帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(70)待てといふに散らでしとまる物ならば

2016-11-11 19:18:24 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」


                 ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下70

 

(題しらず)              (よみ人しらず)

待てといふに散らでしとまる物ならば なにを桜に思まさまし

題しらず               男の詠んだ歌として聞く

待てと人が言うと、散らずに、止まる物ならば、どうして、桜にたいして、これほど愛でる・思いが増すだろうか……まだよ待ってと、おんなが・言うと、果てずにだよ、止まる物ならば、何を、おとこはなに加えれば、思い火ますのだろうか)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ちらで…散らずに…果てずに」「し…強調・強意を表す」「物…物体(桜花)…男の身の端」「なに…なぜ…なにゆえ…どうして…何…どういうもの」「を…感嘆・詠嘆を表す…対象を示す」「桜…男花…男端…おとこ」「に…に対して…に添加する…に為し加える」「思…思ひ…思い火…情熱の炎」「なにをーまし…まよい決断しかねる意を表す…どうしたものだろうか…なにをすればいいのだろうか」。

 

待てと言っても、はかなく散るからこそ、桜花、ますます愛でたくなるのだ・いつも咲いていれば何が愛でたいか。――歌の清げな姿。

貴女が待てと言うと、果てないものならば、何を、ものに為すべきか、思い火増すにはどうすりゃいいのか。――心におかしきところ。

 

咲けばすぐ散るのは桜のさが、はかなく果てるのはおとこのさが。待てと言っても止まらない。すぐ散るのねと咎められても、どうすりゃいいのか。男の心に思う事を言い出した、男のささやかな言い分である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)