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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』㊳物語 黄河湾

2014-03-04 01:45:51 | ケサル
物語:黄河湾 その2





 次の日早く、ジョルは首領たちを率いて高い丘に登った。
 ジョルは意気揚々と、目の前の山や河を指して言った。

 「さあ、これが黄河です。ここには、英雄の馳せ回る道があり、民が交易する市があり、牛や羊を放牧する草原があります。
 石の税で築いた砦は敬愛する総督に捧げましょう。
 議事庁は堂々と広く、号令を下し私たちを招集する時は、老総督よ、高い塔から声は自ずと遠くまで届くでしょう」
 
 老総督は言った。
 「あれはお前の砦だ。お前が我々の王だ」

 下にいる者たちの間に、すぐさまそれに応える声が湧き起こった。
 「ジョル王!ジョル王!」

 ジョルの父が大声で叫んだ。
 「彼はジョルではない。ケサルだ!」

 人々は今はじめて気付いたかのように叫んだ。
 「ケサル王!ケサル王!」

 ケサルはその様子を見て、急いで神通力を使い、喜び叫ぶ者たちが再び巨大な叫び声を上げられないようにした。
 それから、微かに力を込めて、老総督を砦の中に導き、虎の皮を敷き、ひじ掛けに龍の頭を彫った黄金を施した宝座へと連れて行き、言った。
 「総督、ここにお座りください」

 老総督はひたすら抗った。
 「神のご意志は既に示されているのだ。お前こそ我々の王だ」

 トトンも前に進み出て言った。

 「総督の言うとおりだ。お前こそ我々の王にふさわしい。
  早く座って各の新しい居場所をすぐさま配分するのだ。
  いつまでもお前の砦で美食に預かっているのは我々も心苦しいからな」。

 「トトン叔父は、農夫たちに少しでも早く種を植える場所を与え、牧人たちに少しでも早く牛や羊を彼ら自身の牧場に追って行かせたいようだ」

 「さすがワシの甥だ。ワシは老総督のように遠慮深くはなれなくてな。心優しい甥よ、地勢には高低があり、土壌には良し悪しがある。我々ダロン部洛はリンでずっと河のほとりの良い場所を占めていた」


 老総督はその言葉を聞いて、何度もため息をついた。
 「一人一人の心が自らの過ちを恥じている訳ではないのか。
  誰もが悔い改め善をなそうとしている訳ではないのか」

 トトンは面白くなかった。
 「老総督よ、お前はいつもそのようにきれい事ばかり言うのだな。それはお前が玉座でお高くとまっているからだ。
  ワシは民に代わって彼らの暮らしと幸福に心を砕いているのだ。仕方のないことではあるが。だからワシの言葉は聞き苦しくなるほかないのだ」

 トトンはジョルを傍らに引き寄せて言った。
 「リンの民は不公平な総督にもはや我慢ならないようだ。お前はリンにこのように大きな恩恵をもたらしたのだ。
  ワシらの王になってくれ」

 彼はまたジョルの袖口を引いて言った。

 「愛する甥よ、お前が王にならないのは怖いからではないか」

 「いいえ、怖くありません」

 「お前は、自分が怖がっていることを分かっていないのだ。子供っぽい知恵では、海のように深い策略をめぐらす者たちに立ち向かえないと恐れているのだ。」

 「トトン叔父よ、もうやめましょう」

 「何を恐れているのだ。恐れることはないぞ」

 「恐れていません。心がとても疲れているのです」

 「それが恐れているということだ」

 「そうです。おっしゃるとおりです。トトン叔父よ。子供のような単純な知恵では海のような策略をめぐらす方々には立ち向かえない、と恐れているのです」

 トトンは甥が自分を皮肉っているのを分かっていたが、どうしても諦める訳にはいかず、慇懃に言った。

 「のろまな総督を宝座から降ろせば、ワシがお前を助けてやろう。総督になってやろう。
  お前は妖魔を倒して遊んでいればそれでいい。面倒なことはすべてワシがやってやる」

 これらの話は皆に聞こえていた。
 
 老総督は大声で言った。
 「ジョルが王になるのであれば、わしは総督を続けよう」

 ダロンの民はトトンの側につき、その他のは総督の側につき、争いは決着がつかなかった。
 争う内に、誰もがジョルのことをどこかへ忘れてしまった。

 ジョルは言った。
 「争いをやめるのだ!」

 だがその声は弱々しかった。
 人々の声はいよいよ熱を帯び、いよいよ高くなった。

 ジョルは、大量の渡り鳥が豊富な餌を求めて湖上に降りた時の耳をつんざくようなかまびすしさを思い出だした。
 
 ジョルは城塞から去った。

 ジョルの寂しげな様子を見て、母メドナズの心は耐え難いほどの痛みを感じた。

 「あの人たちはお前の砦が欲しいのだろうか」

 「母さん、なぜ母さんは龍の宮殿を去ったのですか、なぜ私をこの人の世に生んだのですか」

 それは神にお聞きなさい。そう言いたかった。
 だがメドナズは息子をより悲しませる言葉を口には出来なかった」






阿来『ケサル王』㊲物語 黄河湾

2014-02-28 19:11:57 | ケサル
物語:黄河湾 その1



 更に三日歩くと、黄河湾に、伝えられていた三色の砦が現れた。

 誰もがすでに商人たちの口から聞いて、砦を築く石は黄河湾の外の様々な場所から持ってこられたものだと知っていた。
 今、砦はすでに完成していた。
 屋根を覆っているのはリンから運ばれた青い石の板だ。
 石の板は金属のように煌めき、龍のうろこのように敷きつめられていた。

 その日、ジョルは正式な礼服を身に纏っていた。
 輝くばかりに一新したジョルの姿を見て、人々は額の前に両手を重ね祝の言葉を述べた。

 皆が心配していたことは起こらなかった。
 ジョルは遊び心から、法力は高いが奇怪な形をした杖に乗っていなかったし、風除けの帽子におかしな角が付いた皮の服を着ていなかった。

 整った顔立ちに両の目は澄んだ光を放っいていた。

 ジョルは漢の妃の額に口づけし、その後、兄ギャツァの胸に飛び込んでいった。
 兄弟はこらえきれず、とめどなく涙を流した。

 ジョルはリンの十二人の美しい姉妹に敬意のこもった、また慕わしげな眼差しを投げかけた。

 「ああ、どうしましょう」

 ジョルの眼差しは娘達を熱くし、娘達はリンの民のみが口にする複雑な意味を含んだ感嘆の声をあげた。

 娘達は叫んだ。
 「ジョル!」

 「ジョルではなく、ケサルよ」

 「名前はどうでもいいが」トトンが言った。
 「よく覚えていなさい、やつはまだ八歳の子供だ」

 娘達は口々に言った。

 「体はもうトトン様より大きいわ」

 「彼の眼差しは私たちの顔を熱くするの」

 「彼はリンの人々のために新しい場所を開いてくれたんですもの」

 ジョルは人の群れを掻き分け、タンマに、人々の間に隠れて恥じ入るばかりの老総督を連れて来させた。
 食事が整うと、ジョルは一方の手で兄の手を、もう一方で老総督の手を取り、父センロンを含むリンの各の首領、英雄、祭司、呪術師、更にはリンに教えを広めるためやって来たばかりの仏教の僧までも自分の暮らすテントに迎え入れた。

 そのテントはリンを追われた時に持って来た物だった。
 テントに入り、ギャツァはもう一度自分たちの誤りを恥じ入らずにはいられなかった。
 そして、弟のために心配にした。
 「この小さなテントにこのような多くの者たちが入り切れるのだろうか」

 老総督も不思議に思った。
 「あの砦はあれほど雄壮ではないか」

 ジョルは何も聞かなかったかのように、テントの入り口の幕を捲り上げた。
 中はまるで別世界に迷い込んだかのようだった。

 広々として高いところから光が差し込み、よい香りに満たされていた。一人一人がペルシャの絨毯にゆったりと座ることが出来、それぞれの前に大きなテーブルが置かれていた。玉や香木のテーブルには金銀の杯が置かれ、食べ物は元より、赤い瑪瑙の高台に盛られた果物だけでも12回も運ばれた。

 そのすべてが遥か遠方から取り寄せられたもので、味や形、更に耳慣れない名前まで、リンの人々がこれまで見たことも聞いたことのないものばかりだった。

 ジョルは盃を挙げた。

 「神が親しい人々や故郷の民をこの地に導いてくださったことに感謝しよう。
  ここに至ってからの三年、このような喜びを味わったことはなかった。
  皆のもの、飲み干そう!」

 皆が一気に飲み干すと、老総督は席を離れジョルの前に進み出た。
 
 「リンの民に代わって一つ要求がある。お前がそれに応えてくれたら、わしもこの盃を飲み干そう」

 「総督、何なりとお申し付け下さい」

 「我々の罪によって、麗しいリンは大きな災害に見舞われた。
  中でも大きな罪は、我々に情けの心がなくお前たち母子を追放したことだ。
  だがあえて、リンの民のためにお前に要求する。
  リンの民をお前の開拓した地に三年の間住まわせてくれ」

 ジョルに悪戯な心が起こった。
 「何故三年なのでしょう。三日ではなく…」

 慚愧のあまり、老総督は深く頭を垂れた。

 「我々の罪が深いほどに、故郷の原野の積雪も深い。この雪が融け、大地が再び生気を取り戻すのに、丸々三年かかるだろう」

 老総督が人々に代わり恥を忍んでいる様子を見て、ジョルの心は針で刺されたような痛みを感じた。

 ジョルは老総督を助け起こして上座に座らせ、盃を挙げて言った。
 「総督、首領の方々、ご安心あれ。
  ジョルがこの地を開いたのはリンの国を永遠に伝え残そうと願ってのことです」

