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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。(巻は第二、春歌下にあらたまるが、この聞き方に変わりはない)。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(巻頭の一首・69)
題しらず よみ人しらず
春霞たなびく山の桜花 うつろはむとや色かはり行
題しらず よみ人知らず(女の詠んだ歌として聞く)
(春霞棚引く山の桜花、移ろう・衰える、のだろうか、色彩変わりゆく……春情が澄み・張るが済み、よこばうおとこはな、衰えるのでしょうか、色情変わりゆく)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「たなびく…棚引く…横にながれる…もりあがらない…よこばう」「山…山ば…感情の山ば」「桜花…木の花…男花…男端…おとこ」「うつろはむ…移ろうのだろう…衰えるのだろう…衰退するつもりだろう」「とや…疑いの意を表す…詠嘆の意を表す」「いろ…色彩…色香…色情…色欲」「行…ゆく…(移り)行く…(そのうちに)逝く」。
春霞の棚引く山の桜花、うす紅の白色が、さらに白く色褪せて行く。――歌の清げな姿。
はるが澄み、張るも済み、もり上がらない貴身の端、衰えゆくのねえ、あゝ、色情かわりゆく・感触でわかる――心におかしきところ。
女の心に思う事が、見る春霞と桜花に付けて、言い出されてある。春のすばらしい景色の移ろいや、それを思う人の心は、歌の清げな姿である。歌の「心におかしきところ」には、人の心に湧き立つ、エロス(性愛・生の本能)というか、業(ごう)というか煩悩というべきことが言い出されてある。
「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世中にある人、こと(言・事)、わざ(行為・業)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり」(かな序冒頭の言葉)。
和歌のほんとうの意味を享受するには、この仮名序の言葉に立ち返るべきである。歌の『清げな姿』から出ようとしても、一歩も出られない国文学的解釈は間違いである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)