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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

官寨のラマ そして私の中の風景

2007-09-09 01:21:35 | Weblog
チケット売り場の小姐が、1人分だけ半額にしてくれた。指定された観光場所向けの特別な優待券があるらしい。団体旅行のオジサンが仲間に向かって「日本朋友だよ!」と大声で私たちのことを紹介している。暇で、することがないのでこの辺りを旅しているそうだ。

私たちは何故か道を間違えて、裏口から入ってしまった。そこは山の合間の草原だった。牛がいてチベット族のテントもあった。オジサンたちは先に行ってしまったので、とても静かだ。

いよいよ門を入る。大きな院子に射す光がまぶしい。

一つ一つ部屋を見ていく。1階には生活に必要なものが納められている。薬やロンタやお茶や香辛料や農具などが、それぞれの部屋に置かれている。女性の乗る駕籠もある。銀匠の部屋もあった。
2階、3階が官家(執事)や土司一族の部屋。煌びやかな家具調度が並べられている。

4階には経堂があった。5階まで吹き抜けになっていて、官寨の中で一番大きな空間だ。金色の仏像が何体も並べられ、壁一面に色鮮やかな仏画が描かれている。その上にタンカや、布でできた円筒形のものが掛けられ、この大きな空間が色で埋め尽くされている。息苦しいほどだ。
一人のラマが太鼓を叩きながらお経を上げていた。そういえばこの音はずっと官寨中に響いていた。
中へ入ると、結縁と守護の赤い糸を手首に巻いてくれて、焼香用のお香を分けてくれる。

写真を撮っていいか尋ねると、そんなことこだわらないでもいい、と言いたげにあっさりと許可してくれる。おまけに、隣に座っておしゃべりしましょう、と誘ってくれた。何の知識もない私がラマと何を話せばいいのだろう。だが、その親しげな雰囲気に、自然と隣に座っていた。

14歳で僧になり、元の寺はここから80kmのところにある、今あげているのは平和のお経と財神のお経である、などと話してくれる。お経はチベット語で書かれている。亡くなった先生からいただいたものだそうだ。
日本からここまでどのくらいかと聞かれたので、飛行機で北京まで3時間、北京から成都まで2時間、成都から車で2日かけてたどり着いた、と答えると、飛行機代はいくらか、とずいぶん現実的なことまで尋ねられる。私は間違って6万元(100万円!)と答えてしまった。大師、ごめんなさい。でも、いずれ分かりますよね。(また、お詫びと訂正に来なくては…)

最後に一緒に写真を撮らせてもらった。とてもうれしそうな表情をしている。私たちが立ち去ると、ラマはすぐにお経を上げ始めた。

官寨から眺める山は、思ったより間近にあった。梭磨河から分かれた渓流に沿って幾重にも重なって遥か遠くまで続いている。一番奥に見えるのはもしかして、神の山の一つ、夢筆山かもしれない。近くの山肌にはタルチョが置かれている。その奥に、中腹に滝の見える山もある。

頭のおかしい二少爺はここで画眉鳥の声を聞いたのだろうか。あの山のどこかで雪にまみれて走ったのだろうか…

今目にしている風景と、小説から受けたイメージとは、どのように重なっていくのだろうか。
静かに静かに自分の中を見守っていこう。これから幾度も阿来の文章に触れることで、その答えは見つかるだろう。

いよいよ卓克基官寨へ

2007-09-07 21:18:33 | Weblog
いよいよ、卓克基土司官寨へ

岷江、雑脳河、梭磨河、大渡河の流れる一帯、つまり今回私たちが旅した場所は、
「千ちょう(石+周)の国」と呼ばれ、石で作られた独特な建築物が多く残っている。細長い塔のような「石ちょう楼」、住居としての「石ちょう房」、土司の権力を示すかのようなりっぱな「官寨」。ほとんどが険しい山の斜面に、へばりつくように建てられ、時には集落をなし、時には一つだけ厳しく聳えたち、特異な世界を作り出している。
この地に産する、薄くて断面が平らな石が、このような建物を作るのに適している。そして、寒冷で、雨風の多い気候にも適している。更に、戦いの絶えない地に適した、軍事的にも優れた建築物なのである。
場所によってその様式も少しずつ違う。石も青味がかったものと、褐色のものがある。
窓枠の部分は細かな寄木細工に鮮やかな色がほどこされ、とても可愛い。窓の周りを神聖な色、白で塗ってあったり、屋根の四隅が三角にとがっていたり。様式が変わると、違う部族の地域に入ったんだな、と分かる。
近くで見ると、石を積む技術に感嘆させられる。自然の石をしっかりと隙間なく積み上げ、角はしっかりと揃っている。

