帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(82)ことならば咲かずやはあらぬさくら花

2016-11-25 19:25:20 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                 ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下82

 

桜の花の散りけるをよめる           貫之

ことならばさかずやはあらぬさくら花 見るわれさへにしづ心なし

桜の花が散ったのを詠んだと思われる・歌……おとこ花が散ったのを詠んだらしい・歌 つらゆき

(咲けばすぐ散る・如きものならば、咲かずに、つぼみのままで・在ったらどうなの、桜花、花見する我さえ、静かな落ち着いた心で居られないよ……できる・ことならば、咲かずに在ったらどうなの、おとこ花、みる、我れさえも・わが小枝も、落ち着いた心で居れないよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ことならば…そういう・事ならば…それ如き・ものならば…出来る・事ならば」「さかず…花・咲かず…おとこ花・咲かず」「やはあらぬ…ではないのか…であればよいのになあ」「さくら花…桜花…男花…おとこ花」「見る…見物する…見する」「見…覯…媾…まぐあい」「さへに…さえも…までも…添加の意を表す…さ枝に…小枝にも」「さ…接頭語」「枝…身の枝」「しづ心なし…静づ心なし…落ち着いた心がない…慌しい心だ…忙しない心だ」。

 

すぐ散るのならば、咲かないでいいじないか、桜花、花見する我れまでも、忙しなくて心が落ち着かないよ。――歌の清げな姿。

出来る事ならば、咲かないで在って欲しいよ、おとこ花、みる、我さえも・わが小枝も、あわただしい心になるので。――心におかしきところ。

 

この歌は、前に置かれた菅野高世の「添え歌」に応えた皇太子の歌にすると、高世の歌(古今集にあるのは一首のみ)の「枝より無用に散りし花だから散っておんなの泡となる」の意味が、さらに際立つだろう。時代が違うので、代作を頼まれたわけではないけれど、昔の他人の立場に立って、その人に相応しい歌を作れてこそプロの歌詠みである。歌を撰び編集する者としての仕事らしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)