帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの後十五番歌合 七番

2014-12-29 00:05:34 | 古典

       



                   帯とけの後
十五番歌合



 「後十五番歌合」は藤原公任が近き世の三十人の歌詠みの優れた歌を各々一首撰んで、組み合わせるのに相応しい歌を、十五番の歌合の形式にした私撰和歌集である。

公任の歌論によれば、優れた歌は、深い心と清げな姿と心におかしきところの三つの意味がある。歌の言葉は複数の意味を孕んでいるので、一つの言葉で歌に複数の意味を表現する事ができる。

平安時代の言語観は、紀貫之、清少納言、藤原俊成の言語観に学んだ。歌言葉の複数の意味は「言の心」又は「言の戯れ」という。この多様な意味さえ紐解けば、歌の清げな衣の帯とけて、内なる生々しい性情が、時には深い心が、直接、今の人々の心にも伝わるだろう。


 

後十五番歌合 (公任撰 一説 定頼


 七番

 

                           嘉時

夏の夜をまたせまたせて郭公 たゞ一声もなきわたるかな

(夏の夜を待たせ待たせて、ほととぎす、たゞ一声だけ鳴き去ったことよ……かわいがる・夏の夜を、待たせ待たせて、且つ乞う多々、人声で、泣きつづけたなあ)(大江嘉言・おおえのよしとき

 

言の戯れと言の心

「夏…暑い…なつ…懐…慕わしい…撫づ…かわいがる」「郭公…カッコウと鳴く鳥のこと…ほととぎすのこと…鳥の言の心は女…名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「たゞ…唯…多々」「一声…人声…女声」「も…強調」「なき…鳴き…泣き」「わたる…渡る…飛び過ぎる…つづける」「かな…だなあ…感動の意を表す」

 

清げな姿は、夏の夜、待ちに待って聞いたほととぎすの声。

心におかしきところは、なつの夜、待望の、かつこうと泣くひとの声。

 

                           よしたゞ

わぎもこがきませぬ宵の秋風は こぬひとよりもうらめしきかな

(愛しい女の来そうにない宵の秋風は、来ない人よりも恨めしいなあ……愛しい女の気増せない宵の厭き風は、山ば・来ぬ女よりも、残念だなあ)(曾禰好忠

 

言の戯れと言の心

「わぎもこ…愛しい吾が女」「きませぬ…来ませぬ…(逢い引き所に)来そうにない…気増せぬ…気持ち盛り上がらぬ」「よひ…宵…好い」「秋風…飽き風…厭き風」「風…心に吹く風」「うらめしき…恨みに思う…残念に思う」

 

清げな姿は、待ちぼうけらしい宵に吹き来る秋風。

心におかしきところは、気増せぬ女心に吹くあき風の恨めしさ。

 

よしとき、よしただ、きんとう、それに清少納言も、ほぼ同じ時代を生き、同じ文脈でものを書き歌を詠んだ人たちである。


 

後十五番歌合(公任撰 一説 定頼原文は、群書類従本による。


 

以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。


 ①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。優れた歌には三つの意味があることになる。

 

②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」。及び、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」である。歌の言葉は、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌に公任の言う複数の意味を詠むことは可能である。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れる。

 

③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと「心得る」だけである。例えば「はる」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある高度な文芸である。

 

④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして、見え難い歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌を解くのは無謀である。

 

⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。


 清少納言枕草子に、郭公や風について、次のようなことが書き散らされてある。上の歌と同じ「言の心」があると心得て読みましょう。

郭公もしのばぬにやあらん、なくに、いとようまねびにせて、木だかき木どもの中に、もろ声に鳴きたるこそ、さすがにをかしけれ。(第三八段・新日本古典文学大系本より)

(賀茂の祭りの帰りのこと・かつこう鳥もこらえられないのだろうか、鳴くときに、とってもよく・女の声に・模し似せて、小高い木の中で、声そろえて・且つ乞うと・鳴いているのは、当然のことながらやはり、おかしかったことよ)


 風は、あらし。三月ばかりの夕暮れに、ゆるく吹きたるあまかぜ。(第一八八段より)

(風は嵐。晩春のころの夕暮れに、緩く吹いている雨風・風情がある。……心風は山ばで吹く荒々しい風、や好いばかりの、その果て方に、ゆるく吹いている女の心風・すばらしい)。


 「あらし…嵐…荒らし…山ばで吹く荒々しい心風」「あま…雨…天…女」。