そんな「石ちょう」の中でも、この卓克基土司の官寨は「東方建築史の明珠」と称され、美しさを誇っている。資料によると、卓克基の官寨は土司の官寨の中でも小さいものだという。立派だった多くの官寨は焼失して今はない。実は、この官寨も1937年に立て直されたものだそうだ。それを感じさせない技術が、まだしっかりと残っている。

そしてここは、小説『塵埃落定』がTVドラマ化された時の舞台になった。私もDVDを何とか入手したし(まだ見終わっていないけれど)、ネットでも何度も映像を目にしてきた。だからここは私にとってすでに馴染みの場所なのだ、ともいえる。


『塵埃落定』を語るには、必ずここに来なくてはならない、と長い間想い続けてきた。それと同時に、想いが強いほど、失望したらどうしようという恐れも抱き続けてきた。
だから今回、自分に何度も言い聞かせた。ここの空気を吸って、この風景の中に自分を立たせてみる、それだけでいいんだからね、と。
それでも、心のどこかが緊張している。



阿来のマルカム

2007-09-07 02:14:48 | Weblog
マルカムは、阿来が生まれ育った場所である。

マルカムについて、阿来の『大地の階段』からひろって紹介してみます。

「マルカムとは、灯火が盛んにともる場所、という意味である。
この地がマルカムと名づけられたのは、はるか昔、この河の河原にマルカム寺という寺があったからである。荒涼とした河原の寺に灯るあかりは、当時なによりも耀いて見えただろう。
土司の時代、宗教は権力の下に置かれ、マルカム寺も土司の信奉するボン教の寺として賑々しく改修される。
乾隆帝の時には、大小金川の土司の戦いを治めた清朝によって、ここはまたチベット仏教ニンマ派の寺へと変えられてしまう。
1930、40年代から河のほとりに市が開かれるようになり、美しいテントが続々と現れ始める。
解放後、政治的必要からここに街が作られ、ある程度の規模になった時、地名をマルカムとした。
それとともに、かつて光り輝いていたマルカム寺は日々忘れられていき、60年代、文革によって破壊されてしまう。
文革が終わり、街が発展していくと、寺は街を見下ろす山の上に移される。
かつて、人々から必要とされた寺も、今は象徴でしかない…」

阿来は、数年間、近くの村の教師をした後、マルカムを離れる。

「ジアロンの様々な地区で、半世紀のうちにあわただしく作られた街では、人々の心を奮い立たせる情熱が日々薄れてきている。そうして、発展と覚醒の緩慢さが、社会の生き生きした部分を押さえつけてしまう。そこで、ある人たちはここから離れていくことを選ぶ。私もその1人だった。
今回、街を行くのは見知らぬ顔ばかりになってしまった。だが、人の流れから漂ってくる緩やかな調子は馴染みのものだった。この緩やかさは、青年の前進しようという思いを失わせる…」

街を歩いているとそれはよく分かる。

「マルカムの美しさ、それは街を流れる河の美しさである。
中国の辺境の街が美しいのは、それを建設した人が特別な企画とデザインをしたからではなく、周囲の自然がもたらす独特な美感によるのである。
街を貫く梭磨河の季節によって変わる水音は、この街に住む人々すべてが耳を傾ける自然の音楽となる。
河と対峙するのは山である。河の両側に聳えている…」

この文章は10年位前に書かれたものだが、その時と今とどのくらいの変化があったのだろうか。

このあたりのおいしいものの一つにヨーグルトがある。大きな樽で冷やして売っていて、頼むと一人分に分けて砂糖をかけてくれる。濃厚でクリーミー、だが、最後にほのかに獣の匂いが残る。ここが大自然の中の街なのだと教えてくれる。




マルカムの街 4

2007-09-05 00:23:41 | Weblog
街路樹のニセアカシアが涼しげな木陰を作っている。チベット族のおばさんがベンチにぼんやりと座っている。

のんびりした街だ。

通りには男たちが何人か固まり、立ち話をしている。写真を撮らせてもらう。唐克の若者ほど濃くはないけれど、男らしいいい顔をしている。しばらくして戻ってくると、彼らは道の反対側でまた立ち話をしていた。余計なお世話だけど仕事はあるのだろうか。

