塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 90第6章 雪梨の里 金川

2012-05-22 17:01:47 | Weblog

7 さらば金川 さらば歴史



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 今回、第二回金川の戦いの最後の砦の跡も見ようと考えていた。
 だが長い年月にわたって開拓され、人家の密集した地では、つる草の生い茂るままの風景などは、もう見ることは叶わないのだろう。

 実際には、金川土司の官塞の遺跡は金川県城の対岸のそれほど遠くない勒烏村にある。歴史書の記載によると、それは金川の戦いの最後の砦の一つである。数千のギャロンの兵がここで戦死した。

 広大な土地を占めていた石の建物は砲火に遭って一掃されてしまった。金川土司ソノムと大量の俘虜たちは、この時から死刑囚へと地位を貶められ、護送され、遥かな苦難の道程の後、北京の太廟で祖先を祭ってから打ち首になった。

 第二回金川の戦いは西暦1765年に始まり、1776年に終わった。合わせておよそ11年間である。

 停留所で次の日の成都に戻るバスの切符を買った。

 その時、近くの食堂の入り口に立てられている「新鮮な細甲魚あります」という看板が目に入った。当地の漢語の方言では、鱗を甲という。細甲魚とは細鱗魚の意味である。そこで、その食堂に入った。魚が運ばれて来ると、それは想像通り、真っ白なスープの上にふっくらとしたウイキョウの葉と真っ赤なとうがらしの細切りがたっぷりと浮かんでいた。

 自分のために、棗を漬けた薬酒を注文した。

 ほんのりと酔って宿に戻り、続けて当地の歴史を読んだ。

 私は常に文字の中の真実を疑っている。だが、今回の金川の旅を終えて、私にはもう歴史の身近な姿を探し出す方法がなくなっていた。日々の生活に満ち溢れている細部のように、真実味のある姿はもう見つけられないのだ。

 窓の外を見ると、この小さな街は、あい変わらず騒がしさと混乱によって活力を溢れさせている。だが、この光景はすでに内地のどの小さな県城とも大差がなくなってしまった。

 そこで、仕方なく、大雑把に書かれた書物、細部についての細やかな記述のない書物に戻った。

 乾隆帝が作った金川平定の碑文を読んだ。全文に才気があふれている。だが、長すぎて、この本の中に写し取ろうという気持ちにはならなかった。そして私が一つ指摘したいのは、この碑文も今はただ歴史書の中でしか読めないということだ。

 もとの碑は乾隆五十一年、即ち金川が平定された十年後、金川土司官寨の跡に建てられた。
 当地の人の話では、碑の上には東屋が建てられていて、瑠璃の瓦の二重の屋根がかかり、東屋の外には囲いがあったという。文化遺産とも言うべきその碑は、文革によって壊された。石碑は当地の村民によって三つに割られ、石工を頼んで碾き臼にされることになった。だが石工は、碾き臼にしようと鑿を当てた時に爆死してしまったという。こうして、割られた石碑は幸いにもその姿を残すことが出来たのである。

 そこで、もう一度魏源の「乾隆再び金川土司を平定する」を読んだ。

 その夜は風雨が激しかったが、却って、魏源の筆のもと金川土司の官寨が巍然と目の前に聳え立っているのを目にしたようだった。


 「その官寨は頑丈で壁は厚い。西に大河を臨み、南にはマニ車の堂がある。官寨と直角に、木の柵、石の壁、長い垣が設けられ、東は山を負い、崖は八層になっていて、それぞれの層に高い石の塔が建っている。敗れてそれぞれの道を戻った賊は、皆これを死守した」


 私は金川へやって来たのだが、なぜか、書物の中の簡要な叙述に導かれて、再び歴史に思いを馳せたのだった。

 
 成都へ戻る道路は、大金川に沿って遡り、再び梭磨川と交わった。途中で大渡河水系と岷江水系を分ける鷓鴣山を越えた。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)








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