ」

 「ケサル大王」

 ジンメイは、さっと立ち上がり、地にひれ伏そうとしたが、王の神通力で動くことが出来なかった。
 大王が話すと、傍にいながら、その声は空の深い所から聞こえて来て、遥かに響いているようだった。

 「お前が語りたいのを、私は知っている」

 「オレは語りたいんです」

 「だがお前の声はかすれている」

 金の鎧の神人は指をはじき、仙丹を彼の口に入れた。涼やかで柔らかく、不思議な香が電光のように彼の体を駆け巡った。
 その香は光であり、自分でも今まで意識しなかった体の中のたくさんの通路を飛ぶように通り抜けて行った。

 ジンメイは叫んだ。
 「大王様」

 同時に自分の声がよく通って、胸から、額から共鳴しているのを感じた。

 大王は言った。
 「羊飼いよ、これからは私の物語を命ある者すべてに語りなさい」

 「でも…」

 「お前は聡明ではない。だが、今この時、それもすでに改められた」

 神人は突然消えた。だが、声だけはすぐ近くにあった。空が明るく澄んでいた。
 だが、雲が流れ、青空が開くと、折り重なる高い楼閣の中に、多くの神々が立っているのが見えた。

 ジンメイは羊を追いながら草原から家へ帰った。

 目の前の風景は刻々と変化した。

 羊たちが時に獅子へと変わり、雪豹に変わり、言い表しようのない姿の妖魔に変わった。

 手に持つ鞭を振るうと電光が煌めくのが見え、その後、一瞬のうちに、現実なのか頭の中なのか、馬に乗った兵の大軍が見えた。
 ある時は微動だにしない凛然とした空気に恐れを感じ、ある時は、狂風に吹き荒れる潮のように、雷鳴かと思われる音と共に互に攻め入り、互いに占領しあった。

 幸い、羊の先頭が道を知っていたので、羊を囲いまで連れて行き、羊の後ろの目の見えない牧人を村まで連れて帰った。

 ジンメイは黄昏の光の中、手探りで柵の扉を閉めると、そこで意識を失った。

 牧人が倒れると、大人しい羊たちが驚いて啼き始め、雄の羊たちは堅い角で柵にぶつかって行った。
 羊は静かな動物である。いつもは囲いの中に戻ると、口の中が空っぽでもずっと咀嚼を続け、まるで彼らの沈黙は、こうやってモグモグと歯を動かして味わわなくてはならないものがたくさんあるからであり、羊とは心が豊かで繊細な生き物であるかのようだった。

 だがこの日は違った。すべての羊が何かを恐れて興奮していた。村で一番の物知りの老人も、このように多くの羊が同時に啼きわめくのを見たことはなかった。
 このような現象は、常でないことが起こるのを意味していた。

 羊の囲いへと向かう途中も、人々はまだ尋ね合っていた
「狼に噛まれたんだろう」
「気を失ったんだ」
「羊がぶつかって来たんだろうか」
「焼けている炭みたいに熱いそうだ」

 皆が駆けつけると羊たちはあっという間におとなしくなった。

 皆は担いで連れ帰ったジンメイを床に置いた。何も掛けなくても、体の下の熊の皮の敷物は彼の体温を更に高くした。

 二頭の馬が村を跳び出した。一頭は数十里離れた郷の医者を呼びに、一頭は寺に活佛を呼びに。
 彼の高熱では、活佛も医者も間に合わなのではないかと心配された。だが待つ以外何も出来なかった。誰もどうしていいか分からなかった。

 だが、病人は自分から起き上がった。

 「熱くないか?」

 ジンメイは熱いとは言わず、言った。

 「息が苦しい。外に行きたい」

 「外?」

 牧人は庭がいいとか他がいいとかは言わず、言った。
 「星の下に行きたい」

 星の下!
 皆は病人を担ぎ上げ庭へ行った。ジンメイは言った。
 「庭じゃない。屋根の上だ」

 皆はその時気付いた。
 そう、庭では多くの星は見られないではないか。

 彼は担がれて平らな屋根の上に来ると、石の板の上に寝かせるよう指示した。その滑らかな石の板は、皮をなめす時に使っていたものだ。

 天上の星はすべて揃っていた。星座はそれぞれの位置で輝いていた。
 ジンメイは石の板の上に平らに寝て、石板の冷たさを感じ、満足して言った。
 「オレは見た」

 彼はまた言った。
 「水」
 そして意識を失った。

 湯が届けられた。だがすぐに誰かが気付いた。湯ではなく、泉から湧き出したばかりの最もきれいな水だ。

 泉の水が届けられた。
 意識がはっきりとしないまま、ジンメイはごくごくと飲んだ。
 まるで胸の中に大きな火があって、大量の水で消さなくてはならないかのように。

 二杯目を泉に取りに行かなくてはならなかった。
 二杯目はいくらも飲まなかった。残った水に柏の枝を浸して、彼の顔と激しく起伏する胸に少しずつ振りかけた。

 ジンメイがまた言った。

 「オレは見た」

 皆は彼が意識を取り戻したと思った。だが、本当には目覚めてはいなかった。

 誰も彼に何を見たのかとは聞かず、言った。
 
 「こいつは見たんだ」

 誰も片目しか見えない人間が普段は何が見えないのかは言わず、意識を失っていると言う必要もなかった。

 目の見えない男は満点の星の輝きのもと、夢の中で確かに見た。
 千年以上、一代また一代と語り部が語って来た史詩の物語が彼の目の前で演じられるのを。
 体中が燃えるようだったが、心の中は清々しかった。

 ずっとずっと昔、髪の黒いチベットの民が暮らしたこの高原、金沙江の両岸に険しい崖が高くそびえる谷間、黄河がうねうねと通り抜ける果てしない草原、総てが史詩が演じられた広々とした舞台である。

 深夜、星の光が水のように注いで、村の外から馬のひずめの音が響いて来た。

 まず、寺の活佛が到着した。









 


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