昨日の暴風雨で、一気に桜も散ってしまったかと思ったら
このあたり、まだそこここで、淡いピンク色が風に身を任せて揺れています。
今年の桜はほんと、長く楽しませてくれますね~。
さてと。
遅くなりましたが、先日の常福寺での─be─ 死を想え の講演会のレポートをば。
4月8日、境内はちょうど桜の季節、たおやかで静かな時間と空間に心癒されました。
講演会のパーソナリティは、落語家の立川談四楼氏、脚本家の筒井ともみ氏、
アーティストの篠原勝之氏。
それぞれに興味深いお話でしたが、一番親近感を覚えたのは、クマさんこと篠原さん。
たとえばモンゴルに作品制作に行った時の話。
遊牧民の方々の埋葬は、むしろのようなものに遺体を包み、
少し離れたところに置いてくるだけ。
次第に虫や野生動物についばまれ、骨になると砂漠の風が連れていく、と。
それでいいだよ、だから戒名や墓なんかいらないんだよ。
あ、ここは寺だったな、とか
どこか中東の砂漠の国に、頼まれてもいないのにオブジェを制作に行った時。
材料や道具を運ぶのも大変、現地の人も始めは遠巻きに見てるだけだったのが
だんだん手伝ってくれたり、寝る場所を貸してくれたり。
そんな時間と手間をかけて制作したアート作品は、その後、爆撃で跡形もなくなったそうで。
でもな、形とか、そんなのはどうでもいいだよ。
人と人がその同じ「時間」を一緒に作ったってことが大事になんだからさ。
大好きだったお母さまが認知症になられて、笑わなくなった時。
弟さんたちとベッドで寝るお母さまのシーツを持ち上げて、
ゆらゆら揺らすんだよ、そしたらな、最初は怖いし何やってるんだって
すごい顔でみるんだよ、だけど人っていうのは、限界を超えるとあとは笑うしかないんだよ。
それからは笑って過ごしたよ。
そして、最後に死というものを見せてくれた、と。
赤ちゃんは生まれる時、おぎゃーって息を吸って出てくるんだな。
で、死ぬ時は、すーっと息を吐いて逝くんだよ。
阿吽だな。
みんな、生まれたら死ぬんだから、思うように生きた方がいいよ。
ズバズバと軽快に話をされているけど、懐の深さとたくましさ、
あっけらかんかんとした爽快感はとても心地よく、も~なんでもござれ~な気分になれました。
お三方の講演のあとのパネルディスカッションで、
今日は大変な方をお招きしちゃいましたね、と笑顔のご住職。
死を想え。
死は特別なものでもなく、必ず誰にも訪れるもの。
いろんな死があるけれど、いざ目の前に来た時に、
それを受け入れる心の持ち様を、いつも探していたいなぁと、ふと。
つらつらと長くなったので、夜からのライブの模様はまた別途
桜の写真は一緒にいった友人から拝借しました。謝々。