爆竹の音がするので走って行ってみると開店祝いだった。またどこかで鳴っている。それは結婚式だった。また鳴った。また、開店祝い。パレードまで出ている。

こうやって街はすこしずつ新しくなっていくのだろう。




マルカムの街 3

2007-09-05 00:20:10 | Weblog
午前中は街を歩こう、ということにして、ぶらぶら出かける。

本当に運動会が催されているようで、マルカム飯店の中庭には、トレーニングウエアの若者や、トレーナーであふれていた。それと関係があるのかどうか、迷彩服の若者たちが通りを行進している。通りには「友情第一、競技第二」と書かれた赤い幕がかかり、開会式の行われた広場にはルンタ(馬と経文を印刷した小さな紙)が撒かれていた。


中国の街のビルは面白い。通りに面した一階は店舗になっているが、一箇所中に入れる門があり、そこを入るとかなり広い中庭(院子)があり、そこからが本当の建物の内部になる。
私たちのマルカム飯店も、そのような入り口を入っていくと、正面に立派な中華レストランがあり、右側が飯店の正面玄関で、そこを入っていくと広いロビーやフロントがある。中庭が駐車場にもなっていて、門番のおじさんもいる。
他のビルは、アパートになっていたり、地元の人の商店や食堂になっていたり。夜には院子にたくさんテーブルが並べられ、にぎやかに食事をする音が響き渡る。
表は画一的でよそよそしいが、一歩中に入ると本当の生活がある。
四合院と通じるものがある。

市場がある。街にはスーパーがあるのだが、冷蔵庫がないので、生ものはこういった市場で買うのだろう。ここもビルの谷間の奥まったところにあった。

布市場があると行ってみたが、雑貨街のようになっていた。
本屋も何軒かあるのだが、この辺りを紹介した本は見つからなかった。

河沿いの通りに出てみると、梭磨河はやはり轟々と音をたてて流れていた。



マルカムの街 2

2007-09-05 00:15:32 | Weblog
街を歩く人の半分以上が民族衣装を身に着け、のんびり歩いている。ラマたちも買い物したり、ケータイでおしゃべりしていたり、ごく普通に行き来している。

女性の衣装は日本の着物の袖がないような形で、色はつむぎふうの茶色や黒。鮮やかな縞柄の絹の布を前掛けのようにベルトに挟む。銀の腕輪に、銀の髪飾り。みなすらっと背が高く、堂々と歩いている。私も着せてもらったけれど、しっかりと仕立ててあるので、ちょっときつかった。前掛けがお腹を隠してくれて、かわいい(?)のだが、残念!買うのはあきらめた。

マルカム飯店はこの街のほぼ中央にあり、部屋から下の通りの行き来を眺めているだけでも楽しい。
良い部屋のおかげで夜はゆっくり休むことが出来た。

朝一人で外へ出かけてみる。河の向こうの山には石造りの民居が見える。山に当たる朝の光が美しい。反対側の山にはマルカム寺があるという。今日は土司の官寨とそこへ行ってみよう。



旅の4日目 8月8日 マルカム

2007-09-05 00:11:53 | Weblog
マルカムの街は、アバ州の州都だけあってかなり大きな街だ。ガイドブックには、これと言って見所はない、と書いてある。中途半端に発展した地方都市、というイメージが浮かぶ。その中途半端さが面白そうだと、おかしな期待を抱いた。そういう街って結構好きかもしれない。

河沿いの通りの他に、大きな通りが二筋あり、それと交わる通りも同じように大きい。河の向こう側にもどんどん新しい建物が出来ている。ほとんどが7,8階ある大きなビルだ。だが、中国の都市にありがちな妙に近代的なデザインのビルはない。理県の街と同じように表面は決まった色で統一されている。

通りに面した店は間口が2間や4間に仕切られ、扉には仏教と関係ありそうな、色鮮やかな彫り物がほどこされている。街並みは民族的だが、内容は中国の地方都市と変わらない。おしゃれなブティックもあるし、スポーツ用品店もあるし、ネットカフェがあるし、ケータイショップがあるし、美容院もあるし、美術教室もあるし、成都のような籐椅子を並べた茶館もあるし、電光掲示板まである。

通りには夜遅くまでにぎやかな声が響いている。




マルカムに到着  今度はスイートルーム?

