帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの前十五番歌合 二番

2014-12-02 00:29:02 | 古典

       



                  帯とけの
前十五番歌合

 


 前十五番歌合は、藤原公任が三十人の優れた歌を歌合の形式にした私撰歌集である。公任の歌論書「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」と優れた歌の定義がある。歌の「深き心」と「清げな姿」と「心におかしきところ」とは何かがわかれば、歌のおかしさが、直接、今の人々の心にも伝わるだろう。


 歌は清げな姿をしている。その内なる心を解くのに、公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。


 

「前十五番歌合」 公任卿撰


 二番    


                     素性法師


 いまこむといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出つるかな

(今に訪ねて来ると言うものだから、長月の有明けの月を・秋の夜長、朝まで君を待っていて、月が出てしまったよ……今にも、山ば来るわというものだから、長つきの・九つつきの、明け方まで、妻を待って、出てしまったなあ)


 言の心と言の戯れ

「こむ…(訪ねて)来るだろう…(山ばが)来るでしょう」「ながつき…長月…九月…九つつき」「月…月人壮士(万葉集の歌詞)…月の言の心は男…突き…尽き」「有明の月…朝方まで残る月…朝方出る月…朝まで残るつき人壮士…朝方ついに尽きるおとこ」「いでつる…(月が)出てしまった…(白いお花が)咲いてしまった…(全て果たして)出家した」「かな…感嘆・感動を表す」「か…疑問の意を表す」「な…詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、友人との月見の約束の顚末のようである。

心におかしきところは、長つきを夜明け方まで待って咲いたおとこ花のこと。

 

 

                    伊勢


 ちりちらずきかまほしきを古郷の 花見て帰る人もあはなむ

(散ったか散らずか、聞きたいので、故郷の花見して帰ってくる人にでも、逢いたい……お花は散ったの、散っていないの、聞きたくなる、お、古妻の華を見て繰り返す男にね、合いたいよ)


 言の心と言の戯れ

「ちりちらず…(桜花は)散ったか散っていないか…(おとこ花)は散ったか散っていないか」「きかまほし…聞く事を希望する意を表す…聞きたい…聞きたくなる」「を…ので(接続詞)…男…おとこ」「ふるさと…故郷…古里…古妻」「さと…里…女…さ門」「花…桜…おとこ花…華…栄華…盛況」「見…見物…覯(詩経にある言葉)…媾…まぐあい(古事記にある言葉)」「かへる…帰る…返る…繰り返す」「人…人々…夫…男」「も…にでも…意味を強める」「あはなむ…逢いたい…合いたい…和合したい(限りない愛を求める)」「なむ…希望を表す…願望を表す」

 

歌の清げな姿は、妻女の花見願望。

心におかしきところは、古妻の八重九重に咲くおとこ花願望。

 


 前十五番歌合(公任卿撰)の
原文は、群書類従本による。



 以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、ここで、和歌を解くとき基本とした事柄を列挙する。

 

(1藤原公任「新撰髄脳」の「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」から、歌の様(歌の表現様式)を知った。


(2
)「古今集仮名序」の結びにある紀貫之の言葉「歌の様を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」から、「ことの心」を言葉の多様な意味と知った。

(3)「古来風躰抄」に藤原俊成は「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕はれる」と述べた。歌言葉は、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心」と「言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が見えてくるだろう。


(4
)歌を当時の人々と同じように聞くために、俊成の言語観の他に参考としたもう一つは、清少納言の言語観である。

枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。

歌言葉(女の言葉)に慣れれば次のように読むことができる。「同じ一つの言葉に多様な意味が有り、聞く人や情況によって異なる意味に聞こえる。それが、法師や男や女の言葉(即ち我々上衆の言葉)である。げ衆の言葉にはかならず(一義に用いるため、意味ではなく)文字の方が余っている」。この言語観も誤解に曝されて、今や路傍に捨てられている。

清少納言は、女の立場で、男女の性(さが)を、歌以外の方法で枕草子に多数表現して、人を笑わせたり感心させたりしているが、言語感の違う今の人々には聞こえていない。その一例は第65章の「集は古万葉、古今」である。男の言葉で書かれてあるが女の言葉で読むと、「しゅうはこまんようこきん…終は来まむようコキン…おとこのさがなど、終は来るでしょうコキン、よねえ」。「コキン」はおとこの折れ逝く擬音である。笑いさえ伴うだろう。こんな文を分析し検討しても何もわからない。憶見を加えれば「歌集は、古の万葉集と古今集がすばらしい」などとなって、当時の文脈から遠く離れてしまうだろう。清少納言の言語観に学ばなければ、和歌も枕草子も清げな姿だけになって、「心におかしきところ」が消える。