 話しているうちに人々を覆っていたテントは消えた。皆の座る席が昇り始めた。
 ジョルの高らかな声が響いた。

 「さあ、御覧なさい。
  
  美しく広々とした黄河を。
 
  細長く湾曲する様は宝剣のよう。
  その刃の南側はインド、剣の先は漢の国。
  剣身はタングラ山を突き刺している。

  ここに三色の砦を築いたのは、
  ユーグラソントこそこれからのリンの中心となるからだ。

  リン国が大業を為した後、再び本来の地へと帰ろう」



 老総督はこの言葉を聞いて顔をほころばせ、大きな椀でたて続けに三杯飲み干した。
 
 続けて宴席が並べられ、豊かな食事の後、人々は歌い踊り、夜を徹し空が明るくなるまで続いた。
 野営のために万を超える松明が焚かれ、燃え盛る火に天の星々もきらめきを失った。







阿来『ケサル王』㊱ 物語 大雪

2014-02-23 14:31:09 | ケサル
物語:大雪 その3





 隊商は重い石の板を馬に背負わせて旅立った。
 老総督は彼らが去って行くのを目で追い、心の中でつぶやいた。
 「神の子よ、なぜ、すぐにも真の姿を示されないのですか」

 リンの移動についての協議は何の結果ももたらさなかった。老総督の心の奥深にはこれまでにない無力感が渦巻いて、もう一度先ほどと同じ言葉を口にした。

 「神の子よ、なぜ、すぐにも真の姿を示されないのですか」

 トトンは新しく作った木のトビの前に戻り、トビの翼を広げてから、また老総督の前に戻った。
 「誰もお前の言葉を聞かないのは、老総督、お前が本当の王ではないからだ」

 「わしは、リンのすべてに推挙された総督だ。王などではない。我々は王が現われるのを待っているのだ。
  お前はに帰りなさい。わしは疲れた。明日、更に良い意見を聞かせてくれ」

 「そう、お前はワシより年上だ。お前が王になるなら、ワシが総督になってやろう。
 お前の慈悲とワシの才覚があれば、リンは強大になれるぞ」

 「はっきり言ったらどうだ。自分が王になってもいい、と」

 トトンは慌てず、怒りもせず言った。
 「それもいいだろう。しばらく休んでワシに試させるというのはどうだろう。
 お前が言ったとおり、リンにいつまでも王がいないのは良くないからな」

 言い終ると木のトビに乗って飛んで行った。

 だが、いつもの方向へは行かず、それぞれの道を進んで行くの首領たちに向かって、空の上から叫んだ。
 「明日城に戻ったら、ここを去るかどうかは討議せず、全リンの王を推挙しよう」

 重い心で雪の野を進んで行く人々は、慌ただしく飛び去って行く木のトビを見て言った。
 「もしかしてあの方こそが我々をこの苦境から救う王なのかもしれない」

 トトンは再び老総督の砦に戻り、言った。
 「明日、あれらの者どもはお前を静養させ、ワシに暫くの間王権を執らせるかもしれない」

 総督の心はどこまでも陰鬱だった。手を振り、疲れ果てたように言った。
 「そうであれば、天の命に従おう」

 次の日、空は美しく晴れ渡った。
 老総督は城の前の謁見台に立っていた。厚く積もった雪は強烈な陽光の下、音もなく崩れ、深い雪の下からは解けた雪水がさらさらと流れていた。

 陽が高く昇っても、各に通じる道に人影は現われなかった。

 兵を遣わして四方を覗わせ、自身は城の頂に微動だにせず座っていた。
 茶も飲まず、何度も運ばれてきたヨーグルトに手も触れなかった。
 目を閉じると雪解けの音が聞こえ、目を開けると光の中を蒸気が昇って行くのが見えた。

 午後になっても街道に人影は現われなかった。陽の光の熱が弱まり、冷たい西風が吹き始め、立ち昇る蒸気は灰色の霧に変わった。

 重い心は更に沈んでいった。
 自分は本当に力を使い果たし、時に合わず、人々から捨てられてしまったのか。

 その時、第一の人と馬が現われた。タンマとギャツァだった。

 昨日の帰り道、彼らの目は雪に反射した強い光に焼かれ、盲しいた者たちは広大な雪の野で漠として方向を失ったのだった。
 その後、遣わされた兵たちが各の首領を連れて戻って来た。

 彼らの目は強烈な光に傷つき、雪の上で行くべき道を見失っていた。
 意気揚々だったトトンでさえ木のトビを山にぶつけた。彼は足を引きずりながら最後に現れた。彼の足が城に入ったその時、雪は再び空の奥から落ちて来た。

 全ての人が餓えていた。
 彼らは大量に食べ、その後、ぼんやりしたまま大量の茶を飲んだ。
 老総督は言った。
 「隊商は来られなくなった。もはや茶で皆をもてなすことは出来なくなった」

 トトンはわざとらしく言った。
 「ならば、茶を多く持っている者が王になれるのか」

 老総督の語気は氷のようにきっぱりとしていた。
 「雪がまた降って来た。お前が買い占めた茶がいかに多くとも、5日ももたないだろう」

 「それでもお前よりは多いぞ」

 老総督は言った。
 「お前たちは見えなくとも聞くことは出来るだろう。
  雪がまた降って来た。神が下さった機会を我々はまた逃がしてしまった。
  もしすべてのの首領が雪の中で道を失ってしまったら、人々はどこへ行き、何に従えば良いというのか」

 雪は空から落ちて来るのではなかった。空を埋め尽くし、特別な重さを持ってのしかかって来た。
 この重さは地上にではなく、人の心に落ちて行った。

 人々は悟った。
 「老総督、私たちを連れて出発してください」

 「それもまた雪が少し弱まるのを待たなくてはならない。お前たちの目が見えるようになるのを待たなくてはならない」
 召使いたちが、目の痛みに涙を流している首領たちを休みに連れて行った。

 老総督は一人跪き、空に向かって敬虔に祈った。
 「菩薩よ、ご覧下さい。彼らは自ら悟ったのです」

 雪はすぐさま止み、しばらくしてまた降り始めた。

 四日目、雪は弱まり、リンのすべての人々は旅立った。
 雪の草原では、自分の村や牧場を去る人々が、わずかな持ち物を身に着け、まだ飢え死にしていない牛や羊を追って次々と出発した。
 泣き声は直接空の果てまで昇って行き、雪さえも降る向を変えた。

 
 リンの境を出た時、雪は止んだ。
 その時、黄河湾は春の終わりを迎えていた。母羊は子供を生み、道端の野いちごは細かな白い花を一面に咲かせていた。

 リンの人々はその時思い出した。
 雪は夏の終わりに降り始めたのだ。彼らが雪の野を出発したのは秋のはずだ。
 だが目の前に広がるのは春の景色である。それほど長い時間を歩いたはずはない。
 どのように一つの冬を歩きとおしたのか。誰にも分らなかった。

 総督は振り向き、まだ雪に覆われている故郷を伏し拝み、そうしてから、天に向かって言った。
 「リンのは新しい土地に至りました。これらの民をあなたの選んだ方に託します」

 総督はこれより先に進みたくなかった。

 「わしはジョルに合わせる顔がない。お前たちだけ行ってジョルの元に降りなさい」

 黄河湾にこの何年かで集まった民は、ジョルの言いつけに従い、すでに彼らを迎えに来ていた。








阿来『ケサル王』㉟ 物語 大雪

2014-02-06 01:42:41 | ケサル
物語:大雪 その2





 雪に照り返された光は何時になく眩しく、誰も山の頂をはっきり見ることが出来なかった。

 天の神が遣わした菩薩は、その強い光に乗って天上から降りて来た。
 観音菩薩である。

 菩薩は言った。
 「神は既にお前たちに一人の王を遣わされた。その王はすでにお前たちの元に至った。
  だが、お前たちは彼に背いたのだ。
  今、すべてのリンのはこの地を離れ、彼を追って行かなくてはならない」

 そして強い光と共に消えた。

 老総督は空に向かって叫んだ。
 「この知らせを彼らに告げるべきでしょうか」

 「人は自分で悟るべきだ。悟らなくてはならない」

 空から大きな音が響いた。だが、このように大きな音も老総督一人にだけ聞こえ、傍らにいたギャツァでさえ、菩薩の姿は見えたが、言葉は聞こえなかった。法衣を纏った祭司には見えなかったし聞こえなかった。
 
 リンの上中下の三の首領は老総督の城にやって来た。
 トトンは意気揚々と新しく作った木のトビに乗ってやって来た。木製のトビは大きく、城の上空に来ると、トトンは乗ったまま上空を三回周ってからやっと降りて来た。
 民衆の目の前で呪文を唱えると、木のトビは翼を収めた。

 トトンは老総督に祭壇で神の意志を受けたかどうか尋ねた。
 老総督は答えた。
 
 「神の子ジョルは既に我々のために新しい生息地を開いた」

 トトンは謗るような面持ちで言った。
 「それは山の上のあの石が告げたのだな」

 「雪が少し解けたら、我々は出発する。皆自分のに帰ってそれぞれの民を率いる準備をするように」

 他のは言うまでもなく、老総督が統率する民たちも、城を取り囲んで号泣した。
 故郷を深く愛する民たちは、誰もここを離れたがらなかった。
 
 雪は常に無く降ったが、すでに止んだ。

 牧草がいち早く雪の下から現われた。
 多くの牛や羊が死んだが、すべてが死んだわけではなかった。春が来れば、彼らはまた子を産み繁殖するだろう。

 こうした状況の中、ギャツァと大将タンマだけが老総督ロンツァの計画に同意した。

 他の者たちは口をつぐみ、塑像のように城の中央にぼんやり座っていた。

 トトンも黙っていた。
 自分が反対の意思を表明する必要はないと気付いたのだ。口をつぐんでいる者たちが彼に代わって意見を述べるだろう。

 リンには彼のように智慧のある者は少数だったが、今日は何故か多くの者たちが彼と同じ立場に立った。

 老総督はなす術もなく、観音菩薩の示されたことをそのまま伝えるほかない、と考えた。
 すると耳元で天の声がした。
 
 「神は助けることは出来る。だが人は自分で悟らなくてはならない」

 老総督はため息をついてから言った。
 
「皆の者、帰っての民とよく話し合いなさい。ジョルが北の黄河湾に新しい生息の地を開いたことは、すでに誰もが知っている」

 追放されたジョルの様子は、絶えず伝えられていた。それは隊商によってもたらされた。
 隊商は以前より多くの茶を持って来るようになっていた。リンのほとんどすべての民が茶を飲んだ。

