塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 94第7章 河の源流へと遡る

2012-07-12 21:17:14 | Weblog
2 土司たちの源に関する言い伝え その3





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)





 アヘン戦争の間、ギャロン各地の土司の兵馬は命により沿海作戦に借り出された。
 
 瓦寺の兵はハクリに率いられ、金川の兵は土司緑営の隊長アムランに率いられた。
 数百のギャロンの兵は三ヶ月の長く苦しい旅を経て、江浙の寧波に着き、提督段永福の指揮を受けた。
 大宝山の一戦で瓦寺の兵たちは勇敢に敵に立ち向かい、イギリス軍に痛手を負わせ、兵を率いたハクリは戦死した。
 寧波の戦いでは金川の隊長、ギャロン人アムランが勇敢に敵を倒し、英雄的な最後を遂げた。

 ギャロンの兵は江浙の前線でイギリス軍と幾度も激戦を繰り返し、最後にはほとんどが異郷の祖国防衛の戦場で命を落とした。

 1869年、瓦寺土司などの領地でアヘンが植えられ始めた。
 アヘンが入ってきたことでギャロンの土地の多くのものが変わった。

 1890年、辛亥革命の間、四川で清朝に反対する保路運動が巻き起こった。四川の首府成都は保路同志軍に何重にも囲まれた。

 四川総督趙爾豊は、辺城松藩の巡防軍を調達し、岷山を出て成都の囲いを解くために向わせた。
 岷江の河の近くの白水駅で、瓦寺チベット人千人あまりが松藩から救援に向う清軍を次々と阻み、痛手を負わせた。
 支援軍は途中で投降を宣言し、最後にはチベット民間軍の部隊に加わった。
 瓦寺などのチベット兵数百人は成都平原に入り、保路同志軍と共に戦い、数百人が成都平原に於ける大小の戦いの中で犠牲になった。

 民国28年、即ち1939年、瓦寺土司は21代目の索代賡へと伝わっていた。この時瓦寺土司は一貫した伝統を保ち、再び国民党二十八軍を助けてリンモ土司の治める黒水地方を討伐し、軍の最前線で戦死した。これ以降、民国政府は位を受け継ぐことを許さなかった。

 瓦寺土司とギャロンの土司たちの歴史は日を追って人々の記憶から薄れていく。
 ギャロン文化の栄えた時代もすでに過去のものとなった。
 だが、この荒野に立つ時、私の心には克服しがたい淡い憂鬱が湧いてくる。

 憂鬱とは人を傷つける美である。
 憂鬱とは現実には役に立たない個人の心のありようである。

 時間は相変わらずゆっくりと過ぎて行く。それ自身の固有のリズムに従って。
 神は時間を作った時、私たち個人の感情という要素を考慮しなかった。

 ある説によると、どの固有の存在にもすべて内在する合理性があるという。更に言えば、我々は文化を考察する中で社会ダーウイン主義の考え方を取り入れることが出来る。
 最も根本的な意味から言って、私もそのような考え方に賛成する。
 
 だがそれは、私たちがある種の死と消滅を目の前にして限度を持った憂鬱を表現するのを妨げることは出来ない。
 しかも、この必然の消滅を前にして、すでに消滅したものの真実で完全な姿を明らかに示すことはほとんど不可能なのである。

 もしかして、このような理由によって私たちは心に憂鬱を芽生えさせるのかもしれない。
 そして、現実を見つめることでこの憂鬱を克服することが出来るのかもしれない。

 ならば、私はこの場所で、自分の関心をパンダに移すことにしよう。
 全世界からの注目があれば、もしパンダが生物界から必ず消滅するのだとして、それでも、大規模な保護計画を通じて、生物界の種が消滅する時間表を延ばす事ができるかもしれない。
 その間に、私たちはパンダに関する完璧で詳しい学問を立ち上げることが出来るだろう。







(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒。)

 
 

 


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