帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 秋(二十七) 伊 勢

2012-11-13 00:03:24 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 秋
(二十七) 伊 勢

 かりにくと聞くに心の見えぬれば わがたもとには寄せじとぞ思ふ

 (借りに来ると聞けば、心が見えてしまうので、わが袂には、近づけないよと思う……男が狩りにゆくと聞くと、あれかと心が見えてしまうので、わが手もとには寄せ付けないと思うよ)。


 言の戯れと言の心

 「かり…借り…借用…借金…仮り…仮そめ…狩り…めとり…あさり…まぐあい」「く…くる…いく」「心の見えぬ…心が見えてしまう…借金か、仮そめの並みのあれか、と相手の心が見えてしまう」「ぬ…完了した意を表す」「たもと…袂…衣の袖…物入れ…手もと…身近なところ…手の近く…身のそで」「よせじ…寄せない…近づけない…寄与しない…寄せ付けない」。

 

 歌の清げな姿は、借りに来ると聞けば、物入れてある袖には近づけないぞという、女の身がまえ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、狩りに行くと聞けば、わが身に近付けないわ、仮そめのかりにくるのだからという、女の直感。

 

この歌、「伊勢集」によれば屏風歌という。「狩りする人、田舎家の、田などある、真近く寄り来たれば」という絵が描かれてあった。絵の説明も「かりする男、田舎女の井辺の、多情ある、間近く寄り来たれば」とも、読めるように書いてある。

 

上のような絵に、この歌が書き添えられてあれば、見る人によって、見る人のその時々の情況によっても、何をしに来たのか、狩人の心が異なって見えるでしょう。屏風歌には、唯一の正しい解釈などない方がいい。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。