帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの後十五番歌合 一番

2014-12-22 00:07:47 | 古典

       



                   帯とけの後
十五番歌合


 

「後十五番歌合」は藤原公任(一説・子の定頼)が近き世の三十人の歌詠みの優れた歌を各々一首撰んで、合わせるのに相応しい歌を組み合わせて、十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。

公任の歌論によれば、およそ、優れた歌は、深い心と清げな姿と心におかしきところが一つの言葉で表現されてある。歌の言葉は複数の意味を孕んでいるから、一つの言葉で歌に複数の意味を表現する事ができるのである。

この歌合いに登場する人々は、公任とほぼ同じ時代(西暦1000年を挟んで前後で約七十年間)を生きた人々である。その歌を公任の歌論で解く、解けないわけがあろうか。公任の歌論を理解できぬまま無視して一義に解いては、和歌を誤解の彼方に押しやるだけである。


 

後十五番歌合 (公任撰 一説 定頼


 一番


                             実方

五月やみくらはし山の郭公 おぼつかなくも鳴きわたるかな

(五月闇、倉橋山のほととぎす、不安そうに、鳴き続けることよ……さつき止み、暗端山ばの且つ乞う女、もどかしそうに、泣きつづけるなあ)(実方中将)

 

言の戯れと言の心

「五月やみ…五月闇…梅雨時の闇夜…さ突き止み…尽き果て」「さ…接頭語」「月…月人壮士…言の心は男…おとこ…突き…尽き」「くらはし山…倉橋山…山の名…名は戯れる。暗端山ば…光が無い山ば…栄光のない山ば」「郭公…鳥…言の心は女…ほととぎす…カッコウ…鳥の名…名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「おぼつかなくも…心配そうに…不安そう…もどかしそうに」「も…上の事柄を強調する」「鳴き…泣き」「わたる…移動する…時が経過する…事が継続する」「かな…感動・感嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、梅雨の夜の闇に聞くほととぎすの鳴き声。

心におかしきところは、さつきやみに、かつ乞うと泣きつづける、おんなのさが。

 


 藤原俊成は「古来風躰抄」で、この歌を次のように評す。

この歌、まことにありがたく詠める歌なり。よりて今の世の人、歌の本とするなり。されど、あまりに秀句にまつはれり。これはいみじけれど、ひとへにまなばんことはいかが。

(この歌、まことに、めったにないほどすばらしく詠んである歌である。よって今の世の人は、歌の風体の手本とする。そうであっても、あまりにも秀句にからみつかれている。これはすばらしいことだけれども、いちずに偏って学ぶのは如何なものだろうか)

要するに、「さつきやみ」「くらはし山」「郭公」「おぼつかなくも」「なきわたるかな」、これらは字義と戯れの意味が十分に活かされ、おかしき複数の意味を表していて秀句である。しかし歌が秀句にからみつかれているようだ。女に絡みつかれるのは・結構なことだけれども、初心者の・執心すべき歌だろうか如何だろうかということ。

 

 

                            道信

限りあればけふぬぎすてつふぢ衣 はてなきものは涙なりけり

(喪中には・限りがあれば、一年経った・今日、脱ぎ捨てた藤衣、果て無きものは涙であることよ……ものには我慢の・限りがあるので、京・今日抜き捨てた、粗末なこころと身、果て無きものは、汝身駄だったなあ)(道信中将)

 

言の戯れと言の心

「限りあれば…近親者の喪は一年間と限りがあるので…慎み深くしているには限りがあるので」「けふ…(喪明けの)今日…京…快楽の極み」「ぬぎすてつ…(喪服を)脱ぎ捨てた…抜き捨てた…さ突き止めた」「ふぢ衣…喪服…粗末な・粗雑な・駄目なころも」「衣…心身を包むもの…心身そのもの(心身の換喩)」「涙…目の泪…汝身駄…我が駄目な身の端」「な…汝…親しきものをこう呼ぶ」「なりけり…であることよ…であったのだなあ」

 

歌の清げな姿は、近親者を亡くした限りない悲しみ。

心におかしきところは、喪中といえども一年間も慎み深くできないおとこのさが。


 

後十五番歌合(公任撰 一説 定頼原文は、群書類従本による。


 

以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。

 

①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。

 

歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」。及び、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」である。

歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の内なる意味が顕れるだろう。

 

③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「はる」は「季節の春・立春・春情・張る」などという言の心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある高度な文芸である。

 

④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心については、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。