 飲むと、口の中がただれなくなり、手足が萎えることもなくなった。さらに良いことに、茶を飲むとその日一日爽やかな気分でいられた。

 隊商は帰る時に、何匹かの馬を手に入れても、交換した獣の皮と薬――ローズマリーの青い花とイカリソウの茎等を積もうとせず、山際まで行って頁岩の板を剥がし取った。
 それは帰りの道で黄河湾を通る時、ジョル王に差し上げる石税だと言う。

 商人たちは、ジョル王は石税ですでに三つの色の砦を作った、と話した。

 「三つの色?」

 「南の隊商が運んで来た石は赤、西の隊商が運んできた石は銅色、東の隊商が運んできた石は白なのです」

 「北の石は」

 商人は首を振った。
 「北は、ホルの凶悪な白帳王と、人を食う魔王ロザンの二人に占拠されていています。ジョル王がいつ征伐に行かれるのかは、まだ分かりません」

 「嘘だ!ジョルは我々リンの青い石を北から来た石だと偽って、北を征服したと見せかけようと考えているのだろう」

 「それはありません。王様は、この石で砦の屋根を作り、故郷を忘れていないことを示すのだとおっしゃいました。」

 デュクモをはじめとする女たちの関心は、他にあった。

 「ジョルの行動は英雄そのもの。ならば、その姿も逞しく男らしいことでしょう」

 商人は首をゆっくりと振り、言い訳するように言った。

 「もっとも偉大な英雄は英雄らしく見えないものです」

 女たちはがっかりしてため息をついた。その中で最も美しいデュクモは言った。

 「ジョルが生まれたばかりの時、あんなにきりっとして美しかったのに」

 トトンは得意満面で言った。
 「ジョルは自らを醜くしてしまたのだ」

 そう、生まれたばかりのジョルは美しい顔立ちをしていた。
 三、四歳になると、奇妙な恰好をするようになり、その後顔かたちも奇妙な装いにつれて変わっていった。
 ジョルという名は母メドナズがつけたものだが、本当にその名の通り醜い子供に変わっていった。

 彼ら母子が追放された時から、人々はジョルの本来の名ケサルを忘れてしまった。
 だが、また多くの人が、ジョルは元の姿に戻ると信じていた。

 ギャツァはそう信じる一人だったので、楽しげに笑い興じている娘たちに向かって言った。
 「弟は必ず英雄らしくなっていくだろう」 

 デュクモをはじめとする美しい12人の娘たちは、口を揃えて言った。
 「もしそれが本当なら、私たち12人の姉妹はみんなジョルのところへお嫁に行き、お妃になりましょう」

 トトンは黒く光るあごひげを撫でて言った。
 「待ってはいられまい。こんなに美しい娘たちが花のようにむざむざと枯れてしまうのを、男たちは黙って見てはいないぞ。いっそのことわしに嫁ぎなさい。わしほどの力があれば、美しい衣装と豪華な食事、富と栄華を与えることが出来る」

 娘たちは、水中を楽しく泳ぐ魚の群れが鷹の影に驚いた時のように、散り散りに駆けて行った。

 彼女たちが集まっていたのは、年老いたトトンなど眼にはなく、美しく逞しいギャツァたち英雄がそこにいたからだった。










阿来『ケサル王』㉞ 物語 大雪

2014-01-26 02:34:19 | ケサル
物語:大雪



 神の子ジョルも雪の夢を見ていた。夢で雪を見たのは初めてではなかった。

 ジョルは上着を羽織ってテントの外へ出た。
 雪はなかった。そして、今は夏だ。

 月の光の密度があまりに濃く、まるで牛の乳のように地上を流れていた。
 ジョルは思った。これは神の意志が示されているのではないだろうか。なぜなら月の光は普通ならこのように濃くなるはずはないのだから。

 ジョルはその啓示を理解した。

 それは告げていた。
 この地が未来の祝福された地であり、牛の乳が水のように流れているのは、この地で将来家畜が盛んに生まれ育つのを意味していることを。

 では、夢の中に舞う雪は何を表しているのだろう。

 ジョルは神に尋ねた。神の答えはなかった。
 密かに彼を守っている神の兵たちはこの問題に答えないように、月と共に灰色の雲に隠れた。

 南へと向かった渡り鳥たちは、ギャアギャアと鳴きながら北へと帰って来て、黄河が湾曲する沼地に降りた。
 風向きは変わらなかった。湿り気を帯びて温かい東南の風が西北の風と同じ寒気を帯びていた。

 母メドナズも驚いたような鳥の鳴き声を聞き、衣を羽織って起きて来て、ジョルの後ろに立った。
 ジョルは何かを感じて言った。

 「神はリンを罰しようとしています」

 母はため息をついて。
 「それでは、リンの人々は私の息子への恨みをさらに強くするのではないでしょうか」

 「そんなことはありません」

 「誰が私を人の世に寄こしたのでしょう、あなたを生み、そしてあなたをこんなにつらい目に遭わせてしまって」

 「母さん、僕はもうそのようには考えていません」

 「私はそう思わずにいられないのです」

 「愛しています。母さん」

 「それが神の下さった唯一の幸せです」

 今ジョルははっきりと見た。
 「リンに雪が降りました」

 こう言った時、ジョルの表情は限りなく悲しそうだった。

 「私たちは、雪の災で逃げて来るリンの人々を迎える用意をしなくてはなりません」

 リンに本当に雪が降った。

 タンマはギャツァの元に駆けつけ報告した。
 ギャツは総督に報告に走った。
 老総督ロンツァは言った。

 「夏に雪が舞うとは、奇怪な天の現象だ。これは神の子を追放した罪だ。リンの民すべてがこの罪を犯したのだ」

 彼らは外に出た。大雪は舞い落ち舞い上がり、夏の緑の草は黄色く枯れていった。
 夕方、雪は少しおさまり、西の天の際から微かな光が差した。人々は祝福された口ぶりで言った。

 「雪はもう止むだろう」

 老総督は強く寄せた濃い眉を緩めることなく言った。
 「雪はもうじき止む。もう止んだと言えるだろう。だが、愚かな者たちよ、自分たちの過ちを思いなさい。これは神が我々へ降された警告なのだ」

 「老総督よ、そのようしかめっ面はやめなさい」

 トトンは自分の宝馬の背から飛び降り、
 「さもないと民たちは恐れたままだ。安心しなさい。明日起きた時、牛や羊と争って牧草を食べていた虫はすべて凍って死んでいるだろう。
 いいかね。これはこのトトンが法術で降らせた大雪なのだ」

 老総督は言った。
 「わしにはお前が法術で良い行いをするとは信じられん。ならば、この大雪を神が我々に特別に下された配慮と見ることにしよう」

 ギャツァは言った。
 「だとしたら、神はどんな訳があって私たちに福を下さったのでしょう」

 老総督は答えることなく、手を後ろに回して砦に帰って行った。

 「見ろ、雪は止んだ」
 トトンは大声で叫んだ。雪は止んでいた。

 西の空の厚い雲の層が大きく裂け、この日最後の日の光をこれまでにないほどに明るく輝かせていた。

 トトンは両手を上げて叫んだ。
 「雪は止んだ。わしの神通力を見たか。大雪で害虫はすべて死んだ。最早害虫たちが牛や羊たちと牧草を争うことはない」

 牧人たちは喜びの声を挙げた。牧人たちは思った。
 「常に憂い顔のままの老総督と比べて、この人物こそリンの首領にふさわしい」

 だが、農夫たちには心配があった。
 「オレたちの畑は虫たちと一緒に寒さにやられてしまう」

 「明日、畑は復活するだろう」

 この日の眩い黄昏の中、リンの民たちはトトンが成功を確信している様子を見て言った。
 「神は我々に王を降したと言われてきた。もしかしてトトン様が神から賜った王なのではないだろうか」

 だが、西の空に開いた雲の切れ目はあっという間に塞がった。厚い雲がまた空を覆った。

 トトンは形勢が悪いと見るや、彼の鞭の元で飛ぶように走る宝馬に乗って自分のに急ぎ帰って行った。

 トトンには、このようにたやすく彼の臣下になろうとする者たちは、また、あっという間に彼に背くことが出来るのを知っていた。

 諺に言う
 「善人は人の心の中の良い種を見る。悪人は人の心の中の悪い胚芽を見る」

 盲従する人々とは、ある時は羊、ある時は狼となるのである。

 トトンが逃げ帰る途中で、また雪が降って来た。今回は、九日九夜降り続いた。

 その後、天は再び晴れた。

 老総督はギャツァに言った。
 「わしは山の頂の祭壇に行って敬虔に祈ろうと思う。神は必ず何かの印を下さるだろう。だが。雪はすべての道を埋め尽くしている。馬は雪に踏み込むと深い淵に落ち込んでしまうのだ」

 ギャツァは箙から矢を一本取り出し、弓を一杯に引いた。放たれた矢は地を這うように飛んで行き、厚く積もった雪を二つに分けた。ギャツァが続けて三本の矢を放つと、雪はまるで大きな波のように両側にうねりをあげ、一本の道が現われた。

 老総督は祭司を伴って祭壇に上った。
 
「天の神よ、本来ならいけにえを捧げるべきですが、我が民は既に多くの苦難に遭ってきました。
 もし望まれるのでしたら、この老いた身が喜んで捧げものとなりましょう。
 あなたの鋭い刃で私の胸を切り裂いてください。

