無邪とは、邪心がないこと。
「無邪気」を辞書で調べると、素直で悪気がなく、いつわりや作為がないこと、
素朴で天真爛漫、天衣無縫、ナイーブな、とある。
昨日、POCORINCOさんからコメントを頂いた。
「神様や運命や動物は信じられても「人間を信じる」という事が一番
難しいような気がしていますが、いかがでしょうか。
そもそも人間を信じるってどういうこと??ってグルグル巡ってしまったり・・」
ほんと、「人間を信じること」が一番難しい・・・。
現代人はとにかく仕事も情報集めも忙しくて、ぼけっとしていたら容赦なく
切り捨てられちゃうから、みんな自分を守ることで精一杯。
大人社会の歪みはそのまま、中・高校生の世界でも、今は携帯という仮想空間で、
平気で友達を裏切ったり、仲間はずれにしたり。
でも、誰もが人を信じることを諦めてしまったら、社会は成り立たなくなっちゃう。
私は馬鹿だと言われようが、どこまでも人の良心を信じる。
「信じたい」じゃなくて、「信じる」。
何でも響きあいだと思うから。
人を信じたかったら、まず自分が信じてみるっていのうは、どうでせう。
「信じる」は「期待する」に似ているけどちょっと違う。
「期待する」には、自分のどこか勝手な思い入れが入っちゃうけど、
「信じる」は、その人のそのまんまを受け止めるってことかなって思う。
神様や運命や動物を信じられるのは、相手が無邪であるという安心感から、
無意識にそれらを受け入れられる心が、私たちにもあるからではないかしらん。
動物を信じるように、一人一人がごくごく自然に「人間」も信じられたらいいですね。
「信じる」の輪を身近な友達から~あっけらかんと、おおらかに。
↑ウンウン、言われてみればその通り
結局は自分次第という事、分かってはいるのですがまだまだ修行が足りません
サオリさんのようにおおらかな変人超人を目指します
きっかけをもらったのよん
なかなか理屈はわかっても、現実はね・・。
でも、苦しくてたまらなくなった時には、
そんな風に思えたら、ちょっとは樂になるかな~
人間嫌いに陥ったらまわりが嫌な自分だらけになり、居場所が亡くなります。一番嫌いな自分の分身や出来事ばかり。わたしは別な工場を建てて逃げました。猫も飼いました。猫さえも性格が悪くなるのです。今にして想えばわたしに救いを求めてすがって来たのだと気づきました。わたしには余裕も包容力も胆力もありませんでした。芥川龍之介さんの「くもの糸」のごとく、来るな~寄るな~と喚き散らして追い払ったのです。会社は魑魅魍魎の世界に変貌。精も根も尽き果てて、酒に溺れ人生に溺れて崩れていきました。人嫌いになったら生きていけません。猫にも嫌われます。猫が病気になったり事故に遭ったりするのは警告です。それでより気が滅入って心身症に陥ります。解決法は無邪気になってまわりの凡てを褒め称えて愛する事です。好むと好まざるに関わらず「ようこそ」と受け入れることです。如何なる事をも批判してはなりません。中川一政氏の著書は「裸の字」の誤りでした。イスラムの神秘主義詩人ルーミーの本をプレゼントしてもらいました。「神秘と詩の思想家メヴラーナ~トルコイスラームの心と愛~」メヴラーナはルーミーの別称です。まずは身近な人を褒め称えてください。ご両親を愛してください。「あなた方の子供に生まれて良かった」「ようこそ」とすべてを受け入れてください。自分が変わればまわりの世界が変わります。よろしくおねがいします。
ほんとですね。いつでもなるべくならば、無邪気にあっけらかんと、どこまでも人を信じていたいなぁって思います。
あ、『裸の字』でしたね、昨夜は一杯飲んでたのですみません