2007-09-04 00:15:20 | Weblog
四時半ごろ、マルカムの街に着いた。
宋さんが思わず、漂亮!(きれいだ)と言う。

やっと探し出した指定された宿は、建築中のマンションの中にあった。雨の後なので外の廊下は濡れている。もちろんエレベーターなどない。中を覗くと、今までの宿と変わらない、いや、もっと狭い部屋だ。出来たばかりの雑然とした感じが残っていて、入る気もしない。
即座に拒否し、宋さんに旅行社にケータイしてもらう。
返事は、今マルカムでは大きな運動会が行われていて、宿はどこもいっぱい、その宿しかない、その宿は清潔で安全です、とのこと。マルカムでは良い部屋を取ってもらうよう契約してある、と説明し、もう一度ケータイしてもらう。
しばらくして、どうしても無理なので今の宿が気に入らなければ自分たちで探して、差額があったら払ってくれ、という返事。宋さんも近くにマルカム飯店があるからそこで聞いてみよう、という。私も半分その気になったが、主人は、それは旅行社の責任なんだから、向こうにやらせろと言う。それもそうだ。私が電話に出て、主人が怒っていると伝えた。
またまた長い時間待たされて、やっとマルカム飯店に部屋が取れたとのこと。よかった!一安心。だが、フロントで私が「2泊ね」と念を押したところからまた大騒動が始まった。

契約では、マルカム1泊で最後の康定が2泊になっているとのこと(それは大きな間違いだ。ちゃんと私のノートには書いてある)。しかも、マルカム飯店では、この価格の部屋は今日しか空いてない。他に空いているのは880元の部屋だけだ、と。主人は怒って、それなら、その880元の部屋を2泊とって、差額は旅行社が払え!と要求した。今度は旅行社とフロントの小姐の話し合いとなった。
また、長い時間がたって、やはり無理らしい。私がまたあのオヤジと話すことになった。またまた慇懃無礼にゆっくりと話す。

今マルカムでは運動会があって…と言い訳するので、私も頭に来た。
それは私たちには関係ないことです。私たちはマルカムでは良い宿に2泊するという契約をしているのだから、それにあった部屋を探すのがあなた方の責任で、私は880元の部屋に泊まりたいわけではなく、今それしかないからそこに泊まるしかないでしょう、という話をしているので…
するとオヤジは急に、今あなたの話した中国語がよく分かりません、と言ってくる。失敬な!
それなら最初から話しましょう。私たちはマルカムで2泊、1日220元と契約しました。三ツ星の、バスタブのある部屋に泊まりたい、という条件を出しました。そうですよね。だったら、その条件に合った部屋を探すのが旅行社の仕事ではないですか。(あれ、私契約の時、私、三ツ星って言ったっけ、風呂付って言ったっけ。まあいいや、相手のオヤジもそれには触れないから知らん顔しよう。ドキドキ)

私が必死で話している横で、フロントの小姐と宋さんが大声でふざけあっているし、主人は彼らにうるさい!って怒鳴ってるし。もう、最悪だ。
分かりました。では、もう一度飯店と話し合ってみましょう。

しばらくして、やはりダメだとの返事。宋さんが、では私達どうしましょう?とやけに明るい顔で聞いてくる。じゃあ差額200元まで払うから、ここでなくてもいいから、ちゃんとした宿を探してもらって、ということにして、後は彼に任せた。
電話したり、小姐と話したりしているうちに、宋さんが部屋が見つかったから、まず見てくださいと言う。ここで探してくれたようだ。私の耳元で、380元ですよ。と囁く。

鍵をもらって行ってみると、なんと、豪華な部屋だ!エマニュエル夫人が座りそうな(ちょっと古い?)貝殻のようなソファーセットの置かれた部屋と、奥に大きなダブルベッドの寝室があり、その奥にジャグジー付、バスタブ付、サウナ付のシャワールーム。
これってもしかして、880元の部屋?
僕はよく知りません。

宋さんによると、フロントの小姐としゃべっていて、そのなまりから同郷と分かったので、それでお願いしたら380元でいいことになった、とのこと。中国ってそういうことが大事なのね。あのおしゃべりも無駄ではなかったのね。
すぐにOKする。
宋さんに差額を払って、手続きしてもらう。待てよ、もしかして宋さんもそこでいくらか儲けているかも。まあ、そのくらいのメリットがないと楽しみがないでしょう。何よりも宋さんのおかげで、こんなにいい部屋(あまり趣味がいいとはいえないけれど)に泊まることが出来たんだから。
みんな宋さんのおかげよ、本当にありがとう!


