帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 秋(二十九) 大中臣能宣

2012-11-15 00:10:32 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 秋
(二十九) よしのぶ

 もみぢせぬ常盤の山に住む鹿は おのれ鳴きてや秋を知るらむ

(紅葉しない常盤の山に住む鹿は、おのれが鳴いて、秋を知るのだろうか……飽き色に染まらぬ山ばに、すむ肢下は、おのれが啼いて、飽きの果てを知るのだろうか)。


 言の戯れと言の心

 「もみぢ…紅葉…秋の色…飽きの色」「ときはの山…とわの岩の山…常盤の山…常に変わらぬ盤石の山…永久に変わらぬ女の山ば」「いは…岩…女」「住む…澄む…棲む…済む」「鹿…しか…子下…肢下…身の下端…おとこ」「鳴きて…泣いて…啼いて…呻いて…おなみだ流して」「や…疑いの意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」「秋…飽き…飽きの果て…まぐあいの果て…厭き」「知る…感知する…認識する」。


 歌の清げな姿は、秋の果てるのを知らせない常盤山に住む鹿を思い遣る心。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、とわの岩の山ばの女のさがに、とまどう我がおとを思い遣る心。


 鹿という言葉が、歌の中で「しか…肢下…身の下の物…おとこ」などと戯れているとは、今の人々は誰も信じないでしょう。そんなこと言う奴は馬鹿だと思うでしょう。その理性や論理による思考を超えてしまうのが、言葉の意味の恣意性である。


 能宣にとっては一世代先人の
貫之の歌で、「鹿」という歌語の戯れぶりを見ましょう。

 古今和歌集 秋歌下、秋の果てる心を詠んだ歌。


  長月のつごもりの日、大井にてよめる

 夕づくよ小倉の山になく鹿の 声のうちにや秋は暮るらむ

 (夕月夜、おぐらの山で鳴く鹿の、声のうちに、秋は暮れて行くのだろうか……夕尽くよ、お暗の山ばで啼く肢下の小枝のうちに、飽きは果てるのだろうか)。


 「長月…九月…晩秋…長突き」「月…壮士…おとこ」「大井…所の名…多い…多情な井」「井…女」。

 「夕月夜…夕尽くよ…はやく尽きる夜」「小倉の山…山の名…名は戯れる。お暗い山、男くらい山ば」「鳴く…啼く…おなみだ流す」「鹿…しか…肢下…おとこ」「声…こゑ…小枝…身の小枝…おとこ」「秋…飽き…厭き」「暮る…終わる…果てる」。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。