 神よ、リンでは、私を王という者がおります。だが私は王でないことを知っています。
 私を死なせ、その後民を苦しみの海から救い出す王をお授けください」






ケサル 阿来の演出

2014-01-23 23:33:43 | ケサル

ジンメイが語り部となる時が近づいて来たようです。

そこで、ここで一休み。


ジンメイは、一度は師匠と決めた老いた語り部に付いて行きませんでした。老人の語りとジンメイの夢が異なっていたからでした。

ジンメイは言います。

「始まりからもう違っています。神の子は理由があって追放されたんじゃありません。みんなはジョルを神の子とは知らず、追放したのです」
これはどういうことでしょうか。

史詩ケサルでは、パドマサンバヴァが美しい詩の形でジョルに語りかけます。
そうしてジョルは自分が王になることを知り、これからすべきことをすべて心に刻みます。

リンを離れて黄河の流域に行かなくてはならないこと、そのためにはパドマサンバヴァ大師の言葉通りにしなくてはならないこと。
そのため、自分から角の生えた帽子と、牛の皮の破れた上着、鳥の羽のついた醜い靴を身に着け、人々から恐れられ、追放されるよう仕向けました。

阿来のジョルはどうでしょうか。

パドマサンバヴァはジョルの夢に現れ、何時かは国王となることを伝えます。
ただし、その時はまだ来ていない、苦しみを受けなくてはならない、とも告げます。
すると、ジョルは駄々をこねたように、それなら王にならずに天に帰る、と言いパドマサンバヴァを追い返してしまいます。

その後は妖魔を倒すために残虐な殺戮を繰り返し、そのスリルを楽しんでいるようでもあります。醜いいでたちはその延長と言えるでしょうか。
ジョルは追放される時にこれが使命だと自覚しているのかどうか、阿来の作品からははっきりとは分かりません。
神々に守られていることにも気づかず、孤独に去って行きます。

そして時々神に対して恨みを述べています。

「神のされることはなぜ人々に理解されにくいのだろう」

「神がすべてを見ることが出来るなら、リンの人々は自分をこのように不公平に扱わず、母が辛い思いをすることもなかっただろう」等々。

外からやって来た新しい教派の僧に対しても馴染めず、どうして神が自分とは相容れない使者を人間界に送ったのか分からない、と悩みます。

これがジンメイの夢に現れるケサルの姿です。
つまり、一人の悩める人間としてのケサルです。

阿来は書いています。
「私が関心を持つのは文化の消失ではなく、時代が急激に変化する時に適応できない人間の悲劇的な運命だ。そこから慈悲が生まれる。この慈悲こそ文学の良心である」(空山三記・山口守訳)

新しい国の始まりを担う人間としてのケサル、
悲しみの多い運命に導かれる語り部ジンメイ。
彼らからどのような慈悲が生まれるのでしょうか。

また、このケサルの中でこうも書かいています。

「もともと、神が人間界に降りて来たとしても、そのまま衆生の長になれる訳ではない。必要な曲折を経て…それに応える者が雲のように集まってくるのである。
もし、これが芝居であるなら、登場したばかりの主役がこのように演じるのは、すでに監督の演出に背いていることになるのではないだろうか。それとも、この意外な展開は、監督の施した、より深い意味を持つ演出なのだろうか」

史詩の中のケサルは、生命力にあふれ、女性を愛し、神を信じ神々と共に戦います。

阿来の『ケサル王』では、悩めるケサルはこれからどのように演じられていくのでしょう。


阿来の“深い意味を持つ”演出を楽しみたいと思います。









阿来『ケサル王』㉝ 説語り部 運命

2014-01-15 02:05:22 | ケサル
説語り部: 運命




 語りを聞き終わった人たちは顔をあげて空を見た。
 何千年の間人々から見上げられてきた空は、星が冷たく瞬いているばかりで、まだ何も顕してはいなかった。
 沈黙。沈黙の中にはある種の咎めがあった。

 数千年の時の中で、最後にはどのような人物が予言を発し、民衆に奇跡を告げるのだろう。
 奇蹟は時に現れるが、それはただ少数だけに属するものだった。

 多くの人にとって、自分たちは常に忘れられたものだった。忘れられている時、彼らはこのような沈黙を自分を守る武器とするのである。

 沈黙していさえすれば、絶えず姿を変える予言に心を動かされたことなどないふりができる。だがそれはふりをしているだけなのだ。
 だから、彼らの沈黙には哀しみと恨みの味がするのである。

 老いた語り部は首を埋めたまま動かなかったが、暫くしてやっと物語の世界から抜け出した。
 人々は黙ったまま歩み寄り、布施―小銭、干し肉、餅、干乾びた果物、ヨーグルト、塩、嗅ぎタバコなど、ありとあらゆる物を語り部の前に敷いた布の上に置き、去って行った。
 月の光が彼らの薄い影を長く伸ばしていた。

 最後に、ジンメイただ一人だけが残った。座ったまま立ち上がろうともしない。
 その影もまた彼と一つになって座り、まるで本当に存在しているようだった。
 それは、他の聴衆たちとは違っていた。彼らは、帰って行ったのではなく、月の光の中でその姿が徐々に消えて失くなったかのようだった。

 語り部は琴を仕舞い、腰をかがめて金だけを懐に入れてから、息をハアハアさせながら布を巻いて体に括った。
 こうすれば布施された物を楽に持って行くことが出来る。

 「そのまま行ってしまうんですか」

 「お前はついて来ないのか」

 「さっきの語りはオレの夢と違っていました」

 語り部は目をギラリと光らせた。

 「神様はこの物語を作り変えようとしているに違いない。それで、お前に夢を見させたのだ。だったら、教えてくれ。一体どこが違うのか」

 「始まりからもう違っています。神の子は理由があって追放されたんじゃありません。みんなはジョルを神の子とは知らず、追放したのです」

 「夢でそれを伝えたのは誰だね」

 「分かりません」

 「では、どんな様子だった」

 「誰かが夢で伝えたのではなく、映画を見るようだったんです」

 「そうか。焦らなくていい。何が違うのかだけ教えてくれないか」

 「始まりから違っていると言ったじゃないですか」

 「それなら、その後は同じなのだな」

 「その後…その後はまだ夢に見ていません。今日、あんたが一気にたくさん語ったので、オレの知っているのよりずっと先まで進んでしまった…」

 老人は包みを背負い、六弦琴を胸に抱え言った。

 「この物語にまた新しい枝が出来るようだ。もしわしが途中で凍えや餓えで死なず、まだ力があったら、お前の物語を聞きに戻って来よう」

 こう言うと、老いた語り部は歩き始めた。
 老人は微かな月の光の中を進んで行った。

 その姿が消えかけた頃、ジンメイはその声を聞いた。
 
 「神様、物語はどうして終わることがないのですか。どうしてわしのような卑しい身分に生まれついた者を遠くへと駆り立てるのですか」

 こうして、老人の姿は消えた。

 ジンメイはその場に座って動かなかった。老人の言葉が冷たい空気のようにジンメイの心に入り込み、疑問を生んだ。

 この物語はどうしてよりによって自分のような者を選んで語る者にするのだろう。

 冷たい風が吹き、ジンメイは怯えたように震えた。
 「語る者」。
 自分の頭に浮かんだ語る者という言葉に驚いた。

 自分は、去って行ったばかりの年老いた語り部と同じようにあらゆる苦しみを味わい、天から降った英雄の古くから伝わる物語を背負ってあちこち彷徨うのだろうか。

 家に戻り、窓から月を眺めた。
 部屋の中の暗さのためか、月は草原で見上げるよりもはるかに明るかった。

 ジンメイはもう一度この言葉を口にした。
 「語る者」。
 自分の声がこれまでより明るく聞こえた。

 あの物語を夢に見たくないわけではない。
 だが心の中で、自分はもう夢の中であの物語が映画のように演じられるのを見ることはないかもしれない、と思った。

 ジンメイの心は揺らいでいた。
 語り部としての運命がどのように展開していくのか、彼は何も知らなかった。
 だから、たまらなく恐ろしかった。

 ジンメイは自分に言った。
 「オレは愚かな人間だ。神様は見間違えたのだ。今神様は、オレがどんなに馬鹿な奴かと知って、もう不思議な夢を見させようとはしないだろう」

  ジンメイは月の光を眺め、眠らないようにした。
 眠ってしまうのは分かっていた。だが、やはり月の光をしっかり見つめていた。

 眠りたくなかった。

 だが、月の光は何故か彼の目の前で変化した。ガラスのように細かく砕け、月の光よりもより確かで、より白い雪のようなものに変わり、空の奥からひらひらと落ちて来た。

 ジンメイは声を聞いた。その声は言った。

「物語。そう、物語はすでに定まっている。だが、細かい部分は時に異なることがあるのだ」

「どうして?」

 突然笑い声がした。
 それは荒れ狂う風に舞う雪のように震え、空中で旋回した。

 「一つの事柄であっても、人はそれぞれに異なった理解と表現をするものなのだ」










阿来『ケサル王』㉜物語 茶

2014-01-09 23:10:41 | ケサル
物語:茶 その4




 隊商の首領は言った。

 「私が帰るのを待つまでもなく、この知らせは私の国に伝わるでしょう。
  私が帰りの道に着く頃には、茶は既にこちらへ向かう途中にあるはずです。
  最初に届いたものはあなたへの贈り物に致します。
  ただし、その後、あなたの民はそれなしにはいられなくなるでしょう。
  その時は、領地にある多くのものと交換しなくてはなりません」