マルカムへの道

2007-09-03 01:31:36 | Weblog
さあ、いよいよマルカムへ出発だ。
ここからはひたすら下がっていく。周りの山が少しずつ高く見え始め、気がつくとその懐に抱かれている。紫外線が弱くなり、日差しが柔らかく感じられる。木々も岷江の時と種類を変え、葉の形が優しく、やわらかな光を吸って青味がかった緑をしている。だが、そこから覗く山の肌は、岩でごつごつしている。
河は相変わらず激しく流れているが、水が少し透明になり、時々岩を分けてしぶきを上げるのがさわやかだ。この河が梭磨河。阿来が詩に描いた河だ。阿来もこの辺りを歩いたのだろうか。そう考えると感慨が深い。

さらに下っていく。
査真梁子が海抜4300m位、マルカムが2600m位だから、1700mも下がっていることになる。
低原反応、なんていうのはないのかな
その時は、酸素じゃなくて排気ガスを吸わなくちゃいけないんだよ
なんて冗談を言ってみる。

山肌に石造りの建物が見えてきた。かなり高い山の中腹に、村を作っているところもある。いよいよ卓克基の村が近づいてきたのが分かる。

4時ごろ、卓克基土司官寨が近づいてきた。ドキドキする。道路から見るとそれほど大きくなさそうだ。大きな看板も見える。また観光地化かな、とちょっと心配になる。
明日、ゆっくり見ることにして、まっすぐマルカムへ。また宿で手間取ることは目に見えているのだから。



やさしさと物乞い

2007-09-03 01:25:36 | Weblog
こうして、また刷経寺に戻ってきた。途中、査真梁子を通り過ぎた。この尾根で長江と黄河の水系が別れる。私たちは長江に連なる梭磨河を目指す。その先にあるのがマルカムだ。

刷経寺の街で昼食。
他のテーブルでは、土地のおじさんたちが、牛肉の塊をナイフで切り裂きながら、昼間から酒を飲んでいる。
テレビで白黒の紅軍のドラマをやっていた。このようなドラマは懐かしい物語として、今結構人気があるらしい。
そんな話から宋さんは70年生まれとわかる。37歳!私は30前の青年だと思っていたのに。
彼は突然自分のことを話し出すくせがある。
不眠症で夜は5,6時間しか眠れない、とか、酒は飲まないし街へ遊びに行くのは好きじゃない、とか、仏教を信じている、とか。そういえば、腕に数珠をしている。菩提樹の実で作られたものだそうだ。朝はいつも仏教のお経のCDをかけてくれる。日本のと違ってメロディアスだ。
三人の姉がいて男は自分一人、二年前に父親が病気で亡くなったので、自分の責任は重い。運転する時も安全に気を使っている(その割にはスピードを出すが)。
そして、何年か前に離婚して(え!そんなこと初対面の私たちに話していいの!)、責任はすべて自分にあるので財産を渡し、ゼロから出発したのだ、とも…返事に困る。でも、あまりこだわっていないようだ。
以前は薬品関係の仕事をしていたけれど、途中で止めて、これから旅行の仕事をやっていこうと思っている。始めてまだ一年くらいだ…

そんな話をしていうるうちに、店に物乞いが入ってくる。若い男の子だ。汚れた服に、ハタを持って何度もお辞儀をする。私たちは知らん顔をしていたけれど、宋さんは悩んだ末に1元上げる。しばらくすると、よれよれのおばあさんが来る。少し困った顔をして、またあげる。しばらくすると、楽器を弾く夫婦が入って来る。情報が伝わったのだ。なかなか帰らない。今度は主人が1元あげる。芸があるからな、と宋さんをかばってあげる。しばらくしてまた…
宋さんもお金をあげるのが良いのか悪いのか、依頼心を起こさせるだけだから、と分かっているのだが、やはり優しさに負けるのだろう。

