帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(78)ひとめ見しきみもや来ると

2016-11-21 19:01:07 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――      


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下78

 

あひ知れりける人のまうで来て、帰りにける後に、よみて

花にさして遣はしける              貫之

ひとめ見しきみもや来るとさくら花 けふは待ちみてちらばちらなむ

知り合いの人が参って、帰った後に、詠んで花に挿して遣った・歌……相知った女が来て帰った、後に詠んで、お花に挿して送り届けた・歌  つらゆき

 (一目見たあなたも、花見に・来るかなと、桜花、今日は待ってみて、来てくれた今はもう・散るならば散ってもいいでしょう……人妻、見た、あなたが、繰り返し・上り来るかと、おとこ花、京は・絶頂は、待って見て・来たので今は、散るならば散り果てることができるよ)

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひとめ…一目…人め…人妻」「みし…見た…めを合わせた」「見…覯…媾…まぐあい」「くる…(花見に)来る…(山ばに)来る…繰る…繰り返す」「さくら花…木の花…言の心は男…おとこ花」「けふ…今日…きやう…京…山ばの頂上…感の極み」「ちる…散る…果てる…尽きる」「なむ…(散り果てても)いいだろう…当然・適当の意を表す…(散り果てることが)できるだろう…可能性を推量する」。

 

待っていたあなたが、見に来てくれたので、桜花は、散りたければ、何時散ってもいいでしょう。――歌の清げな姿。

一め見た・人妻見た、あなたに山ば来るかと、おとこ花、感の極みは待って見て、来たので今は・散るのならば、散ることができるよ――心におかしきところ。

 

法師の歌とは、真逆の艶書(懸想文)の歌である。一とめ目を合わせた女への男の思いを表現した。加えて、性愛においても精一杯の誠意を尽くすおとこであることを表現した歌。

 

女の返事は、「訪ねていらっしゃい門に錠ささず待つわ」となるか、「わが門にそのかしらうち当てひっくり帰れ」となるか。この歌の「清げな姿」に顕れる思いはほんとうかどうか、「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)に顕れるおとこの「京を待ち見て」から尽くし果てるという誠意はほんとうかどうか、歌のエロスに触れた女の感覚により決まる。

 

歌は人の「心に思う事を、見る物聞くものに付けて言い出せるなり(仮名序)」「此れを以て、花鳥(男と女)の使いと為す(真名序)」とあるのは、このような歌のことである。そして、それは想像以上に高度な表現方法で詠まれてある。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)