帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(84)久方のひかりのどけき春の日に

2016-11-28 19:05:20 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下84

 

桜の花の散るをよめる       紀友則

久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ

桜の花の散るのを詠んだと思われる・歌……おとこ花の散り果てるのを詠んだらしい・歌。  きのとものり(古今集の撰・編集者の筆頭であったが、制作途中で亡くなったという)

(久方の陽光、のどかな春の日に、静かな心なく、桜の花がどうして散るのだろうか……久堅の照る光、のどかかな張るの日なのに、どうして、慌しくおとこ花が、散り果てるのだろうか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひさかたの…久方の…天・日・月などの枕詞… (万葉集では久堅と表記されることもある。久しく堅いのは、男の願望)」「ひかり…光…栄光…日・月・光などの言の心は男…照るもの」「はる…季節の春…春情…張る」「のどけし…うららかである…穏やかである…ゆったりとしている」「に…(時)に…時を示す…だけれども・なのに(接続助詞)」「花…木の花…桜花…男花…おとこ花」「らむ…どうしてだろうか…なぜだろうか…原因・理由を推量する意を表す」。

 

のどかな春の陽光のもとで、どうして、あわただしく桜花は散ってゆくのだろうか――このような、花散る風情、美しい花が果てゆくのを惜しむ心などは、歌の「清げな姿」である。

久堅の、照る栄光、うららかに張る日なのに、静心なく、忙しくも、おとこ花が、何故に散りゆくのだろうか。――心におかしきところ。これは、歌の様を知り言の心を心得て、歌言葉の浮言綺語のような戯れの意味を知れば顕れる。

 

平安時代の大人たちは、ゆっくりと三度繰り返し読み上げられるのを聞けば、この歌に顕れる、おとこの性(さが)の「あはれ」や「をかし」を享受し、藤原俊成のいう深い旨(主旨・趣旨・旨味)を感じただろう。

紀友則の代表作として「百人一首」に撰んだ藤原定家は、当然、この歌のすべてを把握していたのである。

 

和歌の真髄は、定家より数代後の世に、秘伝となり埋もれ木となった。江戸時代の賢人たちの和歌の解釈は、平安時代の歌論や言語観をすべて無視した、うわの空読みである。明治以降の国文学的解釈も、そこから一歩も出られない。これは、現代の間違ったままの国文学的和歌解釈への警鐘である。

 

古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)