 「何がいいかね」

 隊商の首領は草原を疾走する馬の群れを指さし。
 「もしあの馬たちを飼い馴らすことが出来るなら…」

 「出来る。牧人たちが乗っているのは野の馬を飼い馴らしたものだ」

 隊商の首領は、次に山の間を勢い良く流れる渓流に目をやった。渓流の底の泥や砂の中には貴重な金沙が沈んでいる。 

 「金」

 首領の目はまた平原の珍しい草花に移った。
 そこにあるすべては病を治す優れた薬となる。

 ジョルは少し不機嫌になった。
 「もういいだろう。私は何か一つ欲しいものはないかと聞いたのだ。お前の目はあまりにも貪欲だ」

 商人はしたり顔で笑った。
 「世界中の誰もが私のことをそうやって罵ります。でもその後、この世界の人々は時が経つほどに私から離れられなくなるのです。
  ですから、後悔してもよろしいのなら、私どもの品を断っても構いません」

 「必要だ」

 「あなたが開いた道は私たちのような貪欲なものを引き寄せるだけではなく、家を失い彷徨っている多くの人々がここへやって来て、あなたの民になるでしょう、
 尊敬する王様」

 「私は王ではない」

 「いつかあなたは一つの国の王となられます。
  あなたが新たに雪山の麓を閉ざさず、蔓の橋と渡し船を焼きさえしなければ」

 ジョルにはそれは出来ないと分かっていた。

 これはジョルを言いようもなく憂鬱にさせた。
 この道を開いた時、自分の能力は無限で、この荒れ果てた場所を穏やかで豊かに出来ると考えていた。
 だが今自分が更に大きな力によって動かされていると感じている。

 それは妖魔ではないが、見ることができず、殺すこともできず、常にこちらに近寄って来る気配がしていて、しかも、すぐそばにいるもの。

 商人は玉の杯で茶色い飲み物を差し出し言った。
 「お飲みください。これが茶です」

 ジョルは尋ねた。
 「葉ではないのか」

 「とても珍しい木の葉を煮た飲み物です」

 ジョルは飲んだ。その味は苦く、だがその後、香りが口中に広がり、その香りは額にまで届いた。

 先ほどの商人の言葉に心が塞いでいたが、茶の香りが額に届くと、頭も心もすがすがしさで満たされた。
 商人はジョルに一袋の茶―神秘な枝の乾いた葉を贈った。

 ジョルはハヤブサに茶の葉をくわえさせ、リンへと飛ばせた。

 その時トトンは軽い木でトビを作り、リンのすべてに自分の法力を見せるため、毎日この木のトビに乗ってゆらゆらと空を飛んでいた。
 ハヤブサが飛んでくるのを見ると、大声で尋ねた。

 「空の猛犬よ、どこへ飛んで行くのか」

 ハヤブサは答えた「ジョル様の命で兄上ギャツァ様に会いに行くのだ」

 「くわえているのは何か。見せてくれ」

 ハヤブサはそれには従わず言った。
 「あなたはギャツァ様ではない」

 トトンは呪文を唱え、木のトビに袋を奪わせて中にどのような宝が入っているのか見ようとした、

 ギャツァはこのすべてを目にして、一矢のもとに叔父の木のトビを雲を通して射落とし、ハヤブサを自分の肩に止まらせた。
 ハヤブサは「茶、茶」と叫ぶと、翼を羽ばたかせて飛んで行った。

 ギャツァが見ると、緑の枝についた青々とした葉の茶ではなかったので、城へ戻っても特に報告しなかった。
 だが、漢の妃はその不思議な茶の香りをかぎあて、頭痛が薄らいでいった。

 彼女は言った。
 「私はなんという幸運をいただけたのでしょう。故郷に帰らなくても茶の香りをかぐことが出来たのですから」

 ギャツァはやっとその意味を理解し、茶の葉を母の前に捧げた。

 老総督も漢の妃が自ら入れた茶を飲んだ。
 総督はよく通る声で言った。

 「今、頭も心も洗われたようだ。これからは、うわべに欺かされず、心の目は永遠に正しい方向に向けられるだろう」

 人々は言った。
 「千里の彼方のジョルは、木の葉を良薬に変え、彼を冷たく追放したリンの地に送り届けた」

 神の子の名が、再びリンの人々の間に伝わり始めた。

 トトンは唇の端に大きな出来物が出来て、眠れなかった。
 密かにジョルの臣下を任じる武将タンマは言った。
 「それは奴が常に噂をまき散らした報いだ」

 トトンは人を遣わして漢の妃から茶を貰い受けた。
 だが、侍女が香り高い茶を彼の前に捧げ持って来た時、彼はためらった。

 「もしこれがジョルの仕掛けた罠だとしたら。
 ジョルは木の葉を薬に変えることも出来れば、魂を迷わす薬湯に変えることも出来るだろう。
 そうやってわしの力をみな奪おうとしているのかもしれない」

 そこで、トトンは侍女たちにその茶を飲ませた。侍女たちの体からは、これまでにないよい香りが立ち昇った。
 トトンは唇を噛みながら言った。
 
 「お前たちを殺してやろうか」
 

 その夜、ギャツアは夢を見た。

 世界中が雪の白に閉ざされていた。
 どこまでも続く雪は世界のすべてを覆い尽くし、牛や羊は草を見つけられず、暖を取ろうとする者は薪を見つけられず、道の途中の者は行くべき方向を見失った。

 目覚めると、ギャツァは多くの者を率いて山の頂上の九層に石を積み上げた祭壇で祈った。
 神が力を顕されるよう祈り、生贄を祭壇に捧げた。

 だが祭司たちは言った。神は何もお示しにならなかった、と。







阿来『ケサル王』㉛物語 茶

2014-01-06 20:24:18 | ケサル
物語:茶 その3




 助けられた商人たちは様々な珍しい宝を捧げてジョルに感謝の言葉を述べた。
 ジョルはすべて断った。

 商人たちはそれぞれ異なった言葉でを使ったのだが、ジョルはどれも聞き取ることが出来た。
 
 「私たちは英雄のために何をしたらよいでしょうか」

 ジョルは言った。
 「それなら、空になった家畜に石を積み、人も手に石を一つ持って、黄河の石のないところに積んでもらうことにしよう」

 「英雄よ、あなたの力はこれほど大きいのに、石を集めて何に使うのですか」
 「そこに大きな砦が聳え立つことになるだろう」

 「あなたの力は山一つも動かせるのに、私たちを使う必要があるのですか」
 「それが、この地を通る者たちが商いで利を得るための税なのだ」

 商人たちは心から喜んだ。

 世界の多くの地、異なった国を通ったが、石を黄河に運んで税とするといったようなやり方は見たことがなかった。
 商人たちは、この世界に小さな国があり、その若い国王がどれほど非凡で、どのような奇怪な行動をするのかを、様々な場所で伝えた。

 外の世界はそれを風変わりな話として聞いた。

 それを聞いた野心にあふれた国王たちは使者と隊商を派遣したが、それは、このような荒唐無稽な国を求めてではなく、黄金の国、宝玉の国、不死の薬を産する国を求めてだった。

 リンの老総督・ロンツァはこの噂を伝え聞いて、ジョルは本当に神の子であり、彼なりの奇抜な方法で自分の力を示しているのだろうと思った。
 老総督はギャツァに言った。
 
 「この話を聞いて、わしはジョルに対してまことに恥ずかしく思う」

 「私の弟は本当に天から降った神の子なのでしょうか」

 「神の子は既にその力を現しているぞ」

 ギャツァは愛する弟への想いを一層募らせた。

 夢の中でしばしばジョルに出会った。そのたびに、ギャツァは弟に言った。
 「お前の国はリンだ。リンの民はすべて将来お前の民になるのだ。いわれなく追放されたからといって彼らを忘れてはならないぞ」

 「彼ら?では兄さんのことは?」

 「母が故郷を懐かしがっている。その時、私は母を送って母の故郷にいるかもしれない」

 秋風が日増しに厳しくなり、ひらひらと雪が舞う季節となった。
 ひっそりと静まり返った風景を見て、母メドナズはリンが懐かしいと言った。この言葉はジョルの故郷への想いをかきたてた。

 自分は天から来たと聞いているが、天とはどのような所なのか思い出せなかった。
 だが、故郷への思いが込み上げた時、リンの風景がまるで目の前に浮かんで来た。

 その夜、彼は夢を見た。夢の中で焦りと不安にさいなまれる兄ギャツァと出会った。

 「兄さん。どうしてそのように不安そうなのですか」

 「年老いた母が病気なのだ」

 「医者たちは薬草を調合したのですか。呪術師たちは術を施したのですか」

 ギャツァは首を振って言った。
 「母が患っているのは、故郷を思う病だ。だが、母の故郷はたくさんの雪山を超え、たくさんの大河を渡らなければならない場所にある」

 「治せる薬はないのですか」
 
 「ある、だがその薬はすべて使ってしまった」

 「どんな薬です?」

 「お前の母上メドナズがご存じだ」

 朝、ジョルは母に夢を話した。
 メドナズはうなずき、昔を思って言った。

 まだセンロンの城にいた時、突然見たことのない鳥が飛んで来て、ギャツアの母の寝室の窓辺に降りた。
 ギャツァの母は泣いた。何故ならその鳥の鳴き声の中に故郷の音を聞いたからである。

 鳥は飛び立つ時、一本の木の枝を窓辺に残して行った。青緑の枝にはたくさんの緑濃い葉がついていた。

 病の床にあった漢の妃は、その枝から一枚の葉を摘み煮るよう命じ、それを飲んだ。
 暫くして、病に痛めつけられ弱りきっていた病人は寝床から立ち上がり、城の頂に立って、東を―故郷の方角を眺めた。

 漢の妃は、自分の病は故郷を思う病だと言った。

 故郷を思う病を治すことが出来る緑の枝青々とした葉は遠い故郷から届けられたもので、茶といった。

 リンの言葉を話すのに慣れたジョルの舌は、苦労してやっとその音を発した。
 「茶!」

 「そう、茶です」

 ジョルは笑った。
 「なんて不思議な音だろう」

 メドナズは言った。
 「もしこの薬の効き目を知ったら、美しい音だと思うでしょう」
 
 「なぜです?」

 「この茶は故郷を思う病を治すだけではありません。不思議な病気になった多くの人が、漢の妃の茶を用いて治ったのです。あなたの兄さんが夢であなたに託したのは、漢の妃が茶の葉を使いきってしまったからでしょう」

