帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの後十五番歌合 八番

2014-12-30 00:20:54 | 古典

       



                   帯とけの後
十五番歌合


 

「後十五番歌合」は藤原公任(又は子の定頼)が近き世の三十人の歌詠みの優れた歌を各々一首撰んで、合わせるのに相応しい歌を組み合わせて、十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。

公任の歌論によれば、およそ、優れた歌は、深い心と清げな姿と心におかしい情感が、一つの言葉で表現されてあるという。歌の言葉は複数の意味を孕んでいるから、一つの言葉で歌に複数の意味を表現する事ができる。紀貫之は歌言葉の複数の意味を「言の心」と言ったようである。清少納言は、われわれ上衆の言葉は、聞く耳によって意味の異なるものであると枕草子に記し、藤原俊成は、「古来風躰抄」で歌の言葉を浮言綺語の戯れに似ていると述べた。歌言葉の多様な意味さえ紐解けば、歌の清げな衣の帯とけて、内なる生々しい性情が、時には深い心が、直接、今の人々の心にも伝わるはずである。


 

後十五番歌合 (公任撰 一説 定頼


 八番

   

   清少納言

よしさらばつらさは我に習ひけり 頼めてこぬは誰がをしへし

(それは・やむを得ない、思いやりのなさは、わたしに習ったのだったね、だったら・頼みにさせて来ないのは、誰が教えたのよ……いいわ、ではさようなら、薄情できつい心は、わたしに倣ったのね、だったら、期待させて、山ば・来ないのは、誰が、お肢へし・折ったのよ)


 言の戯れと言の心

「よしさらば…やむを得ない…しょうがないわ…いいわ(別れましょう)さようなら」「つらさ…思いやりの無さ…相手に辛い思いをさせる心」「ならひ…習い…習得…倣い…模倣」「けり…気付き・嘆息」「誰が…私ではない誰が…どこの女が」「をしへし…教えたの…教唆したの…お肢圧し…おをへし折ったの…男の心も身も他の女に耽っていたことを非難した」

 

男との別れ歌のようである。清少納言は、清げな景色など(歌枕の景色)で生な心を包むことをやめたらしい、心におかしきところと共に、相手の心に突き刺さるように女の心根が伝わる。

 

   中宮大輔

いにしへのならの都の八へ桜 けふこゝのへに匂ひぬるかな

(古の奈良の都の八重桜、今日、宮中で・九重に色美しく咲いたことよ……去った辺りの、寧楽の宮この、八重に咲くおとこ花、京、ここの辺で・九つ重ねに匂っていることよ)


 言の戯れと言の心

「いにしへ…古…往にし辺…過ぎ去った辺り」「なら…奈良…寧楽(万葉集の表記)…心安らかな楽しみ」「都…宮こ…京…絶頂」「八へ桜…八重桜…花びら八重の桜の品種…八つ重ねのおとこ花」「桜…木の花…男花…おとこ花」「けふ…今日…京…宮こ…絶頂」「こゝのへ…九重…宮中…八重に一つ加えた」「匂ひぬる…色美しく咲いた…匂った」「かな…感嘆・感動を表す」

 

上東門院(藤原彰子)が中宮のころ、奈良興福寺の僧から後宮への贈り物の返礼を、若い女房の伊勢大輔が、紫式部からその役を譲られ、喜び溢れる艶なる歌を見事に詠んだのである。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

 

他の女にへしおられたらしい男木の歌と、九重に咲いた男花の歌の対比は、公任の意図したことだろう。公任は、道長・彰子親子対伊周・定子兄妹の争いをつぶさに見ていた人である。   

清少納言の型破りな歌体と、伊勢大輔の古都奈良の八重桜に包んで思うことを述べる基本的な歌体も対照的である。
 

後十五番歌合(公任撰 一説 定頼原文は、群書類従本による。


 

以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。

 

①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。

 

②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。

 

③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。

 

④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。

 

⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。

 

清少納言枕草子(第九十五)に、歌について、次のようなことを述べている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

その人の後といはれぬ身なりせば こよひの歌をまづぞよままし。つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、是よりなん、いでまうでこまし。

(慎むことがいらないならば、千首でも、今からでも、詠み出すでしょうに・父元輔の名を汚すまいと慎ましくしております……清げな姿に包まなくてもいいのなら、今からでも、人に先んじても・千の歌でも詠み出すでしょうに・生々しい心におかしきことなら多々あります)


 定子中宮に、このようなことを申し上げた経緯は次の通りである。

五月のころ、清少納言ら四人の女房だけで、賀茂の奥まで、郭公(ほと、とぎす・且つ乞う)の声をわざわざ聞きに行き、羽目をはずして楽しんでおきながら、郭公の歌を詠んで来なかったので、中宮が、今からでも詠め詠めと責め立てられたが、雷騒ぎに紛れて詠まなかった。二日ばかり後に、あの時、高階明順邸で食べ損ねたという、「下わらびこそ恋しかりけれ」、これの上の句をつけなさいと、仰せになられたので、「郭公たづねて聞きし声よりも」とつけたところ、自信満々ね、どうして、下わらびを・ほととぎすに掛けたのと、お笑いになられたので、ほととぎすの歌は詠まないと思っていましたのに、詠め詠めと仰せになられますとお仕えできない心地が致しますと申し上げると、またお笑いになられ、「さらば、心に任す、詠めとは言はじ」と仰せになられたので「とっても心安らかになりました。今からもう歌の事に思いをかけません」などと言っているころ、女房たち全員で歌を詠む機会があったが、清少納言は、詠まずに独りすねていたとき、中宮は歌を書いた紙を丸めて清少納言のもとへ投げて寄こされた。開けて見れば、

もとすけがのちといはるゝ君しもや こよひの歌にはずれてはをる

(元輔の後継者と言われる君ではないか、今宵の歌に外れて居る……元すけ・別れた元次官・歌の詠めない元夫が、後れてるといと言う君だからか、こ好いの歌に外れておるな)

 清少納言は大笑いした後、まじめに前記のように申し上げたのである。

 

清少納言が「いみじう」笑ったのは、宮の歌の生な意味(左衛門尉の則光と別れた原因など)が清げな姿(元輔の後継者云々)に包まれてあるからである。

このように歌を聞けば、清少納言と共に笑えるところまで近づくことができる。