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帯とけの枕草子〔二百四十八〕世中に猶いと心うきものは
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百四十八〕世中に猶いと心うきものは
文の清げな姿
世の中で、やはりたいそう辛いものは、人に憎まれることでしょうよ。誰という酔狂者が、我は人に憎まれようと思うでしょうか、だけど自然に、宮仕え所でも親兄弟の仲でも思われる者思われない者がいることは、まったく困ったことよ。
身分良き人はいうまでもなく、しもじもの衆の間でも、親が愛情かける子は、注目され聞き耳たててもらい、大切にされることよと思える。見目麗しく・見る甲斐ある子は道理、どうして親が愛情かけないことがあろうかと思える。何んでもないのは、それでも、その子を可愛いと思うのは親なればこそだと、しみじみ思う。親にも男にも、すべてちょっと話をする人にも、人によく思われるほどめでたい事は他にないでしょう。
原文
世中に猶いと心うきものは、人にゝくまれん事こそあるべけれ。たれてふものぐるひか、我人にさ思はれんとはおもはん。されどしぜんに、宮づかへどころにも、おやはらからの中にても、思はるゝ思はれぬがあるぞ、いとわびしきや。
よき人の御ことはさらなり、げすなどのほどにも、おやなどのかなしうする子は、めたてみみたてられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるはことはり、いかゞおもはざらんとおぼゆ。ことなる事なきは、又これをかなしとおもふらんは、おやなればぞかしと、あはれなり。
おやにも、君にも、すべて、うちかたらふ人にも、人におもはれんばかりめでたき事はあらじ。
心におかしきところ
男女の仲で、やはりひどく辛いものは、相手に嫌われることでしょうよ。誰というもの狂いが、われは人に、嫌われようなどと、思うでしょうか、だけど自然に、宮こ仕えどころでも、お、とかが、腹から、中にても、思われる思いが、思えないのは、まったく興ざめなことでしょうよ。
快き人の御事は言うこともない。下すなどの、ほとでも、お、とかの、かわいい子の君は、めが立て、身見立てられて、大切なものよと思える。見るかいあるのは道理、どうして、女が・いたわらないことがあろうかと思える。こと成ることのない子の君は、また、それを可愛いと思うのは、お、とか、だからこそだと、しみじみ思うのである。
お、とかでも男でも、すべて、ちょっと情を交わす女にも、女によく思われるほと、愛でたい事は他にないでしょうよ。
言の戯れと言の心
「世中…世の中…男女の仲…夜のなか」「にくまれん…憎まれる…嫌われる」「宮づかへ…宮仕え…宮こ仕え…女を宮こへ送り届けること、おとこの仕事」「宮…宮こ…京…絶頂」「おや…親…男や…お、とか…おとこ」「思わる…思いを掛けられる…思いを思われる」「わびし…侘し…困ったことである…興ざめである…がっかりである」「め…目…女」「みみ…耳…身見…見身」「いたはしう…労しい…労わってあげたい…大切に思う」「見…覯…媾…まぐあい」「ほど…程…ほと…陰」。
『枕草子』は言の戯れを逆手にとって、おとなの女たちが、をかし、あはれ、いみじ、めでたし、などと思うことがすべて記してある。
歌など文芸の言葉は、藤原俊成『古来風躰抄』にいう「浮言綺語の戯れに似たれども、(そこに)言の深い旨も顕われる」に従えば、この時代のおとなの女たちと同じように『枕草子』を読むことができるでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。