帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 春(二十) 一条左大臣

2012-11-05 00:05:17 | 古典


    




             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 金玉集 春
(二十) 一条左大臣


  中納言小野家にて

 いにしへは散るをや人のおしみけむ 今は花こそむかしこふらし

 (古くは散るのを人々が惜しんだようだなあ、今は花の方が惜しまれた昔が恋しいらしい……昔はお花散るのをよ、ひとが惜しんだだろう、今はお花の方が惜しまれた武樫を乞うらしい)。


 言の戯れと言の心
 「いにしへ…古…昔」「散る…花が散る…桜花が散る…おとこ花が散る」「や…なあ…よ…感嘆、感動、詠嘆の意を表す」「人…人々…女」「けむ…だっただろう…過去の事柄を推量する意を表す」「花…木の花…男花…おとこはな」「むかし…昔…武樫…強く堅い」「こふ…恋う…乞う…求める」「らし…らしい…確信のある推定の意を表す」。


 歌の清げな姿は、桜の花見を数十年も、毎年散るのを惜しみつつ楽しんできた初老の男たちの感慨。
歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、おとこの老いによる衰えの告白。



 今の人々には「むかし」が「武樫」などと戯れることは受け入れ難いでしょう。特に、唯一の正しい意味を解明するのが学問だなどと思っている人々には、「むかし」という言葉に「武樫…強く堅い」などいう意味があることなど心外で、意味候補にでても、真っ先に削除されるでしょう。


 「伊勢物語」に頻繁に用いられる書き出しの「むかしおとこありけり」は、「昔、男ありけり」だけではなく「武樫おとこ有りけり…強く堅いおとこありけり」と、天下の色男の女と男の物語がはじまるのである。一度そう聞いてから「伊勢物語」を読めば、「むかし」が「武樫…無樫」などと戯れることは、誰でも受け入れられるでしょう。


 聞き耳により意味の異なるものそれが我々の言葉である、というほどの言語観に立たないと、和歌も歌物語も読むことはできない。一義にうわの空読みしていては、清げな姿しか見えない。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。