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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(82)
桜の花の散りけるをよめる 貫之
ことならばさかずやはあらぬさくら花 見るわれさへにしづ心なし
桜の花が散ったのを詠んだと思われる・歌……おとこ花が散ったのを詠んだらしい・歌 つらゆき
(咲けばすぐ散る・如きものならば、咲かずに、つぼみのままで・在ったらどうなの、桜花、花見する我さえ、静かな落ち着いた心で居られないよ……できる・ことならば、咲かずに在ったらどうなの、おとこ花、みる、我れさえも・わが小枝も、落ち着いた心で居れないよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「ことならば…そういう・事ならば…それ如き・ものならば…出来る・事ならば」「さかず…花・咲かず…おとこ花・咲かず」「やはあらぬ…ではないのか…であればよいのになあ」「さくら花…桜花…男花…おとこ花」「見る…見物する…見する」「見…覯…媾…まぐあい」「さへに…さえも…までも…添加の意を表す…さ枝に…小枝にも」「さ…接頭語」「枝…身の枝」「しづ心なし…静づ心なし…落ち着いた心がない…慌しい心だ…忙しない心だ」。
すぐ散るのならば、咲かないでいいじないか、桜花、花見する我れまでも、忙しなくて心が落ち着かないよ。――歌の清げな姿。
出来る事ならば、咲かないで在って欲しいよ、おとこ花、みる、我さえも・わが小枝も、あわただしい心になるので。――心におかしきところ。
この歌は、前に置かれた菅野高世の「添え歌」に応えた皇太子の歌にすると、高世の歌(古今集にあるのは一首のみ)の「枝より無用に散りし花だから散っておんなの泡となる」の意味が、さらに際立つだろう。時代が違うので、代作を頼まれたわけではないけれど、昔の他人の立場に立って、その人に相応しい歌を作れてこそプロの歌詠みである。歌を撰び編集する者としての仕事らしい。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)