帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(76)花ちらす風の宿りは誰かしる

2016-11-18 19:06:44 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

    
 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下76

 
       
桜の花の散り侍りけるを見てよみける  素性法師

花ちらす風の宿りは誰かしる 我にをしへよ行きてうらみむ
         
(桜花が散ったのを見て詠んだ・歌……男花が散った様子を思って詠んだ歌) そせいほうし

(花散らす春風の宿り所は、花見の人々よ・誰か知っているか、我に教えよ、行って、恨みごとを言って遣ろう……おとこ花散らし果てる心風の在処を、女達よ・誰か知っているか、行きて・逝ったので、恨みごと言って遣ろう・本心を見てやろう)。                                                                                                                                                                                                                                                                        

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「花…木の花…男花…おとこ花」「散らす…果てさせる…尽きさせる…詞書に散り『侍り』という謙譲語があるので散ったのは詠み手のおとこ花ではない」「風…春風…(男の)心に吹く風…飽き風・厭き風など」「行きて…行きそして…逝ったので」「て…そして…ので…原因・理由を表す」「うらみむ…恨みごとを言うつもり…うら(心)を見てやろう…おとこの本心を見てやろう」「む…意志を表す」。

 

花散らす春風の宿り所は、誰か知っているか、我に教えよ、行って恨みごとを言って遣ろう・どうして早々に花散らすのかと――歌の清げな姿。

おとこ花散らし果てる心風の在処を、誰か知っているか、逝ったので、女たちに代わって・恨みごと言って遣ろう・貴身の心はなぜいつも薄情なのかと。――心におかしきところ。

 

この歌の「清げな姿」だけを見れば、江戸時代の国学者や歌人が「をさなし(幼い)」「はかなし(たわいない・子供じみている)」と評し、明治の国文学者金子元臣が「狂痴の意想、いと面白し」と評するのは当然だろう。平安時代の歌の様(表現様式)を知らず、「花…木の花」の言の心を心得ず、「風」を空気の流れとしか聞く耳持たず、心に吹く飽き風や厭き風と聞こえないので、歌の「心におかしきところ」即ち、歌のエロス(性愛・生の本能)に触れることができないのである。歌は心深いものである。

藤原俊成は、歌言葉の浮言綺語のような戯れの内に、歌の深い趣旨や主旨が顕れるといい、それを「煩悩」と捉えたようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)