 漢の妃の薬は本来なら一生使うのに十分なほどあった。
 彼女はその薬をむくみのある病人に与え、悪い出来物の出来た病人に与え、快癒させた。
 だが、薬は使い果たしてしまった。

 ジョルは言った。
 「私は漢の妃のためにその茶を手に入れましょう」

 そうして、空を飛ぶハヤブサを呼びつけ、リンの武将ギャツァの元へ行かせた。
 ハヤブサはギャツァのところから、もはや一枚の葉もつけていない茶の枝をくわえて戻って来た。

 ジョルはその枝を東方から来た隊商に渡した。
 「これと同じものを運んで来てもらえないか」
 
 「茶?」

 「茶?」

 「茶!」

 「茶!」








阿来『ケサル王』㉚物語 茶

2014-01-02 10:32:44 | ケサル
物語:茶 その2





 これらの哀れむべき人々は、敬愛と期待の眼差しで言った。

 「王様、あなたよりもさらに大きな恩恵があるなどとは思えません」

 「ユロングラソンドは今一つの世界の中心となった、この閉ざされた場所はやがて四方へ道を通じさせるだろう」

 長者が群衆を代表して疑問を述べた。

 「王様、どうして一つの世界の中心であって、すべての世界の中心ではないのですか」

 ジョルは民たちに言いたかった。
 黒い頭のチベット人が暮しているのは確実に唯一つの世界ではない。天の下にはまだ別の世界と国があり、これらの世界と国の多くは、すでにかなり早くから自分たちの暮らす世界より先へ進んでいるのだと。
 だが彼は民たちにより多くの驚きと迷いをもたらしたくなかった。
 そこで民の前から去った。

 ジョルは自分が断定したユロングラソンドという中心から出発し、東へ、西へ、北へ、南へ向かった。
 すぐに、他の世界からこの地へと通じる道を自ら探し出した。

 南の雪の峰々は幾重にも群がっていたので、山神を招いて、位置を移させた。
 もともと寄り集まっていた南の山神たちがさらに身を寄せ合ったので、雪山の間に広い峠が現われた。

 商人たちはそよそよと吹く季節風とともに次々とやって来た。

 南から吹いて来る暖かい季節風がもたらす雨水は、東の風によって西へと運ばれた。
 こうして西の乾燥した荒野は生気を漲らせた。
 低く窪んだ地には美しい湖が生まれた。

 放牧する者のいない野生の牛や羊は、群れをなして湖の淵で水を飲み、虎や豹や狼がその間を通り抜けた。
 そのため、鋭敏で気の小さい鹿は眠る時も片方の目を開けていなければならなかった。

 東方では、滔々と水を湛えた大河は奔流となり、人も馬も渡ることが出来ず、ただ猿だけが蔓を伝って気ままに動き回り、こちらの岸からあちらの岸へと自由に行き来していた。

 ジョルは川岸に人々を呼び集めて観察した。
 サルは蔓にぶら下がって岸を渡ると、蔓を戻さず、しっかりした石の上に結わえつけた。
 人間はこれを見て蔓の橋を作ることを学んだ。

 東方の商人たちがいち早く蔓の橋の上に現れた。
 隊商は東方の帝国の皇帝が遣わしたものだった。

 彼らの銅は、兵器をとなるほかに、貨幣として鋳造され、美しい器として打ち出され、西の国の稲妻の根、地下の鉱脈の音、雪蓮花の夢を集めた。
 これらを持ち帰り、東方の海の中の珍しいものと混ぜ合わると、皇帝に献上する不死の薬を練成することが出来るという。

 商人たちは、細かい彫り物を施した玉と呼ばれるものを胸の前に下げていて、岸に上がるとすぐに、西の異なる文化の人たちに胸の玉をちらつかせて言った。
 「こんな石はあるかね」

 駿馬を見るとまた言った。
 「オレたちは買うよ。たくさん、たくさん。足の早い馬を」

 彼らが必要とするものはあまりに多かった。

 蔓の橋はどんどん造られ、どんどん幅広くなった。
 更に幅広い河には筏や船が現れた。

 ユロングラソンドは日毎に中心の地となっていった。

 隊商が次々と通って行き、西のはずれのペルシャ人、南のはずれのインド人まで現われた。
 ペルシャ人はある時間になるとさっと馬を下り、華やかな絨毯を広げ、やって来た方向に向かって経文を唱え礼拝した。
 インド人は無口で、濃い髭を油で光らせていた。

 だが、誰もここより北へは行こうとしなかった。

 北ではほとんどすべてのホル人のが略奪をほしいままにしていた。

 ホル人は馬術だけでなく、弓にも熟練していた。
 弓術に優れた者は、ただ弓の弦を弾き、その時起こるヒューヒューという風の音だけで、財宝を守ろうと臆病になった商人を馬から転げ落とすことが出来た。

 商人たちは尻込みして北へ向かっては行かなかったが、ホル人の方から南下して来た。
 ユロングラソンドの近くの山の麓に陣地を張り、ペルシャ、インド、東方の帝国の商人たちを襲った。

 ジョルは、北へ通じる道を開く時が来たのを知った

 ジョルは一人で守備の厳重な盗賊の根城へ向かい、一気に九つの関門を抜け、18人のホルの守備兵を一刀の元に切り倒した。

 ホルの盗賊王が現われた。
 この王こそ、弦の風の音で馬上の人間を殺せる男だった。

 ジョルは言った。
 「私も同じような方法でお前に非業の死を遂げさせてあげよう」

 男は笑った。
 何故ならジョルは、杖に乗り、手には何も持っていなかったのだから。
 それよりも、盗賊王は堂々としているのに、その時ジョルの姿は、醜いとまではいかなくとも、おかしな形の杖、まだらになった上着、帽子に生えたねじ曲がった角、どれもがジョルをひどく滑稽に見せていた。

 だが、盗賊の首領の顔に浮かんでいた笑いはすぐに凍りついた。

 ジョルが天に向かって手を伸ばすと、雲の端から稲妻が現われた。
 稲妻はジョルの手に滑り込むと弓へと姿を変え、雷鳴を発して首領を一気に望楼の上から地上へと転げ落とし、首領はそのままお陀仏となった。
 あっという間に手下たちは散り散りになり、命からがら北へと逃げて行った。









阿来『ケサル王』㉙物語 茶 

2013-12-15 20:34:51 | ケサル
物語:茶 その1





 こうして一路進んで行くと、草原を流れる黄河が大きくうねり、河幅を広げている場所に着いた。
 空漠とした場所には、わずかな草も生えず、ただ黄河の河辺に葦が生い茂り、馬が通り抜けて行くと、力に満ちた肩と俊敏そうな耳が見えるだけだった。

 ジョルは母に言った。
 ここが私たちが新しい家を建てるべき場所です。
 母メドナズが、ここには名前がない、と言うと山の神が雷を鳴り響かせてこの場所の名前を告げた。

 もとはここには多くの民がいて、ユロングラソンドといった。その後、妖魔が数え切れないほどのネズミを放った。
 ネズミたちは地底を走り回り、地下を縦横に繋ぐ道は細かい網の目のようだった。
 牧草の根が伸びて行き探し当てたのは、真っ暗な空洞ばかり、水と養分を含んだ肥沃な土ではなかった。ネズミたちは地下で絶えず歯をガチガチと動かし植物と大地のつながりを断ち切っていった。

 その秋、残った草たちは全員一致で、来年はもう生えるのをやめようと決心した。

 草たちは必死で実らせた種を風に託し、自分たちの中の最後の意志と希望を乗せて、どこか遠くの穏やかな場所で、地に落ち根を生やし、そこで育てと願った。

 秋の風は種の願いに応え、おにうしのけ草、のびる、にがな、野ゆりの種を遠くまで運んだ。
 風はまた、ある日、機縁に適った時に、これらの種を乗せて再び戻って来ると約束した。

 草が遠くへ行ってしまった後、人々もその後を追って移って行った。

 ジョルと母がこの地へ来た時、ネズミたちは既に一つの国を興していた。二人の王と、百近い大臣。
 ジョルはこのネズミの魔物の王国を滅ぼす決意をした。
 
 母メドナズは心を痛めた。
 「この地には私たち二人だけ。リンの人々はもう、お前が生き物を殺すのを責めることはないでしょう。
  それでも、息子よ、天の神様はすべてを見ていらっしゃるのです」

 ジョルは天を見上げ思った。
 神がすべてを見ることが出来るなら、リンの人々は自分をこのように不公平には扱わず、龍の娘である母メドナズがただ自分の母と言うだけでこのような辛い思いをすることもなかっただろう。

 ジョルは言った。
 「母さん、私は追放の辛さを味わったのです。
  だから、ねずみに追放された人たちに戻って来てもらわなくてはなりません」

 言い終わらないうちに、ジョルは一羽の鷹に変身して青い空へと飛んで行き、大きな翼を広げて空を旋回した。

 ここはもともと美しい場所だった。
 土地は肥え、谷は開け、豊かな水を湛えた大河がここで大きく美しい弧を描いている。周りに高く聳える山々の峰からはいくつもの山裾がこの盆地に向かって集まっていた。

 パドマサンバヴァが言ったように、こここそがリンが一つの国として起こっていくべき地だった。

 鷹が空に昇るやいなや、ネズミ国は大慌てとなった。
 国王は大臣と策士たちを呼んで対策を協議した。策士は、あの鷹はリンから追放されたジョルの化身だ、と探り当て、言った。
 「あの法力を持った者は多くの生き物を殺したため、ここに追放されて来たのです…」

