帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの後十五番歌合 三番

2014-12-24 00:13:13 | 古典

       



                   帯とけの後
十五番歌合


 

「後十五番歌合」は藤原公任(又は子の定頼)が近き世の三十人の歌詠みの優れた歌を各々一首撰んで、合わせるのに相応しい歌を組み合わせて、十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。

公任の歌論によれば、優れた歌は、深い心と清げな姿と心におかしきところの3つの意味がある。歌の言葉は複数の意味を孕んでいるから、一つの言葉で歌に複数の意味を表現する事ができる。紀貫之は歌言葉の複数の意味を「言の心」と言ったようである。

清少納言は、われわれ上衆の言葉は、聞く耳によって意味の異なるものであると枕草子に記し、藤原俊成は、「古来風躰抄」で歌の言葉を浮言綺語の戯れに似ていると述べた。歌言葉の多様な意味さえ紐解けば、歌の清げな衣の帯とけて、内なる生々しい性情が、時には深い心が、直接、今の人々の心にも伝わるはずである。


 

後十五番歌合 (公任撰 一説 定頼


 三番


                          藤原為頼朝臣

世中にあらましかばと思ふ人 なきは多くもなりにけるかな

(世の中に健在であればよいなあと思う人、流行病で・亡き人は多くなってしまったことよ……夜の中に健在であればいいなあと思う人、失せれば女の・泣きは多く、なってしまうなあ)


 言の戯れと言の心

「世…夜」「人…男たち…壮士たち」「なき…亡き…泣き」

歌の清げな姿は、流行病で亡くなった人たちの挽歌

心におかしきところは、人を惜しみて泣く女たちの声を多く聞く男の感想

 


 公任(右衛門督のころ)の返歌が「拾遺和歌集 巻第二十 哀傷歌」に並べられてある。

常ならぬ世はうき身こそかなしけれ その数にだに入らじと思えば

(無常である世は、憂き身こそ悲しいことよ、惜しまれ逝く人の数にも入らないのだろうと思えば……常磐でない浮き身のこれこそ可哀想だよ、女に泣いて惜しまれる物の数にも入らないと思えば)


 言の戯れと言の心

「憂き身…浮き身…浮かれたおとこ」「かなし…悲しい…哀しい…可哀想」

女たちに泣いて惜しまれるものって羨ましいね、などという話が、後れた男同士以心伝心で交わされたことになる。

 


                          相如

夢ならで又もみるべき君ならば ねられぬいをもなげかざらまし

(夢でなくて、またも現世で逢える君ならば、眠られない魚も・わたくしめも、嘆きはしないだろうに……夢でなくて、またも現に見られる君ならば、眠れない井をも、これほど・乞い願わないでしょうに)


 言の戯れと言の心

「見る…顔を合わす…目を合わす…まぐあう」「ねられぬ…眠ることのできない…眠れない」「いをも…魚も…井をも…おんなも」「井…言の心は女…おんな」「なげかざらまし…嘆かずでしょうに…悲しくて泣かないでしょうに…乞い願わないでしょうに」「なげく…嘆息する…悲しくて泣く…乞い願う」

 

女の嘆きに包んで、井のなげきを詠んだ歌。

相如は、高丘相如(たかおかのすけゆき)、「和漢朗詠集」に漢詩あり、公任の詩歌の師という。


 

後十五番歌合(公任撰 一説 定頼原文は、群書類従本による。


 

以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。

 
 ①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。歌には三つの意味があることになる。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を無視することはできない。

 

②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」。及び、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。

 

③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある高度な文芸である。

 

④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。

 

⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。(国文学では、職域や性別による言葉のイントネーションの違い、耳に聞こえる印象の違いを述べたものとされているようである)。

清少納言の言語観は貫之のいう「言の心」や、公任のいう秀歌にあるべき三つの意味などにも適う。俊成のいう「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似たれども深き旨も顕れる」に継承されている。