優しすぎて奥さんに逃げられたんだね、というのが主人と私のこっそり出した結論だ。
それでなくても、成都の言葉はとても優しい。声調が強くないのでちょっと物足りなく感じられるほどだ。特に彼の、「好的、好的(いいですよ~)」と「謝謝~、啊!」は、優しくて聞くたびに胸が切なくなる。



もう一度孤独について

2007-09-01 23:19:09 | Weblog
岷江を刷経寺まで登ってくる間に、ダムがいくつも作られていた。豊かな水がここの最大の資源だからだ。大きいものから小さいものまで、いくつもの工事現場を通り抜けてきた。ダムを作るには道が必要だ。そして、道はたびたび落石等で塞がれる。もうもうと砂煙を上げている山肌を何度か見かけた。そのたびに迂回する道を作るか、反対側の道を通させるか、トンネルを掘るかしなくてはならない。そのための工事もいたるところで行われていた。河のすぐ横を通っているのに妙に埃っぽいのはそのためだ。

中国の西部大開発とはダム作りであり、道作りであった。今回の私たちの旅は、それを視察する旅だった、ともいえる。

工事現場と工事現場の間は、かなりの距離があるのだが、不思議なことに、どの道路にも掃除人夫がいた。彼らは飯場からバイクにほうき一本を乗せて、自分の受け持ちの場所までやってきて、一日黙々と道路を掃き続ける。車がクラクションを鳴らして近づいてくると、道路端によけ、せっかく掃いた道に埃を撒き散らして車が通り過ぎると、また黙々と履きはじめる。終わりのない、成果のない仕事で一日を終える。

飯場を通りかかると、必ずぼんやりと座っている男がいて、その後ろには入り口に寄りかかり、立ったまま丼飯を食べている男がいる。彼らもまた、手持ち無沙汰な孤独な一日を過ごしているように見える。

そしてその姿は、街の中の商店の入り口に座って、ぼんやりと店番をしている小姐の姿にも重なる。客のあまり来ない一日を、ただただそこに座って過ごす。

草原のピンクの女性、道路人夫、飯場の男、街の小姐…彼らの姿が一つに重なる。
彼らの背後にある果てしのない空間、果てしのない時間。そこにあることの孤独。
中国という大きな空間と、悠久の時間を持った国に生きる孤独を感じた。(都会の孤独とはまた違った孤独だな…)

草原で想う

2007-09-01 23:14:53 | Weblog
しばらく走っていると、道から少し入ったところにピンク色の点が見えた。近くを通った時に、それがピンクの布を頭から被った女性だと分かった。草原に座り込み動く気配も無い。車が通り過ぎると、それはまたピンクの点になった。

またしばらく走ると、男が一人棒を担いで草原の中から現れた。どこで何をしていたのだろう。

空と草原しかない世界でいつも一人ぽつんといたら、自分は何でここにいるのか考えてしまうだろうな。
そう主人に言うと、ずいぶん哲学的だな、でも、それほど意識してないかもよ、と答えた。
そうだよね、私だって何にも考えずボーっとしてること多いから…

それでもやはり思う。ここに何もしないでいて、大きすぎる空を見上げた時、意識するしないに関わらす、自分の存知がとても小さく感じられ、その小ささへの恐れを抱くのではないだろうか、と。阿来の小説の登場人物に漂う、いわれのない孤独感は、ここから来ているのではないだろうか。

8月7日 旅の3日目  黄河第一湾へ

2007-09-01 23:12:46 | Weblog
アバでの3日目の旅が始まった。

街を出かかって、やはり、黄河第一湾へ行くことにした。引き返して、もっと先へ行ってもらう。(昨日は宋さんをあまり走らせたら可哀想だと同情していたのに、なんてヤツだ。でも、もう来られないかもしれないし…)
15分ほどで着いた。

ここはもう、甘粛省との境目だ。甘粛省から流れてきた黄河がここで大きく湾曲し、また甘粛省へと戻って行く。その姿を小高い丘から眺めることが出来る。柔らかな緑を分けて、とろんとした水が弧を描いている。空を映し、雲を映し、流れているのではなく、大きな豊かな存在としてそこにある。目の届く限りのはるか彼方まで、人の気配も無く、動くものもなく、まるで時が止まっているかのようだ。
左に流れているのは白河。きのう草原の中に見え隠れし、蛇行していたのはこの河だ。ここで黄河に合流する。