 国王は煩わしげに、
 「わしはあの者の素性を聞いておるのではない。ただ、このネズミ国はどうしたらこの災難を避けられるかを聞いておるのだ」

 「答えはあの者の素性の中にあります。どうぞ、四方八方に広がっていったネズミたちを呼び集めてください。地下の宮殿の周りの山いっぱいに並べさせるのです。その数は百や千ではなく、千の万培、万の万培なくてはなりません。このようにたくさんのネズミを殺すことは、殺生によって追放された者にはもはや出来ないでしょう」

 鷹は空の上ですべてを知り、翼をたたんで地に降り、大きな体の武士に変身した。
 軽く足を踏み鳴らすと、岩で出来た山が近づいて来て、ドーンと言う音と共に鼠の国の宮殿の上に落ち、ネズミの王と大臣や武将たちは粉みじんになった。ネズミ国の領土のネズミたちはすべて腹が敗れ、地下で命を落とした。

 ネズミの害はこうして収まった。

 風は、遠くに行った草の種を連れ戻した。
 草だけでなく、つつじの花の種、高く聳える柏の木と椛の木の種、雪線の上まで咲く青い花びらの幻想的なまんねんろうの種を連れて来た。

 わずか一晩で、それらの種は細かい雨の後、芽を伸ばした。
 三日目、テントの風よけの囲いがまだ積みあげられないうちに、生命力を取り戻した草原は再び鮮やかな花々に覆われた。
 遠くへ離れたが、まだそこで根を下ろしていなかった人々が、また牛や羊を追って次々とあらゆる方向から帰って来た。

 人々は心の中でジョルを自分たちの王とした。
 ジョルは彼らが心の中で思うのはともかく、口に出して王と讃えるのは許さなかった。
 また、自分に対して礼をするのも許さなかった。

 「私は王ではない、ただ、天が人々に与えられた恩恵である」

 ジョルは、自分の口ぶりがまるで王のようだと思った。








阿来『ケサル王』㉘物語 放擲 

2013-12-08 23:59:52 | ケサル
物語 放擲  その5




 そこで、タンマは、ジョルが怒りで荒れ狂っている姿を目の当たりにした。先ほど、妖魔と激しい戦いをしたために、母がもう父の砦に戻ることは出来なくなったと知ったためだった。

 ジョルの怒りの中から生み出されたものに、正直なタンマは嫌悪感を抱くばかりだった。
 ジョルは人間の皮をなめしたテントに住み、グニャグニャと曲がりくねった腸を引き伸ばしてテントの支えとしていた。骨は刻まれてテントの壁になり、壁の外には更に多くの白骨が山のように積み上げられていた。
 それは身の毛のよだつ光景だった。

 だがタンマは神の子を信じて疑わなかった。そこで、たとえリンの全ての人を殺してもこれほど多くの死体があるはずはなく、だとすれば、これらの物はすべてジョルの幼ない幻術が生み出したのだと思い到った。

 タンマがそう思った途端、これらの気味悪いものはすべて消え去った。

 タンマは帽子を脱ぎ、テントに入って行った。
 中には一本の花もないのに、馥郁たる香りが漂い、入るやいなや気持ちが清められていった。
 ジョルは言葉を口にせず、微笑みを浮かべて母親に客人に新鮮なヨーグルトを持ってくるよう促した。

 タンマは即座に天の意を理解し、席を立つと神の子の前にひざまずき、永遠に王の先駆けとなることを誓い、臣としての礼を捧げた。
 こうして、タンマはケサル王の第一の臣下となった。それはジョルがリンの国王になる何年も前のことだった。

 ジョルは言った。
 「愚かな民がついに悟るその時、彼らのその先の悟りを更に堅固なものとするために、彼らが今私にしたことを何倍も後悔するようにしなくてはならない」

 ジョルは手招きしてタンマを自分の近くに呼び、小さな声でどのようにすべきかタンマに申し渡した。

 タンマは命を受けて老総督の砦に戻り、ジョルの言いつけそのままに報告した。
 「あの子はまさに羅刹そのものです。自分はただ大声で老総督のご主旨を伝えただけで、テントの前まで近づくことは出来ませんでした」

 トトンは自分のの兵に、武力で追い出すよう言いつけた。

 老総督は言った。
 「兵を使うことはない。百名の女たちに竈の灰を一握り持たせ、呪いの言葉と共に撒かせればよい。それで、あの子は追放の地へ向かって行くしかなくなるのだ」

 ギャツァは、これは悪意に満ちた呪いであると知っていた。そこで前に進み出て、願った。
 「ジョルは私たちの後裔です。そしてまた、龍族の孫です。やはり百の炒った粉で懲罰いたしましょう」

 ジョル親子はすでに支度を整え、人々の前に現れた。

 ジョルは、母が縫っている途中でこれ以上ないほど醜く変わった皮の上着を纏い、風よけ帽に生えた角がその醜さを一層際立たせていた。
 ジョルは常と変わらぬ様子で杖に乗り、美しいジュクモの気を引こうと笑いかけた。ジュクモが手を上げると、灰色の炒めた粉が彼の顔中にかかった。

 ジョルの醜さと比べ、母メドナズはあまりに美しかった。
 竜宮の宝玉を身に着け、美しい身のこなしと顔つきが鮮やかに映え合い、すべての娘たちを恥じ入らせた。
 雪のように白い馬の背に姿勢を正し、山から姿を現わしたばかりの太陽の様に輝いていた。

 人々は初めて彼女の美しさに気づいたかのように、心から讃嘆の声を挙げずにはいられなかった。
 彼女の美しさは憐憫の心を呼び覚まし、人々はとめどなく熱い涙をあふれさせ、言った。

 「広いリンはこの親子を入れられなかったのか。なんと可哀想な」
 誰も、この追放という結果の中に自分の咎があるとは考えず、恨みと不満を他人の上へ投げかけた。

 ギャツアは家に帰り、必要な品物を揃えて馬に背負わせ、弟の手を取って言った。
「お前と母を送っていこう、さあ共に出発だ」

 まもなく、二人を惜しむ嘆きの声は消え、女たちは手の中の炒った粉を撒き、呪いの言葉を唱えた。
 天の神々が飛来し、巻き上がる埃と呪いの言葉をジョルたちの後ろで遮った。

 しばらく共に進み、分れ難く、さらにしばらく進んで、まもなくリンの境界を出ようという頃、弟は兄に帰るように言い、兄は帰って行った。

 弟は、リンの心の真直ぐな人物が去って行く後ろ姿を見て泣いた。

 それから先の長い行程に、人の暮らす気配はかった。その時ジョルはより一層孤独を感じた。
 天の神と土地の山神が、命を受けて密かにジョルを守っていたが、ジョルには何も見えなかった。









阿来『ケサル王』㉗物語 放擲 

2013-12-01 03:34:53 | ケサル
物語 放擲  その4




 神の子が来てからの数年間、リンでは妖魔が民に害を及ぼすことはなかった。そこで、リンの民たちは一心に善を求めた。

 外の世界から髪を下ろした苦行者が来て言った。
 もし一匹の飢えた狼が人を食おうとしたら、まず自分を食わせるべきだ。

 このような行為は、終わりのない輪廻のある一つの段階で、ついには報いを受けるだろう。そして最大の報いとは再びこの輪廻の中に陥らないことである。

 彼らは鋭利なかみそりで髪を下ろすことで、この世への軽蔑を表し、自分たちの教主へのある種の誓いを表していた。

 数年間の平和な生活を送ったリンの民は、この誓いを受け入れ始めた。

 ジョルは、自分に与えられた神の力は、新しく伝わって来たこの教派の天上の諸仏の加護を受たもので、それによってリンで妖魔と戦っているのだと分かっていた。だが、同じ神がどうして自分とは別の使者を人間界に送り、自分とは相容れない教えを伝えるのかは、分からなかった。

 善に向う心を芽生えさせた人々が、声高く叫んだ。

 殺し屋! 殺し屋! 殺し屋! 殺し屋!

 「では、我々はジョルをどうすべきだろうか」

 トトンが放った言葉の意味は、ジョルを殺すべきだ、といことだった。だが、ジョルを殺すことのできる者などいないのも分かっていた。
 人々が重苦しい沈黙に陥った時、トトンは言った。
 「ジョルはまだ子供だ。悔い改めるよう、荒地へ追放しよう」

 流刑。追放。
 
 それは、この子供が広い荒れ地で一人で生き、一人で死ぬということである。それならば誰も殺戮の罪を追わずに済む。
 人々は重荷を降ろしたかのように、空に黒い雲が垂れこめ人間の弱さに哀しむだろう言葉を代わる代わる叫んだ。

 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放!

 ギャツァは問い糺した。追放?

 智慧に富む老総督でさえ、群衆の叫び声に疑問を唱えた。追放?

 そそり立つ崖すべてが、こだまを返した。

 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放!

