帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(74)桜花ちらばちらなむちらずとて

2016-11-16 19:20:47 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下74

 

僧正遍昭によみて贈りける     惟嵩親王

桜花ちらばちらなむちらずとて 古里人の来ても見なくに

僧正遍昭に詠んで送った・歌       これたかのみこ

(桜花、散るのなら散るがいい、散らずとも、昔馴染みの里人が、花を・見にも来ないので……男花・おとこはな、散るならば・尽き果てるならば、尽きて欲しい、果てず残って有っても、むかし馴染みの女は、来て見ることはないのだから)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 「桜花…男花…男端…おとこ花…おとこの煩悩のしるし」「ちらば…散らば…尽き果てるならば」「なむ…当然・適当の意を表す…強く望む意を表す」「古里人…昔馴染みの里人…昔馴染みの女…むかしなじみのさ門」「里…言の心は女…さ門…おんな」「見…覯…媾…まぐあい」「来ても…来てさえも…来てもなあ」「も…意味を強める…詠嘆を表す」「なくに…ないので…ないのに」。

 

桜花、散るならば散っていい、散らすにあっても、昔馴染みの人が、来ても見ないので。――歌の清げな姿。事情により世捨て人になった心情を詠んで、僧正遍昭に送り届けた歌。

おとこ花、散り尽きるならば、尽き果てて欲しい、有っても、馴染みの女たちが、来て見ることもないのだから。――心におかしきところ。煩悩断つ心情を詠んで、僧正遍昭に送り届けた歌。

 

藤原俊成は『古来風躰抄』で、この歌について「この御歌の姿、この親王のいかでかくは詠み給ひけるにか」と記している。どうしてこのように世を捨て給うような御歌を詠まれたのであろうかと詠嘆しているのである。文徳天皇の第一皇子、惟嵩親王が傷心のうちに出家された事情等に付いては、業平作とおぼしき『伊勢物語』に書かれてある。当ブログ(2016・4月~8月)新・帯とけの「伊勢物語」(八十二)(八十三)(八十五)を御覧ください。

 

歌の様を知らず、言の心を心得ない国文学的解釈は、「古里人」を遍照のこととする。花見に来ない遍照に、拗ねてみせた歌となる。しかし、和歌はそのような皮相なものではなく、「さくら花」の言の心を心得れば、「心におかしきところ」に男の煩悩について詠まれてある心深いものであることがわかる。

 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)