隣には索克寺がある。おばあさんが小さなお堂の周りをゆっくりとゆっくりと回っている。ミニスカートの女性が、少し離れたお堂の周りのマニ車をまわしながら歩いているのが見える。それが彼らの日常なのだろう。

丘の上までは馬で登った。一人50元。重い私たちを乗せた馬は大変だったろうな。主人は大喜び。草原を走ったらもっと爽快だったろう。

そこからは、もと来た道を刷経寺まで戻る。昨日とまるで同じ風景なのに見飽きることはなかった。


高原反応―眠れぬ夜

2007-08-31 23:21:51 | Weblog
夕食に例のきのこを炒めてもらった。マツタケではなく、しかもちょっと苦かった。

その夜、私と主人は苦しい夜を過ごした。
宿の近くで一晩中犬がほえ続けていた。休むことなく吼える。声のうるささよりも、そのしつこさにいらだってしまう。
犬の泣き声と頭痛で夜中に目が覚めた。水を飲んだり、ブドウ糖を食べたり、深呼吸をしたり、だが、まるで効果がない。バファリンを飲もうかと何度も思う。でも、一時しのぎにしかならないだろう。
犬の声は衰えを知らない。眠れない。眠ると、知り合いの顔が無意味に出てきて、現実に引き戻される。
明日どうしよう。マルカムを目の前にして引き返すのか。言い出せるだろうか。言い出だせずに無理して先へ行ったて、もっと大変なことになったらどうしよう。
寝ながら頭の痛さを確認する。やはり痛い。夢なのか、現実なのか。でも犬の鳴き声は確実に聞こえている。
隣では主人がすやすや眠っている。いいな~。起こしては可哀想だと、ひっしで寝たふりをする。よけいに寝付けない。犬の鳴き声は朝まで続いた。
次の日、主人も悪夢にうなされ、何度も起きては水を飲み、バファリンも飲んだ、と言う。まるで知らなかった!お互いにうまいタイミングで、入れ違いで寝たり起きたりしていたのだろうか。(二人とも結構寝ていたりして…)

こうして、高原反応をまざまざと体験してしまった。

それでも朝起き上がると、頭痛は消えていた。すっきりとはいかないけれど、何とか出発できそうだ。

仕事

2007-08-31 23:16:21 | Weblog
今夜泊まる部屋は3階だ。階段を登るとハアハアする。海抜は3600mくらいあるだろう。部屋は清潔だが、トイレの水が出ない。シャワーの水で流せばいいのだが、やっぱり落ち着かない。男の子が専用の栓を開けてくれて一安心。水が茶色い。
部屋からは草原と山が見えて気持ちがいい。山にさす光が刻々と変化する。山の表面はビロードのようだ。
下では、宋さんが洗車しながら宿の小姐と楽しそうにおしゃべりしている。私たちとでは話が弾まないので、一日分の会話をしているのだろう。小姐たちは、洗濯したり食器を洗ったり、水の音が、まだ暮れない明るい光の中で気持ちいい。

宋さんは今回友人の紹介でこの仕事を引き受けた。紅原に泊まれなかった件で少し頭にきたのだろう、ここに着くまでの車の中で、ちょっと愚痴をこぼした。

旅行社のやり方はよく分からない、今日は向こうの面子を立ててここまで来たけど、自分たちで宿を探しながら行ったほうがよっぽどいい…そんなことから、今回の報酬の話になった。

一日の報酬300元、私たちの宿泊費として80元預かっていて、差額は後で請求する。とりあえず合計2,700元もらったと言う。
急にそんな話をされても…私の頭ではよく分からない。

それにしても300元とは!私が旅行社に払った半分ではないか!旅行社のオヤジ、儲けてるな!

間に何人かの人が入っているし、安全への責任と様々な手続きがあるので仕方がないのだろうけれど、宋さんには私たちが一日分700元払っているとはとても言えなかった。彼はその辺のところを聞き出したかったのかもしれない。でも、それは、私たちと旅行社の間の問題で彼には関係ない。それを伝えたらいろいろな計算が始まって、複雑な心境で仕事をすることになる。私たちは楽しく旅が出来ればそれでいいのだ。

ちょっと同情したけど、後で老板とよく話してね、宋さんが損しないようにしてもらっていいんだから、と言うしかなかった。彼も、ちょっと言ってみただけです、と後は楽しい話題に移してくれた。やはりさわやかな青年だ。