 老総督はリンの全ての貴族を集め、天の声を占うことしかできなかった。

 貴族たちは総督の砦に集まり、総督が天に向って占うのを待った。間もなく天の言葉が示された。

 「毒蛇の頭の宝珠は貧しい者の手に落ちたといえども、機縁はいまだ至らず。ならば、貧しい者はそれをどのように知るのだろう」

 神は明らかな意思を示されなかった。しかも、大多数の人がこれまで考えたことがなく、考えたくはない問題を、リンの人々に問いかけたのだった。

 母の元に戻ったジョルは思った。神のされることはなぜ、人々に理解されにくいのだろう。

 人々は思った。神は我々には分かりにくいことをされる。
 どうして神のお告げは、我々を問い詰めているように感じられるのだろう。

 老総督は決断を下せないでいた。
 「我がリンは、神の子を降されるのにふさわしくないのだろうか」

 トトンは言った。
 「それなら、ジョルを北方の誰も治める者のいない、黄河上流の荒れ果て貧しい地へ行かせよう。この子がそこでどのように特別な力を表すか見ようではないか」

 貴族たちは声をそろえて言った「それは良い」。

 老総督も仕方なくうなずいた。
 「今のところそうするしかないだろう」

 ギャツァが申し出た「私も弟と一緒に追放にしてください」

 老総督は怒りをあらわにした。
 「何を言のか!リンの英雄の頭でありながら。もし妖魔が再び立ち上がり、敵が攻めて来たら、リンとリンの民がどのよう
な状況に置かれるか。下がりなさい!」

 ギャツァはため息をつき
 「では、私が弟にこの取り決めを伝えて参りましょう」

 これを聞いてその場の者たちは、責任感のある立派な人物だとギャツァを褒め称えた。
 だが、同じくリンの英雄として数えられるタンマは、ギャツァが生き別れの苦しみを味わうのに偲びず、言った。
 「尊敬するギャツァよ、あなたは頭としての席に座っていなさい。私が代わりを務めさせてもらおう」

 言い終るとタンマは、集まりの席を後に、ジョルの元へ急いだ。










阿来『ケサル王』 ㉖ 物語 放擲 

2013-11-19 00:09:29 | ケサル
物語 放擲  その3




 花が開き、今神の子は妖魔の幻術と戦っているのだ、と人々に告げていた。
 だが、人々は許そうとはしなかった。

 彼らの中の聡明な人物が言った。
 「妖術が幻の世界を作ったのだとしても、その世界で繰り広げられた冷酷と残忍は真実ではないか」

 さらに、人々がジョルに悔い改める機会を与えようとした時、神の子は悔い改めようとしなかった。

 その時、リンの人々の智力はまだ愚かで混沌とした世界に深く沈んでいたので、誰かが一言このように理に適ったことを言えば、賛同の声を引き起こしてしまうのだった。

 勇敢で智慧に長けたギャツァでさえ、これを聞いて、一方ではこの言葉は自分の弟に対して不公平だと思いながら、反論する言葉が見つからなかった。老総督もやはり、反論する言葉が見つからなかった。
 あの一言を口にしたのはジョルの叔父、トトンだった。

 大きな氷河がゴーンと言う音と共に崩れ落ちて来た。ジョルの体は立ち昇る氷の霧の中に消えた。
 この時、取り囲んでいた群衆はジョルが消えたことに心からの喜びの声を挙げた。

 テントの入り口で息子の服を作っていた母メドナズは、心臓を突き刺されたように胸元を抑え、かがみこんだ。

 ジョルは神の力に守られ、氷河は頭の上で砕け、彼をよけて落ちて行った。
 霧が晴れた後、空はあっという間に明るく澄み、ジョルは体を振るわせて群衆の前に姿を現し、告げた。
 「妖魔は空中や地面から来ることが出来なかったのだ。そこで水の中に道を作った。だが、このジョルが、氷河の下を通る道を塞いでやったぞ」

 みなが半信半疑でいると、トトンがジョルに向かって言い放った。

 嘘だ!


 するとたくさんの声があちこちで沸き上がった。
 

 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!


 トトンはまた言った。
 「可愛い甥よ。幻覚で人々の目をごまかしてはいけないよ」

 山の斜面でも谷間でも人々は更に声を合わせて叫んだ。

 幻覚! 幻覚! 幻覚! 幻覚!


 大勢の声が一つになった叫びの中、そこに含まれた怒りには、抵抗しがたい力があった。
 その時人々は見た。神の子の聡明で美しい顔つきが、醜く変わっていくのを。
 まず顔色が、そして輪郭と目鼻立ちが、そして最後にすらりとした姿も縮んでいった。
 神の子ジョルは人々の前に醜い姿を現した。

 人々は勝った。世を欺く者が本来の姿を現したのだ。そこで人々はまた声をそろえて高く叫んだ。

 本性が見えたぞ! 本性が見えたぞ! 本性が見えたぞ!


 それはちょうど神の子が天から人の世に降って六年目の日だった。

 この時、母は息子のために新しい毛皮の上着を縫っていた。手の中にある上等の皮の毛が抜け落ち、いくつものまだらが出来、風よけ帽の前には二つの奇妙な角まで現われた。

 メドナズは空を見上げた。
 がらんとした青があるだけだった。青い色の下には緑に覆われた山々が遥か彼方まで続いていた。

 メドナズは空に向かって叫ぼうとした。だが、その声は胸の隙間から沸き上がり、のどもとで止められた。音ではなく、血の塊だった。
 彼女は草を抜き取り、根元深くに血の塊りを埋めた。
 母として、息子に対する悲しみを誰にも見せたくなかった。天にさえ見せたくなかった。

 トトンは手を振り上げ、神通力を使って、自分の声をリンのすべての角にいる人々にまで聞かせた。
 「この子は天が降した神の子と言われているが、我々が見たのはただの残虐な殺し屋だ」







阿来『ケサル王』 ㉕ 物語 放擲 

2013-11-11 04:06:04 | ケサル
物語 放擲  その2




 ジョルはまだ夢の中にいて、パドマ・サンバヴァに尋ねた
 「おまえは神さまから遣わされた者なのか」 
 パドマ・サンバヴァは考えてみると、自分の今の身分は名前の付けようがなく、自分でも掴みどころがなかったのだが、仕方なくうなずいて「そうです」と答えた。

 「このジョルは国王になるのか」
 パドマ・サンバヴァはゆっくりと首を振って行った。
 「まだその時は来ておりません。あなたはまだ苦しみを受けなくてはなりません」
 「それなら国王になるのはやめる。天に帰ることにする」

 パドマ・サンバヴァはため息をついて言った。
 「あなたが天に帰った時、私はまだ人の世にいるかもしれません」
 「おまえは神ではないのか」
 「私は未来の神です」
 「だったらすぐ、このテントから出て行け!」

 パドマ・サンバヴァは立ち上がり、笑って、言った。
 「神の子よ、ではあなたの夢から出ていきましょう」

 ジョルは夢の中でパドマサ・ンバヴァといくらも話していなかったが、目が覚めると空は明るく、昇りはじめた太陽はすでに草に結んだ霜を溶かしていた。

 ジョルは叔父の所から手に入れた魔法の杖に乗って辺りを一巡りし、退屈になって、機を織っている母に城塞に帰りたいと言った。

 母は、気ままに生き物を殺さない、人々に恐れを抱かせないという約束をきちんと守れるか問いかけた。
 ジョルは、妖魔をすべて滅ぼしたつもりだったので、母の言葉を誠実に受け入れた。

 ジョルは無限の力を持つ兄ギャツァ・シエガがどんなに軽々と自分を馬の背に抱き上げてくれたかを想った。
 老総督の期待に満ちた眼差しがどのように自分の上に注がれていたかを想った。
 この想いは彼を更に孤独にした。これもまた彼がもう殺戮を行わないと母に約束した理由である。

 母は言った。
 「では、父さんと老総督のところへ行って謝りなさい。私に約束したことをもう一度二人に伝えれば、きっと許してもらえるでしょう」

 この時、跨っていた杖がガタガタと鳴り始めた。妖魔が再び現われた知らせだった。
 ジョルは杖を捨て、そのまま砦の方へ歩いて行った。

 二つのぼんやりした影が見えたので、砦の上からそのあたりを眺めた。それが老総督と兄のギャツァ・シエガだとは分かっていた。
 二人はジョルが利口な子供のように礼儀正しく清潔な身なりで人々の前に現れて欲しいと願っていた。そうすれば人々はジョルを許すだろう。

 ジョルが砦に向かって行き、しかも強い反応力を持つ杖を投げ捨てたのは、こうすれば妖魔が現われたという前触れを知らなかった振りが出来るからだった。

 今回は水の中に災いを起こすモノがいた。体の半分が竜、半分が蛇の妖怪が二匹、ジョルの目の前で岸に上がって来た。
 二匹の妖怪は全身をぬめぬめと湿らせ、口からはヒューヒューと火を吐いている。
 こうなっては見て見ぬふりは出来ない。

 この子供は大きく息を吐き、砦にチラッと目をやると、杖を拾って二匹の妖怪に立ち向かって行った。
 ジョルが見ていたのは水の怪獣だった。
 だが、母親を含めたリンのすべての人々に見えたのは、竜宮の水晶の門が開き、そこから現れた二人の美しい娘だった。

 二匹の妖怪の力は強大で、水の中でも岸でも、くんずほぐれつ休むことなく戦い、雅礱江の水がもう一つの大河に流れ込む辺りのいくつもの渦巻きが逆巻く深い水の中に潜って行った。
 その早い渦巻きのどれもが、世界を丸ごと吸い込んでしまうほどに力強かった。

 早い渦巻きにジョルはこれまでにない快感を感じた。
 渦巻きの底は砂時計のとがった部分のようで、最も細い所を抜け出て一回転すると、目の前にまた別の世界が現われるのだった。

 二匹の妖怪は自在に場所を変え、ジョルが時間を逆回転させる渦巻きに夢中になっているのを見ると、水の上に出て雲の中に入り込んだ。
 妖怪のしてやったりと言わんばかりの大笑いがジョルを我に帰らせた。
 ジョルは杖を横にして、渦巻いている流れを止めた。

 ジョルもまた雲まで昇ったが、やはり、くるくると回転しながらの急降下を楽しんでもいた。

 ジョルと妖怪は戦いながら、あっという間に河の源である氷河の上まで来た。

 二匹の妖怪が最後に用いた法術により、多くの美しい生き物が次々と湧き出して来ては、ジョルの杖で殺された。ジョルの残忍さをすべてのリンの人々に見せたのである。

 人々はみなジョルが杖を振り回して水の妖怪の分身を殺す時、わずかな憐憫の心もないのを目にした。
 たくさんの死骸が河の上流の浅く澄んだ渓流を塞ぎ、血なまぐさい空気に両岸に咲いていた花は蕾み、回転して、萼を河原に向けた。

 最後の二振りで、水の妖怪の真身はやっと倒れた。妖怪の死体は河の中でほとんど水面を汚さなかった。
 同時に分身の死体はすべて消え、河は清冽な姿を取り戻し、花々も再び開いた。