帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの前十五番歌合 三番

2014-12-03 00:18:03 | 古典

       



                   帯とけの
前十五番歌合


 

「前十五番歌合」は藤原公任が三十人の歌詠みの優れた歌を各々一首撰んで、合わせるのに相応しい歌を組み合わせて、十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。


 公任の歌論によると、優れた歌は、深い心、清げな姿、心におかしきところが、一つの言葉で表現されてある。歌の言葉は浮言綺語のように戯れて複数の意味を孕んでいるから、一つの言葉で歌に複数の意味を表現する事は可能である。紀貫之は歌言葉の複数の意味を「言の心」と言ったようである。それさえ紐解けば、歌の清げな衣の帯とけて、内なる生々しい性情が、時には深い心が、直接、今の人々の心にも伝わるはずである。

 


 「前十五番歌合」 公任卿撰


 三番    

 在(五)中将

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

(世の中に絶えて桜が無かったならば、季節の春の人の心は長閑だろうな……女と男の夜の仲に、耐えてお花が咲かなければ、春の情はのどかだろうな)


 言の心と言の戯れ

「よのなか…世の中…男女の仲…夜の仲」「たえて…絶えて…絶滅して…たへて…耐えて…がまんして」「さくら…桜…木の花…おとこ花…慌ただしく咲き散るもの…咲くら」「ら…等…接尾語」「春…季節の春…春情」「のどか…長閑…心静か…急かせることも焦ることも無い」「まし…事実に反することを仮に想う意を表す…何々だったらいいのになあ…何々だったら何々だろうに」

 

歌の清げな姿は、慌ただしく咲き散る桜花。

心におかしきところは、性愛での男女の山ばの不一致。

 

 

 遍昭僧正

末の露もとの雫や世の中のおくれさきだつためしなるらむ

(枝の先の露、元の雫は、もしかしたら世の中の先立たれたり先立ったりする、例なのだろう……身の枝の先の白つゆ、その原因のしづくや、夜の仲の先立たれたり先立つ例だろうな)

 

言の心と言の戯れ

「すゑ…末…先端…梢…枝先…おとこ…果て」「つゆ…露…液…おとこ白つゆ」「もと…元…原…もののはじまり…つゆの原因…女」「しずく…雫…したたり…水滴」「よのなか…世の中…男女の仲…夜の仲」「おくれ…遅れ…後れ…後発」「さきだつ…先発…先立つ…先に逝く」「ためし…世の慣わし…先例…夜の仲の慣わし」「らむ…推量…婉曲表現…原因推量」

 

歌の清げな姿は、秋の白露と水滴の様子。

心におかしきところは、性愛での男女の山ばの不一致。


 

前十五番歌合(公任卿撰)の原文は、群書類従本による。


  

 以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、ここで、和歌を解くとき、基本とした事柄を列挙する。


 ①藤原公任「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を、どうして無視することができようか。


 ②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「
言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。


 ③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは、不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。


 ④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。


 ⑤清少納言は、
枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる」となる。

 枕草子第二章に次のような月を羅列した文が有る。「比は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月、すべておりにつけつつ一とせながら、おかし」。女の言葉として読む、「ころは、むつき、やよひ、うつき、さつき、なな、やあ、ここのつき(ながつき)、とほ、あまりひとふたつき、すべて折りにつけつつ、ひととせながらおかし……頃は睦つき、や好い、うつき、さつき、なな、やあ、此処のつき・長つき、とほほ、さらにあと一二つき、すべて折りにつけつつ、ひとと背な柄おかし」。言の心と言の戯れは「月…つき人壮士…おとこ…突き」「や・う・さ・なな・やあ……感嘆詞」「十…充分」「ひととせ…一年…女と男」「折…逝」。これは和歌と同じく、清げな姿にしで艶なる女と男の柄を表現したもので、言語感を同じくする女たちには、すぐに伝わり笑いの種になっただろう。枕草子は和歌の文脈の真っただ中にある。