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帯とけの金玉集
紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。
公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。
金玉集 秋(二十九) よしのぶ
もみぢせぬ常盤の山に住む鹿は おのれ鳴きてや秋を知るらむ
(紅葉しない常盤の山に住む鹿は、おのれが鳴いて、秋を知るのだろうか……飽き色に染まらぬ山ばに、すむ肢下は、おのれが啼いて、飽きの果てを知るのだろうか)。
言の戯れと言の心
「もみぢ…紅葉…秋の色…飽きの色」「ときはの山…とわの岩の山…常盤の山…常に変わらぬ盤石の山…永久に変わらぬ女の山ば」「いは…岩…女」「住む…澄む…棲む…済む」「鹿…しか…子下…肢下…身の下端…おとこ」「鳴きて…泣いて…啼いて…呻いて…おなみだ流して」「や…疑いの意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」「秋…飽き…飽きの果て…まぐあいの果て…厭き」「知る…感知する…認識する」。
歌の清げな姿は、秋の果てるのを知らせない常盤山に住む鹿を思い遣る心。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、とわの岩の山ばの女のさがに、とまどう我がおとを思い遣る心。
鹿という言葉が、歌の中で「しか…肢下…身の下の物…おとこ」などと戯れているとは、今の人々は誰も信じないでしょう。そんなこと言う奴は馬鹿だと思うでしょう。その理性や論理による思考を超えてしまうのが、言葉の意味の恣意性である。
能宣にとっては一世代先人の貫之の歌で、「鹿」という歌語の戯れぶりを見ましょう。
古今和歌集 秋歌下、秋の果てる心を詠んだ歌。
長月のつごもりの日、大井にてよめる
夕づくよ小倉の山になく鹿の 声のうちにや秋は暮るらむ
(夕月夜、おぐらの山で鳴く鹿の、声のうちに、秋は暮れて行くのだろうか……夕尽くよ、お暗の山ばで啼く肢下の小枝のうちに、飽きは果てるのだろうか)。
「長月…九月…晩秋…長突き」「月…壮士…おとこ」「大井…所の名…多い…多情な井」「井…女」。
「夕月夜…夕尽くよ…はやく尽きる夜」「小倉の山…山の名…名は戯れる。お暗い山、男くらい山ば」「鳴く…啼く…おなみだ流す」「鹿…しか…肢下…おとこ」「声…こゑ…小枝…身の小枝…おとこ」「秋…飽き…厭き」「暮る…終わる…果てる」。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。